LOGINあの侵入事件があり、日菜乃は出かける際自室に鍵をかけていくようになった。そのせいで、香織は二度と日菜乃の部屋に入ることができなかった。しかし、犯行内容が詳細に書かれたノートのページは、隠し持っていたスマートフォンで撮影済みだった。そのため、彼女の計画は筒抜けである。偶然ではあるが、日菜乃の計画を事前に知ることができたのは運が良かった。おかげで、対策を取ることができる。(人の家に放火するだなんて……正気の沙汰じゃないわ)香織はちょうど、先輩家政婦と昼食を摂っていた。不幸中の幸いというべきか、先輩たちは優しかった。「奥様はいつもそう。私たち家政婦にパワハラしてばっかり。掃除もちょっとでもホコリが落ちてたらやり直しだし、洗濯物もシワがあったら大激怒。厳しく叱責されるわ」「奥様はとても厳しい方なのですね……」家政婦たちの話題は、主に日菜乃に関する愚痴だった。どうやら彼女はパワハラまでしていたようだ。水をかけられたり、掃除道具を投げられたりした家政婦もいたという。彼女のパワハラのせいで、家政婦たちは入れ替わりが激しかった。美由紀がやめたあとからは特に激しくなったという。「元愛人のくせに、生意気よね。まぁ、今は旦那様からの寵愛が薄れているせいで荒れてるんでしょうけど。だからって人に当たらないでほしいわ」「まったくもってその通りですね」香織は心の中でざまあみろ!と日菜乃を嘲笑った。普段の行いが悪いと人から嫌われてしまうのだ。「三ヵ月もてばいいほうだと思いなさい。どれだけ仕事を完璧にこなしていたとしても……遅かれ早かれあの人のパワハラの餌食になるわ」「……」先輩家政婦はフゥと息を吐くと、香織に向かって告げた。「できるだけ早いうちから、別の仕事を探しておくことね。ここは特別時給が高いわけでもないし……ハッキリ言って働く価値がない。もっと良い職場はいくらでもあるわ」「………ご忠告ありがとうございます」香織は家政婦に礼を言った。しかし、彼女はどれだけ警告されようとも、この仕事をやめるつもりはない。どんなに辛かったとしても、今は我慢しなければいけなかった。(まだ私にやらないといけないことがある。大切な人たちの幸せを守るためにも……絶対にあの女に打ち勝たなければならないわ)香織は決意を固め、拳を握りしめた。
その頃、ちょうど日菜乃が邸に帰ってきていた。てっきり夜まで帰らないと思っていた家政婦たちは、あまりにも早い帰宅に驚いた。今日は日菜乃も亮太もいないから楽できる――なんて思って、サボっていた彼女たちは慌てて仕事を再開した。「お、奥様……ずいぶんお早いお帰りですね……」「ちょっと忘れ物しちゃって、取りに来たのよ」日菜乃はそんな家政婦たちを不審に思いながらも、時間がギリギリだったため、問い詰めることはしなかった。一人の家政婦は部屋の掃除をしながら、声を潜めて尋ねた。「ねぇ、そういえばあの子は?」「ああ、あの新しく来た若い女の子?」彼女たちは香織の身を案じていた。日菜乃の恐ろしさを、よく知っていたからだ。「どこに行っちゃったのかしら……奥様にバレたらまずいことになるわ……何もないといいけれど……」そんな家政婦たちをよそに、日菜乃は香織のいる二階の自室へと階段を上って行った―――***香織は日菜乃のノートを前に、身体が石のように硬直していた。そこには詳しい犯行計画が書かれていたが、想像するだけでゾッとするような内容だった。(家に火をつけて……家族ごと……?)香織はふぅと息を吐いて額を手で押さえた。日菜乃は本当にそんなことを計画しているのだろうか。とても、人間のするようなことではなかった。しかし、最初こそ香織は半信半疑だったが、冷静に考えてみれば日菜乃ならやるかもしれないと思い始めるようになった。(とにかく、この計画が実行されることがあってはならないわ……!)そう意気込んだそのとき、突然こちらへ近づく足音が耳に入った。「………ま、まさか」最悪の事態を想定し、香織の身体が急速に冷えていった。日菜乃は自室に他人を入れることを嫌うため、家政婦ですら彼女の部屋を掃除したことがなかった。―――つまり、ここに来るのは日菜乃以外にありえなかった。(ど、どうしよう……)悩んだ挙句、香織は慌ててノートを引き出しの奥に戻し、部屋の掃除をするフリをした。しばらくすると、部屋の扉が開いた。「…………ちょっとあなた、私の部屋で一体何をしているの?」「掃除をしておりました、奥様」香織は至って平然を装い、日菜乃と対峙した。「掃除?私の部屋はしなくていいと、他の家政婦に教わらなかったの?」「え……あ、そういえばそんなことを言われたような気が……」今にな
日菜乃の部屋にこっそり入った香織は、細心の注意を払いながら室内の調査を始めた。何か貴重なものが出てくるかもしれない。香織は慎重になって部屋の捜査をした。(それにしても……結構ものが多いのね。あまり片付いていないわ)テーブルの上にはメイク道具が散乱し、整理整頓ができていないようだった。日菜乃とは一時期同居していたものの、当然部屋に入ったことは一度もなかった。「あら……これは……母親の写真かしら?」引き出しを一つ開けた香織は、中から出てきた写真にポツリと呟いた。若き日の日菜乃と、彼女によく似た女性が写っていた。残忍な性格の彼女だが、母親を思う気持ちがあったとは意外だった。そんな中、香織は引き出しの一番奥からノートを一冊見つけた。ピンク色の可愛らしい表紙のノートは、おそらく日菜乃の日記か何かだろう。人の日記を勝手に読むのは憚られる行為だが、自分の身を守るためには仕方がない。前世では彼女の策略で凄惨な拷問を受ける羽目になってしまったのだから。香織は意を決して最初のページを開いた。日記だと思ったが、中身はまるで落書き帳のようだった。雑な文字で、乱暴な言葉がぎっしりと並べられている。おそらく日菜乃の書いたものだろうが、そこに書かれた言葉たちがあまりにも物騒だった。「毒を飲む……?」香織は書かれていた文字を声に出した。そこにはたしかに、致死量に満たない毒を飲むとハッキリ記載されていた。(これって……前世で私が日菜乃に受けた仕打ち……)香織の心臓が急にバクバクと激しい音を立てて鼓動し始めた。さらに同じページには、拷問の内容が書かれていた。偶然か、それらは前世で香織が受けたものと全く同じだった。なぜ、こんなものが書かれたノートが引き出しに入っているのか。毒を飲むと書かれたページは、大きくバツ印が打たれていた。その横には、毒を入れる機会がないためと小さく書かれている。計画こそしたものの、今世では途中でやめるという判断に至ったのだろう。香織はホッと胸をなでおろした。彼女はそのままページをめくった。誘拐し、男たちに襲わせる。またしてもバツ印が打たれている。実行したものの、成功しなかったという意味でのバツのようだ。このノートは日記ではなく、日菜乃の犯行記録なのだろう。だとしたら、次の計画が必ず書いてあるはず。鳴りやまない胸を抑えながら、彼女は次のペー
特殊メイクを施した香織は特にバレることもなく、羽川家に潜入することができた。家事は慣れていないが、彼女は元々器用なほうだ。「志澤さんは仕事が早くて助かるわ。私がいなくても、もう一人でできそうね」「ありがとうございます、先輩」そう言って彼女を褒めちぎったのは、羽川家で働く先輩家政婦の一人だった。先輩とはいっても、まだ働き始めて数週間しか経っていない。日菜乃は何かと家政婦たちをクビにするため、入れ替わりが激しい。家政婦たちはいつ首を切られるかわからないという不安の中で働いていた。「そうだ、ここで生き残るための術を教えてあげましょうか?」「……何でしょうか?」一人の先輩家政婦がおもむろに口を開いた。顔を上げると、その家政婦は不敵な笑みを浮かべていた。「―――奥様の気に障るようなことは絶対にしないこと。それとお嬢様の教育には口を出さないことね」「……」それはまるで、警告のようだった。香織は微笑みながら頷いた。「……ご忠告、ありがとうございます」後者は大丈夫だろうけど、前者は守れる気がしなかった。なぜなら、彼女はこれから日菜乃の気に障るようなことを絶対するからだ。「旦那様はそもそも家庭に無関心だから、私たちをクビにすることは滅多にない。奥様のほうが問題よ。あの方は何かと理由を付けて家政婦たちをクビにするんだから」「……とんでもないお方ですね」日菜乃は見た目こそ穏やかで優しそうに見えるが、実際の性格は真逆。他人を貶めることが好きで、気に入らないことがあるとすぐにヒステリックを起こして人に当たる。「…………ところで、奥様と旦那様はいつ頃帰ってこられるのでしょうか?」「さぁ、今日は夜まで帰らないって聞いているわ。奥様はパーティーに参加するために、隣の区まで行っているそうよ」家政婦はシーッと唇に指を当てながら、サボるなら昼までにしなさいよと言った。「……貴重な情報、ありがとうございます」香織は礼を言うと、他の家政婦たちから離れてある場所へと向かった。「…………ここが日菜乃の部屋ね」彼女が訪れたのは、日菜乃が暮らしている自室の前だった。扉に可愛らしいプレートがぶら下げられているその部屋は、間違いなく彼女の部屋だ。香織は迷うことなく、ゆっくりと扉を開けた。
朱里を叔母の元に送り届けてから数週間が経った頃、香織は姿を別人に変えてとある場所で働いていた。「―――初めまして、新しくここで家政婦として働かせていただくこととなりました。志澤唯奈(しざわゆいな)と申します」いつもの黒い髪を明るく染め、特殊メイクを施して全くの別人になった香織。彼女が今いたのは、羽川邸――それも、亮太と日菜乃の前だった。日菜乃は気に入らないというように眉をひそめて、香織を見つめている。一瞬バレたのかと焦ったが、彼女が不快に思っているのは別の理由からだった。「……アンタ、ちょっと髪の毛明るくしすぎじゃない?ギャルにしか見えないんだけど、ちゃんと仕事できるわけ?」「私、父親が外国の出身で……髪色は元々明るいんです。染めたことは一度もありません」「そう……」地毛だと言われてしまえば、それ以上追及することはできない。日菜乃は諦めたように黙り込んだ。どうやら正体がバレてはいないようだ。香織は心の中で安堵の息を吐いた。こんなにも心臓がバクバクするのは生まれて初めてかもしれない。そのとき、横にいた亮太が突然香織に近づいた。「………君の顔、誰かに似ているような」「……!」香織はビクッと肩を上げ、亮太を見上げた。何かを探るようにこちらを見下ろす彼の姿に、彼女は今度こそ終わりかもしれないと痛感した。「…………いや、気のせいだな。そんな偶然あるわけがない」しかし、亮太はそう呟くと、彼女から顔を背けた。疑いが晴れ、香織は慌てて弁明のために口を開いた。「誰に似ていたかは存じ上げませんが……私はこの場所へ越してきたばかりですので勘違いかと」「…………そうか」久々の亮太は、よく見ると顔色があまり良くなかった。疲れているのだろうか。「詳しい仕事内容は他の家政婦から教わってくれ。俺はそろそろ仕事に行く」「はい、旦那様」香織は礼儀正しく、去って行く亮太に向かって一礼した。彼はこの間、一度たりとも妻の日菜乃を視界に映すことはなかった。「……そうね、仕事さえ完璧にやってくれるのならどうでもいいわ。それと……私たち夫婦の内部事情は絶対に外に漏らさないでね」「はい、承知致しました。奥様」不仲だという噂が流れて評判に傷が付くのを恐れているのだろう。そう言われると香織はむしろ噂を流してやりたかったが、今そんなことをするわけにはいかなかった。「精一杯
朱里を信頼できる叔母の元へ送り届けた香織は、礼音と共に来た道を戻っていた。一人でも帰れると言ったが、彼が家まで送ると言って聞かなかった。「あの子は素直でいい子だな。両親とは似ても似つかない」「そうね、一体誰に似たのかしら。あの二人からあんなにも愛らしい子が産まれてくるなんてね」香織はつい先ほどまで一緒にいた朱里のことを思い浮かべた。顔は日菜乃に似ているけれど、性格は天真爛漫で、悪意の塊である日菜乃とは正反対だった。(亮太と日菜乃の子だと考えるととても複雑だけれど……少なくともあの子には自由に生きてほしいわ)香織は朱里のことが嫌いではなかった。両親の犯した罪が何であれ、彼女には幸せに暮らしてほしいと願っていた。礼音と横並びで歩きながら、彼女は呟くように口を開いた。「礼音……私、亮太と対峙することになりそうだわ」「……ああ、そうだろうな。あの男がついこの間家に押しかけてきたときから何となく予想はしていた」亮太が香織を狙っている以上、彼女もただやられるのを待っているなんてそんな馬鹿な真似はしない。まんまと相手の罠にはまってまた拷問されるなんて冗談じゃない。「朱里ちゃんから聞いた話なんだけど……俺の元に戻ってこいと、亮太がたしかに私にそう言っていたそうよ」「何だと……?アイツ、どこまで自分勝手なんだ……」亮太の発言に、礼音は当然怒りを露わにした。もちろん、香織も彼と同じ気持ちだ。前世で拷問されたことを考えると、亮太と日菜乃を許すことは絶対にできない。「礼音、私ね、作戦があるの」「作戦………?」礼音はきょとんと首をかしげ、香織はそんな彼の耳元に顔を近づけた。彼女の作戦を聞いた彼は、慌てた様子で口を開いた。「な……いくら何でも危険すぎるのではないか?」「礼音……あなたが私をとっても心配してくれているのはわかる。だけど、私はすぐにでも亮太との確執を終わらせたいの」「香織……」礼音は渋っていたが、彼女の固い決意を知ると、反対することができなかった。「心配しないで、きっと上手くいくわ。何が何でも、やってのける」香織は自信ありげな笑顔を浮かべて言った。そしてこの後、彼女はある方法を使って亮太に急接近することとなる――
あっという間に五日が過ぎ、パーティーの日になった。「香織お嬢様、本当によくお似合いです。会場にいる全員がお嬢様に目を奪われるでしょう!」「そうかしら?」華やかな青いドレスに身を包み、長い黒髪を結い上げた香織は、行きつけの美容院の店長――鏑木壮太(かぶらぎそうた)の手を取り、彼の車へと向かっていた。「あなたの腕がいいのよ、いつも感謝しているわ」「それはこちらのほうですよ、お嬢様。お嬢様の父君には感謝してもしきれません」壮太は優雅に香織をエスコートし、車のドアを開けた。香織が黒のSUVの後部座席に乗り込むと、壮太が運転席に座った。「あなたが運転してくれるのね」「安物の車で申し訳
有真は結婚する十年前まで、忠嗣の経営する会社の社員として働いていた。彼女は一般家庭の生まれだったが、努力を重ねて有名大学を卒業後、大企業へと就職することができた。そんな有真は、学生時代から明るい性格でクラスの人気者だった。絶世の美人というわけではなかったが、穏やかで優しく、いつだって周囲に気さくに振舞うその姿は男女問わず魅了した。――そんなところが、彼を虜にしたのかもしれない。彼女が九条グループに入社してから一ヵ月、有真は広い会社内で迷子になっていた。(道に迷っちゃったわ……会議室はどこかしら……)会議が始まるまではあと少しだ。入社早々遅刻するわけにはいかない。有真は焦っていた。彼
夜になり、ドキドキ初出勤を終えた香織は九条邸へと戻った。結婚前はどんな小さな用でも車で送り迎えをしてもらっていた香織だったが、今日は歩きだった。(職場まではそう遠くないし……運動のためにも歩こう)羽川家では車に乗れないのが普通だったせいか、歩きに慣れてしまったようだ。しばらく歩くと、羽川家の邸宅に到着した。(今でもここへ帰るのは慣れないわね)香織はそう思いながら鍵を使って中に入った。「香織さん、おかえりなさい」「ただいま、有真さん」帰宅した香織を、継母の有真が出迎えた。夜ご飯を作っている最中だったのか、長い髪を一つにまとめてエプロンを着ていた。有真は忠嗣の二十歳年下で、香織の
エレベーターで十五階まで上った香織は、父の待つレストランへ向かっていた。これから彼女は父親と二人きりで食事をする。こんなに緊張するのは初めてかもしれない。「お嬢様、お先にどうぞ」「ええ、ありがとう……」レストランの前までやってくると、ホテルのスタッフが二人を案内した。「九条様ですね、一番良いお席をご用意しております」「一番良い席……?」都内で有名な高級ホテルの、さらには一番良い席をわざわざ香織のために用意しているだなんて。一体どういう風の吹き回しなのか。(本当は有真さんを誘うつもりだったけれど、彼女が急に行けなくなったとか?)いや、そんなことはありえない。香織はたしかに家を出