INICIAR SESIÓN「本邸へ戻ったら、圭吾の歯ブラシを出すわ」
四十九日の会食を終え、寺の廊下を歩きながら、祥子は執事の相馬に言った。
先ほど話していた病院長は、もう別の参列者に挨拶をしている。
「湊くんのも、残してあるはずよ」
相馬は足を止めた。祥子はそのまま進みかけ、振り返った。
「聞こえた?」
「はい。ただ、若菜さまにはお知らせになるのでしょうか」
祥子は答えず、バッグの口を押さえた。中には、会食の席から持ち帰った湊の席札がある。
名を印刷して待っていた椅子は、最後まで空いたままだった。
「先に知らせたら、若菜さんは湊くんを連れて来なくなる。結果を見てから話すわ」
その言葉で、相馬にも何を調べるつもりか分かった。
ふたりの歯ブラシを、若菜に知らせず鑑定に出すのだ。
「湊さまは、まだ小さいお子さまです」
「分かっているわ」
祥子の声が一段低くなった。
「だから、あの子に聞く前に確かめたいの」
本邸へ戻ると、祥子は着替えもせず二階へ上がった。
圭吾が帰ってきたときに使っていた洗面所の棚を開ける。
洗面台には水滴ひとつなく、使う人のいなくなった黒い歯ブラシだけが、コップに立ててあった。
祥子はそれを取ろうとして、手を止めた。
「これを使っていたのは、圭吾ですか」
相馬が尋ねると、祥子は顔を上げなかった。
「ええ。捨てないでと、私が言ったの」
圭吾が亡くなってから、祥子はそのコップにも触らせていなかった。
今は自分で歯ブラシを抜き、相馬へ差し出す。
相馬は新しい袋を開き、柄に手を触れないよう受け取った。
湊の歯ブラシは、廊下を挟んだ客用の洗面所にあった。
子どもの手でも届く低い棚に、青い柄の一本が残されている。
「これも、前に湊くんが使ったものよ」
祥子は相馬が別の袋へ入れるまで、その場を離れなかった。
袋にそれぞれ名前を記すと、相馬は念のため確かめた。
「圭吾さまの物と、湊さまの物。お預かりしました」
「うん」
「結果は、奥さまだけにお渡しすればよろしいですか」
「ええ。まず私が見るわ」
相馬が袋を持ち上げると、祥子の目が黒い歯ブラシを追った。
圭吾がまた泊まりに来ることはない。それでも、捨てさせることだけはできなかった。
息子が使った物を残しておくためだったはずなのに、今はそれで、息子の家庭を疑おうとしている。
「……終わったら、返してもらって」
祥子はそう言い、相馬から顔を背けた。
相馬はそれ以上言わなかった。
祥子の命令どおり二本を持って部屋を出た。
……
数日後、鑑定報告書が本邸へ届いた。
相馬が小応接室へ入ると、祥子は窓際に立っていた。
庭へ続く長いガラス戸は閉まり、午後の日差しが空いたソファの背に落ちている。
圭吾がここで湊を膝に乗せていたことを、相馬は覚えていた。
「鑑定報告書が届きました」
祥子は相馬から白い封筒を受け取ると、すぐに封を切った。
中の紙を取り出し、最初の行から下へと祥子の視線が移っていく。
相馬のいる位置からは、文字が見えなかった。
一枚を読み終えると、祥子は裏面を確かめた。もう一度表へ返し、今度はゆっくり読んだ。
「圭吾の歯ブラシは、あの棚にあったものね」
「はい。奥さまが選ばれた物を、その場でお預かりしました。湊さまの物も同じです」
祥子は報告書をテーブルへ伏せた。指先を置いたまま、しばらく窓のほうを向いている。
相馬は「結果はいかがでしたか」とは聞けなかった。
祥子は用紙を伏せたまま、相馬を見なかった。
「英明さんを呼んで」
祥子が振り返った。
「お義姉さんも。四十九日で、最初に湊を疑った人だから」
英明の兄の妻のことだった。兄は家を任せるには力量が足りないとされ、弟の英明が跡を継いだ。
伯母はそれを今も不満に思っている。
会長夫人として振る舞う祥子に、何かと張り合ってきたことを、相馬も知っていた。
「承知しました」
「若菜さんにも明日の午前、本邸へ来てもらって」
「はい」
祥子は伏せた紙の端をそろえた。
「四十九日の席でお義姉さんが何を言ったか、あなたも聞いたでしょう。私にだけ説明されても、あの人たちの疑いは消えないわ」
相馬は返事を控えた。報告書を読むだけなら、若菜をひとりで呼べば済む。
祥子はそれを選ばず、圭吾の父と伯母を同じ席へ集めようとしている。
相馬は伏せられた紙を見た。祥子はまだ指を離さない。
「湊さまは、いかがいたしましょう」
「呼ばないわ。若菜さんひとりで来てもらって」
祥子は伏せた報告書へ目を落とした。
「圭吾と湊くんのことで話がある、と伝えて。今度は、電話やメッセージだけで済ませないでほしいの」
相馬が電話をかけると、若菜は用件を聞いてから尋ねた。
「祥子さんと、私だけですか」
「会長ご夫妻と、圭吾さまの伯母さまです」
「……湊も連れてくるように言われていますか」
「いいえ。若菜さまだけで、と」
返事までに、少し間があった。
「分かりました。明日の午前に伺います」
英明と伯母への連絡も済ませ、相馬は小応接室へ戻った。
「若菜さまは、明日の午前にいらっしゃいます」
相馬が伝えると、祥子は報告書を手元へ引き寄せた。
「家族の前で、この結果を若菜さん本人に読んでもらうわ」
「昨日、英明さんに電話した。何にどこまで出してくれるのか、聞いたんだ」湊が寝てからかけた電話で、直人は先にそう言った。若菜は居間の椅子に座り直した。今日のことを書いたメモの横に、圭吾のファイルを置いている。「何て?」「金額は、そのとき決めると。大きな金が必要なことは、決める前に話せと言われた」「話したら、あの人がいいと言うまで待つの?」「そこを聞いたら、相談もせず金だけ出せと言うのかって」若菜は目を閉じた。助けるという言葉だけを、何度も思い返していた。先へ進めば、何をするにも英明の返事を待つことになるのかもしれない。「まだ返事はしていない。お前と話してからにすると言った」「うん。……今日、圭吾のことで聞いたことがあるの」若菜はメモへ目を落とし、本邸での話を伝えた。圭吾が帰ろうとしたこと。英明が腕をつかみ、肩を押し戻したと言ったこと。頭を打った場所も、若菜が当時聞いていた話にはなかった。直人は途中で一度、短く聞き返した。「本人が、そう言ったんだな」「うん。祥子さんと相馬さんもいた」祥子が葬儀前から知っていたことまで話すと、若菜は携帯を膝へ下ろしかけた。まだ通話中だと思い出し、耳へ戻す。「今、大丈夫か」直人の声がした。「聞いたときより、今のほうが……」続きを言えなかった。人に話すと、英明の
「私も、圭吾の家族です」若菜は開いた扉の前で振り返った。英明は椅子に座ったまま、こちらを見ていた。「家族なら、何をしてもこの家だけで済ませていいんですか」「誰がそんなことを言った。お前は、聞いたことを全部分かったつもりなのか」「分からないから、ほかの人にも聞いてもらいます」「何をする気だ」英明が椅子の肘をつかんだ。若菜はバッグの持ち手を握り直した。声を張り合えば、今度は何を言われるだろう。圭吾を失ってから、何度もこの家で答えを求められた。そのたびに、自分が隠していることが怖かった。今も、怖くなくなったわけではない。「私ひとりでは決められません。今日聞いたことも、まだ知らないこともあります。でも、なかったことにはしません」祥子が顔を上げた。「若菜さん。湊くんのことまで、人に話すことになるかもしれないのよ」その言葉に、足が止まった。湊の出生を伏せたのは自分だ。圭吾に言えなかったことも、言わずに過ごした日々もある。自分に都合の悪いところだけ閉じて、誰かに話を聞いてほしいとは言えない。「必要なら、私が答えます」若菜は祥子を見た。「でも、私に話せなかったことがあるからって、圭吾がどうして亡くなったのか、聞いてはいけないわけではないでしょう」祥子は返事をしなかった。相馬が廊下へ下がった。若菜はふたりに背を向け、開いている扉を通った。&n
「知っていて、私にあんなことを言ったんですか」若菜が尋ねると、祥子は膝の上で握っていた布を離した。白い花の前で、祥子は湊を呼び戻せと怒鳴った。父親との最後の別れまで奪うのかと、母親として何とも思わないのかと。そのとき、この人は知っていた。若菜の夫が、自分で転んだわけではなかったことを。「あの日は、圭吾のことしか考えられなかったの」祥子が言った。「棺が閉まったら、もう顔も見られない。なのに湊くんまでいなくて……」「私も、圭吾を見送っていたんです」若菜の声が震えた。棺のそばで立っていた自分を、祥子は見ていたはずだった。泣き崩れなかったから悲しくないとでも思ったのだろうか。湊がいない理由を説明するために立っていたわけではない。「祥子さんに責められながら、私も、あの人とお別れしていたんです」祥子は若菜を見た。何か言おうとしたが、言葉は続かなかった。英明が椅子の上で身じろぎした。若菜はそちらを見ず、祥子へ尋ねた。「どうして、英明さんは話したんですか」「私が聞いたのよ。ふたりで話していただけなのに、どうしてあんなことになったのかって」祥子の目が、隣の英明へ向いた。「圭吾が亡くなってからよ。何度考えても、分からなかった。転んだとしか聞いていなかったから」英明は何も言わなかった。「引き止めただけだと言ったわ。話が終わるまで、部屋
「部屋へ戻そうとした」英明は立ったまま、若菜へ顔を向けた。「まだ話は終わっていなかった。あいつが勝手に出ていこうとするからだ」「腕をつかんで、戻したんですか」「こっちを向かせた。それから、肩を……」英明の手が胸の高さまで上がり、止まった。若菜はその手を見た。今、目の前の空気を押しかけた手に、あの夜は圭吾の体があった。「押し戻したんですね」「そうだ。だが、転ばせるつもりはなかった」隣の祥子が顔を背けた。若菜は英明から目を離せなかった。「どこで、ですか」「小書斎だ。扉のところでつかんだ。部屋へ戻れと言ったんだ」英明は上げていた手を下ろした。「圭吾が、よろけた。扉の脇に棚があるだろう。低い、木の収納だ。あそこに頭をぶつけた」若菜はその部屋を知っていた。扉を開けると、脇に英明の書類を収めた低い棚がある。以前、圭吾が書類を取りに入るのを、廊下で待ったこともあった。あの棚に。いつもの部屋と夫の姿が結びついた途端、若菜は膝の上のバッグを両手で押さえた。そこに倒れた圭吾を想像したくなかった。けれど、何が起きたかを聞きたかったのは自分だ。「圭吾が、自分で足を滑らせたんじゃなかったんですね」英明は返事をしなかった。扉の脇にいる相馬も動かない。誰かが違うと言うのを、若菜は待っていた。聞き間違いだと分かれば、今ならまだ、あの棚と圭吾を別
「帰ろうとしたことが、圭吾のせいになるんですか」若菜が言うと、英明は椅子の肘掛けから手を離した。「話の途中だったと言っている」「それで、圭吾をどうしたんですか」向かいの祥子が、隣の夫を見た。扉の脇にいる相馬も口を挟まない。若菜は膝に置いたハンカチを握り、英明の返事を待った。圭吾は、考えを変えなかった。そのことを聞いたときは、もう一度夫に会えたようでうれしかった。仕事を離れたら、どんな毎日にしたかったのだろう。その続きを聞く前に、帰ろうとした圭吾が悪かったことにされている。「腕をつかんだだけだ」英明は若菜を見返した。「まだ話が終わっていなかったんだからな」若菜の手が止まった。本邸で転んで、頭を打った。そう聞かされてから、何度も、どうして足を滑らせてしまったのだろうと思った。その前に、この人が圭吾の腕をつかんでいた。「……つかんだんですか」英明は答えず、肘掛けへ手を戻した。若菜は夫が帰ろうとしていたことを、さっき知ったばかりだった。帰ってきていれば、また顔を見られたのだろうか。玄関で湊を呼ぶ声を聞けたのだろうか。そう考えた瞬間、続きの言葉が出なくなった。目の前の人は、夫が向かおうとした先から引き止めた人だった。何が起きたのかを知るには、その人に聞くしかない。「そのことは、私には話してくださらなかったんですね」「引き止めただけだ。それを、お前はどう受け取るつもり
「あなたの話を信じたからでしょう」祥子は隣の英明へ体を向けた。「大げさにするなと言われて、私がどう思うと思うの?あなたが圭吾のそばにいたのよ」英明の口元が動いた。若菜は、その返事より先に祥子へ声をかけた。「圭吾のところへ行ったとき、呼びかけには答えたんですか」祥子が振り向いた。夫に向けていた勢いのまま何か言いかけ、若菜の顔を見ると口を閉じた。卓には、閉じた雑誌が置かれたままだった。若菜はその向こうの祥子を見て待った。ここでまたふたりが言い争えば、圭吾の様子を聞けないままになってしまう。「名前を呼んだら、こちらを見たわ」祥子の声が小さくなった。「返事もしたの」若菜は膝のバッグを握った。「声が、出ていたんですね」「ええ。でも、いつものように話せたわけではないわ。だから、先生に早く来てもらわないと、と思ったのよ」圭吾は、そのときまだ、人の声に応えていた。本邸で転び、救急車で運ばれた。若菜が聞かされてきたその短い説明の中に、夫が誰かの呼びかけを聞き、顔を向けた時間があった。自分も、名前を呼びたかった。そう思った途端、祥子の顔が見えにくくなった。若菜は目を伏せ、バッグからハンカチを出した。連絡があれば間に合ったのか。自分が来ていたら、何かできたのか。それは分からない。けれど、夫の声がまだ出ていたと聞けば、その場にいたかったと思わずにはいられなかった。どんな返事だったのだろう。&