今日はノラの退院日だった。朝早くから若子は彼のために退院手続きを済ませ、あれこれと世話を焼いていた。若子はノラを病院の出口まで送り届けた。彼は退院したばかりではあったが、これからも療養が必要で、誰かの付き添いが欠かせなかった。若子は介護士の費用をすべて支払い、ノラが回復するまで引き続き世話をするように手配していた。病院の前には、若子が手配した車が待っていた。彼女はノラの車椅子から手を離し、彼の正面に回り込むと微笑んで言った。 「ノラ、とりあえず小晴が一緒に帰ってくれるからね。しっかり面倒を見てくれるから、何も心配しなくていいよ」「お姉さん、ありがとうございます。絶対にこのお金は返しますから!」「今はそれより、体を治すことが一番大事よ。お金のことは気にしないで」「ありがとうございます、お姉さん。本当に優しいですね......」 ノラの目には涙が浮かんでおり、今にも泣き出しそうだった。若子は苦笑いを浮かべながら彼の頭を軽く撫でて言った。 「泣いちゃだめよ、泣いたら怒るからね。ほら、ちゃんと頑張るのよ」ノラは力強くうなずきながら言った。 「うん、分かりました!お姉さん、僕、頑張ります。絶対にお金を稼いで、お姉さんに大きな家を買ってあげます。それも、僕が直接お世話しますよ!服を着せたり、水を運んだり、ベッドを整えたり......」「もういいから!」若子は彼の話を遮った。「どんどん話が飛躍してるじゃないの」「そんなことありませんよ!本気で言ってます!」ノラは真剣な顔で言った。 「僕、お姉さんのために大きな素敵な家を用意しますからね」若子はあきれながらも優しく微笑み、言った。 「分かったわ。その大きな家を楽しみにしてる。でも、まずはちゃんと体を治すことが大事よ。元気でいないと、何も始まらないから」「はい!お姉さんの言うこと、全部聞きます!」 ノラは大きくうなずいた。ノラを見送ったあと、若子は病院の中に戻っていった。車の中で、小晴が我慢できずに尋ねた。 「ねえ、前に話してくれたお姉さんって、あの人ですか?」「そうですよ」 ノラはうなずいた。小晴は何かに気づいたようだった。「もしかして、好きなんですか?お姉さんのこと」 それは明らかに血の繋がった姉弟ではないと察しての質問だった。ノラは唇に人差し指を立て、声をひ
「ちょっと驚かされただけでそんなに怯えるなんて、もし誰かが本気で殺しに来たら、死ぬほど怖がるんじゃないですか?」ノラは興味津々な目つきで小晴を見つめた。誰かが彼女を殺そうとしたとき、この女性がどんな反応をするのか―その死への恐怖が彼女の顔に浮かぶ瞬間を、ノラは面白がって見たいと思っていた。「あなたって本当に言うことが怖すぎますよ!死ぬとか何とか、そんな話しないでください。それに、確かにあなたは雇い主だけど、これ以上私を怖がらせるなら、もう面倒を見るのやめます。他を当たってください!」小晴は本気で怒ったようだった。「分かりました、もうからかわないですよ。だって、君は僕より年上の年長者ですし」ノラがふざけたように言うと、小晴の顔が引きつった。 「誰がですか!私、まだ22歳なんですよ。あなたより4つ上なだけでしょ?それなら私を『お姉さん』って呼ぶべきですよ」すると、ノラの眉がピクリと動き、表情が一変した。冷たい目で彼女をじっと見つめると、その視線だけで小晴の心臓がドキリと鳴り、言葉を失った。冷ややかなその眼差しは、まるで彼女の呼吸を塞ぐように、部屋の空気を一気に重くした。「怖がりなんですね」 ノラは指を小晴に向け、ニヤリと笑った。 「そんなに怖がりで、よく僕のお姉さんを気取れますね」小晴は口をとがらせて言った。 「別に怖がってませんよ。ただ......」一瞬言葉に詰まり、考え込むような仕草をしたあとで彼女は言った。 「あなたがどうしても『お姉さん』って呼びたくないなら、無理に呼ばなくていいですけどね」そうは言ったものの、内心ではノラに「お姉さん」と呼ばれたい気持ちもあった。彼が若子を「お姉さん」と呼ぶときの甘えたような声が可愛らしくて、どこか特別な響きがあったからだ。でも、ノラが彼女に見せる態度はまるで別人のようだ。―もしかして、この子......病んでる?......若子は西也の病室へ向かう途中、廊下で修と鉢合わせた。足を止めた若子の目に、一週間ぶりに修の姿が映る。一週間、修の姿を見なかったことに対して、若子は奇妙な感覚を覚えた。それは恋しさではなく、何かに慣れていたものが突然消え、そしてまた現れたときのような、不思議な違和感だった。その感覚は、どこか「知らないけれど知っている」ものに似ていた。「今日、
若子はふと我に返り、現実に引き戻された。「なんでもないよ。すぐ戻るから」そう言って振り返り、病室へと向かった。 修はそんな彼女の背中をじっと見送った。病室に戻ると、若子は西也に事情を説明した。自分がこれから結婚式に参加しなければならないことを。しかし、修と一緒に行くことまでは伝えなかった。西也の今の状態を考えると、修の名前を出せば、彼に余計な刺激を与えてしまうのは目に見えていた。自分の記憶が間違っていると知ったら、西也はどうなるかわからない。「西也、なるべく早く帰ってくるから、その間はちゃんと休んでてね。何かあったら電話して」「大丈夫だよ、若子。自分のことを優先してくれるのを見るのも、嬉しいから」若子は彼の掛け布団を直しながら笑顔で言った。 「それじゃ、行ってくるね。帰ったら飴あげるから」西也は思わず吹き出した。 「ねえ、俺のこと子ども扱いしてない?」「うん、完全に子ども扱いしてる。だから、早く大人になってね」若子が軽く冗談を飛ばすと、西也も一緒に笑った。「よし、俺絶対に早く大人になるよ。それで、本当の夫になってみせる」その言葉を聞いて、若子の笑顔は一瞬固まった。しばらくしてから、彼女は小さく微笑み直し、言った。 「じゃ、行ってくるね」若子が病室を出たあと、西也の笑顔も次第に消えていった。眉間に少し皺を寄せ、暗い目をして何かを考え込む。―どうしてだろう。俺がちょっと親密なことを言うと、いつも避けられてる気がする。若子が避けているのは、言葉ではなく、その行動や目線だった。それは、まるで二人が親密になることを拒んでいるかのようだった。―俺たち夫婦だろ?キスやハグ、同じベッドで寝るなんて普通のことじゃないか。それなのに、どうして若子はこんなふうに距離を置くんだ?特にあの日、彼女にキスしたとき、若子の目が明らかに動揺していたのを覚えている。―最初は気にならなかったけど、回数が増えるにつれて、何かがおかしいと感じるようになった。でも、それが何なのか、まだわからない。......若子は修のところへ戻った。「行きましょうか」修は体を起こし、立ち上がった。 「遠藤にはちゃんと言った?」若子は軽くうなずいた。 「ええ、ちゃんと言ったわ」「俺たちが一緒に行くって話もした?」若子は淡々と答えた
修は軽くうなずきながら言った。 「いいよ。確かにその服、似合ってる。お前は何を着ても似合うからな」本当は、「何も着ない方がもっと似合う」と言いたかったが、それは彼の前でだけ許される特権だった。しかし、今ではその機会すら失ってしまった。以前は当たり前にできたこと、彼女との時間、その全てが、今では夢の中でしか味わえないものになってしまった。修の頭に、不意に西也の姿がよぎる。あの男も、若子の全てを目にしているのだろうか―そんな考えが彼の胸に炎を灯した。若子は、修の瞳に一瞬浮かんだその炎に気づき、首をかしげて尋ねた。 「どうしたの?何か問題でもある?」修は軽く首を振った。 「いや、なんでもない。行こう」彼はエレベーターのボタンを押した。ほどなくしてドアが開き、二人は中に入った。その頃、廊下の向こう側では、花が急いでエレベーターのボタンを連打していた。だが、すでに遅く、エレベーターは下の階へと動き出してしまった。彼女の視線の先には、若子と修が一緒にエレベーターに乗り込む姿が見えていた。二人がどこかへ向かうようだった。花は焦った。このまま修が若子に何かしてしまうのではないかと心配になり、急いで携帯を取り出して若子に電話をかけた。エレベーターを降りた若子は、すぐに電話に出た。 「もしもし?」「若子、今どこにいるの?」「ちょっと出かけてるの」「そうなんだ。どこに行くの?」「友達の結婚式に出席するのよ」「どんな友達?」「おばあさんの知り合いの人の結婚式。そっちのつながりね」「ああ、そういうことね。それで、今一人なの?」「うん。一人で行ってるから心配しないで。すぐ戻るから」若子は修と一緒だということを一切言わなかった。ただの結婚式だし、帰ってきたら何もなかったかのように振る舞えばいい、と考えていた。修の名前を出せば、西也に余計な刺激を与えてしまう。さらに、周りの人たちを心配させるだけだからだ。しかし、若子にとっては、おばあさんのためにどうしても修と行かなければならない理由があった。「分かった。じゃあ気をつけてね」「ありがとう。もし西也に何かあったら、すぐ連絡して」「分かった。じゃあ、またね」そう言って電話が切れた。花はしばらく画面を見つめ、首をかしげた。―一人で行く?でも、さっき修と一緒にエ
花の目に一瞬、憂いの色が浮かんだ。―どうしよう?お兄ちゃんと若子は従兄妹の関係なのに、今のお兄ちゃんは記憶を失っていて、若子のことを本当の妻だと思い込んでいる。そして、お兄ちゃんは若子を深く愛している。もし真実が明らかになったら、お兄ちゃんはどうなってしまうんだろう......「俺も若子と一緒に結婚式に行けたらよかったのに......それどころか、若子がおばあさんに会いに行くのにさえ付き添えない。こんな夫、本当に情けないよ」西也は深いため息をつきながら言った。 花は彼を励ますように言った。 「お兄ちゃん、そんなこと言わないで。元気になったら、全部解決するから!」「そうだよね......でも、俺、記憶が戻らないままかもしれない」 西也はうなだれて、視線を落とした。 「今、若子はどこまで行ったのかな。どんな結婚式なんだろう。俺も一緒に行けたらよかったのに。一人で寂しくしてないかな......もし、他の人に『旦那さんはどこにいるんですか』なんて聞かれたら、どう答えるんだろう?本当に、俺がそばにいてあげたいよ」彼は静かに息を吐き出し、顔を花に向けて言った。 「来てくれてありがとう。でも、少し一人にしてもらえるかな?」花は小さくうなずいた。 「もちろん。じゃあ、私はこれで。お兄ちゃん、無理しないでね」西也は軽く「うん」と答えた。 「ありがとう。忙しいのにごめんね」花は病院を出て、地下駐車場に向かった。車に乗り込もうとしたそのとき、エレベーターのドアが開き、そこから修と若子が出てくるのが見えた。―あれ?もうとっくに出発したと思ってたのに......花は咄嗟にその場に身を隠し、様子をうかがった。二人の距離はどんどん近づき、会話がはっきりと聞こえる位置にまで来た。「若子、もし体調が悪いなら無理しなくていいんだぞ」「大丈夫よ、体調は悪くないから行けるわ」「本当か?」修の目にはまだ疑念が浮かんでいる。若子は少しイラついたように言った。 「さっき洗面所に行っただけじゃない。洗面所に行っただけで体調が悪いって言われたら、この世の全員が病人ってことになるわね」「でも、俺が近づこうとすると止めただろ」 修は納得がいかない様子で食い下がった。「私が行ったのは女子トイレよ。男のあなたが近づいたら、それこそおかしいでしょ?そんなこと
お前と寝たい。 修の心の中でその言葉が何度も浮かぶ。修は淡い笑みを浮かべて言った。 「なんでもない。ただ、君がそんなふうに笑うのを久しぶりに見たなって思って。すごく綺麗だ」お前と寝たい。「じゃあ、私が笑わなかったらブサイクってこと?」若子は真顔で修を見つめた。修は慌てたように首を振った。 「そんな意味じゃないよ、絶対に」笑ってなくても、寝たい。修の心には熱い炎が燃え盛っていたが、顔にはどこか焦りの色が浮かんでいた。「若子......俺が言いたいのは......」「分かった、分かった」 若子は軽く笑って言った。 「冗談よ、からかっただけ」彼女自身もどうしてか分からないが、今日は修に少し意地悪をしたくなった。普段から真面目で冷静な彼が慌てる姿を見るのが新鮮で、思わず面白く感じてしまったのだ。しかも、彼をどう慌てさせるか、なんとなく分かってしまう気がしていた。修は彼女の言葉を聞いて、少し困ったように言った。 「若子、からかうなんてひどい」「いつも私のこと散々いじめてたじゃない。それをちょっとやり返しただけよ」若子のこの言葉はあくまで冗談のつもりだった。だが、修の表情が微かに変わったのを見て、彼女は気づいた。この男には、冗談として流せないこともあるのだと。彼が何でも真に受けてしまうことが、分かりきっていたのに。修は目を伏せ、静かに言った。 「......ごめん」若子は彼の反応に少し戸惑いながらも、すぐに表情を柔らげた。 「さっきのは本当に冗談よ。昔のことなんてどうでもいい。もし気にしてるなら、今こうして一緒にいるわけないでしょ」修は少し寂しそうに彼女を見つめながら、小さな声で言った。 「でも、もう俺のこと、好きじゃないんだよね?」若子は言葉を失い、じっと修を見つめた。 かつて彼女はこの男に対して、たくさんの勘違いを抱いていた。だが今では、彼が彼女に対して間違った期待を持つことのほうが怖かった。―また誤解をさせてしまう。彼に「まだ可能性がある」と思わせてしまう。若子はそんな状況だけは避けたかった。彼の期待を無駄にしないためにも、そして自分を守るためにも。彼女は小さくうなずいた。「そうよ。ずっと知りたかった答えでしょ?はっきり言うわね、修。私はもう、あなたのことを愛してない」―私たちの間に、もう誤解
その後、若子は修がどこに行ったのか分からず、会場内を一通り探したが見つけられなかった。電話をかけても出ない。彼女の胸には次第に不安が広がっていった。ちょうどその時、祖母の友人が彼女を呼び止めた。「若子」若子は振り返り、軽くお辞儀をしながら答えた。 「茅野さん、こんにちは。何かご用ですか?」「ええ、少しお願いがあるのよ」茅野は微笑みながら言った。 「あなたと修、とっても幸せそうに見えるから、ぜひうちの孫娘とその婿さんに、祝福の言葉を何か一言いただけないかしら?」「祝福の言葉、ですか?」若子は困ったように笑った。「でも、私、何を言えばいいのか分からなくて......」「大丈夫よ、簡単でいいの。ほんの少しで構わないから、お願いできる?」「それは......」ほんの小さなお願いだったが、若子はすぐに断るのも気が引けた。ただ、問題は修がどこにいるか分からないことだった。「茅野さん、実は修が今......」「大丈夫です」 突然、背後から男性の声がした。振り返ると、修がいつの間にか戻ってきていた。若子は彼を見て少し驚いた。よく見ると、彼の目は赤く充血し、全身にアルコールの匂いが漂っていた。「どこに行ってたの?」若子は思わず問いかけた。「トイレだよ」修はそっけなくそう答えたが、明らかに嘘だった。若子はそれ以上追及しなかったが、彼がトイレではなく酒を飲んでいたことは分かっていた。―本当にこの人は。胃が弱いくせに、なんでまた飲むのよ......彼女は心の中でため息をついたが、口には出さなかった。今の自分はもう彼の妻ではない。下手に心配して口出しすれば、彼に誤解を与えるだけだったからだ。突然、修が若子の腰を強引に引き寄せ、彼女を抱きしめた。 「俺たち夫婦で、ちゃんと祝福の言葉を言わせてもらいます」若子は驚いて彼を見上げた。彼の行動はあまりにも自然で、冷静だったため、無理に振りほどくこともできなかった。ただ、仕方なく微笑みを浮かべて彼に合わせた。「そうです」修が戻ってきた以上、もう断る理由はなかった。彼女たちは今日ここに祖母のために来ているのだから、きちんと役目を果たさなければならない。茅野のお願いを引き受けると、司会者に紹介され、若子と修はステージに上がった。舞台上では新郎新婦が手を取り合い、二人の登場を待っ
修の冷ややかな声が、会場の隅々にまで響き渡った。 「愛だけじゃ足りない。たった一つの『愚かさ』で、全てを壊してしまうことだってある。たとえ天が結びつけた完璧なカップルでもな」彼の言葉が終わると、会場は一瞬で凍りついたように静まり返った。全員の視線が修に集中する。新郎新婦も目を見開き、修をじっと見つめていた。若子は眉をわずかにひそめ、修を横目でちらりと見ると、嫌な予感が胸をよぎった。彼女はそっと修の袖を引っ張り、やめるよう促す視線を送った。その時、司会者がなんとか場を取り繕おうと笑顔で口を開いた。 「藤沢総裁がおっしゃりたいのは、結婚というものは長く続く複雑なものだから、辛抱強さや寛容さが必要だということですよね。でも、新郎新婦が力を合わせれば、どんな困難も乗り越えられるはずです。先ほど藤沢夫人がおっしゃったように―」「違う」 修が司会者の言葉を遮り、冷たく言い放った。 「辛抱や寛容なんて、ただの自己満足でしかないこともある。相手が本当に必要としているのは、それじゃないかもしれない」司会者の笑顔が一瞬で凍りついた。 「そ、そうですよね、藤沢総裁のおっしゃる通りです。大事なのは夫婦間のコミュニケーション、ということですね。それはとても重要なアドバイスで―」「お前」 修は突然、新郎の目の前に立ちはだかり、冷たい視線を投げかけた。 「お前、自分の心を本当に理解してるのか?自分が何を望んでいるのか、本当に分かっているのか?もし結婚して彼女を手に入れた後で、自惚れて愚かなことをして、彼女を泣かせて傷つけることになったら、その時お前はどうするつもりだ?」修の鋭い視線に新郎は一瞬たじろぎ、緊張した表情で言葉を失った。しばらくの間、何も言えずにいた。「どうして黙ってる?お前、何かやましいことでもあるのか?」 修が鋭く問い詰める。まるで新郎が新婦に何か隠しているとでも思っているかのような様子だった。周りの人々も、修と新郎の間に何か因縁があるのではないかと疑い始めた。新婦は完全に困惑し、どうしていいか分からない顔をしていた。若子は慌てて修の袖を引っ張り、小声で言った。 「修、やめて......」「僕は彼女を愛します!」 新郎はようやく声を絞り出し、慌てて言った。 「妻を絶対に傷つけたりしません。僕は約束します!」修は突然笑い出した。
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声
若子の赤い唇がほんの少し開き、震えるような吐息が漏れる。 修の顔は彼女の首元にうずめられていて、その呼吸はどんどん熱を帯びていった。 そのとき、ふいに、耳元から微かに女の声が聞こえた。 「修......ヴィンセントさんの手術、終わったの......?」 修の体がピタリと止まる。情熱の最中に―別の男の名前を、若子の口から聞いた。 胸の奥が、ズキンと痛んだ。 彼は無意識に、彼女の目を覗き込む。若子はまだ目を閉じたまま、目覚めてはいない。夢の中か、半分眠ったままか―今、彼女は何もわかっていない。 それなのに、彼女の意識はあの男に向いていた。 眠っていても、彼のことを気にしている。 修は、自分がとんでもない男に思えた。 どうしてこんなときに、彼女の隙をつくような真似をしてしまったんだ? もう十分、若子は傷ついているのに。 それでも― 目の前で、何も身につけていない愛する人が横たわっている。どうして、どうして自分を抑えきれなかったのか。 修は苦しげに目を閉じる。熱い一滴が、頬を伝って、若子の肌に落ちた。 最後に、深く息を吐いて、彼はそっとシーツを引き上げた。ふたりの身体を隠すように、ゆっくりと。 そして、彼女を胸に抱きしめ、頬にキスを落とし、耳元で優しく囁いた。 「まだだよ......手術は終わってない。だから今は、安心して眠って。終わったらちゃんと教えるから」 若子の身体は限界だった。恐怖と疲労で、もう目を開ける力も残っていない。今の距離の近さにも、彼女は何も気づいていない。 修は彼女を抱いたまま、じっと見つめ続けた。 その夜、修が何度キスをしたか、自分でも覚えていない。 夜明けが近づく頃、彼は小さくため息をついて、彼女の耳元で呟いた。 「若子......もし時間を巻き戻せるなら、どれだけよかったか。 俺に雅子がいなくて、お前に遠藤がいなくて、ただふたりきりだったなら、それだけでよかったのに」 ...... 朝の光が、病室の窓から差し込んできた。柔らかな陽光が、若子の上に優しく降り注ぐ。 その光は空気の中で舞うように踊り、淡い花びらのように彼女の肌に触れる。 黒くなめらかな髪は白い枕に流れ落ち、眉は月のように穏やかに弧を描き、整った顔立ちをふんわりと引き立てていた。
修の服はすっかり濡れてしまっていた。 けれど彼はもう気にすることなく、自分の服もすべて脱ぎ捨て、若子と一緒にシャワーを浴びた。ふたりの身体は湯気の中で寄り添い、ただ静かに時間が流れていく。 洗い終えたあと、修はタオルで若子の髪と体を丁寧に拭き、そっと抱き上げて病室のベッドへ運んだ。柔らかなシーツをかけると、彼女を優しく包み込むように寝かせる。 ベッドに横たわる若子。夜の街灯が窓から差し込み、彼女の体を淡く照らしていた。まるで彫刻のように整った顔立ち。透き通るような肌は、まるで宝石のような光を放っていて、一本一本際立った睫毛、そしてほんのり上向いた赤い唇― あまりにも美しくて、息を呑んだ。 部屋は静かで、ほんのり暖かい光に包まれていた。まるで幻想の中にいるようだった。 修の目には、愛しさと切なさが溢れていた。まるで星のように輝くその瞳は、彼女だけを映していた。 その眼差しは、心と心をつなぐ橋だった。 ―どれだけ、彼女に会いたかったか。 どれだけ、彼女を想い、苦しんできたか。 修の目は、彼女から一瞬たりとも離せなかった。呼吸ひとつさえ、彼女の存在を感じるためにあるような気がしていた。 こんな風に、ただ見つめ合うことが―どれだけ久しぶりだっただろう。 彼女のすべてが愛おしい。顔も、身体も、心も。たとえ、どれだけ傷つけられたとしても、それでも彼女を愛してしまう。 眠る彼女の顔を見ていると、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。あたたかくて、幸せで、でも同時に―絶望的な痛みも伴っていた。 自分の想いは、もう届かないのかもしれない。 彼女の世界に、自分はもう居場所がないのかもしれない。 若子は―もう俺を、必要としていない。 その現実に、修はただ静かに彼女を見つめ続けた。 それでも。たとえ彼女に拒まれたとしても。 彼女の幸せを守れるなら、命だって惜しくない。 「若子......俺に、守らせてくれないか?お前の人生の中に、俺をいさせてくれないか?夫じゃなくてもいいんだ」 ―その瞳に、狂気のような光が宿っていく。 修は立ち上がり、病室の扉へ向かうと、鍵をガチリと閉めた。 再びベッドに戻ると、彼女を包んでいたシーツを、ゆっくりと、まるで宝物を扱うようにめくっていく。 その瞬間、彼女の姿がすべ
「修......頭がクラクラする......眠い......」 若子の声はかすれ、まるで力が抜けるようだった。 修の瞳に、やるせない悲しみが浮かぶ。彼女の疲労は、身体だけじゃない。心のほうが、もっと限界だった。 「大丈夫。眠っていいよ。あとは、俺に任せて」 修はそっと若子の頬を撫で、囁いた。 「修......彼を、死なせないで、お願い、彼は私の命の恩人なの......彼がいなかったら、私はもう......あの男たちに捕まって、ひどいことされて......彼は危険を顧みずに私を助けてくれて......銃まで......だから、お願い、お願い、生かして」 若子の目に涙が浮かび、その声は今にも消え入りそうだった。 「わかった、約束する。俺が必ず、彼を救ってみせる」 修は彼女をぎゅっと抱きしめ、その耳元で誓うように囁いた。 若子は少しだけ安心したように目を閉じる。 修は小さく息をつき、彼女の額に優しくキスを落とした。 「若子......お前をどうすればいいんだ」 他の男のことで傷ついて、泣いて、苦しんでいる彼女。それを慰めて、守ることを約束しなきゃいけないなんて― 修は自分にその資格がないことなんて、とうにわかっていた。離婚を言い出したのは、他でもない自分だ。彼女を傷つけたのも自分。 だから、若子が別の男の胸に飛び込んだって、文句なんて言える立場じゃない。それでも、胸が張り裂けそうだった。 彼女は、間違いなくあの頃のままの若子で、今、修の腕の中にいる。 そんな彼女を―どうして手放せるだろうか。 修の親指が、彼女のやわらかな口元をそっとなぞる。そして、思わず顔を近づけ、その唇にキスを落とした。 ......どれだけ、このキスを待ち望んでいたか。 キスをするとき、愛する相手がいるなら、目を閉じるものだという。けれど今の修は、目を閉じられなかった。 だって、見ていたかった。もっと、ずっと―彼女を。 ほんの一瞬でも目を閉じてしまったら、次に開けたとき、彼女がもうどこにもいない気がして、怖かった。 何度も唇を重ね、名残惜しそうに離れられずにいた。 この時間がずっと続けばいいのに。 以前、侑子にキスしたときは、目を閉じて若子の面影を思い描いていた。でも、違った。あの人は若子じゃない。 ―
若子の姿は血まみれだった。 自分の血じゃない、それでも―あまりにも生々しくて、見ているだけで胸がえぐられそうだった。 修はすぐに若子をひょいと抱き上げた。 「ちょっ......なにしてるの!?私はここにいる、彼を待たなきゃ」 「若子、手術はまだまだかかる。だから、まず体を洗って、着替えて、きれいになって......それから待とう。もし彼が無事に目を覚ましたとき、君が血まみれのままだったら、きっと心配するよ?」 若子は唇を噛みしめて、小さく頷いた。 「......うん」 修は若子をVIP病室へと連れて行った。ちょうど空いていた部屋で、すぐに清潔な服を持ってこさせた。まだ届いていなかったけれど― 若子はずっと泣き続けていた。 修は洗面台の前で、そっと後ろから若子を抱きしめるように支え、水を出しながらタオルを濡らして、彼女の手や顔を丁寧に拭っていく。 「いい子だから、じっとしてて。血、すぐ落ちるから」 「修......あんなに血が......彼の血、全部流れちゃったんじゃないの......?」 まるで迷子の子どものように、若子は震えていた。 「医者が輸血するさ。絶対に助けてくれる。若子、手を広げて、もうちょっと拭くから」 彼女の体からは生々しい血の匂いが漂っていて、魂まで抜けたように虚ろだった。 修はタオルで彼女の手、腕、顔を優しく拭い、そしてふと、手を伸ばして彼女のシャツのボタンに指をかけた―その瞬間、 「なにしてるの!?」 若子が慌ててその手を掴んだ。目には警戒と不安の色。 修は一瞬、固まった。そして......思い出した。 ―自分たちは、もう夫婦じゃない。 ただの錯覚だった。かつての関係に、心が勝手に戻ってしまっていた。 もう彼女に触れる資格なんて、ないのに。 それでも、腰にまわした腕は......なかなか離せなかった。 しばらく見つめ合ったあと、若子は静かにタオルを取り、赤く染まったそれを見つめた。 「......自分でやるから。もう出て行って」 修は小さく息を吐き、名残惜しそうに腕を離した。 「......わかった。外で待ってる。何かあったら呼んで」 若子はこくんと頷く。 修は浴室を出て、ドアをそっと閉めた。 鏡の前で水を浴びた若子は、腫れ上がった