そして―このことは、絶対にお母さんに知られてはならない。知られてしまえば、きっとお母さんの感情はさらに荒れて、もう光莉の件は取り返しがつかなくなってしまう。弥生は静かに目を閉じた。その様子に、少しでも心が動いたと感じた紀子は、すかさず声を重ねた。「お母さん、今すぐ飛行機のチケットを取りますから。私たち、すぐに出発しましょう。お母さんが行きたいところ、どこでもご一緒します。騒ぎが落ち着くまで、しばらく離れていましょう。その間に、兄さんが必ずすべてを処理してくださいます。お母さんには、絶対に何も起こりません。私が保証します。どうか......私のためだと思って、お願いします。たとえ最悪の事態になっても、今の段階なら『誘拐』です。事実が明るみに出たとしても、少しコネを使えば大きな問題にはなりません。でも、もし伊藤さんが......もし本当に命を落としたら、それはもう『殺人』です」「......もういい。そんなこと、私が分からないとでも?」弥生の口調は冷たいが、その声には揺らぎがあった。「お母さんがすべてを理解されていること、私は分かっています。でも、人は誰しも、自分のこととなると正しく判断できなくなるものです」紀子はその場で頭を下げ、心から懇願した。「お母さん......お願いです」弥生は長い沈黙のあと、ゆっくりと携帯電話を手に取った。......漆黒の夜が、息を詰まらせるような重苦しさを漂わせていた。ギィィ―と、大きな鉄の門がゆっくり開く音が響く。すぐさま、鋭い足音が倉庫内に踏み込んできた。パチッ。明かりがついた。光莉は冷たい床に倒れ伏し、全身を震わせながら、砕け散りそうなほどの痛みに耐えていた。そのとき、耳元で、聞き覚えのある声が響く。「光莉」うっすらと瞼を開けると、見慣れた影がこちらへ向かってくるのが見えた。「光莉!」成之が駆け寄り、彼女を抱き上げた。その身体は傷だらけで、服も裂け、無残な姿に変わり果てている。それを見た成之の瞳は、今にも血を流しそうなほどに怒りに染まった。光莉はすでに魂が半分抜けたような状態で、成之の腕に力なく身を預け、呼吸すらも聞こえないほど微かなものだった。成之は歯を食いしばり、怒りの炎をその目に宿しながら、きびすを返して言い放った。「ここを
その言葉の冷酷さとは裏腹に、彼女の目には涙が滲んでいた。「もし彼がふさわしくないというのなら......私も、そして成之兄さんも、お母さんの子どもにふさわしくないということになります。そうであれば、私たち三人とも、お母さんの子どもではなくて結構です!」「あんたたち......みんな......」弥生の手が震えながら、紀子を指差す。「親不孝者ばかり......たかが他人の女、そんな狐みたいな女のために、みんなして母親を責めて。私はこの家のためにどれだけ尽くしてきたと思ってるのに......!」紀子は静かに言葉を紡いだ。「もし『幸せ』のために人を殺すというのなら、その『尽くし』を私は受け取りたくありません。それは私にとって、喜びではなく、ただの恐怖と苦しみです。お母さんが私の母である以上、私はその過ちに胸を痛めるしかありません」弥生は目を伏せ、ベッドに腰を下ろすと、かすれた声で言った。「あんた......本当に母親にそんな態度を取るつもり?」「お母さんが、私や兄さんにこうして接してこられるなら......娘として、不孝者と呼ばれても仕方ありません」「......っ」弥生は言葉を失っていた。紀子はその場にひざまずき、静かに頭を下げた。「お母さん......私を娘だと思ってくださるなら、どうかこのお願いを聞いてください」「彼女はただの藤沢家の人間ではありません。もし何かあれば、藤沢家は必ず真相を突き止めます。お母さんが藤沢家をどう思っていようと、兄さんのことは大切なはずです。彼女は兄さんにとって、とても大切な方なのです。彼女を失えば、兄さんはきっと、一生心の傷を抱えたままになるでしょう。兄さんはその痛みに耐えきれず、自ら命を絶ちました。今、私には......兄さんしか残っていないのです」弥生は虚ろな笑みを浮かべて、壊れたように笑い出した。「その女......いったいどんな魔法をかけたの?夫も、息子も、今度はあんたまで。関わりのないあんたまで、なぜ彼女を庇うのよ」紀子は両膝でじわじわと弥生の前ににじり寄る。「お母さん......私たちは彼女を助けているのではありません。私たちは、お母さんを守りたいんです。お願いです、どうか伊藤さんを解放してください。このままでは、私は一生安らげません。夢にうな
「母さん、もし本当にそんなことしたら―俺は、一生あんたを許さない」成之の声は、低く鋭く、まるで刃のようだった。そこには、静かな怒りと、決意が滲んでいた。その一言に、弥生の心がわずかに揺らいだ。「......成之。あんた、誰が産んで育てたと思ってるの?私よ。私が苦労してここまで―」「もういい!」彼は母の言葉を鋭く断ち切った。「母親だからって、何をしても許されると思ってるのか?『母親』は、罪の盾じゃない!俺は本気で言ってる。もし光莉が死んだら―俺は一生、母さんを憎み続ける。もう会わない。俺にとって母親は、あんた一人だった。でもそれも、今日で終わりにする」言葉の一つひとつが、凍えるように冷たく、重かった。「兄さんはもう死んだ。もし母さんがそれでも『もうひとり』の息子まで失いたいなら―勝手にやればいい。だけど俺は、その代償を、命を懸けて払わせてもらう。光莉を殺せば、その瞬間から―俺は母さんの息子じゃない」弥生の手が震えていた。「......あんた、母親まで捨てる気なの?たかが、あんな女のために......!いいわよ、だったら―母親なんて、いらないって言いなさいよ!」そう言い捨てて、彼女はスマホの通話を一方的に切った。そして、紀子のスマホを床に叩きつけた。続けざまに、自分のスマホを取り出し、どこかに電話をかけようとする。「お母さん、やめてくださいっ!」紀子はすぐにその手をつかんだ。「放して!今すぐ、あの女を消してやる。まだ間に合うのよ、死体を処理してしまえば、何もかも終わるのよ!」「ダメです!お願い、そんなことしないでください!」「離しなさい!」弥生は眉をひそめ、怒鳴った。「紀子、あんたって子は、ほんとに......このこと、もっとうまくやれたはずなのよ。誰にも知られず、跡も残さずに―そうできたのに!それなのに、なんで成之に話したのよ!?事態をもっと悪化させて、どうするつもり?!あんた、母さんを裏切ったの。母さんを危険にさらしてるのよ。でも、今ならまだ間に合う。あの女、母さんが始末する。跡形も残さずに殺してやる―誰にもバレない。母さんはあんたのためにやってるのよ、紀子。母さんは、あんたの無念を晴らしてあげたいだけなのよ」「お願いです......そんな気持ちいりません......私は
紀子は泣きじゃくりながら、必死に母の手を取って懇願した。「お母さん、お願いです。もうこれ以上、無茶なことはしないで......もし伊藤さんがまだ生きてるなら、どうか解放してあげてください。まだ間に合います、お願いします......!」「ほんとに、あんたって子は......」弥生は眉をひそめ、苛立ちを隠そうともしなかった。「どうして、そんなにも弱気なの?」「弱いんじゃないんです。ただ、もう過去に縛られたくないだけ......お願いです、今ならまだ引き返せます。そうじゃないと、取り返しのつかないことになります」紀子の声は震えていた。「彼女は、ただの一般人じゃありません。もし何かあったら、お母さんだって―」「黙りなさい!」弥生が怒声で遮った。「誰が知るっていうの?あんたさえ黙ってれば、それで済む話でしょう。私がやることに、穴なんてない。で、正直に言いなさい―さっき私の部屋で何を見たの?」外の物音に気づいて目を覚ました弥生は、灯りを点けたとき、自分のスマホが画面を上にして置かれていたのを見つけた。息子が突然やってきたことも思い出され、その様子がどうにも普通じゃなかったことも頭をよぎる。一気に疑念が膨らみ、娘の部屋へと足を向けた。そして、予感は当たっていた。「......私は、何も見てません。ロックがかかってて、スマホは開けなかったんです」紀子が涙を拭いながらそう言った、瞬間―弥生は突然、彼女の背後にあるスマホを掴みにかかった。「やめて!」紀子も必死に奪い返そうとしたが、弥生は強く彼女を突き飛ばした。ちょうどそのとき、スマホが鳴った。―成之からの着信だった。弥生はすぐに応答ボタンを押した。「紀子、どうした?電話出ないから心配した。あの写真、やっぱり光莉だった。彼女は母さんの手の中にいるんだろ?他に何か―」「兄さん、言わないで!やめてっ!!」紀子の悲鳴にも似た声が、スマホの向こうに響いた。その瞬間、成之の胸に鋭い不安が走った。スマホの向こうから弥生の冷たい声が聞こえた。「成之、あんたは私の息子、紀子は私の娘。ふたりとも、母さんが産んだ我が子よ。それなのに......ふたりして、母さんを裏切るつもり?」その言葉に、成之はすべてを察した―母さんは、すでに気づいている。
部屋に戻った紀子の体は、冷や汗でぐっしょりと濡れていた。まさか母が、あんなことをしていたなんて。震える手でさっきの写真をもう一度見直す。......あの女性、あれはきっと伊藤さん。こんな扱いを受けてるなんて、一体どれだけの恐怖と痛みに晒されてるの?母は、母は一体どこまで狂ってしまったの―紀子は唾を飲み込み、すぐに自分のスマホから写真と番号のスクショを成之に送信した。【これ、お母さんのスマホから撮った怪しい番号と写真。写真の女性、多分あの伊藤さん】メッセージを送った直後。成之から、すぐに着信があった。彼女が応答しようとした、そのとき―ガチャッ。突然、ドアが開いた。弥生が、無表情でそこに立っていた。紀子は息を呑み、慌ててスマホを背中に隠す。目を見開き、恐怖がその奥に浮かんでいた。「お母さん、どうされたんです?まだお休みじゃなかったんですか?」「あんたの音で目が覚めたの......まだ起きてたの?」弥生はゆっくりと部屋に入ってくる。その一歩一歩が、まるで獣のように重く感じられる。「―さっき、母さんの部屋に入ってきたでしょ?」「えっ......な、何をおっしゃってるんです?私、行ってないですし、きっとお母さん、寝ぼけて夢でも見たんじゃないでしょうか」「......そう?」弥生は冷たい声で返した。「でもね、私のスマホ、本当は画面を下にして置いてたの。なのに、起きたら画面が上になってたのは―どう説明する?」「え、それ......もしかして、お母さんの記憶違いじゃ?そんな小さなことで、私が部屋に入る理由ないじゃないですか」その瞬間。弥生が、紀子の顔をぐっとつかんだ。「私たちは親子なのよ、あんたは絶対に裏切っちゃいけない。母さんと手を組まないと、生きていけないの......何をしたのか、正直に言いなさい!」「お母さん、ほんとに何もしてないです、私......ほんとにっ―」ビンタが飛んだ。パァンという音が、部屋に響き渡った。頬に激痛が走る。「私は母親よ!あんたが何を考えてるか、見抜けないと思ってるの?どうして母さんに、そんなことができるの......」弥生が手を伸ばして命じる。「スマホを出しなさい」紀子は、母のビンタで頭がぐらりと揺れていた。
「でも、それだけ心配だったんでしょうね。だから自分で車を運転して来たんですよ。お母さん、心配しなくても大丈夫です。兄さんに何かあるわけないですから」そう言って笑いかけると、弥生も小さく頷いた。母娘ふたり、ゆっくりと屋敷の中へと入っていく。弥生は玄関で上着を脱ぎ、それをそっと使用人に手渡した。どこか疲れたような表情で、「冷たいお水を持ってきて」と一言。「お母さん、なんだかお疲れのように見えますけど?」「ちょっと踊ってきたから、体がだるくてね......紀子、あんたももう休みなさい。母さんも部屋に戻るわ」「はい。お母さんも、ゆっくりお休みください」紀子は階段を上って自室に入り、ドアを閉めてから鍵をかけた。そしてバスルームに入り、ポケットからスマホを取り出して成之に電話をかける。「紀子、どうだった?母さんの様子に変わったところは?」「兄さん、まずは落ち着いて。お母さんのことは、私の方でなんとかするから。なにか分かったらすぐに連絡するね。伊藤さんの方も、そっちで探してみて。もしそっちで見つかれば一番だし、見つからなくても、こっちでお母さんの話を引き出せるように動く。何かしらの手がかりは見つけてみせる」成之は大きく息を吐いた。「......分かった。紀子、母さんのこと、頼んだぞ」「うん、任せて」電話を切った紀子は、ゆっくりとバスルームを出た。そして静かに、待ちの時間が始まる。―夜半。紀子は冷たい水で顔を洗い、気持ちを引き締めた。そしてそっと部屋の扉を開け、音を立てないように足を運ぶ。目的地は弥生の部屋。ドアの前に立ち、慎重に隙間を開け、中を覗き込む。部屋は真っ暗だった。しかし窓の外には月光が差し込み、かすかに室内の輪郭が浮かんでいた。紀子はスマートフォンの画面をタップし、画面の微かな光だけを頼りに部屋の中へと進む。懐中電灯は使わない。あまりに明るすぎると、弥生を起こしてしまうかもしれないからだ。―そして。ベッドサイドの小さなテーブルの上、うつ伏せに置かれた一台のスマホを発見。紀子は慎重にそれを手に取り、画面を点けた。......画面には指紋認証のロックがかかっていた。ベッドの上、弥生は熟睡していた。その様子を一瞥した紀子は、静かに窓際へと移動し、膝をカーペットにつけ