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来ない人を、五年以上待ち続けた

来ない人を、五年以上待ち続けた

By:  紗々Completed
Language: Japanese
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私、榊原詩織(さかきばら しおり)と彼氏の井上優斗(いのうえ ゆうと)がウェディングドレスの試着に行ったその日、彼の女性アシスタントの前田有希(まえだ ゆうき)が、私が三か月も待ち続けたオーダーメイドのウェディングドレスを壊した。 すると彼はそのアシスタントの前にすっと立ちはだかり、淡々とした口調で言った。 「このドレスはもともと細工が多くて重いんだ。有希が持ちきれなかったのも無理はない。そんなに責め立てるなよ」 私は信じられない思いで彼を見つめた。 「優斗、これは私が三年間も楽しみにしてきた結婚式なの!このドレスをどれだけ待ったと思ってるの!」 優斗の顔に、かすかな苛立ちが浮かんだ。 「また作り直せばいいだろ。これじゃなきゃ駄目ってわけでもないんだから。 新しいドレスが仕上がったら、盛大な結婚式を挙げるって約束する」 私は口を開いた。 けれど、声は何ひとつ出なかった。 ただ、感覚のないままこくりと頷いた。 ウェディングドレスは、べつにこの一着でなければならないわけじゃない。 同じように、新郎だって、優斗でなければならないわけじゃない。

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Chapter 1

第1話

私、榊原詩織(さかきばら しおり)と彼氏の井上優斗(いのうえ ゆうと)がウェディングドレスの試着に行ったその日、彼の女性アシスタントの前田有希(まえだ ゆうき)が、私が三か月も待ち続けたオーダーメイドのウェディングドレスを壊した。

すると彼はそのアシスタントの前にすっと立ちはだかり、淡々とした口調で言った。

「このドレスはもともと細工が多くて重いんだ。有希が持ちきれなかったのも無理はない。そんなに責め立てるなよ」

私は信じられない思いで彼を見つめた。

「優斗、これは私が三年間も楽しみにしてきた結婚式なの!このドレスをどれだけ待ったと思ってるの!」

優斗の顔に、かすかな苛立ちが浮かんだ。

「また作り直せばいいだろ。これじゃなきゃ駄目ってわけでもないんだから。

新しいドレスが仕上がったら、盛大な結婚式を挙げるって約束する」

私は口を開いた。

けれど、声は何ひとつ出なかった。

ただ、感覚のないままこくりと頷いた。

ウェディングドレスは、べつにこの一着でなければならないわけじゃない。

同じように、新郎だって、優斗でなければならないわけじゃない。

親友の加藤凛(かとう りん)は私が頷いたのを見ると、信じられないという目をした。

「詩織ちゃん、あの女の嘘にだまされないで!ほら、ここ、カッターで切った跡がこんなにはっきりしてる。どう見たってわざと――」

言い終える前に、店員が奥から出てきた。

凛は店員の手にあるブライズメイドドレスを見て、目を赤くした。

「ウェディングドレスがあんなことになってるのに、私、何をブライズメイドドレスなんて試着すればいいのよ……」

私はなだめるように彼女の肩を軽く叩いた。

「大丈夫、着てきて。結婚式に遅れは出ないから」

親友が離れると、そばにいた有希がすぐに言葉を継いだ。

「でも、ウェディングドレスをもう一着オーダーし直すとなると、少なくとも一か月はかかりますよね。たしか社長と奥さまの結婚式って、来週でしたよね?

全部、私のせいです。もっと気をつけていればよかったです……」

優斗はふっと笑って、淡々と言った。

「大したことじゃない。そんなに自分を責めるな」

大したことじゃない。

そんなに自分を責めるな。

私はその二つの言葉を心の中で噛みしめながら、顔を上げて優斗を見た。

彼は私から少し離れた場所に立っていた。その隣には有希がいた。

話すあいだ、彼の視線は終始有希に向けられていて、目元にはかすかな笑みさえ浮かんでいた。

そして、原形もわからないほど切り裂かれたあのウェディングドレスには、彼はこの店に入ってから一度も目を向けようとしなかった。

凛が試着を終えて出てきた。

私は目の前に立つ彼女を見て、今日初めての笑みを浮かべた。

「凛ちゃん、そのドレス、すごく似合ってる。

私の結婚式のときは、私が贈ったあのヘッドドレスを絶対に合わせてね」

凛はふんと鼻を鳴らし、ちらりと優斗と有希のほうを見やったが、何も言わなかった。

店員がまた何着か新しいウェディングドレスを持ってきて、試着を勧めた。優斗は近づいてきて、いつもの癖のように私のバッグを持とうとした。

私はその手を避け、バッグをそのまま床に置いた。

優斗は一瞬、面食らったように固まった。

私がカーテンを引いて間もなく、外から彼の声がした。

「正直、最初に選んでたあの一着は、君にはあまり似合ってなかった。

あれは体のラインの欠点が目立ってしまう。君にはマーメイドラインのほうが合ってる。

だから壊れたなら壊れたでいいだろ。大したことじゃない、そうだろ?」

私が答えないままでいると、優斗はカーテンをめくって中に入ってきた。

彼は私の背中のファスナーを上げながら、ひどくかすかなため息とともに言った。

「ただのドレス一着だ。

もっと大人になれよ。そんなに根に持つな」

もっと大人になれよ。

またその言葉だった。

有希が婚約パーティーの招待客リストを間違えて書いたときも。

婚約パーティーで酔いつぶれて、優斗にしがみついて離れなかったときも。

勝手に病院へ母の見舞いに行き、母のアレルギーの原因になるマンゴーを持っていったときも。

優斗はいつだってあの冷めた口調で、ひどくいい加減なその一言を口にした。

「有希はまだ新人なんだ。いろいろ不慣れなんだから、君はもっと大人になれよ」

私は抱きしめようとして近づいてくる優斗を押しのけ、そっと息を吐いた。

「出ていってくれる?」

優斗は黙って数秒、私を見つめた。

そして最後には頷き、後ろへ下がって出ていった。

「少し頭を冷やせ。

有希を送ってくるよ。このあたりは会社から遠いし、一人で帰るのは不便だろうから」

優斗が去ったあと、私は試着室のソファに崩れるように座り込んだ。ビスチェ部分の締めつけがきつくて、息がうまくできなかった。

そのとき、凛の声がした。

「優斗と、いったいどうなってるの?この結婚式、あなたたち、一年もかけて準備してきたんでしょ。

彼、いったい何を考えてるの?」

私は目を伏せ、身にまとった硬い生地を指先でなぞりながら、意識を一か月前の病院へと遡らせた。

あのとき、医者は母の危篤を告げた。母はベッドに横たわり、目には涙をいっぱいにためていた。
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第1話
私、榊原詩織(さかきばら しおり)と彼氏の井上優斗(いのうえ ゆうと)がウェディングドレスの試着に行ったその日、彼の女性アシスタントの前田有希(まえだ ゆうき)が、私が三か月も待ち続けたオーダーメイドのウェディングドレスを壊した。すると彼はそのアシスタントの前にすっと立ちはだかり、淡々とした口調で言った。「このドレスはもともと細工が多くて重いんだ。有希が持ちきれなかったのも無理はない。そんなに責め立てるなよ」私は信じられない思いで彼を見つめた。「優斗、これは私が三年間も楽しみにしてきた結婚式なの!このドレスをどれだけ待ったと思ってるの!」優斗の顔に、かすかな苛立ちが浮かんだ。「また作り直せばいいだろ。これじゃなきゃ駄目ってわけでもないんだから。新しいドレスが仕上がったら、盛大な結婚式を挙げるって約束する」私は口を開いた。けれど、声は何ひとつ出なかった。ただ、感覚のないままこくりと頷いた。ウェディングドレスは、べつにこの一着でなければならないわけじゃない。同じように、新郎だって、優斗でなければならないわけじゃない。親友の加藤凛(かとう りん)は私が頷いたのを見ると、信じられないという目をした。「詩織ちゃん、あの女の嘘にだまされないで!ほら、ここ、カッターで切った跡がこんなにはっきりしてる。どう見たってわざと――」言い終える前に、店員が奥から出てきた。凛は店員の手にあるブライズメイドドレスを見て、目を赤くした。「ウェディングドレスがあんなことになってるのに、私、何をブライズメイドドレスなんて試着すればいいのよ……」私はなだめるように彼女の肩を軽く叩いた。「大丈夫、着てきて。結婚式に遅れは出ないから」親友が離れると、そばにいた有希がすぐに言葉を継いだ。「でも、ウェディングドレスをもう一着オーダーし直すとなると、少なくとも一か月はかかりますよね。たしか社長と奥さまの結婚式って、来週でしたよね?全部、私のせいです。もっと気をつけていればよかったです……」優斗はふっと笑って、淡々と言った。「大したことじゃない。そんなに自分を責めるな」大したことじゃない。そんなに自分を責めるな。私はその二つの言葉を心の中で噛みしめながら、顔を上げて優斗を見た。彼は私から少し離れた場所に
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第2話
「詩織のことだけが、お母さんはどうしても気がかりなの。お母さんがいなくなったあと、あなたが幸せになれないんじゃないかって……」今にも倒れそうな私を、優斗が前に出て支えた。そして、母に向かって揺るぎない口調で言った。「おばさん、誓います。これからは俺が、おばさんの代わりに詩織をちゃんと守っていきます」彼はすぐに皆へ連絡を入れ、結婚式の準備を前倒しで進めるよう手配した。自ら付き添って進行を確認するために、しばらく休みまで取った。あのとき優斗は私の頬をつまみ、目の奥いっぱいに頼もしさと優しさをたたえていた。「おばさんが生きているうちに、君が結婚する姿をその目で見られて、結婚式にも出られたら、少しは安心できるはずだ。おばさんに、君が幸せだってちゃんと見てもらう。詩織、約束する」彼のキスがそっと私の唇の端に触れた。けれど記憶が遠のくにつれて、その感触は少しずつ冷たく、苦いものに変わっていった。優斗が何を考えているのか、私にはわからなかった。でも今は、理解しようとする余裕すらなかった。店員とデザインの打ち合わせを済ませ、私と凛はタクシーで店をあとにした。部屋の扉を開けて、真っ先に目に飛び込んできたのは、あの大きなウェディングフォトだった。ウェディングフォトを撮った日も、有希が入社した初日だった。二人は学生時代からの知り合いだったらしく、優斗が結婚すると聞くや大喜びで、ぜひ手伝いたいと言ってやって来た。けれど写真を運んでいる最中に足をもつれさせ、危うくパネルを落として壊しかけた。私は見ていて肝を冷やしたのに、優斗は何の反応も示さなかった。ただ、有希のそばを通り過ぎるとき、ひと言だけ小さく尋ねた。「足、ひねってないか?」あの瞬間にはもう、私を結婚式まで踏ん張らせていたものは、きっとただ母を安心させたいという気持ちだけになっていたのかもしれない。扉のほうで小さな電子音がした。指紋認証の解錠音だった。背後から足音が近づいてきて、やがて私の隣で止まった。優斗もそのウェディングフォトをしばらく見つめていたが、やがてふいに口を開いた。「実を言うと、この写真にも粗はいろいろある。でもあのときはおばさんの体調があまりよくなくて、急いで決めるしかなかったんだ」私は何も答えず、静かにその先の言葉を待っ
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第3話
そう言いながら、彼女は画面をとんとんと叩き、口角を上げるしぐさをしてみせた。「もっと嬉しそうにしなよ。だって、これから一番好きな人のところに嫁ぐんだから。親友として、あなたが幸せなら、私はもちろん全力で応援するよ!」指先が、叩き割られたフォトフレームの破片で切れた。血が画面の上にじわりと広がっていく。私はそれをゆっくり拭い、そっと口元を緩めた。「お母さんには言わなくていいよ。結婚式は予定どおりやるから。凛、私、自分でちゃんと幸せになる」通話を切ると、一件のメッセージが届いた。結婚式用に新郎の礼服を仕立てているブランドからだった。優斗と連絡がつかないので、新郎はいつ試着に来るのかと尋ねてきていた。私はキーボードを叩き、返信した。【彼にはもう連絡しなくて大丈夫です。あとで新しいサイズをお送りします】それを済ませると、私は自分の荷物をまとめ始めた。翌日、私はスーツケースを引いて部屋を出た。車が病院に着くと、私は気持ちを整え、無理に笑みを作って病室の扉を開けた。「お母さん」母はベッドに横たわっていたが、ぱっと目を輝かせた。「あら、詩織ちゃんが来たのね」母は私の両手をぎゅっと握りしめ、にこにこと笑った。「結婚式の日、体の具合が悪くて行けなかったらどうしようって思ってたの。でもこの数日で、先生が少し良くなってきたって言ってくれてね。詩織ちゃん、お母さん、あなたがお嫁に行く姿をこの目で見られそうよ」最後のひと言はとても小さくて、まるで自分に言い聞かせる嬉しい知らせのようだった。私は込み上げるものをこらえながら、母の布団を整えた。けれど次の瞬間、病室のドアが乱暴に開け放たれた。有希が入口に立ち、母を指さして言った。「おばさん、あなたがそんなことを言うからなんですよ。あなた、自分の娘さんが社長に無理やり結婚を迫ったって知ってます?」頭の中で、ぶん、と鈍い音が鳴った気がした。私は反射的に立ち上がり、母の前に立ちはだかった。「何をでたらめ言ってるの!」有希は腕を組み、見下すように私を見た。「違いますか、榊原さん?社長の気持ちも考えずに、勝手に結婚式の段取りも日程も決めたんでしょう。そんなの、無理やり結婚を迫ったのと同じじゃないですか!本当にやり方が汚いですよね!」有
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第4話
優斗の表情が、一瞬だけこわばった。彼はほとんど反射的にその招待状をひったくり、何度も細かく目を通した。やがて招待状を置き、冷たく笑った。「もういい加減にしろ、詩織。また俺に折れさせるための手口か?正直、さっきはさすがに少し驚かされたよ」私はもう何も答えなかった。医者と看護師が、すでに駆けつけてきていた。私は一緒に母を病床へ戻し、医者のあとについて病室を出た。優斗の横を通り過ぎたとき、彼はとっさに私の腕をつかんだ。「詩織……」私は勢いよく振り払った。振り返ることなく、そのまま病室をあとにした。母の容体は幸い大事には至らなかった。だが診察を終えた医者は、それでも小さくため息をついた。「もっても二か月を超えることはないでしょう」診断書を握る私の手が、かすかに震えた。母はそんな私をなだめるように、ぽんぽんと手を重ねてきた。「詩織ちゃん、泣かないで。お母さん、苦しいわけじゃないの。ただ……ただ、あなたのことが心残りで……お父さんが早くに亡くなって、あなたは小さいころから父親の愛情をほとんど知らずに育ったでしょう。お母さん、あなたに申し訳なくて……」私は息をつまらせ、代わりに嗚咽がこみ上げた。「お母さん、そんなことない。お母さんは、世界でいちばん立派なお母さんだよ」私は母に抱きついた。母は幼いころと同じように、私を腕の中に包み込み、そっと背中を撫でてくれた。「詩織ちゃん、お母さんがいなくなっても、ちゃんと自分を大事にするのよ。幸せになるのよ……」私は目を閉じた。「うん、きっと」……優斗のスマホは、もう何日も静かなままだった。これまでなら、詩織のほうからいつもたくさんメッセージが届いていた。あるときは結婚式のプランについての新しいアイデア。あるときは、空の端に浮かぶ妙な形の雲の写真だった。けれど病院でのあの日以来、詩織は彼に一通たりともメッセージを送ってこなかった。最初のうち優斗は、また気を引こうとしているだけだろうとしか思っていなかった。だがその日、共通の知人のSNSで、詩織の投稿した写真を目にした。九枚の写真だった。そこには真っ白なウェディングドレスをまとった詩織が、バリ島の景色の下に立ち、穏やかな笑みを浮かべていた。その
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第5話
「なあ優斗さん、お二人、なんだかんだでもう八年の付き合いだろ。本当に詩織さんを一人で結婚式に出させるつもりなのかよ?」「そうそう、いい加減そのへんでやめとけって。でないと本当に詩織さん、ほかの男のところへ行っちまうぞ」そう言われれば言われるほど、優斗はいらだちを募らせた。「ほかの男のところへ?あいつが誰と行くっていうんだ。ここまで大ごとにした以上、俺はむしろ、あいつがどうやって収拾つけるつもりなのか見ものだな」優斗は扉を乱暴に閉めて出ていった。会所の外へ出たところで、有希と鉢合わせた。彼の姿を見るなり、有希はすぐに口を開いた。「社長、こちらにいらっしゃるなら、どうして私にひと言くださらなかったんですか?おかげで、ずっと探してしまいました」優斗は眉をひそめたが、何も言わなかった。有希はそのまま彼について車まで来て、ごく自然に助手席へ腰を下ろした。そして甘えるような声で言った。「社長、たとえ榊原さんが結婚するからって、わざわざこんなふうにやけ酒を飲みに来ることないじゃないですか。それに、榊原さんみたいな人、別れるなら別れるでいいと思います。正直――」「正直、何だ?」優斗が不意に問い返した。その声は低く、聞き取りにくいほどの不機嫌さがにじんでいた。有希は一瞬言葉に詰まり、慌てて口調を改めた。「すみません、社長。余計なことを言いました。ただ、私は社長のことが心配で……」鬱陶しい。ひどく、鬱陶しい。優斗は乱暴な手つきでネクタイを二度ほど引きゆるめた。「お前は、どんな立場で俺の心配をしているんだ?」有希は、そんなことを聞かれるとはまったく思っていなかったのだろう。顔を強張らせたまま、しばらく呆然としていた。唇を何度も動かしたあと、ようやくかすれた声でひと言絞り出す。「そ、それは……社長の専属秘書として、です……」優斗は頷いた。次の瞬間、冷笑を浮かべて言い放つ。「明日からお前は営業部へ異動だ。人事に言って、給与体系も変更してもらえ」有希の顔から血の気が引いた。「しゃ……社長……」「俺はこのあと用がある。お前は自分でタクシーを拾って帰れ」そう言い終えると、有希は車から降ろされた。風の中でよろめきながら、遠ざかっていく車をただ見送るしかな
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第6話
ホテルの入口には色とりどりのリボンが揺れ、内側からは喧騒と祝福の熱気がひとかたまりになって押し寄せていた。華やかで、浮き立つような祝宴の空気だった。優斗は車を降り、その光景を目にした瞬間、無意識に口元を緩めた。……まあいい。これだけ雰囲気よく整えたんだ。その気になれば、この結婚式を受け入れてやってもいい。彼は無意識に蝶ネクタイを整えた。会場へ向かって歩き出したときには、手がかすかに震えていた。そのとき――中から、雷鳴のような拍手が湧き上がった。司会者の高揚した声が、スピーカー越しにくっきりと響いてくる。「ついにこの感動の瞬間がやってまいりました!それでは新郎さま、どうぞ熱いキスを新婦さまへ!」優斗の顔から、笑みが完全に消えた。気づいたときには、彼はもう結婚式場へ駆け込んでいた。会場は祝福に包まれていた。音楽の中、ステージの上では、ドレス姿の私はつま先立ちになり、自分から口づけをした。そして私を抱き寄せていたその男は――優斗の最大のライバル、凌だった。「詩織!!」ほとんど裏返るような怒鳴り声が響いた。私は顔を横に向けた。優斗が、息を切らしながら入場用の通路に立っていた。目を真っ赤にして、私をにらみつけている。その瞬間、腰をそっとかばうように支えられた。凌は無表情のまま、優斗の視線を正面から受け止めた。そして淡々と言った。「つまみ出せ」するとすぐ、闇の中から黒服のボディガードたちが現れ、優斗の前に立ちはだかった。優斗の顔は、今にも怒りで歪みそうなほど険しかった。彼はボディガードたちの向こうから、まっすぐ凌を射抜いた。「望月、てめえ、俺の女に触ってんじゃねえ!」凌は眉を上げ、私の腰を抱き寄せた。「勘違いするな。詩織はもう俺の妻だ」ボディガードたちが優斗を取り押さえようと近づく。だが彼は乱暴に振り払った。それから私を見据え、冷えきった声で言った。「詩織、どういうことだ!」私は彼を見返した。「私、結婚するって言ったよね。新郎はあなたじゃないって、それも言った。井上さんは、何を聞きたいの?」優斗は言葉に詰まった。眉をきつく寄せる。「違う……こんなはずじゃない!詩織、これもただの駆け引きなんだろ?!俺がここまで取り乱すのを
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第7話
「嫁さん、俺たちの結婚式なのに、どうしてほかの男を見てるの?」私ははっとして、慌てて小声で「ごめん」と言った。それから顔を上げ、改めて凌の腕にそっと自分の手を添えた。私は視線を下へ落とした。客席には母が座っていて、涙を流していた。けれどその表情は安堵に満ちていて、目元はどこまでもやわらかかった。私は母に向かって、精いっぱい大きく微笑んだ。それと同時に、胸の奥でひそかに安堵の息をつく。よかった。本当によかった。土壇場で結婚相手になってくれたのが凌で。だからこそ母も、これほど短い時間で、新郎が入れ替わったこの結婚式を受け入れることができたのだ。ただ、私が頼んだとき、凌があれほどあっさり引き受けてくれるとは思ってもみなかった。結婚式が終わったあと、私はまず母を病院へ送り届けた。そのあいだもスマホはずっと震え続けていたけれど、母を落ち着かせてからでないと、確認する余裕はなかった。ようやく廊下に出て、スマホの画面を開く。すると、数えきれないほどのメッセージが一気に表示された。ほとんどは祝福の言葉だったが、その中にいくつか別の内容も混じっていた。最初に開いたのは、凛からのものだった。【私たち、あんなやり方で本当に大丈夫だったの?おばさん、何か気づいてないよね?】私はキーボードを叩いて返信した。【大丈夫。今日はすごく嬉しそうだったし、私とも長いこと話してくれたよ】凛がすぐに返事した。【それならよかった】次は、凌からだった。内容はごく短い。【急ぎの仕事が入って、おばさんを送れなくなった。ちゃんと休めよ。おやすみ、嫁さん】私は「嫁さん」という三文字に目を留め、思わず苦笑した。【今日は、本当にありがとう】すると凌は、すぐにボイスメッセージを一本送ってきた。向こうでは本当に忙しそうで、ものすごい勢いでキーボードを打つ音や、人の話し声まで聞こえてくる。「何に礼を言ってるんだ。むしろ礼を言うのはこっちだろ。八年越しでようやく目が覚めて、まともな人間に戻ったんだからな」相変わらず言い方は全然かわいくなかったけれど、耳の痛い忠告ほど正しいものだ。最後は、優斗からだった。彼が送ってきたのも、たったひと言だけ。【詩織、俺たちは八年目だ】脈絡もなくて、酔った勢いで打ったような
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第8話
ただ、私と凌はとても気の合う友人ではあっても、そこに恋愛感情はなかった。凌が優斗の競合相手になってから、一度だけ私を訪ねてきたことがある。彼は一通の書類を私の前に放り出し、淡々とした声で言った。「近いうちに、本格的にやり合うことになる。俺とあいつ、最後に立っていられるのはどちらか一人だけだ。別れろよ。あいつは負ける」私は呆然として、逆に問い返した。「どうして、そんなふうに言い切れるの?」凌は、かすかに笑った。「俺のほうが、使える手が多いからだ。あいつは大事に育てられた御曹司だろ。俺には勝てない」私はしばらく黙ったあと、その巨額の資産が記された書類を彼のほうへ押し戻した。「いらない。彼が負けるからって、それだけで見捨てたりしない」あのころの私は、まだ笑う余裕があった。凌に冗談まで言えるくらいには。「もし、いつか彼が浮気して、もう私を愛していないってわかったり、二人のあいだの気持ちがすっかり消えてしまったりしたなら、話は別だけど」それを聞いた凌は、「はっ」と鼻で笑った。「君たちみたいな恋愛してる連中のことは、ほんと理解できないな」あの日以来、私たちは顔を合わせていない。あの会話が、私が立場を明確にしたことになったのか。それとも、あれで私たちの縁は切れたのか。私にはわからなかった。ただひとつわかっていたのは、凌が母を見舞いに来るときは、いつもわざと私と時間をずらしていたということだけだ。だからこそ、私が彼に新郎役を頼んだとき――きっと断られるものだと思っていた。そのときだった。車が突然、激しく急ブレーキをかけた。私は前のめりになり、次の瞬間、シートベルトに強く引き戻された。まだ心臓がどきどきしているまま、フロント越しに見えた人影に目を見張る。優斗だった。しかも、酔っていた。彼は車の前に立ちはだかり、力任せにボンネットを叩いている。凌は舌打ちし、シートベルトを外した。「車の中にいろ。俺が降りて、この酔っ払いと話をつけてくる」私は慌ててスマホを取り出して通報し、それからドアを開けて車を降りた。優斗と凌は何か言い争っていたが、私が出てきたのを見ると、優斗はすぐに大股でこちらへ歩いてきた。「詩織、やっと出てきてくれたか。俺がどれだけ――」言い終わる前に、
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第9話
私は、ただ冷笑したくなるだけだった。ほらね。彼は全部わかっていたのだ。いつ自分が言いすぎたのか。いつ私をないがしろにしたのか。いつ私を傷つけ、悲しませたのか。何ひとつ、わかっていなかったわけじゃない。全部わかっていながら、それでもあえてそうしたのだ。ここまで吐き気がするほど身勝手なくせに、よくもまあ私に許しを乞えるものだ。凌が鼻で笑った。「失ってからようやく大事さに気づくのか。みっともないな、井上」私は無表情のまま、優斗の手を振り払った。すると次の瞬間、彼はそのまま私に抱きついてきた。「詩織、俺は――」パシッ――私は渾身の力で、彼の頬を思いきり打った。優斗の体が打たれた勢いでぐらりと揺れる。彼は呆然とした顔で、私を見た。「詩織……」私は背を向け、そのまま一度も振り返らず車に乗り込んだ。「ごめん。明日、お礼にご飯おごる。行こう」凌はエンジンをかけた。車は唸りを上げて走り出し、優斗を遠く後ろへ置き去りにした。また母の見舞いに二人で行った帰りだった。病院を出たあと、凌が口を開いた。「井上の会社は完全に潰れた。これから十年は、もう立て直せないだろうな。どうだ。今回の一撃、少しは胸がすいたか?」私は頷き、すぐに聞き返した。「それで、あなたは平気だったの?あの人とあれだけ長くやり合ってきたんだし、結構痛手もあったんじゃない?」凌はしばらくじっと私を見つめ、それからふっと笑った。「なるほどな。みんなが恋愛する理由が、少しわかった気がする。ずっと気にかけてくれる相手がいるって、こんなに気分がいいものなんだな。俺も恋愛してみたくなったよ」私は首を横に振り、人差し指を一本立てた。「でも、それだけで軽い気持ちで恋愛に入るのは絶対だめ。一緒にいてくれることも、気にかけてくれることも、ずっと続くとは限らないから。恋愛って、実際にはもっと細かくて面倒なことの積み重ねなんだよ」凌は私を見つめたまま、一瞬だけぼんやりした顔になった。それから苦笑して、私の立てた指をそっと押し下げた。「今の言い聞かせ方、そっくりだな。先生が俺に説教するときと、まるで同じだ。危うく、この場で土下座するところだった」私はその言葉をあまり気にせず、自分から続けた。「でも、八年も付き
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