「お前、遠藤西也とは前から知り合いだったのに、俺には学校で知り合ったって言った。これが嘘じゃなくて何なんだ?」「私......」この話題が出ると、若子は言葉に詰まった。彼は一体何度このことを持ち出すつもりなのだろう?「藤沢修、そんなに意地悪でなきゃ気が済まないの?」「俺が意地悪なのか?それともお前が嘘をついたのか?後で自分で認めただろう?お前はとっくにあいつと関係があったって。これはお前の口から言ったことだ、俺の妄想じゃない!」「......」若子が確かにそう言ったことがあるのは事実だった。しかし、それは彼女があまりにも腹が立って、口走った言葉にすぎなかった。若子はベッドの端から立ち上がり、「じゃあ、あんたが言いたいのは、おばあちゃんに言ったことは全部本心じゃなかったってこと?」と問いただした。「そうだ。俺はただ、おばあちゃんをなだめるために、自分が全部悪いってことにしただけだ。そうすれば、俺がクズだと思われずに済むかと思った。でも結局、叩かれたんだから意味がなかった。最初から言わなければよかった、無駄な時間を過ごして、殴られただけ。ついてねえ」その言い方は、どこか投げやりで不機嫌そうだった。若子は拳を強く握りしめた。おばあちゃんがあの言葉を言ってくれたとき、本当に心から感動していたのに。藤沢修は普段は彼女と喧嘩ばかりしていたが、本心はわかっている人だと思っていた。ただ、怒りに任せて口が悪くなることがあるだけで。しかし、今になってわかった。彼が言ったのはすべて嘘だったのだ。まあ、それも仕方ない。二人はもう離婚しているのだから、彼の心の中がどうであろうと気にすることはない。若子はため息をつき、「私が考えすぎたわ。でも、こうなってよかったのかもね。私たちはもう離婚してるんだし」と、静かに言った。この世の中に、そんなに簡単にきれいに別れられる関係がどれだけあるだろうか。あれだけのことがあったからこそ、どうしても一緒にいられなくなって別れるのだ。きれいに出会うことさえ難しいのに、きれいに別れるなんて、もっと無理な話だ。「安心しろよ、俺はすぐに出て行く。この家はお前のものだ」と修は続けた。「必要ないわ」若子は首を横に振った。「あんたがここに住んでればいいのよ。どうせ私はもうここには住まないし。じゃあ、私はこれ
「パッ」と音を立てて、藤沢修は若子の手首を掴んだ。「行くな」どうしてか分からないが、心の中に突然不安が押し寄せてきた。どうしても彼女にいてほしいと強く思った。それまでどんなに強がっても、この瞬間だけは子供のように無力だった。痛みは、人を狂わせるし、同時に弱くもする。時に、身体の痛みよりも心の痛みのほうが深いのだ。若子は視線を落とし、彼の手を見た。その手は彼女の手首を掴んでいるのに、震えていた。きっととても痛いのだろう。それは誤魔化しようがないことで、彼の顔色は青白く、額には汗が浮かんでいた。「今、病院に連れて行くわ」若子は優しく言った。「車で送っていくから、いい?」その声はまるで彼をなだめるようだった。「病院には行きたくない」藤沢修は目を上げ、黒い瞳の奥には深い影が見えた。「この薬は医者が出したものだから、あと少しで治る。病院には行かなくていい」若子はベッドの端に座り、「じゃあ、まずはうつ伏せになって。動かないで。さもないと背中の傷が開くわよ」と言った。「それで、お前はまだ出て行くのか?」修の瞳には焦りが滲んでいた。若子はその瞳を見つめ、心が柔らかくなるのを感じた。彼の傷を見ていると、もう彼に対する怒りなどどうでもよくなり、首を横に振って言った。「出て行かないわ。ここにいる。だから、ちゃんと言うことを聞いて、もう意地悪なことを言わないで」彼女がここに留まるのも、条件付きだった。これ以上、彼に振り回されるつもりはなかったのだ。藤沢修は少し笑みを浮かべた。「俺、そんなに意地悪か?」初めて誰かに「意地悪」だと言われた気がする。「そうよ、ずっと遠藤西也とのことを言い続けてるじゃない」「でも、お前らは親密だろう」彼はしつこく言った。「何度も言ったでしょ。ただの友達だって。本当にお前が考えているような関係じゃないのに、なんで......」若子はそう言いかけて、ため息をついた。「もういいわ。この話をすると、また喧嘩になるから」「わかった、もうその話はやめる」修は話題を打ち切った。これ以上話せば、彼女が出て行ってしまうかもしれないから。「そうだ、包帯を巻くんじゃなかったか?」修は視線を向け、あの箱に包帯が入っていることを示した。若子は箱から包帯を取り出し、彼の背中に向かって座った。「動かないで。これから
「私......」若子は思わず息を飲んだ。この男、藤沢修は本当に言いくるめるのが上手で、彼女を言葉で追い詰めるのが得意だった。いや、言いくるめているというよりも、彼女自身の言葉があまりに軽率だったのだろう。確かに「痛かったら言って」と言ってしまったのは彼女だ。最初から言わなければよかったのかもしれない。でもまさか、修がこんな風にしょっちゅう「痛い」と言ってくるとは思わなかった。まるで子供みたいに。「じゃあ、ちょっと我慢してね。どうしても包帯を巻かないと、傷がそのまま晒されてしまって危ないから」若子は彼の背中に座り、一つ一つ丁寧に包帯を巻き始めた。彼女の呼吸が耳元に時折触れ、ふっと遠のいたかと思えばまた近づく。彼女の手が再び修の胸に触れ、体を前に傾けて左手で包帯を巻きつけようとしたとき、修が突然顔を回し、唇が若子の鼻先に触れた。若子はその場で固まってしまった。鼻先に触れた瞬間、まるで電流が走ったような感覚だった。修は何もなかったかのように再び顔を戻し、平然としている。若子は我に返り、胸の奥にじわっと痛みが広がるのを感じた。彼がこうして近づいてくるたび、ほんのわずかな接触でも心が締め付けられるようだった。心臓が微かに痙攣するように痛み、その痛みは肌に感じる傷の痛みとは違って、息苦しくなるような感覚だった。選べるなら、彼女は体の痛みの方を選びたい。こうした心の刺すような痛みよりも。「何をぼーっとしてるんだ?」修が振り返り、深い瞳で彼女を見つめた。「どうかしたのか?」「別に」若子は無理に微笑んだが、その表情には感情の色が薄かった。瞳の奥に一瞬だけ寂しさがよぎった。彼女はすぐに包帯を巻き終わり、ハサミで切って留めた。「できたわ。寝るならうつ伏せか横向きでね。仰向けはダメよ」まるで厳しいママのような口調だった。修の傷は少なくとも四、五日はかかるだろう。おばあちゃんもあんなに厳しく叩くことはないのに、どうして実の孫にそこまでできるのかと、少し理解できなかった。若子はおばあちゃんの気持ちも理解していたが、それでも修の傷を見ていると胸が痛んだ。若子はうつむき、黙々と薬箱の中の道具を片付けた。修は若子が部屋を出ていこうとするのを見て、急いで尋ねた。「どこに行くんだ?」「薬箱を片付けに行くだけよ」と若
「もう一度言ってくれたら、俺は信じるよ」藤沢修はじっと若子を見つめていた。その瞳は平静でありながら、どこかにかすかな期待が宿っていた。若子はしばらく黙り込んだ。心の中で複雑な感情が渦巻き、なんとも言えない気持ちが込み上げてきた。彼女は微かに苦笑して、「そうよ、私は彼とはただの友達なの」と答えた。修は長く息を吐き出したように見え、その表情から緊張が解けていくのが分かった。彼は自分の感情を隠そうとしなかった。もう二人は離婚しているし、若子が彼に嘘をつく理由はない。だが、二人が離婚しているという事実を思い出すと、そのことが彼の心に鋭い棘のように刺さった。今になって彼女と遠藤西也がただの友達だと信じても、何の意味があるというのだろうか?仮に彼が最初から信じていたとしても、彼らが離婚する運命を変えることはできなかったのだ。若子は彼を疑わしげに見つめた。自分の気のせいかもしれないが、修の顔に少しばかりの安堵と哀しみが浮かんでいるように見えた。なんだかおかしな話だ。結局、彼が他の女性と結婚するために自ら離婚を決めたのに。修はそのまま体をリラックスさせすぎて、後ろに倒れ込むようにベッドヘッドに寄りかかってしまった。若子はその様子を見て、すぐに駆け寄り、「動かないで!」と叫んだ。だが、間に合わなかった。修の背中がベッドヘッドに直に当たり、瞬間、鋭い痛みが彼を襲った。彼の目は大きく見開かれ、その痛みは全身に広がり、毛穴の一つ一つを突き刺すようだった。修はぐっと拳を握りしめ、思わず声を上げそうになった。「痛かったら、叫んでもいいのよ」若子はその様子を見て言った。彼が痛みに耐えているのがわかり、彼女も胸が締め付けられるようだった。修は額に汗を浮かべ、若子を見つめながら言った。「俺は赤ん坊じゃない」叫ぶなんて、絶対にしない。そんなことをしたら、男としてのプライドが傷つくし、小学生じゃあるまいし。若子は修のそんな様子に呆れつつも、ちょっと笑ってしまった。赤ん坊じゃないと言いながら、今の姿はまるで意地っ張りな子供のようだ。よく「女はなだめるのが大事」と言うけれど、男だって同じで、時には子供のように幼いところがあるのだ。若子はベッドサイドのティッシュを数枚取り、修の額に浮かんだ汗を丁寧に拭き取った。
しかし時として、人生は本当に予想外の出来事ばかりだ。自分の意志とは裏腹に、さまざまなことが起こるもの。若子と藤沢修の関係もまさにそんな感じで、まるでジェットコースターのように、離婚前もそうだったし、離婚後も同じだった。彼女には、それが縺れた糸のように解けないままなのか、それとも運命の絡み合いなのか、分からなかった。若子は修の胸の中に横たわり、複雑な思いに包まれていた。彼女は再び手を伸ばし、彼の額に浮かんだ汗を優しく拭き取った。修の荒い呼吸は次第に落ち着き、彼はうつむいて彼女の体から漂う香りを貪るように吸い込んでいた。この懐かしくて心地よい香り、かつては手に入れたいと思えばすぐに手に入るものだったが、今ではそれがまるで高級品のように感じられる。こんな機会、もう二度と訪れることはないだろう。今日だけは、彼は少し放縦だった。これが最後の放縦だ。やがて、修は抱きしめていた若子をゆっくりと解放した。若子は腕が緩んだのを感じ、微かに笑みを浮かべて彼の胸から身体を離し、起き上がろうとした。「私......あっ!」その瞬間、足元が滑ってしまい、慌てて身を起こそうとするも、バランスを崩して修の方へ倒れ込んでしまった。修は反射的に彼女を受け止めようとしたが、間に合わず、若子の顔が彼の腰あたりに埋まってしまった。若子の顔は瞬く間に真っ赤になり、手で彼の脚を押さえ、慌てて起き上がろうとする。しかし、あまりにも恥ずかしさと緊張で足が震えてしまい、何度か立ち上がろうとしたが、結局うまくいかず、頭がまた彼の腰にぶつかった。「うっ......」修は苦しげに声を漏らし、急いで彼女を助け起こそうと手を伸ばした。これ以上続けば、彼にも何が起こるか分からなかった。彼の手がようやく若子の肩に触れ、彼女を引き起こそうとしたそのとき、突然部屋の入り口から声が聞こえてきた。「修、母さんが様子を見に来いって......」その声が途切れた。若子は目を大きく見開き、頭の中が雷に打たれたように真っ白になった。二人は同時に振り返り、ドアの方を見た。そこには、藤沢曜と伊藤光莉の夫婦が立っていて、目を見開いて呆然とこちらを見ていた。四人はお互いに顔を見合わせ、何も言わずにその場が凍りついたような静けさに包まれた。光莉は目を逸らし、顔を横に向
「違うんです、そんなことじゃないんです。この紙は確かに湿ってますけど、これは汗です。信じられないなら、触ってみてください!」若子は一歩近づき、濡れた紙を二人に差し出した。藤沢修は頭を抱えて無力に俯き、ため息をつきながら頭を横に振った。「近寄るな!」と藤沢曜は即座に光莉を自分の後ろに引っ張り込んだ。まるで若子が何か恐ろしい存在にでもなったかのように、夫妻は後ずさりし、藤沢曜は毅然とした表情で手を挙げて言った。「君たち夫婦のプライベートな問題は、私たちに話さなくていい。君たちで勝手に解決してくれ。とにかく、私たちはこれで失礼するよ」「違うんです!本当に何もないんです!」若子は彼らの後を追い、必死に訴えた。「触ってみれば分かりますよ、ただの水で全然ベタベタしないし......それに藤沢修のズボンもちゃんと履いてるじゃないですか!」藤沢修:「......」彼はその場で穴があったら入りたかった。見つからなければ、自分で掘るしかない。でも、スコップはどこにあるんだ?「ベタベタ」という言葉を耳にした瞬間、夫妻はさらに猛ダッシュで逃げ出した。まるで災難から逃げるかのように。若子が必死に追いかけようとしたとき、修が呼び止めた。「若子」若子は足を止めて振り返った。「何?」「もう追うなよ。どう思われてもいい」若子は眉をひそめ、「でも、彼らは誤解しているわ。そんなことじゃないのに、あなたはなぜちゃんと説明しないの?」「説明すればするほど、余計におかしくなっていくって分からないのか?」「水」とか「ベタベタ」とか「ズボン」とか......彼女が言った言葉は、全部が全部、妙に際どい表現ばかりだった。普通の言葉でさえ、もう普通には聞こえなくなっている。「私......」若子は自分が言ったことを思い返し、藤沢夫妻の表情を思い浮かべると、顔が硬直していくのを感じた。焦れば焦るほど、どんどん混乱していたのだ。若子は手に持っていた紙を藤沢修の胸に押しつけ、その手をスカートでぐいぐいと拭きながら、怒ったように彼を睨んだ。「全部、あなたのせいよ!」そんな彼女の小さな怒りに、修は思わず笑ってしまった。それは嘲笑でもなく、面白がっているわけでもない。ただ、なんだか嬉しかったのだ。二人がまだ夫婦で、関係が良かった頃でさえ、若子が
藤沢曜は気まずそうに手を引っ込め、少し離れたところに立っている松本若子を見て、無理に笑みを浮かべながら、伊藤光莉から少し距離を取った。若子が近づいてきて、「藤沢理事長、伊藤さん、いらっしゃいませ」と挨拶した。伊藤光莉は眉をひそめ、手にしていたお茶をテーブルに戻しながら、「何よその呼び方。たった数日会わなかっただけで、もう私たちのことを知らないみたいに」と口を開いた。若子は少し困ったように微笑んで、「私、修ともう離婚したので......」と返答した。「離婚」という言葉を聞いた二人は、互いに目を見合わせたが、特に驚いた様子はなく、すでに知っていたような表情だった。「その話はもうおばあちゃんから聞いたわ」と伊藤光莉は冷静に言った。「でも、離婚したからって、おばあちゃんを『おばあちゃん』と呼び続けるのに、私たちのことは急に『理事長』と『伊藤さん』って呼ぶの?なんだか不公平じゃない?」「え?私......」若子は思わず混乱してしまい、光莉が少し怒っているように見えたので、慌てて言い訳を始めた。「そんなつもりじゃなくて......ただ......」今まで親が子供に贔屓にする話はよく聞いたが、嫁がそんなふうに贔屓にされていると言われるのは初めてだった。「もう、光莉、脅かすのはやめてくれ」と藤沢曜は、若子が戸惑っているのを見て、助け舟を出した。「彼女は怒ってるんじゃないんだ。だから気にしないで......」「怒ってるわよ」と光莉はきっぱりと言い放った。「いつからあなたが私の言葉をねじ曲げて解釈していいなんてことになったの?そんなの、私が許可した覚えはないわ」藤沢曜は一瞬固まったような表情を浮かべ、困惑と気まずさが混じった顔になった。光莉は彼に一切容赦しない態度を取っていた。藤沢曜は、自尊心が傷つけられても、何も言わずに受け入れていた。今のこの苦い状況は、自分が招いた結果だと認めていたからだ。松本若子はその場に立ち尽くし、少しばかり気まずそうにしていた。どうせ藤沢曜は藤沢修の父親であり、SKグループの理事長で、複数の会社の実質的な支配者だ。外では誰も逆らえないほどの権威を持つ人物が、かつての妻の前ではこんなにも卑屈になるなんて、本当に皮肉な話だ。まさに「妻を捨てるのは簡単で、取り返しはつかない」という現実バージョンのドラ
「私は修と確かに別れました。今はここには住んでいません。今日は荷物をまとめに来たついでに、修の様子を見に来ただけです」と、松本若子は説明した。伊藤光莉は眉をひそめ、「そうなの?ついでに彼を見に来たって、それでついでにドアも閉めずに、二人きりでいちゃついてたの?」と皮肉を込めて言った。松本若子の顔が赤くなった。「お父さん、お母さん、見たままのことではないんです、私は......」「もう、言い訳はしないで」と、伊藤光莉は彼女の言葉を遮った。「どういう状況でも、あなたたちが仲良くしているのは事実よ。離婚したのに名残惜しいのなら、何で離婚なんてしたの?」「私......」伊藤光莉の言葉には鋭い攻撃性があり、松本若子はどう優しく対応すればいいのか分からなかった。「なんで黙ってるの?それとも、もっとスリルを求めてるのかしら。離婚したら自由の身だから、外で遊びながらも修とも遊べるって?」と、彼女の声はどこか陰湿で皮肉めいていた。松本若子の胸には不快感が湧き、彼女は微かに眉をひそめた。できるだけ冷静で礼儀正しくあろうと努めながら、「そんなつもりはありません。どうしてそんな風にお考えになるのか分かりませんが、私は自分の行動に誇りを持っています」と答えた。彼女の心には藤沢修というたった一人の男性しか存在しなかった。何もやましいことはないはずなのに、誤解されるのはとても辛かった。「まだそんなに偉そうに言えるのね」と、伊藤光莉は冷たい目で別の場所をちらりと見てから、無表情に戻り、「あなたのことを以前は少しまともだと思っていたけど、結局はそれほどでもなかったのね。離婚したのに、まだ息子に絡んで、真昼間にドアも閉めずにね。恥知らずだわ」と言い放った。松本若子の心はまるで崖から真っ逆さまに落ちるような感覚に襲われた。なぜ義母がこんなにも違って見えるのか。まるで別人のように、とても意地悪で、まるで典型的な「悪い姑」そのものだ。以前の伊藤光莉はそんな人ではなかったはずで、むしろ知的で穏やかな人だった。だが今日は全く別人のようだった。藤沢曜は口を開きかけたが、伊藤光莉の冷たい表情を見ると、言葉を飲み込んでしまった。まるで尻込みするようで、情けなく見えた。松本若子は深く息を吸い、心の中の感情を抑えようとした。もしかしたら、今日は伊藤
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声
若子の赤い唇がほんの少し開き、震えるような吐息が漏れる。 修の顔は彼女の首元にうずめられていて、その呼吸はどんどん熱を帯びていった。 そのとき、ふいに、耳元から微かに女の声が聞こえた。 「修......ヴィンセントさんの手術、終わったの......?」 修の体がピタリと止まる。情熱の最中に―別の男の名前を、若子の口から聞いた。 胸の奥が、ズキンと痛んだ。 彼は無意識に、彼女の目を覗き込む。若子はまだ目を閉じたまま、目覚めてはいない。夢の中か、半分眠ったままか―今、彼女は何もわかっていない。 それなのに、彼女の意識はあの男に向いていた。 眠っていても、彼のことを気にしている。 修は、自分がとんでもない男に思えた。 どうしてこんなときに、彼女の隙をつくような真似をしてしまったんだ? もう十分、若子は傷ついているのに。 それでも― 目の前で、何も身につけていない愛する人が横たわっている。どうして、どうして自分を抑えきれなかったのか。 修は苦しげに目を閉じる。熱い一滴が、頬を伝って、若子の肌に落ちた。 最後に、深く息を吐いて、彼はそっとシーツを引き上げた。ふたりの身体を隠すように、ゆっくりと。 そして、彼女を胸に抱きしめ、頬にキスを落とし、耳元で優しく囁いた。 「まだだよ......手術は終わってない。だから今は、安心して眠って。終わったらちゃんと教えるから」 若子の身体は限界だった。恐怖と疲労で、もう目を開ける力も残っていない。今の距離の近さにも、彼女は何も気づいていない。 修は彼女を抱いたまま、じっと見つめ続けた。 その夜、修が何度キスをしたか、自分でも覚えていない。 夜明けが近づく頃、彼は小さくため息をついて、彼女の耳元で呟いた。 「若子......もし時間を巻き戻せるなら、どれだけよかったか。 俺に雅子がいなくて、お前に遠藤がいなくて、ただふたりきりだったなら、それだけでよかったのに」 ...... 朝の光が、病室の窓から差し込んできた。柔らかな陽光が、若子の上に優しく降り注ぐ。 その光は空気の中で舞うように踊り、淡い花びらのように彼女の肌に触れる。 黒くなめらかな髪は白い枕に流れ落ち、眉は月のように穏やかに弧を描き、整った顔立ちをふんわりと引き立てていた。
修の服はすっかり濡れてしまっていた。 けれど彼はもう気にすることなく、自分の服もすべて脱ぎ捨て、若子と一緒にシャワーを浴びた。ふたりの身体は湯気の中で寄り添い、ただ静かに時間が流れていく。 洗い終えたあと、修はタオルで若子の髪と体を丁寧に拭き、そっと抱き上げて病室のベッドへ運んだ。柔らかなシーツをかけると、彼女を優しく包み込むように寝かせる。 ベッドに横たわる若子。夜の街灯が窓から差し込み、彼女の体を淡く照らしていた。まるで彫刻のように整った顔立ち。透き通るような肌は、まるで宝石のような光を放っていて、一本一本際立った睫毛、そしてほんのり上向いた赤い唇― あまりにも美しくて、息を呑んだ。 部屋は静かで、ほんのり暖かい光に包まれていた。まるで幻想の中にいるようだった。 修の目には、愛しさと切なさが溢れていた。まるで星のように輝くその瞳は、彼女だけを映していた。 その眼差しは、心と心をつなぐ橋だった。 ―どれだけ、彼女に会いたかったか。 どれだけ、彼女を想い、苦しんできたか。 修の目は、彼女から一瞬たりとも離せなかった。呼吸ひとつさえ、彼女の存在を感じるためにあるような気がしていた。 こんな風に、ただ見つめ合うことが―どれだけ久しぶりだっただろう。 彼女のすべてが愛おしい。顔も、身体も、心も。たとえ、どれだけ傷つけられたとしても、それでも彼女を愛してしまう。 眠る彼女の顔を見ていると、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。あたたかくて、幸せで、でも同時に―絶望的な痛みも伴っていた。 自分の想いは、もう届かないのかもしれない。 彼女の世界に、自分はもう居場所がないのかもしれない。 若子は―もう俺を、必要としていない。 その現実に、修はただ静かに彼女を見つめ続けた。 それでも。たとえ彼女に拒まれたとしても。 彼女の幸せを守れるなら、命だって惜しくない。 「若子......俺に、守らせてくれないか?お前の人生の中に、俺をいさせてくれないか?夫じゃなくてもいいんだ」 ―その瞳に、狂気のような光が宿っていく。 修は立ち上がり、病室の扉へ向かうと、鍵をガチリと閉めた。 再びベッドに戻ると、彼女を包んでいたシーツを、ゆっくりと、まるで宝物を扱うようにめくっていく。 その瞬間、彼女の姿がすべ
「修......頭がクラクラする......眠い......」 若子の声はかすれ、まるで力が抜けるようだった。 修の瞳に、やるせない悲しみが浮かぶ。彼女の疲労は、身体だけじゃない。心のほうが、もっと限界だった。 「大丈夫。眠っていいよ。あとは、俺に任せて」 修はそっと若子の頬を撫で、囁いた。 「修......彼を、死なせないで、お願い、彼は私の命の恩人なの......彼がいなかったら、私はもう......あの男たちに捕まって、ひどいことされて......彼は危険を顧みずに私を助けてくれて......銃まで......だから、お願い、お願い、生かして」 若子の目に涙が浮かび、その声は今にも消え入りそうだった。 「わかった、約束する。俺が必ず、彼を救ってみせる」 修は彼女をぎゅっと抱きしめ、その耳元で誓うように囁いた。 若子は少しだけ安心したように目を閉じる。 修は小さく息をつき、彼女の額に優しくキスを落とした。 「若子......お前をどうすればいいんだ」 他の男のことで傷ついて、泣いて、苦しんでいる彼女。それを慰めて、守ることを約束しなきゃいけないなんて― 修は自分にその資格がないことなんて、とうにわかっていた。離婚を言い出したのは、他でもない自分だ。彼女を傷つけたのも自分。 だから、若子が別の男の胸に飛び込んだって、文句なんて言える立場じゃない。それでも、胸が張り裂けそうだった。 彼女は、間違いなくあの頃のままの若子で、今、修の腕の中にいる。 そんな彼女を―どうして手放せるだろうか。 修の親指が、彼女のやわらかな口元をそっとなぞる。そして、思わず顔を近づけ、その唇にキスを落とした。 ......どれだけ、このキスを待ち望んでいたか。 キスをするとき、愛する相手がいるなら、目を閉じるものだという。けれど今の修は、目を閉じられなかった。 だって、見ていたかった。もっと、ずっと―彼女を。 ほんの一瞬でも目を閉じてしまったら、次に開けたとき、彼女がもうどこにもいない気がして、怖かった。 何度も唇を重ね、名残惜しそうに離れられずにいた。 この時間がずっと続けばいいのに。 以前、侑子にキスしたときは、目を閉じて若子の面影を思い描いていた。でも、違った。あの人は若子じゃない。 ―
若子の姿は血まみれだった。 自分の血じゃない、それでも―あまりにも生々しくて、見ているだけで胸がえぐられそうだった。 修はすぐに若子をひょいと抱き上げた。 「ちょっ......なにしてるの!?私はここにいる、彼を待たなきゃ」 「若子、手術はまだまだかかる。だから、まず体を洗って、着替えて、きれいになって......それから待とう。もし彼が無事に目を覚ましたとき、君が血まみれのままだったら、きっと心配するよ?」 若子は唇を噛みしめて、小さく頷いた。 「......うん」 修は若子をVIP病室へと連れて行った。ちょうど空いていた部屋で、すぐに清潔な服を持ってこさせた。まだ届いていなかったけれど― 若子はずっと泣き続けていた。 修は洗面台の前で、そっと後ろから若子を抱きしめるように支え、水を出しながらタオルを濡らして、彼女の手や顔を丁寧に拭っていく。 「いい子だから、じっとしてて。血、すぐ落ちるから」 「修......あんなに血が......彼の血、全部流れちゃったんじゃないの......?」 まるで迷子の子どものように、若子は震えていた。 「医者が輸血するさ。絶対に助けてくれる。若子、手を広げて、もうちょっと拭くから」 彼女の体からは生々しい血の匂いが漂っていて、魂まで抜けたように虚ろだった。 修はタオルで彼女の手、腕、顔を優しく拭い、そしてふと、手を伸ばして彼女のシャツのボタンに指をかけた―その瞬間、 「なにしてるの!?」 若子が慌ててその手を掴んだ。目には警戒と不安の色。 修は一瞬、固まった。そして......思い出した。 ―自分たちは、もう夫婦じゃない。 ただの錯覚だった。かつての関係に、心が勝手に戻ってしまっていた。 もう彼女に触れる資格なんて、ないのに。 それでも、腰にまわした腕は......なかなか離せなかった。 しばらく見つめ合ったあと、若子は静かにタオルを取り、赤く染まったそれを見つめた。 「......自分でやるから。もう出て行って」 修は小さく息を吐き、名残惜しそうに腕を離した。 「......わかった。外で待ってる。何かあったら呼んで」 若子はこくんと頷く。 修は浴室を出て、ドアをそっと閉めた。 鏡の前で水を浴びた若子は、腫れ上がった