Masukあの日は、私――白石澪(しらいし みお)の結婚式前日だった。 婚約者の桐生悠真(きりゅう ゆうま)の初恋相手、橘陽菜(たちばな ひな)が、突然こんなことを言い出した。 「お願い……私にあなたの代わりに一か月だけ花嫁にならせてくれない? 一か月だけでいいの。その間だけ、悠真さんを私に貸して……」 そんなの、受け入れられるわけがない。 私は迷わず断った。すると陽菜は泣きながら飛び出し、車にはねられて、そのまま命を落とした。 その日の夜、悠真は私の首を絞めたまま、怒鳴りつけた。 「俺はちゃんとお前と結婚するつもりだった! どうして陽菜の願いくらい叶えてやれなかったんだ!」 陽菜を死に追いやったのは私だと信じ込んだ悠真は、その日から私への復讐を始めた。 陽菜によく似た朝倉念美(あさくら ねみ)という女性をそばに置き、私を苦しめ続けた。 そのうえ、悠真の暴力で、お腹の子まで失うことになった。 父も身に覚えのない罪を着せられ、刑務所で命を落とすまで追い詰めた。 その知らせに耐えきれなかった母は心臓を患い、ICUへ運ばれた。 母の治療費を払ってもらうため、私は何度も悠真のもとへ頭を下げに通った。 その日も請求書を手に彼の部屋を訪ねた私は、ドアの向こうから甘い囁き声が聞こえてきて、思わず足を止めた。 半開きのドアの隙間から見えたのは、抱き合う二人の姿だった。 「ねぇ、悠真。私、もうあなたの子どもを授かったのよ? 私、いつになったら正体を明かしていいの?」 その声は、死んだはずの陽菜だった。 そして、悠真は乱れた息を整えると、鼻で笑った。 「まだだ。澪にはもう少し苦しんでもらう。あいつはそれくらいじゃないと懲りない。それに、彼女の母親もまだ俺の金を当てにしてるんだから」 陽菜は死んでなんかいなかった! 私はずっと、自分が陽菜を死なせたんだと思い込んでいた。だから、悠真に何をされても仕方がないと、自分に言い聞かせながら耐えてきた。 でも、その全部が嘘だった。 私は最初から、あの二人の手のひらの上で踊らされていただけだった。 失った子どもも、父も、母も……みんな、そのための犠牲だった。 悠真から金を受け取れたのは、朝になってからだった。 病院へ駆け込んだ私を待っていたのは、母が前の晩に自ら命を絶ったという知らせだった。 母が私に遺した最後の言葉は、たった一つだった。 「澪、ごめんね。もうこれ以上あなたの足を引っ張りたくないの……幸せになって」
Lihat lebih banyak悠真が必死に言い訳を重ねる姿を見ているうちに、胸の奥から苛立ちが込み上げてきた。私は迷うことなく手を振り上げ、その頬を平手で打った。「黙って! 桐生悠真、あなたほど最低な人、見たことない!たとえ命の恩人が念美だと信じてたとしても、恩を返す方法なんて他にいくらでもあったはずでしょ! どうして白石家まで巻き込んだの!? 白石家はあなたを救ってきただけよ!」あの日、父がスラム街で倒れていた悠真を見つけ、哀れんで白石家へ迎え入れ、養子として育てることさえなければ……実の家族を探し出してやることもなかった。悠真は、とっくに野垂れ死んでいたはずだ。それなのに、私たちが救ったのは――最低の恩知らずだった。私が見向きもしないと分かると、悠真は蓮へ向き直り、引きつった笑みを浮かべた。「お、お義兄さん……俺と澪は、まだ夫婦なんです……!」私は護衛に合図を送り、一通の書類を運ばせた。その離婚協議書を悠真の顔へ叩きつけた。「桐生悠真。私たちは、とっくに終わってる。よく見なさい。その署名、あなた自身のものでしょう」悠真は信じられないというように、離婚協議書を何度も見返した。やがて思い出したのだ。あの日、病院の請求書だと思い込み、何の疑いもなく署名したことを。あれが離婚協議書だったと、ようやく気づいた。恐怖がゆっくりと悠真を飲み込んでいった。その顔はみるみる青ざめ、今にも泣き崩れそうだった。「澪……もう……俺を愛してないのか……? 俺たちが過ごしてきた日々まで、全部無駄だったっていうのか……?」目の下の隈も、やつれきった顔も、その言葉が嘘ではないことを物語っていた。きっと、あれからずっと私を捜していたのだろう。でも、それが何だというの。私は静かに彼の手を振りほどいた。「桐生悠真。私の不幸は、全部あなたから始まったの。あなたさえいなければ、私は今も白石家の令嬢として生きていられた。何も失わず、あの頃と変わらない幸せな毎日を送れていた」友人も、家族も、すべて失わずに済んだ。それなのに、悠真は命の恩人を信じ違えた。そのたった一つの思い違いで、私はすべてを失った。私は涙をそっと拭った。もう、この人のために涙を流すことはない。私は蓮を振り返った。「蓮さん。お願い」蓮は静かにうなずいた。
その場にいた全員の視線が、一斉に悠真へと集まった。悠真はひどくやつれ、頬には無精ひげが伸び、かつての面影もないほど憔悴しきっていた。「……そんなはずがない」悠真は力なく笑った。「澪が……九条蓮の妹だなんて……」次の瞬間、私はオートクチュールのドレスをまとい、蓮に手を引かれて壇上へ上がった。蓮はマイクを手に取ると、会場を見渡して静かに口を開いた。「皆さん、本日はお集まりいただき、ありがとうございます。まずは、私の妹をご紹介いたします。――白石澪です」その瞬間、会場はどよめきに包まれた。「白石澪じゃないか! 顔の傷が治ってる……! まるで別人みたいだ!」「桐生社長の奥さんだった人だろ? どうして九条家の令嬢になってるんだ? まずいぞ、これまで彼女にあんな酷いことしちまって……もし本当に九条家の人間なら、俺たち終わりじゃないか……」悠真は勢いよく立ち上がると、よろめきながら私のもとへ歩み寄った。「澪……どうして九条がお前の兄なんだ……?」私は何も答えず、護衛たちへ目を向けた。護衛たちはすぐに悠真を取り押さえた。私はUSBメモリを差し込み、再生ボタンを押した。背後の大型スクリーンに、父が陥れられた証拠映像が映し出された。会場には、悠真と念美の声が響き渡った。「澪の後ろ盾はその父親だ。あの老いぼれさえ潰せば、澪なんてどうとでもなる」「悠真さんって、本当に私には甘いんだから」「念美、お前が俺にとって一番大事なんだ。お前だけは絶対につらい思いはさせない」会場は一瞬にして騒然となった。「何だって!? 白石社長は桐生社長にはめられたのか!」「最低だ……人間のすることじゃない!」今まで悠真に媚びへつらっていた者たちは、一斉に態度を変え、今度は悠真へ非難の声を浴びせ始めた。壇上に立つ蓮は、悠真を見据え、冷たく鼻で笑った。「今日、お前に思い知らせてやる。澪の本当の後ろ盾が、誰なのかをな」私は周囲の喧騒には目もくれず、ゆっくりと悠真の前まで歩み寄った。そして、証拠の入った書類をその顔へ叩きつけた。「桐生悠真。あなたは父を陥れ、刑務所で命を落とさせた。母を死に追いやり……その遺灰まで踏みにじった」本当は冷静に、悠真の罪を一つずつ突きつけるつもりだった。けれど、胸の奥から込み上
蓮が身をかがめた拍子に、二人の額が軽く触れ合った。互いの吐息がかかるほどの近さに、私は弾かれたように半歩後ずさった。「えっと……もう用がないなら、私はこれで……」踵を返しかけたその瞬間、九条が私の腕をつかんだ。「待て、会わせたい奴がいる」蓮に連れられて向かったのは、九条家の地下施設だった。奥まで進むと、そこには二人の男女がいた。一人は念美だった。もう一人は――「た、高橋さん……!? 生きていたの……!?」私は思わず息をのんだ。もう一人は、父に長年仕えていた執事・高橋茂(たかはし しげる)。父が罪を着せられたあの日、偽の証拠を差し出し、父を陥れた張本人だった。私の姿を見るなり、茂は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら叫んだ。「お嬢様! どうか助けてください! 全部、この女と桐生悠真に脅されてやったことなんです!私だって本当はやりたくなかったんです……! あの日からずっと罪悪感に苦しんできました! 旦那様には、本当に申し訳ないことをしました……!」「嘘よ!」念美が金切り声を上げた。「あんた、自分がお金欲しさに、私たちに乗ったくせに!」そう叫ぶと、今度は怯えきった表情で私を見上げた。「澪……全部私が悪かった! 私たち、幼い頃からずっと一緒だったじゃない……! だからお願い……許して……! 子どもまで失って、もう私には何もないの……! お願いだから、命だけは助けて……!」護衛が手を放すと、念美はその場へ崩れ落ち、這うように私の足元まで来ると、必死に頭を床へ擦りつけた。そのとき初めて気づいた。念美の脚は骨を砕かれていた。力なく折れ曲がり、まるで動かなくなっていた。「澪、どうする?」蓮は私の手をそっと包んだまま、念美を容赦なく蹴り飛ばした。私は拳をぎゅっと握り、口元をゆっくりとつり上げた。「この人、ネズミが好きだったみたい……なら、ネズミと一緒に閉じ込めてあげて」蓮は私の手を離すことなく、護衛たちへ軽く顎をしゃくって合図を送った。護衛たちはすぐに念美を連れて行き、鉄の檻へ放り込んだ。あの時私が閉じ込められていたあの檻にそっくりだった。さらに、念美の腹部へ深い傷をつけた。そこでようやく私は気づいた。蓮が用意していたのは、熱せられる仕掛けの鉄檻だった。熱に追われたネズミは、傷
防犯カメラの映像を目にした瞬間、悠真は目を見開いた。画面に映っていた小さな骨壺は、澪があの日、大事そうに抱えて帰ってきたものと、まったく同じだった!その中に納められていた遺灰を念美の犬が舐めていた光景が脳裏によみがえり、悠真は込み上げる吐き気を抑えきれず、その場でえずいた。あの日、澪はまるで魂を失ったような顔で帰ってきた。それなのに自分は、彼女を殴らせ、檻に閉じ込め、挙げ句の果てには、その顔まで傷つけた。それでも当時の自分は、澪を愛しているのはその心であって、顔なんて関係ないと思っていた。傷だって深くはない。治せば済む。念美に恩を返すためなら、それくらい構わない――悠真はそう自分に言い聞かせていた。だが今になって、ようやく気づいた。澪は最初から、このことに巻き込まれる理由などなかった。激しい後悔が胸を締めつけた。悠真は顔を覆い、その場で泣き崩れた。涙は指の隙間から止めどなくこぼれ落ちた。そのとき、秘書から電話が入った。悠真はわずかな希望にすがるように、震える手で通話ボタンを押した。電話の向こうで、秘書は小さく息をついた。「桐生社長……当時の防犯カメラの映像が見つかりました。川へ飛び込んで社長を助けたのは……念美さんではありません。社長を助けたのは……奥様でした」……私が目を覚ますと、そこは200平方メートルはある広々とした寝室だった。目に飛び込んできたのは、豪華なシャンデリアが輝く天井。そして、部屋いっぱいに漂う穏やかな香りだった。「目が覚めたか」男は手にしていた拳銃を置き、手を拭いながらベッドのそばへ歩いてきた。切れ長の目が優しく細められていた。柔らかな笑みを浮かべているのに、その瞳の奥には底知れない危うさが潜んでいた。私は反射的に布団を胸元まで引き寄せた。「……あなた、一体誰なの?」男はふっと口元を緩めた。「新都の九条家だ。もう分かっただろう?」その言葉を聞いた瞬間、胸が大きく跳ねた。まさか、かつて路地裏で助けた銃で撃たれた青年が、九条家の若き当主・九条蓮(くじょう れん)だったなんて……!新都の政財界から裏社会まで、その名を知らぬ者はいない男だった。あの日、目を覚ました彼は、一枚の紙に電話番号を書いて私へ渡した。「何かあったら、こ