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第520話

Author: かおる
正道が妻を深く愛している――

それは、社交界では誰もが知る事実だった。

もしそうでなければ、この十数年、彼の傍らにひとりの女性の影すらなかったはずがない。

だが、どんなに美談として語られていようと、上流社会とは所詮、嘘と体面で成り立つ世界。

葛西先生は、そうした美しい物語を信じるほど愚直な人間ではなかった。

愛妻家の仮面を被っていても、その裏で子をもうけていたとしても、驚くには値しない。

「......」

正道は口を開きかけ、何かを言おうとしたが、結局、黙り込んだ。

その沈黙は、まるで暗黙の肯定のようでもあった。

そのとき、星が口を開く。

「葛西先生、私は雲井家の娘ではありません。

私の姓は星野であって、雲井ではありません」

「影子、勝手なことを言うな」

靖の声が低く響いた。

星は静かに彼を見返した。

「勝手なことなんて言ってない。

――事実を言っているだけよ。

......それとも。

あなたは自分が私生児だと思っているの?」

靖の表情が一瞬で凍りついた。

そうだ――もし星が私生児なのだとしたら、自分はどうなる?

彼は確かに、母親を恨んでいた。

幼い自分を置いて家を去り、二度と振り返らなかった母を。

だが、母はすでにこの世にいない。

そして、母は正式な妻として雲井家の墓に名を連ねている。

――この事実を、誰も変えることはできない。

靖の胸に、得体の知れない冷たい感情が広がった。

その変化を見逃さなかった正道は、わずかに眉を動かし、やがて深くため息をついた。

「......葛西先生」

正道の声は低く、苦渋を含んでいた。

「彼女は......私の実の娘です」

葛西先生は数人の顔を順に見やり、静かに眉を上げる。

「雲井夫人は、末娘の明日香を産んだあと、すぐに亡くなったと聞いていたが?」

正道の視線が、そっと明日香へ向かう。

彼女は、何事も起きていないかのように、静かに立っていた。

驚きも、狼狽もない。

その整った表情の奥に、微かに冷たい理性の光が宿っている。

――そう、それが彼女だ。

明日香は、雲井家が誇る完璧な娘。

正道はその姿を見て、改めて心に決めた。

この娘だけは、どんなことがあっても守らねばならない。

彼は深く息を吐き、苦笑を浮かべる。

「......実は、妻は死んだわけではありま
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Comments (3)
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カナリア
明日香嫌いだわぁ これはっきりするのかなぁ 葛西先生しっかりしてー
goodnovel comment avatar
しょう
親父のやり方腹立つなぁ。 結局は自分の保身でしかない。夜を愛してた? ( ・᷄ὢ・᷅ )はぁ...?とかしか言いようがない。夜を愛してたなら自分と夜の娘、星を一番に考えないとダメじゃないんですか?20数年育てたとはいえ、そいつは夜を追い出した張本人(正道も)ですけど!何をどうしたらそうなるんや?星も言ってやればいいのになぁ。私生児は明日香の方やって。でも、雲井家には入りたくないし星野で居たいんやろうなぁ。
goodnovel comment avatar
さおり
今回は情報が多すぎて... 仮病女は、あのあとどうなった?? 綾子も雅臣も、子供を出しにするの、いい加減やめてほしいな。 子供は大人の都合のいい道具じゃないんだよ。仮病女も、ずっとそうだった。 だからといって翔太を庇護出来ないけど、彼も被害者なのかもしれない。 その後の情報量がたくさんの名前が出てきて、誰が誰なのか分からなくなってきた! 少し前から読み直さないとダメかしら。
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