INICIAR SESIÓN伯母の問いに、祥子はすぐには答えなかった。
「熱だと聞いているわ。若菜さんが隠しているみたいに言わないで」
伯母の目が、祥子の隣に置かれた子ども用の椅子へ向いた。
「葬儀の日も、会えなかったでしょう」
斜め向かいの親族が、ふたりの会話へ声を重ねた。
「あの日は幼稚園の発表会。四十九日の今日は熱。大事な日が二度とも重なるなんて、偶然にしては変だわ」
伯母は空いた椅子を見た。
「それだけかしら」
伯母の視線が、空席の名札へ落ちた。
「圭吾があれほど可愛がっていたのに、私たちは湊くんと数えるほどしか会っていないでしょう」
「写真で見たけれど、圭吾にはあまり似ていなかったわね」
祥子は箸を膳へ置いた。
「圭吾さんの子なら、法要から隠す必要なんてないものね」
「何を言っているんですか?誰が何といっても湊は圭吾の子!」
祥子の震えた声が広間に通り、親族たちの会話が途切れた。
祥子の脳裏に、若菜の家で見た発表会の台本が浮かんだ。
湊の台詞の横には、圭吾の字で「ここで前を向く」と書かれていた。
圭吾が湊を息子として愛していたことに、疑う余地などない。
だからこそ、血縁まで疑う言葉を聞き流すことができなかった。
伯母は一瞬目をそらし、取り繕うように笑った。
「もちろん、そういう意味ではないの。ただ、葬儀にも四十九日にも出さないから、何か事情があるのかと思って」
謝る口調とは裏腹に、親族たちは目を合わせていた。
幼稚園では湊を本邸へ連れて帰れず、四十九日の出席も約束されないまま、今日も席が空いた。
熱だという若菜の連絡を信じたいのに、伯母の言葉が頭から離れなかった。
会食が終わりに近づき、係の者が空いた膳を下げようとした。
「もう下げていい」
英明が湊の膳を指した。
「触らないで。まだ来るかもしれないでしょう」
「法要は終わった」
英明はそれだけ言い、帰りの挨拶を待つ役員たちのもとへ戻った。
英明が離れるのを待っていたように、鷺宮家の男が祥子の席へ来た。法要の前、英明へ何度も頭を下げていた親族だ。
「圭吾さんの持株の件です。湊くんがお継ぎになるなら、成人するまで、ご実家から支える者を出せます」
祥子は顔を上げた。会食の料理がまだ並ぶ卓で、男は息子の株の行方を気にしている。
「今日は圭吾の四十九日よ」
「承知しています。ただ、湊くんの姿が見えないままでは、役員たちも不安になります」
男の視線が空席へ向いた。本人が熱で寝ているあいだに、大人たちはその名を使って椅子を取り合おうとしている。
男は祥子の手元の席札を見た。そこには6歳の子どもの名があるのに、この人には株主名簿の一行にしか見えていないのかもしれない。祥子は席札を指で押さえた。
「湊を鷺宮家の都合で動かすつもりはないわ」
「祥子さんも鷺宮の人間でしょう」
「圭吾の母親よ」
男は口を閉じた。遠くにいる英明は振り返らず、役員たちと話し続けている。
祥子は男が去るまで、湊の席札から指を離さなかった。
男は返事を得られないまま、実務派の役員がいる卓へ向かった。
祥子の言葉を伝えるのか、別の申し出を持ちかけるのか、遠くて聞こえない。
圭吾の法要を終える前に、実家はもう次の交渉を始めていた。
祥子は折れ曲がった席札を握ったまま、椅子から立てなかった。
祥子付きの執事、相馬が席の横へ来た。
「奥さま、そろそろ本邸へ戻る車を用意いたします」
「さっきの話、聞いた?」
「親族の憶測です。お気になさらないでください」
「なら、若菜さんはどうして湊を隠すの?」
「隠していると決まったわけではありません」
「圭吾が湊を愛していたことは、私にも分かっているわ」
祥子は手の中の席札へ目を落とした。
「でも、愛していたことと、血がつながっていることは同じではない」
相馬は一度だけ湊の席を見た。
「もし、違ってたら、どうなさるのですか」
祥子は答えられなかった。違う結果が出たとき、湊へ何と告げるのか。
圭吾の写真が飾られた家から、あの子を遠ざけられるのか。まだ何も決められない。
それなのに、調べずにはいられなかった。
血がつながっていなくても、圭吾が父親として過ごした6年間まで嘘になるわけではない。
それでも、後継者の席も、株も、榊原の名も、すべて血縁を前提に用意されている。
知らないふりをして本邸へ帰ることはできなかった。
親族の前で疑いを口にすれば、湊はすぐに血筋で値踏みされる。
圭吾が父親だった6年間まで、鷺宮家の男たちの材料にしたくなかった。まずは自分だけで確かめる。
広間の入り口には、帰りの挨拶を待つ榊原メディカルグループの病院長が立っていた。
祥子は席札をバッグへ入れ、病院長を目で呼んだ。
親族や役員に気づかれないよう、広間の外へ連れ出す。
襖が閉まるのを待ってから、祥子は声を落とした。
「亡くなった人でも、歯ブラシや髪が残っていればDNA鑑定はできる?」
病院長の表情がこわばった。
「何をお調べになるおつもりですか」
祥子は襖を少し開け、広間に残る湊の空席を見た。
顔を戻せば、廊下の先に圭吾の遺影がある。
二つへ交互に目を向けたが、病院長には答えなかった。
「昨日、英明さんに電話した。何にどこまで出してくれるのか、聞いたんだ」湊が寝てからかけた電話で、直人は先にそう言った。若菜は居間の椅子に座り直した。今日のことを書いたメモの横に、圭吾のファイルを置いている。「何て?」「金額は、そのとき決めると。大きな金が必要なことは、決める前に話せと言われた」「話したら、あの人がいいと言うまで待つの?」「そこを聞いたら、相談もせず金だけ出せと言うのかって」若菜は目を閉じた。助けるという言葉だけを、何度も思い返していた。先へ進めば、何をするにも英明の返事を待つことになるのかもしれない。「まだ返事はしていない。お前と話してからにすると言った」「うん。……今日、圭吾のことで聞いたことがあるの」若菜はメモへ目を落とし、本邸での話を伝えた。圭吾が帰ろうとしたこと。英明が腕をつかみ、肩を押し戻したと言ったこと。頭を打った場所も、若菜が当時聞いていた話にはなかった。直人は途中で一度、短く聞き返した。「本人が、そう言ったんだな」「うん。祥子さんと相馬さんもいた」祥子が葬儀前から知っていたことまで話すと、若菜は携帯を膝へ下ろしかけた。まだ通話中だと思い出し、耳へ戻す。「今、大丈夫か」直人の声がした。「聞いたときより、今のほうが……」続きを言えなかった。人に話すと、英明の
「私も、圭吾の家族です」若菜は開いた扉の前で振り返った。英明は椅子に座ったまま、こちらを見ていた。「家族なら、何をしてもこの家だけで済ませていいんですか」「誰がそんなことを言った。お前は、聞いたことを全部分かったつもりなのか」「分からないから、ほかの人にも聞いてもらいます」「何をする気だ」英明が椅子の肘をつかんだ。若菜はバッグの持ち手を握り直した。声を張り合えば、今度は何を言われるだろう。圭吾を失ってから、何度もこの家で答えを求められた。そのたびに、自分が隠していることが怖かった。今も、怖くなくなったわけではない。「私ひとりでは決められません。今日聞いたことも、まだ知らないこともあります。でも、なかったことにはしません」祥子が顔を上げた。「若菜さん。湊くんのことまで、人に話すことになるかもしれないのよ」その言葉に、足が止まった。湊の出生を伏せたのは自分だ。圭吾に言えなかったことも、言わずに過ごした日々もある。自分に都合の悪いところだけ閉じて、誰かに話を聞いてほしいとは言えない。「必要なら、私が答えます」若菜は祥子を見た。「でも、私に話せなかったことがあるからって、圭吾がどうして亡くなったのか、聞いてはいけないわけではないでしょう」祥子は返事をしなかった。相馬が廊下へ下がった。若菜はふたりに背を向け、開いている扉を通った。&n
「知っていて、私にあんなことを言ったんですか」若菜が尋ねると、祥子は膝の上で握っていた布を離した。白い花の前で、祥子は湊を呼び戻せと怒鳴った。父親との最後の別れまで奪うのかと、母親として何とも思わないのかと。そのとき、この人は知っていた。若菜の夫が、自分で転んだわけではなかったことを。「あの日は、圭吾のことしか考えられなかったの」祥子が言った。「棺が閉まったら、もう顔も見られない。なのに湊くんまでいなくて……」「私も、圭吾を見送っていたんです」若菜の声が震えた。棺のそばで立っていた自分を、祥子は見ていたはずだった。泣き崩れなかったから悲しくないとでも思ったのだろうか。湊がいない理由を説明するために立っていたわけではない。「祥子さんに責められながら、私も、あの人とお別れしていたんです」祥子は若菜を見た。何か言おうとしたが、言葉は続かなかった。英明が椅子の上で身じろぎした。若菜はそちらを見ず、祥子へ尋ねた。「どうして、英明さんは話したんですか」「私が聞いたのよ。ふたりで話していただけなのに、どうしてあんなことになったのかって」祥子の目が、隣の英明へ向いた。「圭吾が亡くなってからよ。何度考えても、分からなかった。転んだとしか聞いていなかったから」英明は何も言わなかった。「引き止めただけだと言ったわ。話が終わるまで、部屋
「部屋へ戻そうとした」英明は立ったまま、若菜へ顔を向けた。「まだ話は終わっていなかった。あいつが勝手に出ていこうとするからだ」「腕をつかんで、戻したんですか」「こっちを向かせた。それから、肩を……」英明の手が胸の高さまで上がり、止まった。若菜はその手を見た。今、目の前の空気を押しかけた手に、あの夜は圭吾の体があった。「押し戻したんですね」「そうだ。だが、転ばせるつもりはなかった」隣の祥子が顔を背けた。若菜は英明から目を離せなかった。「どこで、ですか」「小書斎だ。扉のところでつかんだ。部屋へ戻れと言ったんだ」英明は上げていた手を下ろした。「圭吾が、よろけた。扉の脇に棚があるだろう。低い、木の収納だ。あそこに頭をぶつけた」若菜はその部屋を知っていた。扉を開けると、脇に英明の書類を収めた低い棚がある。以前、圭吾が書類を取りに入るのを、廊下で待ったこともあった。あの棚に。いつもの部屋と夫の姿が結びついた途端、若菜は膝の上のバッグを両手で押さえた。そこに倒れた圭吾を想像したくなかった。けれど、何が起きたかを聞きたかったのは自分だ。「圭吾が、自分で足を滑らせたんじゃなかったんですね」英明は返事をしなかった。扉の脇にいる相馬も動かない。誰かが違うと言うのを、若菜は待っていた。聞き間違いだと分かれば、今ならまだ、あの棚と圭吾を別
「帰ろうとしたことが、圭吾のせいになるんですか」若菜が言うと、英明は椅子の肘掛けから手を離した。「話の途中だったと言っている」「それで、圭吾をどうしたんですか」向かいの祥子が、隣の夫を見た。扉の脇にいる相馬も口を挟まない。若菜は膝に置いたハンカチを握り、英明の返事を待った。圭吾は、考えを変えなかった。そのことを聞いたときは、もう一度夫に会えたようでうれしかった。仕事を離れたら、どんな毎日にしたかったのだろう。その続きを聞く前に、帰ろうとした圭吾が悪かったことにされている。「腕をつかんだだけだ」英明は若菜を見返した。「まだ話が終わっていなかったんだからな」若菜の手が止まった。本邸で転んで、頭を打った。そう聞かされてから、何度も、どうして足を滑らせてしまったのだろうと思った。その前に、この人が圭吾の腕をつかんでいた。「……つかんだんですか」英明は答えず、肘掛けへ手を戻した。若菜は夫が帰ろうとしていたことを、さっき知ったばかりだった。帰ってきていれば、また顔を見られたのだろうか。玄関で湊を呼ぶ声を聞けたのだろうか。そう考えた瞬間、続きの言葉が出なくなった。目の前の人は、夫が向かおうとした先から引き止めた人だった。何が起きたのかを知るには、その人に聞くしかない。「そのことは、私には話してくださらなかったんですね」「引き止めただけだ。それを、お前はどう受け取るつもり
「あなたの話を信じたからでしょう」祥子は隣の英明へ体を向けた。「大げさにするなと言われて、私がどう思うと思うの?あなたが圭吾のそばにいたのよ」英明の口元が動いた。若菜は、その返事より先に祥子へ声をかけた。「圭吾のところへ行ったとき、呼びかけには答えたんですか」祥子が振り向いた。夫に向けていた勢いのまま何か言いかけ、若菜の顔を見ると口を閉じた。卓には、閉じた雑誌が置かれたままだった。若菜はその向こうの祥子を見て待った。ここでまたふたりが言い争えば、圭吾の様子を聞けないままになってしまう。「名前を呼んだら、こちらを見たわ」祥子の声が小さくなった。「返事もしたの」若菜は膝のバッグを握った。「声が、出ていたんですね」「ええ。でも、いつものように話せたわけではないわ。だから、先生に早く来てもらわないと、と思ったのよ」圭吾は、そのときまだ、人の声に応えていた。本邸で転び、救急車で運ばれた。若菜が聞かされてきたその短い説明の中に、夫が誰かの呼びかけを聞き、顔を向けた時間があった。自分も、名前を呼びたかった。そう思った途端、祥子の顔が見えにくくなった。若菜は目を伏せ、バッグからハンカチを出した。連絡があれば間に合ったのか。自分が来ていたら、何かできたのか。それは分からない。けれど、夫の声がまだ出ていたと聞けば、その場にいたかったと思わずにはいられなかった。どんな返事だったのだろう。&







