ログイン――香織のその一言で、会場が凍り付いた。「私が亮太さんと結婚したのは、大学を卒業したばかりの二十二歳の頃です。私たちは元々大学の同級生で、私からのアプローチで亮太さんとの婚約が決まりました」「く、九条様……何をおっしゃっているのですか……!?」好き勝手言う香織に、司会者が思わず口を挟んだ。そういう反応になってしまうのも無理はないだろう。主賓スピーチとは、新郎新婦へのお祝いの言葉を述べるためのものなのだから。慌てふためく司会者を横目に、香織は言葉を続けた。「亮太さんとの結婚後、彼は私には指一本触れることなく、外で遊び歩いていました。朝まで家に帰ってこないことも多く、私たちはすれ違っていきました」亮太は顔を真っ青にし、日菜乃は鋭い目で香織を睨んだ。そんな二人を前に、香織は余裕の笑みを浮かべた。(ふふふ、私を見世物にしようとしたお返しよ)先に失礼な真似をしたのは日菜乃たちの方なのだ。大人しくスピーチをするような香織ではなかった。「そんなときに亮太さんが出会ったのが、まさに唯一愛した女性日菜乃さんです。彼女との関係が始まってからというもの、亮太は一切の女遊びをやめ、日菜乃さん一筋になりました!」「香織さん?何を言っているのですか?」しばらく黙って聞いていた日菜乃が、低い声で香織に尋ねた。(人が話している途中に割り込むだなんて、マナーがなっていないのね)笑みを浮かべているためわかりづらいが、日菜乃は相当頭に来ている。顔が引きつってピクピクしている。一方、横にいる亮太は青い顔で黙ったままだ。(まだ亮太の方が頭が良いのね)このような公共の面前で、感情を露わにするのはあまり褒められたことではない。亮太は前まで人前で平然と声を荒らげたり暴力を振るっていたが、今日はそのような気分ではないようだ。香織はそんな二人を煽るようにスピーチを続けた。「それから、日菜乃さんが妊娠し……亮太にとって初めての子を産みました。私はとっても悲しかったのですが、何も言いませんでした。亮太を愛していたので」香織は周囲の同情を誘うように、切なげに目を伏せた。その効果はてき面だった。元々かなりの美人な香織の哀愁漂う表情は、人々の心を簡単に動かした。「まぁ、何ということ……」「いくら何でも……香織さんが不憫だ」「略奪で結ばれたことは知っていたが……」香織の話に、招待
当然、香織はそのようなくだらないことにいちいち付き合うほどお人好しではない。彼女は自身を名指しした日菜乃にすぐ断りを入れた。「何も聞いていないので……何の準備もできていません。いきなりやれと言われても無茶な話です」「そこを何とかお願いできませんか、香織さん」「いえ、できません。何も考えていませんので」日菜乃の頼みを、香織は断り続けた。当然だ、突然言われたところでできるわけがない。「そうですか……香織さんが一番適任だと思いましたのに」断固として拒否する香織に、日菜乃は落ち込んだように視線を下げた。そんな風に振舞われたら、まるで香織が悪者であるかのようだった。招待客たちは、香織に蔑むような視線を向けた。「……あんなにも冷たくする必要は無いのではないか?」「そうよ、いくら日菜乃さんに旦那を取られたといえ……こんな風に公衆の面前でキツく当たる必要があるかしら?」「花嫁が可哀相だ、それに九条グループのご令嬢がそんなこともできないだなんて……」「……」失礼なことを言い出したのは間違いなく日菜乃だというのに、何故こんなにも蔑まれなければならないのか。(そうよ……忘れていたわ。ここにいる人たちは亮太や日菜乃の知り合いだから……彼らの肩を持つのは当然のことよね)どうせ全員が亮太に気に入られたいからと、式に参加したのだろう。彼の溺愛する日菜乃と親しくすることができれば、様々な面で利益を得られるから。日菜乃は隣にいた亮太の腕に、そっと手を触れた。「ねぇ、社長。社長も香織さんにぜひ主賓スピーチをしてほしいでしょう?」「……別に誰でもいい、俺は興味がない」亮太は冷たくそれだけ言うと、顔を背けた。招待客の刺すような視線が、香織に集中した。――お前がやれ、早く壇上に上がれとでも言いたげなその目。(こんな風になった以上、私が前に出ないわけにはいかないわね……)彼らは自分にその役割が回ってくるのが嫌だから香織にやらせようとしているのだろう。そんな彼女に、横に座っていた女性が話しかけた。「令嬢、大丈夫ですか?無理して行く必要はありませんよ。予期せぬトラブルではありますが、司会者が何とかするでしょうし……」この場で香織を気にかける、唯一の人だった。招待客の中でまともな人間がいるということが驚きだ。香織は不安げに見つめる彼女にニッコリと笑った。「いえ、主賓
香織は戸惑いながらも、亮太の視線を正面から受け止めていた。熱を帯びたその視線が、彼女の胸をざわつかせた。二人はお互い一言も発さずに、ただ黙ったままお互いを見つめ合っていた。「……社長、どうしたんですか?」「……いや、何でもない」横を歩いていた日菜乃の声で、亮太はようやく我に返ったようだった。香織から視線を離し、再び前を向いてバージンロードを歩き続けた。(……気のせい、よね?)香織はそう結論付け、気にしないことにした。まるで亮太が自分を愛しているようではないか。そんなこと、あるわけがない。前世でよく学んだことだった。(とっても素敵な歌ね……一体誰のことを歌っているのかしら)亮太と日菜乃の入場に使われていた曲は、皮肉にも純愛を歌うものだった。不倫が純愛とは何とも笑えるが、誰もそんな小さいこと気に留めていなかった。そもそも、略奪婚で結婚式を挙げ、元妻をその式に招待している時点で彼らはまともな考えを持ってはいないだろう。「……」――その瞬間、亮太の腕にしがみついていた日菜乃が一瞬だけ香織に視線を向けた。彼女の勝ち誇ったような笑顔を、香織は見逃さなかった。(……何が言いたいのかしら、不愉快極まり無いわ)――亮太は私のものよ、あなたは彼に捨てられたの。わざわざ口に出さずとも、表情だけで言いたいことが伝わってきた。新郎新婦の入場を終えると、マイクを手に持った日菜乃がウェルカムスピーチを始めた。「今日は私たちを祝うために、お忙しい中集まってくださりありがとうございます。私山川日菜乃と、羽川亮太は結婚致しました」彼女は幸せそうに微笑んだ。「私たちの結婚は、賛否両論があると思います。皆さんも既にご存知だと思いますが、結婚するまでの経緯がかなり複雑でしたので……」そこで日菜乃は、チラッ……と香織を一瞥した。再度二人の視線がぶつかり、香織は思わず眉をひそめた。経緯が複雑で、批判の声が少なからずあるということをわかっているのなら、最初から結婚式などやらなければいいのに。香織は心の中で毒を吐いた。「しかし、今日こうやって皆様に結婚を報告することができて大変嬉しく思います。今日は皆様にとって楽しい時間となることを願っております」締めの言葉で、会場にパチパチと拍手が鳴り響いた。香織はとんだ茶番だと感じながらも、音が鳴らない程度に両手を合わせて叩いた。
それからしばらくすると、式が始まった。香織はじっと席に座り、亮太と日菜乃の登場を待ち続けた。ご丁寧に新郎新婦を紹介するオープニングムービーから始まり、香織は冷めた目で二人の動画を眺めた。(とんだ茶番ね……さっさと終わらないかしら)ムービーが終わると、司会者のアナウンスが流れた。「――新郎新婦のご入場です」その一言で、招待客たちが入口に視線を向けた。大きな扉がゆっくりと開いたかと思えば、腕を組んだ二人が入ってきた。真っ白なタキシードに身を包んだ亮太と、その横で微笑む日菜乃。(あらあら、今日の日菜乃は一段と華やかね……あんな事件を起こした張本人だとは思えないほど)白いウエディングドレスを着た今日の日菜乃はとても美しかった。彼女の着ているドレスはスカートの部分に華やかな縦のフリルをあしらっており、大きなパフスリーブの袖部分が印象的な可愛らしいものだった。全体的にレースを施し、髪の毛は低めの位置でシニヨンにまとめている。ふわっとボリューム感を出す髪には、花のベッドドレスが散りばめられている。「わぁ……とっても綺麗な花嫁さんね」招待客からは歓声の声が上がった。男性は主に日菜乃を、女性は亮太をそれぞれ美しいと褒め称えた。香織は自分を差し置いて幸せになろうとしている二人を見ても、今さら何とも思わなかった。ただ、気になる点が一つだけ。(……愛する女が横にいるってのに、どうしてそんな顔をしているのかしら)バージンロードを歩く亮太の表情が、何故か曇っていた。隣で愛らしく微笑む日菜乃とは打って変わって、彼は入場してきてからずっと暗い顔をしている。誰とも目を合わせることなく、視線を伏せたまま歩いている。よく見ると目の下にクマがあり、顔色が良くなかった。しまいには、横にいる日菜乃を全く視界に入れていない。(マリッジブルーってやつ?亮太にもそういう気持ちがあったのね)香織は特に気に留めることもなく、式を見守り続けた。「日菜乃さん、とっても綺麗ですねぇ」「……」横にいるのが新郎の元妻であることに気付いていないのか、隣に座っていた女性がそう声をかけた。香織はニコッと笑って答えた。「ええ、そうですね。女の私でも見惚れてしまいそうです」彼女が答えたその瞬間、すぐ近くを歩いていた亮太の視線が一瞬だけチラと香織に向けられた。「……!」彼と目が合い、彼女はドキ
その頃、結婚式の挙式会場では一人の女性の到着によってざわめきに包まれていた。「あ、あの美しい人は一体誰だ……!?」「何て麗しいのだろう……まるで春の女神のようだ」「あの人……羽川社長の元奥さんの香織さんよ!あんなに綺麗な人だったとは、知らなかったわ……」そう、人々の視線を一斉に集めていたのはまさに香織だった。赤く妖艶なドレスを身にまとった彼女は、会場でも一際目立っていた。元々整った容姿に加え、長い脚に引き締まった身体。腰まで伸びた黒髪は、軽く巻かれており、普段より華やかな印象を与えた。彼女は会場に入ると、そのまま椅子に座った。彼女に見惚れていた男の一人が、おそるおそる声をかけた。「あ、あの……よろしければ、連絡先をお伺いしても……」「……すみません、そういうのはお断りしているんです」話しかけるだけでもかなり勇気のいることだった。しかし、何の迷いも無く断りを入れた香織に、男たちはガーンとショックを受けたような顔で固まった。しかし、それでもまだ諦めきれないというような彼らに、香織はハッキリと告げた。「実は私……心に決めたお方がいるんです」「な、何だと……!?」こんな絶世の美女の心を射止めたのは、一体どこの誰なのか。会場にいる誰もが気になって香織を見つめたが、彼女は面白そうに笑いながら人差し指に手を当てた。「ふふふ、誰かは内緒です」香織の赤い唇が、弧を描いた。その妖艶な笑みに、男たちはドキッとしてそれ以上は何も聞くことができなかった。(まぁ、そんな人いないんだけど……)香織は椅子に座ったまま、式が始まるのを待った。そんな彼女に、横に座っていた若い女性が声をかけた。「ご令嬢はとても人気ですね。会場にいるみんなが令嬢のことを見ていらっしゃいますよ」「……そうですか?」言われた香織は周囲を見回した。「ええ、気付いていらっしゃらないのですか?あそこでチラチラと令嬢に視線を向けている方はあの小田自動車の御曹司様ですよ!その横にいらっしゃる方は大手食品メーカーの社長さんです。女性であれば誰もが憧れるようなお方が、ご令嬢に熱い視線を向けていらっしゃいます」「……」彼女の言う通り、この場で香織に熱の帯びた視線を向ける男は多かった。羽川財閥の社長である亮太が結婚式に呼ぶほど仲が良いのだから、彼らも当然有名企業の御曹司か社長なわけで。しかし、
――時は流れ、結婚式当日になった。「まぁ、とってもお綺麗ですね!」「そう?ありがとう」日菜乃は会場の控室で亮太の到着を待っていた。彼女は真っ白なウエディングドレスに身を包み、椅子に座っている。今日、彼らが式を挙げるのは都内でも有名な高級ホテルだ。日菜乃がそこで挙式したい、と強く望んだせいだった。彼女はおもむろに椅子から立ち上がり、室内にある鏡の前に立った。たくさんのレースがあしらわれた白いドレスに、頭に大きなティアラを着けている。(誰から見ても華やかね……)この姿で亮太と共に登場すれば、誰も略奪婚の分際でとは言わなくなるだろう。それに、今日の結婚式には亮太の元妻である香織も呼んでいるのだ。そこで彼女に恥をかかせることができれば、一石二鳥である。いつも澄ましたあの女の羞恥に染まる顔が見られるのだと思うと、何だかワクワクしてきた。彼女は最後に前髪を軽く整えると、鏡の前から離れた。「――ご新郎様が到着されたそうです」「通してちょうだい」それからすぐ、亮太が控室に入ってきた。「……日菜乃」「社長!待っていたんです!」日菜乃はいつものように、頬を染めて亮太に駆け寄った。美しいドレス姿も相まって、その姿はとても愛らしかった。「……」しかし、彼はそんな彼女を見ても何の反応も示さなかった。日菜乃は違和感を覚えながらも、彼に話しかけた。「社長、今日は私たちの結婚式ですね!私、ずっとこの日を待ち望んでいたんです!」「……あぁ、そうだな」亮太は素っ気なく返事をした。いつもの黒いスーツとは違い、白いタキシードを着ている彼もまた雰囲気が違って見える。しかし、普段よりも冷たく感じるのはきっと服装のせいではないはずだ。――では、一体どうして。日菜乃は亮太と再婚したあの日から、そのような違和感を抱き続けていた。今までずっと自分だけを見つめ続けていた男が、突然このような姿になったのだから無理もない。「社長!私のドレス姿どうですか!?最も美しい姿を社長に見ていただきたくて……自分磨き頑張ったんですよ?」「……そうか、綺麗だよ」「……」綺麗とは言ったものの、本当にそう思っているかどうかは怪しいところだ。今の亮太は目の下に大きなクマを作り、焦点の合わない虚ろな目で日菜乃を見下ろしていた。その瞳には、何の感情も感じられなかった。愛おしいというのも、今の
あっという間に五日が過ぎ、パーティーの日になった。「香織お嬢様、本当によくお似合いです。会場にいる全員がお嬢様に目を奪われるでしょう!」「そうかしら?」華やかな青いドレスに身を包み、長い黒髪を結い上げた香織は、行きつけの美容院の店長――鏑木壮太(かぶらぎそうた)の手を取り、彼の車へと向かっていた。「あなたの腕がいいのよ、いつも感謝しているわ」「それはこちらのほうですよ、お嬢様。お嬢様の父君には感謝してもしきれません」壮太は優雅に香織をエスコートし、車のドアを開けた。香織が黒のSUVの後部座席に乗り込むと、壮太が運転席に座った。「あなたが運転してくれるのね」「安物の車で申し訳
夜になり、ドキドキ初出勤を終えた香織は九条邸へと戻った。結婚前はどんな小さな用でも車で送り迎えをしてもらっていた香織だったが、今日は歩きだった。(職場まではそう遠くないし……運動のためにも歩こう)羽川家では車に乗れないのが普通だったせいか、歩きに慣れてしまったようだ。しばらく歩くと、羽川家の邸宅に到着した。(今でもここへ帰るのは慣れないわね)香織はそう思いながら鍵を使って中に入った。「香織さん、おかえりなさい」「ただいま、有真さん」帰宅した香織を、継母の有真が出迎えた。夜ご飯を作っている最中だったのか、長い髪を一つにまとめてエプロンを着ていた。有真は忠嗣の二十歳年下で、香織の
それから一週間後。「初めまして、九条香織です。これからよろしくお願いいたします」「……」香織は父親の会社で新入社員として入社していた。彼女を見た社員たちはしばらく固まったあと、ヒソヒソと噂話をし始めた。「九条って言った……?もしかして社長の娘さん……?」「間違いないわ。社長の娘、夫と離婚して実家に帰ったらしいわよ」「よりによって何でこの部署に……社長の娘とか気使うわー……」「……」香織の第一印象はあまり良くなかった。コネ入社、血筋が良いだけ、だとか散々な言われようだ。しかし香織はそんな中傷など気にも留めなかった。彼女が羽川家で受けた屈辱に比べれば、こんなもの大したことないか
エレベーターで十五階まで上った香織は、父の待つレストランへ向かっていた。これから彼女は父親と二人きりで食事をする。こんなに緊張するのは初めてかもしれない。「お嬢様、お先にどうぞ」「ええ、ありがとう……」レストランの前までやってくると、ホテルのスタッフが二人を案内した。「九条様ですね、一番良いお席をご用意しております」「一番良い席……?」都内で有名な高級ホテルの、さらには一番良い席をわざわざ香織のために用意しているだなんて。一体どういう風の吹き回しなのか。(本当は有真さんを誘うつもりだったけれど、彼女が急に行けなくなったとか?)いや、そんなことはありえない。香織はたしかに家を出







