Masuk――これで、山田グループはもう立ち直れない。その現実を悟った勇は、唇を噛みしめたまま、ただ立ち尽くしていた。葛西先生の視線がゆっくりと横へ動く。やがて、綾子のほうを向いた。「あなたが......星の元義母か」綾子は、その声を聞いた瞬間に悟った。――この老人は、和解しに来たのではない。今日は清算に来たのだ。顔がこわばり、笑みを作るのもやっとだった。「ええ、そうですわ」無理に笑みを浮かべながら、そっと翔太の肩を押し出した。「こちらが......星野星の息子、翔太です」翔太は小さく会釈した。「葛西おじいさん、こんにちは」葛西先生は淡く頷いたが、その視線はすぐに彼を離れ、綾子へ戻った。「思えば、わしと星が出会ったのも――あなたのおかげだな」「......え?」「あなたが長年、偏頭痛に苦しんでいたろう。あれを治してやりたいと、星は半年ものあいだ、わしの薬を求めて奔走していた。ようやく特効の薬が見つかって、あなたに届けていたんだ」「......!」綾子の目が大きく見開かれる。まさか――あの薬が、この葛西先生の手によるものだったとは。二年間、飲み続けたその薬のおかげで、数十年来の頭痛が嘘のように軽くなった。医師からも「もう再発はしないだろう」と言われていた。震える声で、綾子は言葉を返した。「......ええ。とても、よく効きました」葛西先生は次に、翔太を見た。「君が、神谷翔太くんだね。君のお母さんは、君のために特別な薬草を探している時に、指を切ってね。いまも、その傷跡が残っている」会場の視線が一斉に星の手に集まる。白い手の甲――そこに、確かに一本の細い傷跡があった。誰も気にも留めなかった小さな跡が、いま、痛々しく見えた。雅臣の胸が、かすかにざわめいた。ふと、思い出す。かつてレストランで翔太がアレルギーを起こしたとき、星が取り出したあのスプレー。――あれが、彼女の努力の結晶だったのか。雅臣は、静かに星を見つめた。しかし彼女の表情は、驚くほど淡々としていた。まるでそこに立っているのは、誰とも関わりのない他人であるかのように。その無表情が、雅臣の胸をひどく締めつけた。離婚を受け入れたのは、間違いだったのかもしれな
勇の父の額には、じっとりと冷や汗が滲んでいた。息子の勇が、いつも外で問題ばかり起こしていることは分かっていた。もし、雅臣と航平という二人のできすぎた兄弟分がいなければ、勇など、とっくに破滅していたに違いない。彼には経営の才もなければ、判断力もない。本来なら父も、山田グループを息子に継がせるつもりなど毛頭なかった。だが――雅臣と航平、この二人が常に山田家を支えてくれていたのだ。二人が山田グループにいくつかの取引を回してくれさえすれば、会社は潰れないどころか、順調に成長していった。さらに有能な部門責任者たちが揃っており、勇はただ座っていれば利益が入るという楽な立場にいた。何か問題が起きても、雅臣が必ず後始末をしてくれた。――つまり、山田家は彼らに頼って生きてきたのだ。そんな息子が、よりにもよって葛西先生に手を出していたとは。父は、まるで血の気が引くような思いだった。「なんてことを......!よりによって、この場で!」もし今が公の場でなければ、その場で頬を張り飛ばしていたに違いない。「か、葛西先生......本当に申し訳ありません。息子は......その、あなたのことを知らずについ――」言い訳にもならない言葉を並べる父に、葛西先生は眉をピクリと上げた。「なるほど、つまり――あなた方山田家は、弱い者には強く、強い者には媚びるという家風か」低く響いたその言葉に、父は蒼白になり、口を閉ざした。膝が震え、立っているのがやっとだった。――葛西先生を敵に回すということは、葛西家を敵に回すということ。その一言で、山田グループなど瞬く間に崩壊する。その時まで黙っていた雅臣が、静かに口を開いた。「勇。......葛西先生に謝れ」彼の冷めた声が、まるで氷水を浴びせるように勇の頭を冷やした。勇は、生意気ではあるが愚かではない。自分が勝てる相手と、勝てない相手の区別くらいはつく。――だが、今回は判断を誤った。老人だと侮っていた男が、この街で最も影響力のある人物の一人だったのだ。勇の視線は宙をさまよい、葛西先生の顔をまともに見ることができない。「か、葛西先生......申し訳ありません。あの時のことは、すべて俺の過ちです。どうか、お許しください.....
星は、葛西先生の顔に泥を塗るような真似はしなかった。堂々とした態度で、礼を失することもなく、その立ち居振る舞いは見事だった。会場の人々は口々に彼女を称え、「葛西先生は人を見る目がある」と感心していた。葛西先生は、まるで子どものように嬉しそうにそれを受け取り、照れもせずに笑顔で相づちを打った。――褒め言葉はすべて、素直に受け入れる。その様子を見て、「この人は褒められるのが好きなタイプだ」と、周囲の誰もが察した。とりわけ「弟子をよく選んだ」「星野星は非凡だ」といった言葉が飛ぶたびに、葛西先生の表情はますます柔らいでいく。気がつけば、会場は星を持ち上げる空気に包まれていた。――それは、星にとっては初めての体験だった。雲井家にいた頃も、神谷家に嫁いでからも、彼女はほとんどこうした場に呼ばれたことがない。神谷家では「品位に欠ける」「恥をかかせる」として、常に留守番を命じられた。雲井家では「若く、まだ礼儀を覚えていない」という理由で、外に出されることはなかった。ましてや、その頃はまだ彼女の身分が公になっておらず、連れて歩くのも気まずかったのだ。そんな彼女が今――堂々と注目を浴び、称賛を受けている。胸の奥で、何か温かいものが膨らんでいった。そのとき、一人の男が言った。「葛西先生、あなたの弟子は本当に才色兼備ですな。あの社交界の華、雲井明日香にも引けを取りませんよ」その言葉に、葛西先生は腹の底から笑った。「はっはっは!当然だ。うちの弟子が一番に決まっておる!」謙遜という言葉を知らぬかのように、誇らしげに胸を張る。周囲も笑顔で頷きながら、同時に心の中では、「雲井明日香と張り合うなど無理だろう」と、冷静に判断していた。雲井明日香は、名門・雲井家が徹底的に仕込んだ令嬢。星がいかに幸運を掴もうと、その世界で肩を並べるのは、まだ遠い。だが、誰も口に出しては言わなかった。せっかく葛西先生が上機嫌なのに、水を差す者はいない。星を連れて次々と名士たちに挨拶を済ませたあと、葛西先生はふと視線を前方へ向けた。そこには――神谷家と山田家の一行がいた。葛西先生の口元に、冷ややかな笑みが浮かぶ。「星。あちらの方々にも、挨拶しておこうか」星は葛西先生を見上げて頷いた。「は
誠一のことなど、彼は眼中にもなかった。だが――葛西先生が星を庇うとなれば、さすがの誠一も、もう口を挟むことはできまい。葛西先生が星を弟子として正式に紹介した場面は、会場にいた川澄家の人々を心底驚かせた。恵美は半ば呆れたように笑った。「お父さん、来るのが遅かったみたいね。見て、葛西先生、どう見ても星のことを気に入ってるわ」父はまだ諦めきれず、「葛西先生は弟子にすると言っただけだ。孫娘にするとは、一言も言っていない」そう言いながらも、恵美にはひとつの思惑が芽生えていた。――星がこれほど葛西先生に重用されるのなら、むしろ彼女と仲良くしておくべきだ。演奏会が終わると、人々は宴会場へと移動していった。恵美は真っ先に立ち上がり、星を探しに向かった。その背を見た明日香が、声をかけた。「恵美、そんなに急いでどこへ行くの?」恵美は一瞬立ち止まり、「あ、そうだった!」と笑って引き返した。「星を探しに行くの。知ってるでしょ?彼女、うちの兄の同門なの」明日香がわずかに眉を上げた。恵美は声をひそめて続ける。「お父さんの考えなんだけどね、星を養女として迎えたいらしいの。その前に、わたしが先に話をしておこうと思って」その言葉に、明日香の瞳がかすかに揺れた。ふだん表情を崩さない彼女の顔に、ほんの一瞬、驚きが浮かぶ。「......養女に、するって?」恵美はうなずいた。二人は親しい友人同士で、恵美は何事も秘密にするのが苦手だった。「お父さんね、お兄ちゃんを何度も呼び戻そうとしたけど、帰りたがらないの。どうも同門の子のことが忘れられないみたい。二人は子どもの頃から一緒に育って、絆が人一倍強いのよ。しかも彼女、この前離婚したばかりでしょ?お兄ちゃんはきっと、放っておけないんだわ。だからお父さん、彼が彼女を娶るつもりじゃないかって心配してて、『それなら養女にしてしまえばいい』って。彼女を守ってやれるし、同時にお兄ちゃんの気持ちも断てる――一石二鳥ってわけ」恵美は楽しげに話していたが、明日香は徐々に顔色を失っていった。父と兄が、星の身分をどう公表するかで頭を悩ませている最中、川澄家はもう、養女に迎える話を進めている――「でも、川澄家に養女が増えるって、他の家族は何も
「この件は、少し時間をかけて考えたほうがいい。焦って動くのは得策じゃない」仁志が静かに告げると、清子は目を瞬いた。「川澄家の息子って......もしかして、川澄奏のこと?」仁志は軽くうなずく。「星は、まだその事実を知らない。だが――今日中には、きっと知ることになるだろう。そして、彼女がそれを知れば、必ず奏を説得して川澄家に戻らせる。奏も、間違いなく戻るはずだ」視線を横に流し、清子を一瞥する。その黒い瞳には、深い思惑が揺れていた。「葛西家、川澄家、そしておまえの初恋――神谷家。この三家を敵に回して、星に手を出すなんて、まず不可能だ。今の彼女の後ろ盾は、最強に近い。もう、簡単に踏みつけられる虫けらじゃない」仁志の声は穏やかだったが、その中に冷ややかな現実があった。星が雲井家にいた頃のことは、彼にも分かっていない。彼女に、さらに別の顔があることを――まだ知らなかった。腕時計にちらりと目を落とす。「もう遅いな。俺は行く」そして、少年めいた悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。「......俺がここに来たこと、内緒にしておけよ」低く囁くような声。そう言い残すと、仁志は一度も振り返らずに去っていった。その背中には、いささかの未練もなかった。会場では、雲井家の人々が舞台上の光景を呆然と見つめていた。「影子が......葛西先生と知り合いだったなんて?」正道が信じられないというように声を漏らす。「一体どうやって知り合ったんだ?」葛西先生は若い頃から、癖の強い人物として知られていた。妻を亡くしてからは、さらに気難しくなり、機嫌を損ねれば親族でさえ容赦しない。これまで、彼を招こうとした家は数知れず。だが、彼が宴会に顔を出したことなど、一度もなかった。「影子はどうやってあの方を動かしたんだ?」靖が訝しげに眉を寄せた。明日香は少し考え込んでから口を開いた。「お父さん......もしかして影子が、自分は雲井家の者だと先生に話したのでは?」その一言に、正道の顔が引き締まる。「......なるほど。そういうことか」靖もすぐに気づき、顔をしかめた。「勝手に葛西家へ助けを求めるなんて......これで我が家は、大きな恩を負うことになるぞ
――そうだ。なぜ、そのことに気づかなかったのだろう。星は結局、白い月光しか弾けない。おそらくその一曲だけを、執念のように練習し続けているのだ。清子の唇に、薄く嘲りの笑みが浮かぶ。あんな女が、本物の音楽家であるはずがない。五年間も家庭に閉じこもっていた主婦に、どんな音楽的才能があるというのだ。澄玲たちは「星はA大の殿堂入り演奏者だ」などと騒いでいたが――きっと、それも葛西先生の顔を立てただけの話だ。あの先生が言えば、誰も逆らえない。「あの女が実力者?冗談にもほどがある。――結局のところ、大したことないわ」清子はそう思い込み、自分を納得させた。星に劣っているとは、どうしても認めたくなかった。そうして「都合のよい理屈」を見つけると、胸の中のもやが、少しずつ晴れていった。軽くなった心で仁志の顔を見ると、彼は何か考え込むように黙っていた。その沈黙が、妙に落ち着かない。「......まさか、信じてない?」仁志の心の中には、自分など存在しない。彼が思い続けているのは、あの裏庭でヴァイオリンを弾いた女性だけだ。彼を欺くのは、容易ではなかった。「もしあなたがあの夜の演奏を気に入ったと言うなら......」清子はゆっくりと口を開いた。「わたし、もう一度、あの時みたいに原曲のスタイルを真似してみるわ。――それとも......」言葉を切り、彼の瞳をまっすぐに見つめた。「あなた、まだ疑ってるの?あの夜、裏庭でヴァイオリンを弾いていたのが、わたしじゃないって」仁志のような男には、隠すよりも本音で話したほうがいい。腹の底を見せたほうが、むしろ信じさせやすい。彼はゆるく微笑んだ。「少しだけ、な。――何しろ、お前には証明するものがない」そう。清子の手には、もう一方のイヤリングがない。あの夜、仁志が探していた裏庭の演奏者の手がかりは、そのイヤリングひとつだけだった。調べに調べ、あの時間帯に後庭で練習していたのが清子だと突き止めたのも、彼自身だった。複数の証言もあった。彼女は確かに、あの夜白い月光を弾いていた。本人も認めた。――それでも、何かが引っかかる。そんな偶然が、本当にあるのか?清子の呼吸が浅くなっていた。手指が震え、胸の奥