雅子は泣き続けていたが、突然息苦しさを覚えた。胸を押さえ、呼吸が乱れる。 修はすぐにかがみ込み、彼女を床から抱き起こしてベッドに座らせた。慌てて枕元の緊急ボタンを押す。 医療スタッフがすぐに駆けつけ、雅子の体を診察した。医師は修に向かって説明した。 「彼女は心臓移植手術を受けていて、病み上がりの状態です。安静が必要で、特に感情の激しい起伏は心臓に大きな負担をかけますので、絶対に避けてください」 医療スタッフが去ると、白いウェディングドレスを着た雅子がベッドに横たわっていた。修はそっと彼女のそばに歩み寄る。 彼は彼女の手を取らず、代わりにため息混じりに言った。 「雅子、こんなことして何になる?俺は約束を守れないどうしようもない男だ。お前が時間を無駄にする価値なんてないよ。この世界には、もっとお前を愛してくれる男がたくさんいる。お前にはもっといい人がいるんだ」 「よくそんな軽々しく言えるわね」雅子は冷たく笑った。「じゃあ、修はどうなの?どうして松本を愛して、私を愛せないの?それとも他の誰かを選べばいいじゃない」 修はしばらく黙り込んだまま、何も言わなかった。 「修、あんたって本当に残酷だわ」雅子は泣きながら言った。「このウェディングドレスを着たとき、どれだけ嬉しかったか分かる?私は自分の尊厳を捨てて、心を差し出してまであなたに尽くしたのに。結果はこれよ。こんなふうに私を侮辱するなんて。それにこのドレスだって、あんたが送ってくれたものじゃない!」 修は静かにため息をつく。「あのとき、お前は重病で、適合する心臓を見つけるのも大変だった。だから......」 「だからって、結婚するなんて約束をしたのね?それで今になってその約束を反故にするの?それなら、こんな心臓なんていらなかった!」 「雅子」修は眉をひそめる。「でもこうやってお前が生きている。それで良いじゃないか。普通に生活できるんだから、それで十分だろう」 「良くないわ。全然良くない。あなたがそばにいないなら、何の意味もないのよ」 「こんなことをしてまで、俺に執着する意味があるのか?お前、本当に俺じゃなきゃダメなのか?」 修には、女性のこうした執着が理解できないこともあった。しかし、ふと、自分も似たような執着を抱えていることに気づく。それは若子への想いだ。 彼
修は微かに目を伏せ、小さく「うん」とだけ答えた。「俺はお前に後ろめたさを感じてる。でも......愛してはいない」 その瞬間、雅子はバサッと布団を跳ね飛ばし、ベッドから飛び降りて窓のほうに駆け出した。 修はその動きを見て、慌てて雅子の後を追い、叫んだ。「雅子!」 彼は矢のように素早く雅子のそばに駆け寄り、その腕を掴んだ。 しかし、雅子は強引に前へ進もうとする。「放して!放してよ!」 「雅子、そんなことするな!」修は必死で彼女を引き戻そうとした。 「嫌よ!死なせてよ!生きてたって意味なんかない、死なせて!放してよ、放して!」 雅子は泣きながら修の力に逆らい、しかしそのまま引き戻される形で彼の胸に飛び込んだ。彼の胸に顔を埋めて、震える声で泣きじゃくる。 「どうしてこんなことするのよ!どうして......結婚するって言ったじゃない!約束したじゃない!」 「雅子、医者の言葉を聞いてなかったのか?感情を抑えなきゃダメだ」 「そんなのどうでもいい!せっかく生き延びたのに、あんたにこんな仕打ちをされるくらいなら死んだほうがマシよ!死なせてよ!」 修は彼女の肩を掴み、胸からそっと引き離した。そして、真剣な表情で一言一言を丁寧に問うた。 「雅子、そんなに俺と結婚したいのか?」 雅子は涙で潤んだ目で修をじっと見つめ、「そんなの聞くまでもないでしょ?」と震える声で返した。 「俺が愛してなくても、それでも『修の奥さん』になりたいのか?」 「愛してるかどうかなんて関係ない!あんたが私に約束したことを守ればそれでいい。修、私はあんたを愛してる。それで十分じゃない!私の愛をあんたに分けてあげる。いや、たくさん分けてあげる。それでもまだ無限に残ってるわ!この愛はこの世の何にも比べられないくらい大きいのよ。ただあんたのそばにいられれば、それだけでいい。私は何もいらない、ただそれだけ......」 修は肩を落とし、目を伏せた。 彼の脳裏には、別の女性―若子の悲しげな顔が浮かんでいた。 それは絶望そのものだった。 修が若子にこんなにも絶望を与えたことはなかった。だが、その絶望は自分自身から生まれたものだった。若子との未来がないことは明白だったし、彼女が修を許すことも二度とないだろう。 若子はもう西也と結婚してしまった。覆水盆
「今のうちにこれだけは伝えておく。俺は他の女を受け入れることができない。心も、体も」 「他の女......」 その言葉が、雅子の傷口にまた塩を塗り込む。「今のあんたにとって、私は『他の女』なのね?」 「若子以外の女はみんな『他の女』だ。それは昔からずっと変わらない。だから、雅子、今ならまだ間に合う。俺から離れろ。本当に、俺なんかに執着しても無駄だ。結婚しても、後悔するだけだぞ」修はすべての醜い本音を、容赦なく雅子の前に突きつけた。 冷たく、残酷な現実が彼女の目の前に赤裸々に広がっていた。 そのすべてが、雅子にとって予想外だった。 これまで彼を巧みに操っているつもりだった。涙を一滴流すだけで、あるいはか弱く無垢なふりをするだけで、修が信じてくれる。いつでも彼は味方でいてくれるし、愛し続けてくれる。そう思っていた。 だが今日、修がこんな言葉を口にするのを聞いて、雅子は悟った。実際には、全て修の掌の上だったのだ。彼の態度も優しさも、すべて若子への思いに縛られていた。 ずっと若子と修が離婚することを望んでいた。二人が離婚すれば、自分が『修の妻』になれると信じていた。しかし現実は全く違った。離婚した結果、修は自分の心を再確認することになったのだ。 こうなってしまった以上、どんなに泣いて喚いても仕方がない。 雅子は、状況に応じて妥協する術を心得ている。彼女の駆け引きは成果を得た。修は結婚を承諾した。だが、愛を与えることはないと言った。 それでも、『修の妻』にはなれる。これが彼女の望みだった。 「落ち着け」と自分に言い聞かせる。修がどれだけ冷酷な言葉を並べようと、雅子は心を冷静に保つ。 彼女は最悪の状況からでも、自分にとって有利な点を見つけ出す才能を持っているのだ。 「私は修のことを愛してる。だから、どんなに辛くても、その気持ちは変わらない。修と結婚することが私の夢なの。ずっとそのために生きてきたのよ。今は分からないかもしれないけど、いつか気づくわ。結婚したら時間はたっぷりある。人は変わるものよ。きっと修も変わる」 「もし俺が一生変わらないとしても?俺がお前を愛することが永遠になくて、形だけの夫婦関係しか築けないとしても、それでも耐えられるか?」 「構わないわ。未来なんて誰にも分からないもの。ある日突然、あんたが
リビングで、成之はそっと茶碗をテーブルに置いた。 「若子、西也の回復は順調だな。これでみんな一安心だ」 「ええ、そうですね」若子は頷きながら答えた。「西也は本当に強運の持ち主です。ただ、まだ記憶が戻っていないのが残念です。でも、私はあまり急いでいません。ただ......何度も西也がこっそり記憶を取り戻そうとしている姿を見てしまうんです。それで苦しんでいるようで、見ていてつらいんです。『無理に思い出さなくてもいい』って伝えるんですが、それでも自分を追い込んでしまうんです」 心配そうな表情を浮かべる若子を見て、成之は静かに言った。 「若子、実は俺が海外の医療機関に連絡してみたんだ。西也みたいな記憶喪失の患者を治療した実績がある機関でな。彼らの治療法は臨床試験でもいい結果が出ている。もしかしたら西也の記憶を取り戻す助けになるかもしれない」 若子はその言葉に目を輝かせた。「本当ですか?」 成之は頷いた。「ああ、彼らのレポートやデータ、成功例を見たが、確かに期待できる内容だ。後でスタッフに送らせるから、若子も目を通してみてくれ。もし納得できれば、俺が手配して、西也をそちらで治療を受けさせることもできる」 「その治療って、苦痛を伴うものですか?例えば開頭手術や電気ショックみたいな方法だとしたら、私は西也にそんなことをさせたくありません」 「いや、そういうのじゃない」成之は手を振って否定した。「彼らの治療法は非常に新しいアプローチで、手術や電気ショックみたいな古いやり方は必要ない。患者には何の痛みも感じさせないらしい。もしそんな痛い思いをさせるような治療なら、俺だって西也を送り出す気にはならないさ」 「そうですか、それなら後で送っていただける資料を確認しますね。その上で西也の意見を聞いてみます」 「分かった」成之は軽く頷いた後、何かを思い出したように言った。「そうだ、もう一つ話しておきたいことがある」 「何でしょうか?」若子が問いかけると、成之は言葉を選ぶように続けた。 「俺は西也の父親と話をしてきた。婚姻の件についてだ」 「どうなったんですか?お父さんは何と?」 「最初は俺が余計な口出しをしたと思ったのか、かなり不機嫌だった。でも説得した結果、ひとまず婚姻に干渉しないと約束してくれた」 「それで、私と西也のことをお父さ
若子は成之の言葉を思い返しながら、心の中にどうしても疑問が残った。どこか引っかかるものを感じて、さらに記憶を辿る。 「そういえば、一度、西也の会社に行ったときに、部下に怒鳴っているところを見たんです。そのときの彼は、正直、少し怖かったです。私が知っているあの優しい西也とは、まるで別人のようで」 「それで?」成之は続けて聞いた。「そのとき、お前はどう感じた?ただ驚いただけか?」 「それは......」若子は少し考えてから答えた。「確かに驚きました。でも、誰だって怒ることはあるし、それが普通かなと思ったんです。だからあまり深く考えませんでした。ただ、彼にはもうあんなに怒らないでほしいと思いました。あれは彼の体にも良くないと思います」 成之は頷き、「そうか、分かった」とだけ言った。 「おじさん、どうして急にそんな話をするんですか?西也に、私が知らない何かがあるんですか?」 若子は成之の言葉の中に、何か含みがあるように感じた。 「お前に嘘はつきたくない。誰にだって良くない一面がある。ただ、これだけは保証する。西也がお前を大事に思っているのは、本心からだ」 若子は「そうですね」と軽く頷いた。「分かっています。西也は私にとても良くしてくれます」 「でも、本当にそれだけだと感じてるか?」 成之の問いに若子は少しの間、黙り込んだ。 「おじさん、もしそれが......」 言いかけたところで、若子はどう言葉を続ければいいのか分からなくなった。 成之は静かに言った。「心配するな。この話は俺たちだけの間で終わりにする。誰にも言わないと約束する」 若子は深く息を吸い込んで答えた。「おじさん、私は確信が持てないんです。西也は、自分に好きな人がいると言いましたし、その人を私も見たことがあります。だから、自惚れて『私を愛している』なんて思いません。ただ、彼が私を大事にしてくれているのは分かります。それに応える形で、私も彼を大事にしたいと思っています。それ以上のことは、あまり考えたくありません」 成之は無理に追及することはせず、頷いた。「分かった。お前の気持ちは理解した。ただ、西也が記憶を取り戻してから考えることにしよう。記憶がない今では、何とも言い難い。ただ、これだけは保証する」 「何のことですか?」 「もし西也が元気になった後、
そのとき、西也が歩いてきた。「若子、おじさん、お前たち何の話をしてるんだ?」 西也はそのまま若子の隣に座り、彼女の肩を軽く抱き寄せた。 「ちょっとした話よ」若子は微笑んで答えた。 西也はそれ以上追及せず、こう提案した。「若子、午後、少し外に出ないか?久しぶりに外に行きたいんだ。医者も適度な外出なら問題ないって言ってたし」 若子は頷いた。「もちろんいいよ。どこに行きたい?私が連れて行く」 「どこでもいい」西也は笑って言った。「お前が一緒なら、どこだって楽しいから」 「分かった。じゃあ、昼ご飯を食べたら出かけましょう」若子は成之に視線を向けた。「おじさん、お昼は何が食べたいですか?」 成之は西也を一瞥し、軽く笑った。「いや、俺は昼に会食があるから、お前たち二人でレストランにでも行ってくれ」 そう言うと、成之は立ち上がった。「じゃあ、俺はこれで失礼する」 若子も立ち上がり、「おじさん、外まで送ります」と言った。 成之は一瞬断ろうとしたが、ふと何かを思いついたようで頷いた。「そうしてくれ」 西也も立ち上がろうとしたが、成之が若子にさりげなく視線を送った。 若子はその意図を察し、西也に向き直って言った。「西也、ここで待っててね。私がおじさんを送ってくるから」 西也は素直に頷いた。「分かった」 若子は成之を外まで送り出した。 「おじさん、何か話があるんですか?」若子は、さっきの成之の様子から、彼が何か話したいことがあると感じ取っていた。 成之は軽く頷いた。「ああ、ちょっとお前に聞きたいことがある」 「何ですか?」 「少しプライベートな質問になるが、気を悪くしないでくれ」 若子は眉をひそめながら、「質問って......」と促した。 「お前と西也の間に......その、何かあったのか?」 「......」 成之の問いに、若子は一瞬言葉を失い、気まずそうに視線を逸らした。「どうして急にそんなことを聞くんですか?」 「誤解しないでくれ。俺がこう聞くのは、決してお前が考えているような意味じゃない。ただ......」 成之はそこで言葉を詰まらせた。 「もちろん、何もありません」若子はきっぱりと言った。「西也とはそういう関係じゃありません」 成之は安堵の息を吐き、続けた。「若子、俺はお前を
若子の言葉は決然としていて、迷いは一切見られなかった。 成之は小さく頷き、「分かった。ありがとう、若子。お前の信頼に応えて、俺もいつか必ずはっきりとした答えを伝える」と言った。 二人が話している間、少し離れた装飾建築の影で、西也が隠れていた。 その目には驚き、混乱、信じられないという感情が渦巻き、やがて顔色は次第に暗くなっていった。 彼の手は無意識に建物の金属装飾を掴み、力強く引き裂いた。 「ブツッ」という音と共に、手のひらから血が滴り落ちる。 若子がリビングに戻ると、西也の姿がなかった。 彼を探そうとしたそのとき、後ろから声がした。「若子」 「西也」若子は振り向いて彼に歩み寄った。「どこに行ってたの......?」 そう言いかけて、彼の手のひらから血が流れているのに気づいた。 若子は驚いて叫んだ。「西也!手がどうしたの?!」 西也は一瞬ぼんやりした目で若子を見つめていたが、すぐに微笑みを浮かべた。「俺の不注意だ。花瓶を割っちゃって、拾おうとしたときに切っちゃったんだ」 若子は西也の手首を掴んで、「すぐに手当てしなきゃ」と言った。 彼を急いで椅子に座らせ、薬箱を取りに行くため振り返る。 焦る若子の姿を見つめながら、西也の目には一瞬、柔らかな感情が浮かんだ。しかし、次の瞬間、その眉間には冷たい陰りが戻り、まるで冬の寒い風のような表情になった。 若子は薬箱を持って戻ると、消毒や包帯を手早く、しかし丁寧に施した。 手当てを受けながら、西也は近くにいる若子をじっと見つめ、かすかに聞こえるほどの小さなため息をついた。 なぜ、こんなことになっているんだ? 彼女が自分を裏切って誰かの子供を身ごもったとしても、そのほうがよほどマシだった。 もし裏切りであれば、自分にはそれを責める理由ができる。償わせる口実も得られる。 だが、彼女が口にしたのは「偽装結婚」だった。 記憶を失っている間に、そんなことを忘れていた自分がいたなんて。 彼女は決然として言った―「いずれ離婚する」と。 愛する人だと信じていた若子、かけがえのないものだと思っていた結婚、頼るべきだと思っていた愛情......すべてが虚構だった。 自分が抱いていた感情は、滑稽なまでの勘違いだったのだ。 いや、勘違いどころではない。これ
西也は首を振って言った。「何でもない。ただ、記憶をなくしてから、なんだか気持ちが落ち着かないんだ。毎日家の中にいるばかりで」 若子は西也の手を軽く叩き、「西也、今日はお昼ご飯を食べに行くでしょ?それから午後は外を散歩しましょう。どこへ行きたいか言ってくれれば、一緒に行くわ。ずっと家にこもってたら、さすがに疲れるでしょ?今日はしっかり外の空気を吸おう」 西也は頷いた。「分かった」 昼になり、若子は車を運転して、西也を市中心部にあるレストランに連れて行った。だが、店に入るとすぐ、マネージャーが迎えに来て言った。 「申し訳ございません、本日はレストランが貸し切りとなっておりまして、他のお客様にはご利用いただけません」 若子は少し眉をひそめ、「でも、事前に電話で予約したんですが。そのときは問題ないと言われました。どうして急に貸し切りなんですか?」と尋ねた。 マネージャーは申し訳なさそうに答えた。「恐らくスタッフのミスでございます。本当に申し訳ありません」 若子は不満げな表情を浮かべた。「でも、何の連絡もなく、わざわざ来たのに突然貸し切りだなんて。本当に不親切ですね」 「大変申し訳ありません、ではこうしましょう。次回お越しの際には割引をご提供いたします。本日は本当に申し訳ございません」 若子はまだ納得がいかない様子だったが、これ以上言っても仕方がないと思い、黙った。 そんな彼女の様子を見た西也は前に出て、冷たい声で言った。「これはお前たちの問題だ。事前に知らせなかったせいで、わざわざ足を運んだんだぞ」 記憶をなくしても、西也の背が高くがっしりした体格と自然に放たれる威圧感は健在だった。 マネージャーはたじろぎ、慌てて笑顔を浮かべて謝った。「本当に申し訳ありません。では次回ご来店いただける際には50%割引を適用いたします」 「割引なんかいらない」西也は冷然と言った。「何事にも順序というものがあるだろう。それに、このミスはお前たちのせいだ。金の問題じゃない。俺がこのレストランを買い取って、貸し切りを取り消すようにしてやってもいいぞ」 「えっ、それは......」マネージャーは困惑し、その場でどうすればいいか分からない様子だった。 そのとき、レストランの入り口から一組の男女が入ってきた。 マネージャーは彼らに気づくと、
若子はその場を追いかけたくてたまらなかった。けれど、足はまるで鉛を詰められたように重くて、動くことができなかった。 ―ダメだ。私はもう、修を追いかけちゃいけない。 彼との関係は、もう終わったんだから。 彼には山田さんがいる。もう自分とは終わっている。だったら、いっそ嫌われて、憎まれたままでもいい。 その方が、きっと彼のためになる。 そんな思いで立ち尽くしていた若子の背後から、ふわりと誰かが彼女を抱きしめた。 「若子......信じてくれてありがとう。俺を信じてくれて、本当に......ありがとう」 西也の声だった。 最終的に、若子は彼の言葉を選んだ。それだけで彼の中に、確かな勝利の実感が湧いてきた。 その口元には、ふっと得意げな笑みが浮かんでいた。 ―藤沢、お前は俺に勝てない。 俺は若子を傷つけたりしなかった。ずっと彼女のそばにいて、支えてきたんだ。暗闇の中で手を差し伸べてきたのは、この俺だ。 それに比べて、お前はずっと彼女を泣かせてきたじゃないか。 だが― 若子はその腕を、ギュッと掴んで無理やりほどいた。 「西也......本当に......本当にボディーガードを連れて、銃まで持って修のところに行ったの?本当に......傷つけるつもりだったの?正直に話して」 さっき、修にあんなふうに言ったのも、完全に信じてなかったわけじゃない。 もう修を信じるか信じないかは、正直どうでもよくなっていた。彼には侑子がいて、子どもまでいる。今さら自分が何を言ったところで、どうにもならない。 西也の呼吸が乱れた。肩がわずかに震え、若子の肩を強く掴む。 「若子、俺のこと信じてないのか?......まさか、あいつの方を信じてるのか?」 さっきまで自分を選んでくれたと思っていたのに、まるで手のひらを返されたような気がして、胸の奥がずきりと痛んだ。 「西也......お願いだから、本当のことを言って。本当に銃を持って行ったの?」 二人のうち、どちらかが嘘をついている。でも、どっちなのか、若子にはもうわからなかった。考えれば考えるほど、混乱するだけだった。 「......銃は、持って行った。けど、それは俺のボディーガードが持ってたやつで、護身用なんだ。アメリカじゃ銃の携帯は普通だし、もし危険な目に遭った
若子はしばらく黙って考え込んだ。そして、ゆっくり顔を上げて修を見つめた。 「でも......あのとき、あなたは本気で西也が死ねばいいって思ってた。私に、西也の心臓を桜井さんにあげるようにって、同意を求めたよね」 西也の口元がぐいっと吊り上がる。得意げな笑みを浮かべて、ほっと息をついた。 ―若子は俺のことを信じてくれたんだ。 藤沢修、お前なんかに勝ち目あると思った? 前には桜井雅子、今度は山田侑子。お前がこれまでやってきたこと、どれを取っても正当化できないし、言い逃れもできない。 その一方で、俺は若子にとっての理想の男だ。お前が俺に勝てる要素、どこにある? 若子の言葉は、修の胸を鋭く突き刺した。 「若子......それは......昔のことだ。もう何年も前の話だよ。それと今は別だ。あれはあれ、これはこれなんだ」 「でも、あなたは確かにそうした。確かに―あのとき、あなたは西也に死んでほしいと思ってた。これは事実でしょ?」 修は口をつぐむ。否定できるはずもなかった。あの頃、西也のことを心の底から憎んでいた。そして、雅子が心臓移植を必要としていたタイミングで、西也が倒れた。 これは「チャンス」だと思ってしまった。雅子を助けるには、西也の心臓を......その考えが頭をよぎったことを、否定なんてできない。 ―自分の中の醜い部分。もし誰もがそれを晒されたら、きっと誰も「人間らしく」なんて言えなくなる。 「若子......あれは、あのときの話だ。彼の命が消えかけてたから、俺は......ああ言った。けど、俺は手を下してない。殺してもないし、傷つけてもない。常識的に、そうするのが正しいと思っただけなんだ」 「常識、ね......」 若子はその言葉を聞いて、吐き気がしそうになった。 「修......あなたにとって、西也の治療を諦めることが『常識』なの? だったらもう、これ以上言わなくていいよ。きっと、あなたの心のどこかが後ろめたかったんでしょ?だから西也があなたの元を訪ねてきたとき、勝手に『殺しに来た』って思ったんじゃない?」 「......」 修はふらりと数歩、後ろに下がった。 何もかもが空っぽになったようだった。胸の中から、心臓ごと引き抜かれたかのように。 若子からの言葉。何度も、何度も突き刺さっ
若子のその言葉は、どちらにも肩入れしない「中立」なものだった。 誰が正しいのか、彼女にはわからなかった。だって、その場にいなかったから。修の言い分も、西也の言い分も、どちらも聞いてみれば筋が通っているように思える。 ただ、どちらも誤解していただけだったら―そう願わずにはいられなかった。 西也は修のことを誤解していて、修も西也の護衛が武器を持っていたことで、逆に西也を疑った。ふたりの関係はもともと悪くて、敵意に満ちていた。だから、極端な判断をしてしまったとしても不思議じゃない。 「こいつは本当にやったんだ。侑子まで捕まえて、あと少しで殺されるところだったんだぞ」 修の声には怒りと悔しさが滲んでいた。 だけど、若子の中でその言葉は、ただの「誤解」に聞こえてしまった。 彼女にとっては、現場にいなかった以上、どちらかを一方的に信じることはできなかった。 それでも―自分の命をかけてくれた修の言葉を、疑ってしまっている自分に、彼はきっと傷ついている。 離婚してしまった今、彼女はもう修の味方ではない。 かつてなら、迷わず彼を信じていたはずなのに。 「濡れ衣だ!」西也が激しく声を上げた。「若子、こいつの言うこと信じるな!こいつは嘘をついてる!それに、もし俺が本当に殺すつもりだったら、こいつなんて今こうして立ってられないだろ?あの時、屋敷に彼は一人だった。俺が殺そうと思えば、簡単にできた。でも、やらなかった!」 「それは、お前が油断してたからだ。俺が隙を見て銃を奪い返して、逆転したから助かっただけだ。あのままじゃ、俺も侑子も、確実に殺されてた。お前が死体を処理してしまえば、誰にもバレなかったはずだ」 「お前、よくもそんなでたらめ言いやがって!」 西也は怒りを抑えきれず、若子に向き直った。「若子、お願いだ、信じてくれ。俺がどんな人間か、お前ならわかってるだろ?こいつこそ、俺を殺そうとした張本人だ!」 「お前、忘れたのか?前に俺が事故に遭った時、こいつも含めて全員が、お前に俺の臓器を提供しろって迫ったんだぞ?こいつなんて、俺に早く死ねって言ってたようなもんじゃないか!」 西也は、思い出という武器で切り込んできた。 彼の言葉は、若子の心に鋭く突き刺さる。 あの時―病院で、全員が彼女に迫っていた。西也の命を見捨てて、誰か
修の声は驚くほど冷静だった。西也のように感情をむき出しにすることもなく、彼の言葉には一分の隙もなかった。 どこか、堂々として見えた。 その落ち着いた姿を見て、若子はふと、疲れを覚えた。 修と西也の喧嘩なんて、これが初めてじゃない。もう何度もあった。前なんて、レストランで暴れて警察沙汰になったことすらある。 どちらの肩を持とうと、結局ふたりの間の確執は終わらない。今回の乱闘だって、どうせこれが最後にはならない。 「修、西也、あなたたちもう大人でしょ?自分の行動には自分で責任持ちなよ」 若子の声には、明らかに苛立ちが混じっていた。 「また喧嘩して、これで何回目?私はもう知らない。どっちが先に手を出したとか、正直もうどうでもいい。やりたきゃ好きに殴り合えば?先に殴った方が、もう一発食らう。それでチャラにしなよ。私はあなたたちの母親じゃないの。毎回毎回、警察に駆けつけて後始末して......そんなの、もうごめんだから!」 西也は口を開けかけたが、若子の鋭い一言でぐっと黙り込んだ。 なにか言いたそうな顔をしていたけれど、その勢いはすっかり削がれてしまった。 彼の視線は自然と修に向き、そこに溜まった怒りの矛先をぶつけるように、じろりとにらみつけた。 ―でも、今回、若子は西也をかばわなかった。 修はそれを見逃さなかった。彼にとっては、これが逃せないチャンスだった。 「若子」 修が一歩前に出て、静かに言った。 「なんで俺の話は聞かない?どうして俺が西也を殴ったのか、その理由を考えてくれたことある?」 「藤沢、また話を捏造するつもりか?」 西也がすかさず口を挟んだ。 「捏造?お前、ビビってるのか?若子に話されるのが、そんなに怖いか?」 修は口元だけで笑って、続けた。 「お前、若子には言わないつもりだったんだろ?......あの夜、お前がどんな風に俺の家に乗り込んできたか。銃を持った連中を引き連れて、俺のこめかみに銃口突きつけたよな」 「な―」 若子が目を見開いた。 「西也......それ、本当なの?」 西也は眉をひそめて、必死に否定する。 「若子、違う!誤解だ、そんなことするわけない。確かに何人か連れて行ったけど、それは俺のボディーガードだよ。あくまで護衛で、武力を使うつもりなんてなか
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声