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第1055話
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夫の元カノが帰国！妊娠隠して離婚を決意した私 第1055話
「どうしたんだ、若子？久しぶりに会ったっていうのに......一度くらい、抱きしめちゃダメか？」俺たちは―夫婦だろ。けれど、若子の目はどこかよそよそしくて、その視線には迷いが宿っていた。まさか、この三ヶ月......ずっと修と会っていたから、彼女の中で何かが変わったのか？西也には、若子がアメリカで何をしていたのか分かっていた。修とたびたび食事を共にしていたことも。でも、それだけだった。少なくとも、それ以上の関係はなかった......と信じたい。もし万が一、何かあったのなら......俺はとっくにキレてる。でも、それでも、あのふたりが一緒に食事していた事実だけでも、胸の奥にたまったもやもやは消えない。西也は、ずっとB国で我慢していたのだ。なぜなら、アメリカには行けなかった―今、彼はアメリカで指名手配中なのだから。それも、修の仕業だった。「西也、今まで......子どもの世話してくれて、ありがとう」「なんだよ、他人行儀だな。暁は俺の子どもでもあるんだぞ？」西也はさらりと言いながら、腕を差し出す。「泣きやまないし、俺に抱かせてみろよ。少し落ち着かせてやる」しかし、若子はそっと一歩下がった。「いいよ、私が抱いてる。ずっと、あんたが面倒見てくれてたせいで......この子、母親の私にすっかり人見知りしてる。だから、これからは私がちゃんと見る」西也は少しだけ笑った。「......そっか。まあ、それでいい。けど今は、泣き止まないし、オムツ替えの時間だ。俺がやるよ」「ううん。私が替える」若子の返しに、西也の胸にほんの少しだけ、ざわりと不安がよぎった。彼女の様子は、やはりどこか変わっていた。「じゃあ、こっちに来い。オムツ、取りに行く」ふたりは一緒に暁の部屋へ向かった。西也が新しいオムツを手渡すと、若子は慎重に暁をベビーベッドに寝かせた。慣れない手つきだったけれど、それでも丁寧に、心を込めてオムツを替えていく。作業が終わると、彼女はそっと赤ん坊の頬に手を添え、微笑みながら言った。「ごめんね、ママ、まだまだ不器用で。でもね、これからいっぱい練習するから。ちゃんと、上手なお世話ができるようになるから......安心してて」そのとき、西也が横から口を挟んだ。「ママがちょっとくらい不
夫の元カノが帰国！妊娠隠して離婚を決意した私 第1054話
修は侑子を連れて、家へ戻った。ベッドの上にそっと彼女を寝かせる。「侑子、大丈夫か？」「......修、ごめん、私が悪かったの」修は少し驚いた。てっきり責められると思っていたが、予想に反して、開口一番に謝られた。「修、あんなふうについて行くべきじゃなかった。ただ......心配でたまらなかったの。でも、まさか彼女と一緒に食事してるなんて思わなかった。あのとき、ほんとに焦ってて......だから、あんなことして、本当にごめん。あんなふうに邪魔して......私、最低だよね」修は小さく息をついた。「侑子、確かに......俺は彼女と食事してたよ。この数ヶ月、何度も一緒に飯を食った」侑子は唇を噛みしめ、ぽろぽろと大粒の涙を流す。―嘘でもいい、騙してほしかった。でも、彼はこんなにもあっさり認めた。「......それって、どういうこと？ねえ、修、私のこと捨てるつもりなの？......もし最初からそうなら、私、あんな手術なんてしなかった......死んだ方がマシだったよ......」修は口を開きかけたが、そのとき、スマホが「ピロン」と鳴った。取り出して画面を見ると、若子からのメッセージだった。胸が一瞬だけざわめく。すぐに開くと、そこには一通の短いメッセージ。【明日の便のチケットを取ったよ。朝には帰国する。手術には山田さんに付き添ってもらって。ふたりで、仲良く生きていって】修は深くため息をつき、スマホをそっと横に置いた。「......侑子、もうあいつと食事することはないよ」「......ほんと？」侑子の声はかすれながらも、必死だった。「ねぇ、お願い、もう騙さないで。これ以上、裏切られたら......私、壊れちゃう......」「ほんとだよ。俺はもう、嘘なんかつかない」修は彼女の手をそっと握りしめた。「......数日したら、一緒に帰国しよう」侑子は小さく頷いた。「うん......帰ろう、ふたりで」......ようやく、若子はB国へ戻ってきた。久しぶりのこの空気を吸い込んで、胸がいっぱいになる。いろんな思いがこみ上げてくる。西也が手配した車が、空港まで迎えに来ていた。今日は忙しくて動けないらしく、彼は「先に家に戻ってて」とメッセージを送ってきた。でも、若子はもう、迎えに来た
夫の元カノが帰国！妊娠隠して離婚を決意した私 第1053話
食事中のふたりは気づいていなかった。少し離れた場所で、侑子がそっと唇を押さえ、涙を流していた。彼女の瞳には、深い悲しみと怒りが宿っている。そのすぐ後ろに立っていたノラは、穏やかな口調で耳元にささやいた。「見てましたか？僕は嘘をついていません。君の修はずっと、前妻さんとお会いになっていましたよ。この三ヶ月ずっとですね」侑子は、今見ている光景が本物だとは信じられなかった。ノラから聞かされていたこと―この三ヶ月間、自分が病床で身体を休めていた間に、修が元妻と密かに会っていたということ。あんたがそんなことする人だなんて、信じたくなかった。けれど、目の前の現実はあまりにも衝撃的だった。「どうなさいますか？修さんは、前妻さんを取り戻すつもりのように見えますが」ノラの声は優しいのに、その響きは侑子の心を切り裂くように痛かった。そして、とうとう彼女は耐えきれず、修の方へ駆け出した。ノラは止めなかった。ポケットに手を入れたまま立ち尽くし、その口元には静かな笑みが浮かんでいた。「若子、さっき手術まで付き添ってくれて......それで、俺―」「修！」侑子の声が突然響いた。若子と修が顔を上げ、驚いたように侑子を見た。「侑子......どうしてここに？」修は立ち上がり、困惑した声で問いかける。侑子は胸を押さえながら、涙をぼろぼろとこぼした。「修、ずっと忙しいって言ってたよね？でも、こんなことしてたんだ......自分の目で見なきゃ、信じられなかったよ......あんたが、私にこんなことするなんて」若子は静かにフォークとナイフを置いた。もう食事を続ける気にはなれなかった。「松本さん、修とここで食事するなんて......あんたの夫は知っている？」若子は何も言わず、バッグを手にして立ち上がった。「悪いけど、先に帰るね」そう言って、踵を返した。その瞬間、修が彼女の腕をつかむ。「待ってくれ」若子は振り返り、冷たい視線を一瞥だけ送り、その手を強く振り払った。「山田さんのこと、大事にしてあげて。彼女、あなたの女なんでしょ」その言葉を最後に、若子は一度も振り返らずに去っていった。「若子......」修が追いかけようとしたそのとき、侑子がふらりと倒れかける。修はすぐに彼女を抱きとめた。「侑子
夫の元カノが帰国！妊娠隠して離婚を決意した私 第1052話
時が経つのは早いもので―気づけば、あっという間に三ヶ月が過ぎていた。若子の履修していた講義はすべて終わり、今日は修と夕食の約束をしていた。この三ヶ月、修は三週間に一度のペースで化学療法を受け続けていた。そして若子は、化療のたびに彼と食事をすることを約束していた。けれど、次第に修からの誘いは増えていった。二週間に一度、あるいは一週間に一度。ひどいときは三日も空けずにまた一緒に食事―そんなペースで会うようになっていた。若子は、断らなかった。病気の修を放っておくなんて、できなかった。侑子はまだ回復期にあり、誰かが修の様子を見ていなければならない。そうでなくても―せめて、おばあさんのために。その夜、二人はレストランで待ち合わせをしていた。レストランの雰囲気は、どこか非日常的で洗練されていた。夜の帳が下り、満天の星が瞬く。高い天井から吊るされたシャンデリアが、まるで宝石のように光を放っている。整然と並べられたテーブルには、美しいナプキンと銀のカトラリーがセットされ、上品さを醸し出していた。壁には色彩豊かな花や風景、そして抽象画が飾られており、どれも繊細な筆致で描かれていた。生けられた花や観葉植物が、レストランの隅々に配置されており、かすかに甘い香りが漂っている。窓の外には街の夜景が広がり、床から天井まであるガラス窓にその光景が映り込んでいた。きらめく光が、まるで夜空に散らばる真珠のようだった。テーブルの上で揺れるキャンドルの火が、優しく温かな光を落とし、空間にほんのりとロマンチックな気配を添えていた。―修とこんな雰囲気のレストランで食事をするのは、ずいぶん久しぶりだった。若子はぐるりと周囲を見渡し、この場所が、どこか「特別」に用意されたものだと気づいた。「治療の具合、どう？」彼女が最も気がかりだったのは、やはりそれだった。「順調だよ。医者が言ってた、もうすぐ手術できるって。がん細胞も全部取り除けるらしい」その言葉を聞いた瞬間、若子は大きく息を吐いた。修はいつも通り、ビシッとスーツを着こなしていた。相変わらずの整った顔立ちに、黒髪も艶やかで濃い。それを見た若子は、ふと首を傾げた。「......化学療法って、髪が抜けるって聞いたけど。あんまり変わってない気がする」「うん、使ってる薬の種
夫の元カノが帰国！妊娠隠して離婚を決意した私 第1051話
また何日かの時が流れた。 侑子は運が良かった。ちょうどそのとき、事故に遭ったドナーから心臓が提供されたのだ。 健康な心臓を手に入れたことで、侑子はなんとか危機を乗り越えた。 修もこの数日、ずっと侑子のそばに付き添っていたせいで、若子と会う機会はめっきり減っていた。 何度も若子は、彼に生検の結果を尋ねたくなった。でも病室の前まで来て、侑子の隣に寄り添い、優しく世話を焼く修の姿を見ると―彼にはすでに想ってくれる女性がいるんだ、と、余計なことを言うのはやめようって思ってしまった。 若子は静かにため息をついて、踵を返す。 そのときだった。修がどうやら彼女に気づいたようで、侑子に何か言葉をかけた後、病室を出て追いかけてきた。 「若子」 足を止める。 振り返りながら、若子は言った。 「生検の結果を聞きに来ただけ。けど、本当に話したくないならいいわ。どうせ今は、山田さんとお似合いのカップルだし。何かあったら、彼女に言えばいい。じゃあね」 「悪性だった」 背中に向けて修の声が飛ぶ。 若子は目を見開いて振り向いた。 「......今、なんて？」 修は数歩こちらに近づいた。 「腫瘍は悪性だった。まずは化学療法で縮めて、それから手術で取り除く」 若子の指が震え始める。彼のそばに歩み寄り、声を震わせながら問う。 「治るの......？」 「医者には聞いた。まずは化学療法だってさ」 若子の胸が苦しくて、言葉がうまく出てこなかった。やっとの思いで、どうにか声を出す。 「それって......戻って治療するの？それとも、アメリカで？」 「アメリカに残る。侑子もここにいるし、彼女の体はまだ回復してない。飛行機は無理だ」 「修......お医者さんは、成功率って言ってた？」 「わからないって。できる限りのことをするってさ」 「......山田さんは、このこと知ってるの？」 「いや。彼女は手術を終えたばかりだ。ショックを与えたくない。だから、お前からも言わないでほしい」 「じゃあ......いつから、治療を始めるの？」 「明日から第一ラウンドが始まる」 修の言葉に、若子はそっとため息をついた。 「......付き添った方がいい？」 「いや、大丈夫だ。お前にはお前のやることがあるだろ
夫の元カノが帰国！妊娠隠して離婚を決意した私 第1050話
でも、千景の言葉にも一理ある。家を爆破されたなんて、誰だって腹が立つに決まってる。 若子は千景に怒ることはできなかった。だって―明らかに悪いのは修だったから。 「彼の代わりに謝るわ......ごめんね」若子はまっすぐに千景を見つめて言った。 「家のことも、ちゃんと弁償するから。今すぐでもいいわ。支払いの準備してきたの」 そう言って、鞄の中から小切手を取り出す。 「これは一万ドル。これに加えて、家の分......金額はそっちで決めて」 千景は、彼女の手にある小切手をじっと見つめたまま、しばらく無言だった。 「......どうかした？また具合が悪くなった？」 若子が心配そうに尋ねると、千景は首を横に振った。 「いや、ただ......いくらにすればいいか、すぐに決められなくてな」 「じゃあ、こうしようか。あとで家の査定を頼んで、正式に金額を出してもらおう」 「......それよりもさ」千景は、ふと視線を外して言った。 「ちょっとだけ、一緒に外を歩いてくれないか。お金の話は、それからでもいい」 若子はうなずいて、小切手を鞄に戻した。 「わかった」 彼女はそっと車椅子を引き寄せ、千景を丁寧に支えて座らせた。そして、ゆっくりと彼を押しながら病院の中庭へ向かった。 夕日がゆっくりと西へ沈みゆく中、千景は静かに車椅子に身を委ねていた。頬を撫でる風は、どこまでも穏やかだった。 公園には、柔らかい緑の芝生が広がっていて、それはまるで繊細な翡翠の絨毯のよう。 オレンジ色に染まった夕陽が、草葉一枚一枚を照らし出し、きらきらと光り輝いていた。 優しい風が草の間をすり抜け、葉っぱをなでるたびに、かすかなサラサラという音が響く。 池の水面には夕陽が反射して、まるで一面の宝石の鏡のよう。澄んだ水が、言葉のいらない詩を奏でているかのようだった。 若子は、彼が寒くないようにと膝に毛布をかけてあげる。 「......傷が治ったら、また元気に飛び跳ねられるわよ」 千景はふと顔を横に向け、柔らかな笑みを浮かべた。 「......ひとつ、聞いてもいい？」 「うん？なに？」 「俺みたいな男を―好きになってくれる女なんて、いると思う？」 不意の問いに、若子は一瞬、言葉を失った。 こんなことを聞かれるなん
夫の元カノが帰国！妊娠隠して離婚を決意した私 第1049話
「......もしもし」 電話口から何かを聞いた瞬間、修の目が驚きに見開かれた。いや、それ以上に―その表情には確かな喜びが浮かんでいた。 「本当か？わかった、すぐ行く！」 通話が終わるなり、修は勢いよく言った。 「心臓が見つかった！もう運ばれてる途中らしい。侑子に新しい心臓が―ついに！」 その声には抑えきれない興奮がにじんでいた。彼の瞳は輝き、表情には希望が溢れていた。 若子は、ふわりと微笑んだ。 「......それは良かったね。おめでとう」 喜んでも、悲しんでもいない。ただ、静かに受け止めた。 けれど―侑子が新しい心臓を得られるのは、まぎれもなく幸運だ。修にとっては、何よりの朗報だろう。 「早く行ってあげなよ」若子は促すように言った。「私はこれから、冴島さんのところに顔を出すから」 「......冴島」 その名前が口にされた瞬間、修の顔が一瞬、こわばった。 けれど、侑子のことが最優先。彼は何も言わず、そのまま病院の中へと駆けていった。 ...... 若子は病室のドアをノックして、そっと入る。 「冴島さん、また来たよ」 今日は金融の専門書を二冊、手にしていた。前に千景が「読んでみたい」と言っていたのを覚えていて、わざわざ持ってきたのだ。 千景は、彼女がその名前で呼んでくれるのが嬉しいらしい。 柔らかな光をたたえた目で、彼は若子を見つめた。 「毎日来てくれて......うんざりしてない？」 「するわけないでしょ」若子は椅子に腰を下ろしながら笑った。「私が来るの、いやなの？うんざりしてる？」 千景は首を横に振った。 「いや......全然。むしろ、毎日君に会えるのが嬉しい。無事な姿を見られるだけで、すごく安心するんだ」 若子は本を差し出した。 「これ、君に持ってきた本。時間がある時に読んでみて。小説みたいな文体だから、勉強にもなるけど、読みやすいよ」 「うん、ありがとう。まさにこういうのを探してたんだ。これで時間つぶしもできそうだな」 本を受け取った千景は、素直に喜びを表した。 若子の目が、ベッドサイドに置かれたフルーツバスケットに向かう。 「今日、誰かお見舞いに来た？」 「藤沢修が来たよ」 「......修？」 若子の脳裏に、彼の腫れた口元が
夫の元カノが帰国！妊娠隠して離婚を決意した私 第1048話
「若子は、誰の代わりでもない。あの子はあの子自身だ。もし、本当に彼女のことを想っているなら―お願いだ、これ以上、彼女を巻き込まないでくれ。アメリカには、あと三ヶ月は滞在する予定なんだ。お前の敵が、彼女を狙わないなんて、誰が保証できる？」 千景は胸を押さえながら、ズキズキと痛む傷口に顔をしかめる。額には細かい汗が浮かんでいた。 「......そんなに彼女が大事なら、なぜ最初にあれだけ傷つけた？」 「俺は、その代償を払った。彼女を失った。それが俺の罰だ。でも―もし、お前のせいで、あの子が傷ついたり、命を落とすようなことがあったら......お前はどう償う？お前が死んだところで、何が変わる？」 「......」 千景の顔は、冬の霜のように冷たくこわばっていた。 修は構わず言葉を続けた。 「俺がこうして話してるのは、お前も本当はわかってると思うからだ。若子は、すごく優しい。誰かが少しでも親切にすれば、その何倍もの思いやりで返してくる。だから、お前にもすごくよくしてる。でもな―その優しさを、彼女自身を傷つける理由にしないでくれ。 たとえお前にそんなつもりがなくても、お前には周りを止める力がない。だから頼むんだ」 「......出ていけ！」 千景の声が、病室に響いた。 「今すぐ出ていけ！これ以上俺に何か言ったら、怪我してても容赦しねぇぞ。お前を潰すくらい、今の俺でも十分だ」 修はポケットに手を突っ込み、凛とした姿で千景を見下ろす。 「お前は頭のいい男だ。いい判断をしてくれよ」 そう言い残し、修は背を向けて病室を出ていった。 千景はベッドに身を沈め、無力感に身を任せるようにため息をついた。目は虚ろに、焦点の合わないまま宙を見つめていた。 ...... その日の午後、若子は授業を終えると、また病院へと向かった。 彼女は毎日、天気が悪かろうが時間がなかろうが、必ず顔を見せに来ていた。 でも、病室に行く前の廊下で、彼女は修と鉢合わせた。 昨日、修が受けた検査の結果が出るには、まだ数日かかる。今のところ、彼と話すべきこともなかった。 すれ違おうとした、そのとき―若子の視線が、ふと修の口元に止まった。 「......どうしたの？その傷」 修の唇の端は青く腫れ、わずかに血の痕も見える。 「ちょっと
夫の元カノが帰国！妊娠隠して離婚を決意した私 第1047話
「いや、彼女はただ『妹さんが亡くなった』って言ってただけ」 「そうか。実はな、若子の名前に『まつ』が入ってるだろ？だから俺、彼女を『マツ』に重ねて見てたんだ。安心しろ、あの数日間、手は出してない」 少し間をおいて、千景は淡々と続けた。 「でも、お前が見た首の痕。あれは、確かに俺がつけた」 修の眉がピクリと動き、声に怒気がにじんだ。 「なんでだ？」 「寝てる間に悪夢を見るんだ。トラウマでね。あのとき、彼女が俺を起こしに来たんだが、俺は敵と勘違いして、つい反射的に......本当に悪かったと思ってる」 「......」 修の拳がわなわなと震える。今にも殴りかかりたい衝動が胸を突く。でも、若子が何も言わなかった以上、自分がここで騒げば、きっと彼女を怒らせるだけだ。 気を取り直して、話題を変える。 「医者に聞いた。回復が早いそうだな。すぐ退院できるって」 「そうか、それは良かったな」千景は肩をすくめて軽く笑った。 「退院したら......若子とまだ連絡を取るつもりか？」 「それ、君に関係あるのかい？」千景の目が細くなる。「ずいぶん気にしてるみたいだけど、君たち......もう離婚したんだろ？」 「離婚してても、俺にとっては妹みたいなもんなんだ。お前みたいにじゃない。俺たちは十一年、付き合ってた」 「十一年？」千景は皮肉な笑みを浮かべる。「それだけ長く付き合ってて、あの子をボロボロにしたんだ。すごいな、感心するよ」 「お前......っ」修は拳を握りしめ、唇を噛みしめるようにして怒りを堪えた。 そして、言い切った。 「もう回りくどいのはやめる。俺は―お前に若子から離れてほしい」 千景の眉がピクリと動き、口元に冷たい笑みが浮かぶ。 「今、なんて言った？」 「言わなくても、分かってるだろ？」 その瞬間、千景の目の色が変わった。 「俺が彼女に近づこうが、離れようが......君に何の関係があるんだ？『前夫』くん」 最後の「『前夫』くん」の四文字を、千景はまるで嘲笑うように、重く噛んだ。 修は目を細めて、低く返した。 「自分がどういう存在か、一番わかってるのは、お前自身だろ」 そう言って、千景にぐっと近づく。 「『死神』が現れる場所では、周囲の人間が死ぬ―お前、若子まで死な
