十日後。若子は千景のベッドのそばに座り、優しくお粥を食べさせていた。スプーンから少しこぼれてしまい、慌ててティッシュで千景の口元と服を拭う。「ごめん、手が滑っちゃった」「若子、自分でできるよ」千景は手を伸ばし、スプーンを取ろうとした。「だめ、今は休まなきゃいけないの。動いちゃだめ、私が食べさせるから、お粥ちゃんと食べて」千景が目を覚ましてから、若子はずっとそばを離れずに付き添っていた。千景が生きていてくれること、それだけが、若子にとっては神様からの奇跡だった。千景は静かに、黙って彼女を見つめながらお粥を食べ終えた。食べ終わると、若子はタブレットを取って、ベッドの小さなテーブルの上に置いた。「まず映画を一本見ようよ。見終わったらお昼寝しよう」「若子」千景が急に手を握る。若子はその手を離さなかった。「まさか、また君に会えるなんて思わなかった」若子は千景の手の甲を軽くたたきながら言う。「修がね、冴島さんの指が動いたのに気づいたの。それで生きてるって」「それはしっかりお礼を言わなきゃな」千景はもう、それだけで十分だった。若子に会えたことが、何よりもうれしかった。「あの桜井ノラは、どうなった?」ノラの名前が出ると、若子の顔がすっと冷たくなる。「もう閉じ込められてるよ。二度と外には出られない」千景はため息をついた。「十九歳の少年が、あんなことをやるなんて、誰が想像しただろうな......この世の中は本当に広いだな」そのとき、修が暁を抱えて部屋に入ってきた。二人が気づいて顔を上げると、暁がすぐに手を伸ばした。「ママ、ママ」暁はここ最近、若子から離れようとしない。前に若子が連れ去られたとき、きっと何かを感じ取ったのだろう。その日以来、毎日母親にべったりで、ずっと一緒に寝たがっている。「暁」若子はにっこり笑って、暁を抱き上げた。「見て、冴島叔父さん元気になったよ。うれしいでしょ?叔父さんにごあいさつは?」「さえ......おじ」暁は、天使みたいな笑顔を見せた。千景はその顔を見て、思わず頬を軽くつねった。「この子、本当に賢いな。どっちに似たんだ?」千景は若子と修を順に見比べる。修は若子の肩に優しく手を置き、もう片方の手で暁の頭を
夕食が終わってから一時間ほど経ち、若子はベッドに横になって休もうとしていた。そのとき、扉をノックする音がした。若子はベッドの上で身を起こす。「誰?」「俺だ。あと暁も一緒だ」扉の向こうから修の声が聞こえると、若子はすぐに「入って」と返す。修は暁を抱いて部屋に入ってきた。「ママ!」暁は若子の姿を見るなり、小さな手を伸ばした。修は暁をベッドの上にそっと下ろし、「どうしても寝てくれなくてさ。ずっとママを呼んでたから、連れてきた」「ママ、抱っこ」暁はベッドに上がると、すぐに若子のもとへ這い寄っていく。若子は優しく暁を抱きしめ、「ここに一緒にいようね。私が寝かせるから、ありがとう、修」と言った。修はベッドのそばでじっと見ていた。「いちいち礼なんて言うな。俺はあいつの父親だ」若子は目を伏せ、ほんの少し恥ずかしそうな表情を浮かべる。「修......ごめん。今までずっと黙ってて、本当は何度も伝えようと思った。でもいろんなことがあって......全部、私が悪い」本当なら父親には、子どもの存在を知る権利があったはずなのに。ただの一時の感情で、長い間伝えられなかった。何度も修と暁が会っていたのに、そのたびに秘密のままにしてしまった。「若子、前だったら俺はきっと怒ってた」修はベッドに腰掛けて、静かに続ける。「責めてたし、自分でも想像もつかないくらい感情的になってたと思う。でも今は......」修は苦笑した。「いろんなことがあって分かったんだ。そういう感情で全部ぶち壊してきたってな。これ以上、感情に振り回されてたら何もかもダメになる。極端なことばかり起きるし、もう自分を止めることにした」「一番大事なのは......」修は若子の手をそっと握る。「今は、お前と暁が無事でいることだけだ。他はどうでもいい」死線をくぐり抜けてきて、ようやく気付いた。昔こだわってたことなんて、今は本当にどうでもよくなった。ただ、大切な人たちがそばで笑っててくれるなら、それでよかった。若子は胸が熱くなり、思わず涙が出そうになるのを必死でこらえた。たくさん言いたいことがあったのに、この瞬間は何も言葉が出てこなかった。「若子、どんなことがあっても、これからは二人で一緒に暁を育てていこう。そうだろ?
「お前が彼のそばにいたい気持ちはわかる」修は静かに言う。「でも今のお前、体ボロボロだ。このままずっと飯も食わず、水も飲まず、寝もしないでいられるわけがない。安心しろ、俺が必ず彼を守らせる。二十四時間、誰かをここにつけて、絶対に何も 起こさせない。もし何かあったら、全部俺が責任取る......お前、俺のこと信じられないのか?」若子が少し迷う素振りを見せると、修は優しく続ける。「若子、家まで送ってやる。行こう」「......あそこには帰りたくない」若子は震える声で言う。自分の部屋のことだ。あそこにはもう戻るのが怖かった。「じゃあ、俺の家に来い。ちょうど暁にも会えるし」「暁......」若子はその名前を聞いて顔を上げた。「暁は、大丈夫なの?」「心配するな。全部無事だ。俺が遠藤からちゃんと連れ戻した」若子はやっと安堵の息をつく。「よかった......」「さあ、一緒に暁に会いに行こう。あいつ、お前のことをずっと待ってたぞ」息子のことを思うと、若子の心がやっとやわらかくなる。「うん......」修は若子を支えて立ち上がらせた。若子は名残惜しそうに集中治療室のドアを見つめてから、修と一緒に病院を後にした。家に着くと、執事がすぐに暁を連れてきた。「暁!」若子は慌てて息子を抱きしめる。「ママ!」暁は嬉しそうに笑って、若子の胸に飛び込んだ。若子は感極まって涙をこぼす。「暁、無事でよかった......ごめんね、ママ、置いていっちゃって、ごめん......」「ママ、泣かないで」暁は小さな手で若子の頬の涙を優しく拭った。たどたどしい言葉でも、その気持ちははっきり伝わってくる。若子の宝物が、そっと彼女を慰めてくれる。若子は子どもを抱きしめたまま、どうしても手を離せなかった。けれど突然、頭がふわりと揺れて、体が大きくぐらついた。それを見た修は、すぐに若子をしっかり抱きとめた。そして執事に目配せすると、執事は素早く暁を若子の腕から引き取った。「若子、少し休め。子どものことは任せて、俺が台所に頼んで飯を用意させる」「お風呂に入りたい」全身汗と血でベタベタして、とにかく気持ち悪かった。「わかった、メイドを呼ぼうか」「いい、自分でできるから」修は
修は小さくため息をつき、何か言おうとした。そのとき、不意に千景の指がかすかに動くのに気づいた。修は思わず口を開きかけたが、若子に伝えようとした言葉が喉で止まる。次の瞬間、若子のぼんやりとした視線を見て、何かを決心したように千景の首筋に指を当てる。「何してるの!」若子は興奮気味に叫んだ。「触らないで!」「まだ生きてる」修はすぐに言う。「脈がある、信じないなら自分で触ってみろ」修は若子の手を取って千景の首に押し当てる。指先に、かすかな脈が感じられた。若子は驚いて叫ぶ。「生きてる......冴島さん、生きてる!」「冴島さん、冴島さん!」若子は必死で呼びかける。修はすぐさま言った。「誰か、早く病院に運んでくれ!」すぐに数人が集まり、急いで千景を担ぎ上げる。若子も地面から立ち上がり、ついていこうとする。「気をつけて!」その拍子に、若子はどさっと転んでしまった。修がすぐに駆け寄って支えた。西也も同時にやってきて、二人で若子の腕を支えたが、若子は二人を振り払って、よろけながら千景のあとを追いかけた。西也は怒りで修を睨みつけた。「藤沢、お前は馬鹿だな。千景が助かったら後悔しろよ!」......十数時間後、千景は集中治療室に運び込まれていた。彼は死んでいなかった。銃弾は頭蓋骨で止まり、致命傷にはならなかったのだ。医者がその弾丸を取り出したとき、みんな驚愕した。その弾は製造上の不良品で、威力が大幅に落ちていた。だからこそ、千景は脳を撃ち抜かれることなく、生き残った。それはまぎれもない奇跡だった。若子は病院で、ずっと千景のそばを離れずにいた。集中治療室には入れず、廊下の椅子に座ってぼんやりしていた。修は着替えたばかりの服で、若子の隣に座る。「若子、傷はちゃんと治療しよう?じゃないと感染しちゃう」若子は千景のために、どこにも行こうとせず、誰にも触れさせなかった。けれど千景が生きていると分かった今、しかも助けてくれたのが修だったからか、他の人ほど修には心を閉ざしていなかった。若子はふと我に返り、修を見つめる。修は彼女の手を優しく握る。「千景だって、お前が元気でいてほしいはずだ。自分の体をちゃんと治して、彼が目を覚ましたとき安心
誰かが絶望のあまり、わずかな希望を求めて駆け出した。その瞬間、空から大きな爆発音が響いた。空の端がぱっと明るくなり、次々と花火の音が鳴り響く。みんなが顔を上げると、鮮やかな花火が夜空に咲き乱れていた。村崎は装置のカウントがゼロになっているのを見た。けれど、爆発は起こらず、ただきらびやかな花火だけが空に広がっていた。「ふふ」ノラの顔は腫れ上がり、唇から血がにじんでいる。「びっくりしました?予想外でした?ねえ?」西也の額には冷や汗がにじむ。全身の緊張が抜けて、息を大きく吐き、力が抜けてその場に座り込んだ。本当に死ぬと思っていたのだ。村崎はすぐにノラの胸ぐらをつかむ。「これはどういうことだ?」「花火ショーで脅かすほうが、本物の爆弾より面白いでしょ。君たちみたいな臆病者をからかうのは楽しいですよ」ノラは嘲笑を浮かべる。「この......!」村崎は思いきりノラに拳を叩き込む。「この変態、狂ってる!」「だから、覚えておいてください。変態の狂人を怒らせちゃだめですよ」「若子、若子!」西也は地面から立ち上がると、若子に駆け寄った。彼女の手首の傷を見て、胸が痛んだ。「早く、そいつの身体から鍵を探せ、早く!」部下たちがノラの身体を探るが、鍵は見つからなかった。若子は冷たい目で西也を見つめ、何も言わず、ただ視線を千景の方へ向けた。「早く道具を持って来い、急げ!」西也が叫び、部下がいくつかの道具を持ってくる。手錠のチェーンを切断した瞬間、西也は若子を抱きしめようとしたが、若子は全力で西也を突き飛ばし、千景の元へ駆け寄った。「冴島さん!」若子は地面に倒れこみながら千景を抱きしめ、腕の中でその名を呼ぶ。「冴島さん!」若子は泣き崩れ、千景の青白い顔を両手で包み込み、おでこにキスをした。「冴島さん、なんでそんなにバカなの?死ななくてもよかったのに......」千景が自殺しなければ、今ごろ誰も死なずに済んだはずだった。若子はノラのことを心の底から憎んでいた。「冴島さん、どうして......どうしてそんなことするの......どうして私を置いていくの......」空にはまだ花火が次々と打ち上がっている。まるで、きらびやかで、だけど残酷な茶番劇だった。
「若子」千景が不意に口を開くと、そのまま銃口を自分の頭に向けた。「俺たちが知り合ってまだ長くないけど、俺はそんなにいい人間じゃない。死んで当然だ。俺が死んでも、あんまり悲しまないでほしい」「冴島さん、何するつもりなの!」若子は叫ぶ。「そんなことしないで!やめて!」「若子、覚えておいて。これも全部、俺が自分で選んだことだ。君には生きてほしい......さよなら」千景は涙を浮かべ、大切な人を見つめる。銃を持つ手は震えていた。死ぬことは怖くない。ただ、死んだあと、もう二度と彼に会えないのが悔しい。それでも、どんなに望みが薄くても、若子が生き延びられるなら、彼は死ぬべきだと思った。「冴島さん、だめだ、やめて!」若子は手錠から必死に抜け出そうとする。手首の皮が切れ、赤い血がにじむ。千景は若子に苦しい選択をさせたくなかった。誰を選んでも、彼女は絶望してしまう。だから、自分で終わらせることを決めた。「若子」千景は涙をこぼしながら、彼女を見つめた。「俺は......俺は......」本当は「君を愛してる」と伝えたかった。けれど、その言葉は彼女の重荷になるだけだと分かっていた。最後の最後まで、その言葉は飲み込んだまま。「若子、目を閉じて、見ないで」「やめて、だめ、冴島さん!」若子の絶望的な叫びとともに、銃声が響いた。千景は自分の頭に引き金を引き、そのまま地面に崩れ落ちた。現場は静まり返った。誰も千景が自分で命を絶つとは思っていなかった。若子の世界は音もなく崩れ落ちる。彼女は倒れたまま、地面に横たわる男を見つめ、心の底から叫ぶ。「冴島さん、いや、死なないで、お願い、冴島さん!」「これは予想外でしたね」ノラは血だまりの中の千景を眺め、皮肉っぽく笑った。「お姉さん、どうするんです?彼、自分で命を絶つなんて、ずいぶん立派じゃないですか」修はため息をつき、目を閉じた。胸に押し寄せる悲しみでいっぱいになる。千景のことは嫌いだったはずなのに、この瞬間だけは心から彼を尊敬していた。若子は全身の力が抜けて、木にもたれて座り込み、絶望的な声で言う。「ノラ、修と冴島さんのどっちかが死ななきゃいけないって言ってたよね。冴島さんはもう死んだよ。これで満足でしょ?私は冴島さんが死ぬほう