LOGIN役所の婚姻届の受付時間終了まで、あと15分。 私、白川茉央(しらかわ まお)と佐伯礼人(さえき あやと)はようやく駆け込んだ。 階段の下に集まっていた友人たちが、急かすように声をかけてくる。 「早く入りなよ!やっとこの日が来たね。8回目の正直でようやく入籍に間に合ったじゃない!」 親友の松本彩音(まつもと あやね)は目を潤ませながら、私のメイクを直してくれた。 入り口に向かおうとした途端、突然、後ろの車の後部座席から礼人の幼馴染である桜井莉乃(さくらい りの)の声が聞こえた。 「ちょっと待って、お守りの組紐ブレスレットが切れちゃったの。編み直さなきゃ」 礼人は立ち止まってこう言った。 「分かった。急がなくていい」 莉乃はうつむいて紐を整えながら、私に向かって笑みを浮かべた。 「茉央、焦らないで。すぐに編み直すから。これ、あなたたちの結婚生活がうまくいくようにって、私が特別に用意した開運のブレスレットなんだよ」 そう言うと、彼女はごく自然な動作でスマートフォンを礼人に差し出した。 「ちょっと持ってて」 礼人はそれを受け取った。 その場が急に静まり返った。 ついさっきまで囃し立てていた友人たちも、皆顔色を変えた。 私は彼を見た。「礼人、役所の窓口は17時で受付終了なの。今入れば、ちょうど間に合うわ」 礼人は眉をひそめた。「俺はもうここに来てるんだ。数分くらい待っても変わらないだろ」 車のそばに立ち、莉乃がブレスレットを編み直すのを待っている彼を見て、私はふと笑みがこぼれた。 うつむいてスマートフォンを取り出し、ある番号にメッセージを送った。 【8回目の入籍もダメなら、自分も候補に入れてって言ってたわよね?17時までに、役所に来て】
View More私は航平の胸に顔を埋めた。「何に対しての『ありがとう』なの?」「僕と家族になってくれて、ありがとう」その言葉に、思わず涙がこぼれ落ちた。この1年間、航平は私のことを本当に大切にしてくれた。時々、これが現実ではないのではないかと錯覚してしまうほどに。けれど、毎朝目を覚まし、キッチンで立ち働く彼の背中を見るたびに、私は実感するのだ。これは夢なんかじゃないと。妊娠中のつわりはひどく、私は何度も吐いてばかりいた。すると航平も心配のあまり、一緒になってげっそりと痩せこけてしまった。見かねた母が彼に言った。「妊娠して辛い思いをしてるのは茉央なのに、どうしてあなたの方がそんなにやつれてるのよ?」航平は真剣な顔で答えた。「代わってやれなくて、見ていて胸が痛いんです」母は背を向けて、こっそりと涙を拭っていた。その後、無事に子供が産まれた。女の子だった。航平は娘を抱きかかえ、目を真っ赤に泣き腫らしていた。私はベッドに力なく横たわったまま、彼に尋ねた。「どっちに似てる?」彼は娘の顔を見て、それから私を見た。「君に似てる。二人とも、すごく可愛い」私が「えこひいきね」とからかって笑うと、彼は身をかがめ、私の額にキスをして言った。「僕はもともと、君だけをえこひいきしてるからね」その瞬間、私はふとずっと昔のことを思い出した。礼人もかつて「えこひいき」という言葉を口にしたことがあった。けれど、彼のそれは別の女性に向けられていた。航平のえこひいきはまぎれもなく、私だけに向けられている。出産から1ヶ月が経ち、お披露目のお祝いの席を設けた日。多くの親戚や友人が集まってくれた。礼人は来なかった。ただ、人づてに贈り物が一つ届けられた。それは赤ちゃんの無事を祈るお守りだった。そして一枚のカードが添えられている。そこにはこう書かれていた。【彼女が一生、愛されますように。そして、お前が永遠に幸せでありますように】私はそれをじっと見つめ、やがてカードを箱の中へとしまった。捨てることはしなかった。けれど、それ以上思いを馳せることもなかった。後に友人から聞いた話では、礼人はこの街を離れたらしい。遠く離れた支社へ異動したそうだ。彼はあれから誰とも恋愛をしておらず、結婚もしていない。前を向
「もう二度と、彼女を一人で待たせたりはしません。物分かりよく我慢させるようなこともしません。今日この日から、彼女のいる場所が僕の帰る家です」私の目から涙がこぼれ落ちた。牧師が私に問いかける。「あなたは柏木航平さんを夫とし、生涯愛することを誓いますか?」私は彼を見つめた。脳裏に、たくさんの情景がフラッシュバックする。役所の窓口が閉まる最後の1分前、彼が私に差し伸べてくれた手。車の中に用意されていたフラットシューズ。熱を出した夜に持ってきてくれた白湯。雨の中、私の方へと傾けられた傘。そして彼が事あるごとに、私に尋ねてくれた言葉。「……いいかな?」私はふっと、心からの笑みをこぼした。「はい、誓います」参列者たちから拍手が沸き起こる。波の音も、どこまでも優しかった。指輪の交換の時、参列者の最後列に、一人の姿があるのが見えた。礼人だった。彼は黒のスーツを着て、青白い顔をしていた。近づいてくることも、騒ぎ立てることもなく、ただ遠くから見つめている。私の指にリングがはめられた瞬間。彼はうつむき、その肩を小刻みに震わせた。私は動きを止めることも、心が揺らぐこともなかった。なぜなら、はっきりと分かっていたから。私は今、新しい生活へと歩みを進めている。過ぎ去った泥沼を、二度と振り返るわけにはいかないのだ。披露宴が終わり、お色直しのドレスから着替えて出てきた時、控室の入り口で礼人と鉢合わせた。彼の手には、一つの封筒が握りしめられている。「茉央」その声はとても弱々しかった。「邪魔しに来たわけじゃないんだ。ただ、これを渡したくて」私は受け取らなかった。「何、これ?」「……お祝いだよ」彼は自嘲気味に笑った。「それと、謝罪」航平は少し離れたところに立っていた。歩み寄ってくることはせず、私に選択権を委ねてくれている。私は結局、その封筒を受け取った。「ありがとう」礼人は私を見つめていた。その目はひどく赤く充血している。「今日のお前……すごく綺麗だったよ」私は答えた。「ありがとう」彼は長く沈黙した後、ぽつりと尋ねた。「彼は、お前を大事にしてくれてるか?」私は少し離れたところにいる航平へと視線を向けた。彼は私の母と穏やかに言葉を交わしている。その腕には、私が冷えないようにと、私のシ
そこに写っていたのは、彼にペットボトルの水を差し出しながら、満面の笑みを浮かべる私の姿だった。二枚目は初めて二人で行った旅行の写真。彼の肩にこてんと頭をもたせかけて眠っている。三枚目はプロポーズの日。私は目を真っ赤に腫らして泣いていた。それらの写真は、古びたナイフのようだった。かつてほどの鋭さはないけれど、それでも傷跡の痛みを呼び覚ますには十分だ。礼人は声を詰まらせた。「茉央……俺、昔は本当に幸せだったんだ。ただ、俺は分かってなかった。お前が俺から離れていくわけないって、ずっと高を括ってたんだ。機嫌をとればなんとかなるって、そう思ってた……俺は、取り返しのつかない間違いを犯したんだ」私はアルバムを見つめ、長い沈黙の後に口を開いた。「礼人。あなたが幸せだった時、私は幸せじゃなかったの」彼は呆然と固まった。私は続けた。「あなたは私がいつまでも待つと思ってたわね。でも、私があなたを待つたびに、少しずつ、少しずつ失望していったの。7年という月日は、ある日突然終わったわけじゃない。毎日の積み重ねの中で、日々終わりに向かっていたのよ」彼の目から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。「じゃあ……ほんの少しも、名残惜しいとは思わなかったのか?」私は嘘をつかなかった。「あったわ。あの役所に行く日までは、ずっと手放したくなかった」彼の瞳に、すがりつくような微かな光が灯る。しかし、私の次の一言がそれを容赦なく踏み消した。「でも、あの日を境に、きれいさっぱり消えたわ」彼は完全に打ちのめされたように、がっくりと背中を丸めた。「……俺の負けだ」私は言った。「航平に負けたんじゃないわ。あなたは、あなた自身に負けたのよ」礼人が帰った後、テーブルにはアルバムが置かれたままだった。私はそれを持って帰ることはしなかった。後になって聞いた話では、彼は3日間部屋に引きこもり、誰とも会おうとしなかったらしい。礼人の母から電話がかかってきた。泣き出しそうな声だった。「茉央ちゃん、礼人があなたに酷いことをしたのは分かってるわ。でも、あの子も今は本当に反省しているの。お願い、一度だけでいいからあの子に会ってやってくれない?」私はスマホを握りしめ、ひどく穏やかな声で答えた。「おばさん。彼が苦しいなら、お医者さんに診てもらってく
病が治った後、私は少しずつ、この結婚生活に向き合い始めた。航平と一緒にスーパーへ行き、一緒にご飯を作り、一緒にカーテンを選び、週末は一緒にソファで丸まって映画を見た。彼は気の利いた甘い言葉など口にしないけれど、どんな些細なことでも完璧にこなしてくれた。残業で遅くなった夜は、会社のビルまで夜食を届けてくれた。私がふと「焼き芋が食べたい」とこぼせば、街を半周してでも買ってきてくれた。生理痛でお腹が痛む時は、言われずとも痛み止めを用意してくれた。彼は、いつになったら自分を愛してくれるのかと問うこともなく、見返りを急かすことも決してなかった。ただ静かに私のそばに寄り添い、ズタズタに砕け散っていた私の安心感を一つ一つ、丁寧に拾い集めて繋ぎ合わせてくれた。一方で、礼人はというと、相変わらず私の生活のあちこちに姿を現していた。ある時のこと。私と航平はウェディングフォトの前撮りに出かけた。スタジオの入り口に礼人が立っていた。彼の手には、一束のクチナシの花が握りしめられている。ウェディングドレス姿で出てきた私を見て、彼は全身を硬直させた。そのドレスはとてもシンプルなものだった。シルクサテン生地の、長袖のデザイン。航平が一緒に選んでくれたものだ。彼は言った。「これを着た君は、まるで月明かりみたいだ」私は「キザね」と笑った。彼はその後ずっと、照れて耳を真っ赤にしていた。礼人は私を見つめていた。その目は恐ろしいほど血走っている。「本当に……あいつと結婚式を挙げるのか?」私は頷いた。「ええ」彼はごくりと生唾を飲み込んだ。「じゃあ、俺たちの結婚式はどうなるんだよ?」私は滑稽に思い、笑いそうになった。「私たちに結婚式なんてないわ。礼人、私たちは籍さえ入れられなかったじゃない」彼は顔面を蒼白にした。「でも、俺はプロポーズしただろ。お前も『はい』って言ってくれたじゃないか?俺だって……もう十分に後悔したんだ」私は彼を冷ややかに見据えた。「後悔は消しゴムじゃないのよ。つけてしまった傷は、二度と消せないわ」スタジオの奥からカメラマンの声が響いた。「新郎新婦様、ご準備をお願いします」航平が出てきた。礼人の姿を認めると、かすかに眉をひそめる。私は自ら彼に歩み寄り、その腕にそっと自分の腕を絡めた。「