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沈黙の前奏

last update Last Updated: 2025-09-12 11:07:33

 二人はざわめきの絶えないカフェの隅に腰を下ろし、周囲の視線を気にしつつ、言葉を選ぶように会話を始めた。

「美咲、エミリアを山に呼び出した人って誰だったの?」

「それが、あの日、私たちが山で目撃した人のことらしいの。いたでしょ、怪しい人」

 美咲が身を乗り出すように言った。

 リサはあの日のことを思い出した。数多くいる人の中、他の人たちとは明らかに異なる動きをしていた人物。異なる道を選んで歩き、木の根元や草むらを覗き込んでいた怪しい男……。

「それって誰からの情報?」

「アレックス・ヴァンダーヴィルトよ。いつもカフェでエミリアと一緒に演奏しているピアニスト。あの怪しい男、店の常連客だってことが分かったの。演奏が終わった後、エミリアに近づいて行って話しかけたんだって」

 アレックスはエミリアとは長い付き合いだった。情報源としては信頼できる。しかし……。

「別に話をするくらいなら、おかしくはないと思うけど……」

 あの店は格式が高い店ではない。演奏後に客と会話を交わすことなんてよくある話だ。

「そこなんだけどさ」

 美咲は身を乗り出して小声で話し始めた。

「話しかけたのは、その日が初めてなんだって。いつもは演奏が終わったら食事をし始めるのに、その日に限って、何故かエミリアに話しかけてるの。あまり人と会話を交わしたがらない人らしいよ」

 美咲は言い終えると、今度はバッグから一枚の写真を取り出した。

「実はね。リサを呼び出したのは、これを見せたかったからなの」

 リサはテーブルに置かれた写真をじっと見つめた。

「ほんとだ。この人……山で見た人だ」

 アレックスの背後で、男がエミリアと話をしている。

「私たちが山で見たあの男が、失踪する前日にエミリアに話しかけていたなんて、偶然だとは思えないでしょ。それに見て、このエミリアの表情」

 そう言って、美咲はエミリアを指さした。

「どう? 怖がっているように見えない?」

 リサはしばらく黙って写真を見つめたあと、ゆっくりと頷いた。

「そう見えなくもないかな」

 エミリアがぎこちなく笑い、男から距離を取るように少し身を引いている。曇りのある笑い方だ。

「リサ、どう思う?」

「うーん……確かに怪しいとは思うけど、まだ根拠が薄いかな」

 リサは首を傾けながら答えた。

 前日に話しかけたというだけで、美咲は“山に呼び出した人物”と決めつけ
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  • 失われた二つの旋律   ラナンキュラスの微笑み ①

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