部屋に戻った紀子の体は、冷や汗でぐっしょりと濡れていた。まさか母が、あんなことをしていたなんて。震える手でさっきの写真をもう一度見直す。......あの女性、あれはきっと伊藤さん。こんな扱いを受けてるなんて、一体どれだけの恐怖と痛みに晒されてるの?母は、母は一体どこまで狂ってしまったの―紀子は唾を飲み込み、すぐに自分のスマホから写真と番号のスクショを成之に送信した。【これ、お母さんのスマホから撮った怪しい番号と写真。写真の女性、多分あの伊藤さん】メッセージを送った直後。成之から、すぐに着信があった。彼女が応答しようとした、そのとき―ガチャッ。突然、ドアが開いた。弥生が、無表情でそこに立っていた。紀子は息を呑み、慌ててスマホを背中に隠す。目を見開き、恐怖がその奥に浮かんでいた。「お母さん、どうされたんです?まだお休みじゃなかったんですか?」「あんたの音で目が覚めたの......まだ起きてたの?」弥生はゆっくりと部屋に入ってくる。その一歩一歩が、まるで獣のように重く感じられる。「―さっき、母さんの部屋に入ってきたでしょ?」「えっ......な、何をおっしゃってるんです?私、行ってないですし、きっとお母さん、寝ぼけて夢でも見たんじゃないでしょうか」「......そう?」弥生は冷たい声で返した。「でもね、私のスマホ、本当は画面を下にして置いてたの。なのに、起きたら画面が上になってたのは―どう説明する?」「え、それ......もしかして、お母さんの記憶違いじゃ?そんな小さなことで、私が部屋に入る理由ないじゃないですか」その瞬間。弥生が、紀子の顔をぐっとつかんだ。「私たちは親子なのよ、あんたは絶対に裏切っちゃいけない。母さんと手を組まないと、生きていけないの......何をしたのか、正直に言いなさい!」「お母さん、ほんとに何もしてないです、私......ほんとにっ―」ビンタが飛んだ。パァンという音が、部屋に響き渡った。頬に激痛が走る。「私は母親よ!あんたが何を考えてるか、見抜けないと思ってるの?どうして母さんに、そんなことができるの......」弥生が手を伸ばして命じる。「スマホを出しなさい」紀子は、母のビンタで頭がぐらりと揺れていた。
「でも、それだけ心配だったんでしょうね。だから自分で車を運転して来たんですよ。お母さん、心配しなくても大丈夫です。兄さんに何かあるわけないですから」そう言って笑いかけると、弥生も小さく頷いた。母娘ふたり、ゆっくりと屋敷の中へと入っていく。弥生は玄関で上着を脱ぎ、それをそっと使用人に手渡した。どこか疲れたような表情で、「冷たいお水を持ってきて」と一言。「お母さん、なんだかお疲れのように見えますけど?」「ちょっと踊ってきたから、体がだるくてね......紀子、あんたももう休みなさい。母さんも部屋に戻るわ」「はい。お母さんも、ゆっくりお休みください」紀子は階段を上って自室に入り、ドアを閉めてから鍵をかけた。そしてバスルームに入り、ポケットからスマホを取り出して成之に電話をかける。「紀子、どうだった?母さんの様子に変わったところは?」「兄さん、まずは落ち着いて。お母さんのことは、私の方でなんとかするから。なにか分かったらすぐに連絡するね。伊藤さんの方も、そっちで探してみて。もしそっちで見つかれば一番だし、見つからなくても、こっちでお母さんの話を引き出せるように動く。何かしらの手がかりは見つけてみせる」成之は大きく息を吐いた。「......分かった。紀子、母さんのこと、頼んだぞ」「うん、任せて」電話を切った紀子は、ゆっくりとバスルームを出た。そして静かに、待ちの時間が始まる。―夜半。紀子は冷たい水で顔を洗い、気持ちを引き締めた。そしてそっと部屋の扉を開け、音を立てないように足を運ぶ。目的地は弥生の部屋。ドアの前に立ち、慎重に隙間を開け、中を覗き込む。部屋は真っ暗だった。しかし窓の外には月光が差し込み、かすかに室内の輪郭が浮かんでいた。紀子はスマートフォンの画面をタップし、画面の微かな光だけを頼りに部屋の中へと進む。懐中電灯は使わない。あまりに明るすぎると、弥生を起こしてしまうかもしれないからだ。―そして。ベッドサイドの小さなテーブルの上、うつ伏せに置かれた一台のスマホを発見。紀子は慎重にそれを手に取り、画面を点けた。......画面には指紋認証のロックがかかっていた。ベッドの上、弥生は熟睡していた。その様子を一瞥した紀子は、静かに窓際へと移動し、膝をカーペットにつけ
紀子は笑顔で言った。「お母さん、そんなことおっしゃらないでください」そう言いながら、彼女はそっと母の腕に手を絡めた。まるで、寒い日にそっと寄り添ってくれる小さな湯たんぽのように、あたたかくて優しかった。「お母さんは、いつまでも若々しいです。私には、どう見てもまだ五十代にも見えません」「まあ、あんたって子は、本当に口がうまいわね」弥生は、そのお世辞交じりの言葉に目を細め、明らかに嬉しそうだった。「さあ、早く中に入りましょう。もしまたお腹が痛くなったら大変だから」「はい、じゃあ入りましょうか」そう言って紀子は成之にそっと合図を送った。目線で門の方を示しながら、「今のうちに、早く帰って」と無言で伝える。それを読み取った成之は、自然な流れで口を開いた。「母さん、紀子が大丈夫そうだから、俺はもう帰るよ。今度また顔を出す」弥生は少し名残惜しそうに眉を寄せた。「せっかく来たんだから、もう遅いし、今夜はここに泊まっていったら?」「母さん、明日朝早くから予定があるんだ。ここからだと職場が遠いから、今日は戻るよ。二人とも、早めに休んで」「......そう。じゃあ仕方ないわね。体、大事にしなさいよ。あんた、前に働きすぎて入院したことあるでしょう。なんでもかんでも自分でやらずに、部下に任せることも覚えるのよ、いい?」「今はもう、そのへんはちゃんと考えてやってるよ。見てのとおり、元気そのものだろ?」弥生は成之の手を軽く取り、優しくぽんぽんと叩いた。「ええ、本当に。うちの息子は逞しいし、娘も優しいし......ただ......長男だけは早くに逝っちゃったのが、今でも悔やまれるわ。でも......あんたたちがいてくれて、本当によかった」その瞬間、彼女の表情にかすかな悲しみが浮かんだ。すかさず紀子が話題を切り替える。「お母さん、中に入りましょう?」「そうね、入りましょう」弥生は玄関の方へ向き直ると、成之に声をかけた。「道中、気をつけてね。家に着いたら、母さんに連絡するのよ?無事着いたって」「分かった。じゃあ、行ってくる」成之は短く別れを告げて車に乗り込み、そのまま屋敷を後にした。その様子を見届けた後、紀子は母の腕にそっと手を回し、にこっと笑って言った。「お母さん、さっきの『夜のお
成之は、紀子の問いに答えなかった。けれど、その眼差しがすべてを語っていた―彼は、あの女性を本気で想っている。「兄さん、ほんとに......ほんとに私、お母さんに何も余計なこと言ってないの。誓ってもいい。伊藤さんの悪口なんて、ひと言だって口にしてないよ。お母さんが花に頼んで調べさせたときだって、私は花に、絶対におばあちゃんに変なこと言うなって、きつく釘を刺したの。花も口を滑らせたりしてない。だから......信じて」彼の焦りようを見るかぎり、やっぱりお母さんが関わってるに違いない。花が何も話してなかったとしても、あのお母さんのことだ。裏で手を回して、すでに何かを掴んでいた可能性は十分ある。いくら昔のこととはいえ、母さんは未だに根に持っていて......まさか、今さらこんな仕打ちをしてくるなんて。「紀子、お前も知ってるだろ。母さんが恨みを持ったら―光莉は、無事じゃ済まない。少しでも心当たりがあるなら、頼む、教えてくれ」成之は妹のことを信じていた。けれど、母のことは信じられなかった。「兄さん......私だって、今どこにいるか分からないけど......電話してみる」「......母さんは、お前の電話には出ないんだ」「じゃあ、どうすれば......?兄さん、いっそ持ってるコネ全部使って探してみてよ。見つかるよ、絶対。だから、そんなに焦らないで......」「紀子......焦るなって、どうやって言うんだよ」半生をかけて、ようやく愛せた女だ。そう簡単に落ち着いていられるはずがない。ちょうどそのとき―一台の車が静かに門の前で停まった。兄妹は同時に振り向く。車はゆっくりと門を通り抜け、彼らのすぐそばで止まった。運転手が降りて後部座席のドアを開けると、そこから現れたのは―まるで何事もなかったかのような顔で、優雅に車を降りてくる女。身にまとったオーラは冷たく、涼やかで、まさしく「あの人」だった。成之が来ていたのを目にして、弥生は驚きと嬉しさが入り混じったような顔を見せた。「成之、こんな夜更けに......どうしたの?」その瞬間、成之の表情が一変する。次の瞬間には彼女に駆け寄っていた。「母さん―!」「お母さん」紀子が一歩前に出て、成之の腕をそっと引っ張った。「ちょっと体調が悪くて、ちょうどその時に兄
ビュン!振り上げられた鞭が空を裂き―バチンッ!!「―ああっ!!」鋭い音と共に、光莉の背に赤い線が走った。皮膚が裂け、血が滲む。闇の中、彼女の悲鳴が痛々しく響き渡った。......成之は今日、光莉に何度も電話をかけていた。だけど彼女は一度も出なかった。なんだか胸騒ぎがする。何か、良からぬことが起きたような―そんな直感が拭えない。そこで彼は人を使って調べさせた。調査の矛先が藤沢家に向けられたとき、ようやく手がかりを掴んだ。どうやら光莉が行方不明になったらしい。成之は即座に警戒モードに入り、人を使って彼女の行方を探させ始めた。同時に、藤沢家の動向も洗い出した。その結果、藤沢家が一つの腕時計を追っているという情報を掴んだ。その腕時計は、世界に数十本しか存在しない限定品で、国外の所有者を除けば、B国では所持者が極端に少ない。成之はその情報を元に持ち主を一人ずつ洗っていった。ところが―その中の一人が、自分の母だった。彼はすぐに母に電話をかけた。しかし、どれだけコールしても応答はなかった。メッセージもすべて既読無視。痺れを切らした成之は、自らハンドルを握り、母の元へと車を飛ばした。到着した別荘は、既に明かりが落ちていた。成之はクラクションを何度も鳴らし続けた。その音に気づいたのか、ようやく門が開いた。紀子が、寝巻きに上着を引っかけて外へ出てきた。車を降りてくる成之の顔を見て、彼女は一瞬怯んだ。「兄さん、こんな時間にどうしたの?」鉄のように冷たい顔をした成之が、一気に距離を詰めて紀子の腕を掴んだ。「母さん、家にいるのか?」「いないよ。最近はすごく忙しくしてて、ずっと外に出てる」「何で忙しいか、知ってるか?」その声には、いつもの兄とは違う重みがあった。紀子の表情に不安の色が浮かぶ。「......いったい、何があったの?兄さん」「先に答えろ。母さん、最近は何してる?」成之の声はさらに鋭くなった。紀子は思わずビクッとし、慌てて言葉を返す。「細かいことまでは知らないけど......なんか、仕事のこととか、投資とか言ってた」その「投資」という言葉を聞いた瞬間、成之の中で全てが繋がった。光莉の失踪―絶対に、母が関わってる。「本当に、何があったの?お願い、兄さん....
「それは高峯がしたことです。私には関係ありません......私だって、あの人に無理やり......どうして、私を責められるんですか?」光莉の声は、震えていた。納得がいかない気持ちが胸の中で渦巻いていた。―なぜ、こういう女性たちは、男の過ちを男にではなく、女にぶつけてくるのか。「あんたが無理やりされたって?じゃあ、どうして抵抗しなかったの?本当に嫌なら、誰があんたを無理やりにできたっていうの?あんたはあの伊藤支店長よ、藤沢家の人間。遠藤高峯に何ができるっていうの?」「......抵抗は、しました。でも......彼には、触れさせたくありませんでした。おっしゃる通り、私は藤沢家の者です。ですが、もしこのことが家に知られたら......きっと高峯と藤沢家は全面対決になります......私はそれを望まなかった。ただ、それだけなんです」「それだけ?」弥生の目が細くなる。「......ですから、私は藤沢家には何も話していません。自分で、なんとかするつもりでした」その時、彼のことを信じた。成之が、「もう高峯には話をつけた」と言ってくれた。もう大丈夫―そう思った。もう二度と、彼に関わることはないと。実際、それから高峯からの連絡は途絶えた。ようやく解放された気がして、光莉は胸を撫で下ろしたばかりだった。......まさか、こんなことになるなんて。「ふふっ、なるほどね。つまり、あんたは被害者ぶってるわけね?自分が傷ついて、苦しんで、それでも家のために黙っていた―そう言いたいのね?」弥生の声は、冷たくて、どこか小馬鹿にしているようだった。その口調が、たまらなく不快だった。けれど光莉は、ぐっと堪えて言った。「......間違っていますか?私が苦しまなかったと思っていらっしゃるんですか?私は、高峯の初恋でした。それなのに......彼に捨てられて、それから何年も経って......今度は家庭を持った私に、彼がまた迫ってきたんです。脅されて、強引に、何度も―あなたも女性ですよね?どうして......どうして、そんなふうに私を責めるんですか?」「女だからって、間違いを責められないと思ってるの?そんな都合のいい盾、私は認めないわよ。うちの娘だって、女よ。でもね、あの子は自分が女だからって、それを言い訳にしたことなんて一度もない。