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第443話

Author: かおる
たとえ星と離婚することになっても、今この瞬間だけは、病み上がりのせいか、胸の奥に妙な感情がかすかに芽生えていた。

「雅臣......聞いてる?」

清子の声が、その思考を遮った。

雅臣は我に返り、胸の奥に生じた違和感も一瞬で霧散する。

掠れた声で言った。

「星を呼べ。

すぐにここへ来るように」

清子は、彼が星を糾弾するつもりだと考え、うなずいた。

「分かったわ」

病院からの連絡を受けた星は、朝食を済ませた後、ゆったりと病室へ向かった。

扉の前に着いたとき、中から清子の声が聞こえてきた。

「雅臣、一口だけでも食べて。

食べなきゃ治らないわ」

しばらくして、低くかすれた声が返る。

「......いい、食欲がない」

なおも彼女が説得しようとしたとき、星は扉をノックして入室した。

入ってきた彼女を見た瞬間、雅臣の瞳にかすかな光が宿る。

思わず彼女の手元に視線を落とすが――持っていたのはバッグだけ。

花束もなければ、彼女の得意とする薬膳もない。

瞳がわずかに陰る。

星が目にしたのは、清子が湯気を立てるお粥を手に、彼に食べさせようとしている場面だった。

どうやら彼は受け入れる気がなさそうだった。

星はそのお粥を一瞥し、さらりと告げた。

「小林さん。雅臣の口は相当贅沢になってるわ。

外で買ったお粥には口をつけない。

自分で煮れば、きっと食べるはずよ」

元々はそこまでこだわる男ではなかった。

ただ、この数年、彼女が手ずから整えてきたことで、舌が肥えてしまっただけだ。

星の姿を見た清子の表情が冷たくなる。

「あなた、雅臣に許しを乞いに来たの?」

星は淡く笑んだ。

「許しを乞うのは私じゃなくて――彼の方よ」

視線を雅臣へと移し、気のない調子で問いかける。

「体調はどう?」

雅臣は彼女をじっと見つめ、掠れ声を落とす。

「......お前の煮たお粥が食べたい」

清子の顔が固まった。

だが星は表情一つ変えない。

「食べたいなら小林さんか、使用人に頼めばいいじゃない。

私はもう、あなたの家政婦じゃないのよ」

黒い瞳に、彼女の冷淡な顔が映り込む。

かつてなら、病気や怪我のときに見せた彼女の心配げな表情は、そこにはなかった。

まるで他人を見るような目。

声が不意にかすれる。

「......星。

そんな態度とって
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Comments (2)
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桜花舞
奏も航平も星への気持ちが大きいね 奏も影斗が推測するように、敢えて雅臣ではないということは黙っていたと思うけど、 トラブルに巻き込まれてること自体、はじめから話そうとしてなかったからね 影斗は今の所二人と比べると、星への愛情はそんなにあるわけじゃないけど、 奏と航平の小物感が出てる回だったから、 あらすじのイケメンは影斗なんだろうなぁ
goodnovel comment avatar
さおり
お前の煮たお粥が食べたい…か… なんというか…弱ってる時こそ本音が出るものだけど、清子にとっては、大なり小なりダメージ。ガッツ! でも、話な展開的に、胸が苦しくなる展開だったな。まさか、刺すとは思わなかった。航平がいい具合に、星を支えてくれてるの嬉しい。清子と勇だけだと、腸が煮えくり返る!にしても一連の件は、雅臣じゃなかったんだ。騒ぎがなければ動いてたかもしれないけど… だけど…のあと、清子が何を言うのか。 気になるところで終わってしまった!! 早く明日こいです!
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