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第1056話

Author: 夜月 アヤメ
赤ん坊は起きているときは目をぱっちり開けて元気だったけど、眠くなると途端にぐずぐずになって、あっという間に眠りについた。

「若子......さっきの話、どういう意味だよ?まさか血が繋がってるとか、そんなこと気にしてるのか?まさか、藤沢の―」

「西也」

若子は静かに口を挟んだ。

「外で話そう。もう、また泣かせたくないから」

「......わかったよ」

西也は怒りを押し殺してうなずいた。

ふたりはそっと部屋を出た。

廊下に出ると、すぐに西也が若子の手を握った。

「若子、お前......どうしちまったんだよ?何かあったなら言ってくれ。何でも一緒に乗り越えようって、俺たち......そう約束したじゃないか」

若子はその手をすっと引き離す。

「......私、この子を連れて引っ越すつもり。これからは、私がひとりで育てる」

その言葉に、西也は固まった。

目を見開いたまま、しばらく言葉が出なかった。

「な......なんだって?」

若子はしばらく黙ってから、ゆっくりと言った。

「西也、あなたはもう元気になった。だから、私は出ていくべきだと思ったの」

「......お前、頭おかしくなったのか?」

西也の顔から、温度が一気に消えた。

「俺と約束したよな?一緒に生きていくって、そう言ったろ。三ヶ月......どれだけお前に会いたかったか分かるか?帰ってきたと思ったら、いきなり出ていくなんて......ふざけんなよ!」

「そんなに会いたかったなら、どうして一度もアメリカに来なかったの?」

若子の声は静かだけれど、鋭く切り込んでいた。

「それは......国内でいろいろあったんだよ。仕事も山積みで」

「へえ。どんなに忙しかったの?教えてよ。何がそんなに大事だったの?どういう仕事?どの株主のこと?―ちゃんと説明してよ」

「株主の対応だとか、細かい公務がいろいろ......」

「『いろいろ』ってなに?私が知りたいのは、その『いろいろ』が本当にあなたの三ヶ月を全部埋め尽くすほど、価値があったのかってこと」

若子の目には、もう迷いがなかった。

その強い態度に、西也は言葉を失った。

―なぜ、こんなにも彼女は変わってしまったのか。

本当に、彼女は「この三ヶ月、自分を訪ねなかったこと」を、そこまで気にしていたのか?

「......何か言いなよ!
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  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第1051話

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