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原則は私に、特別扱いは彼女に

原則は私に、特別扱いは彼女に

Por:  山田奈々子Completo
Idioma: Japanese
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恋人が医師だと知ると、親戚たちは口々に羨ましがった。 「これで、お母さんが病院にかかるときも安心ね」 「お医者さんが娘婿になるなら、予約も専門医の紹介も融通が利くでしょう」 私・高瀬美緒(たかせ みお)は笑って首を横に振った。 「そういう特別扱いはしない人だから」 それが、黒川創真(くろかわ そうま)の信条だった。 母が心筋梗塞で入院し、急いで冠動脈バイパス手術を受けなければならなかったときも。 私が、どの専門医に診てもらうべきか聞いてほしいと頼んだだけなのに、創真は腹を立てた。 「美緒、俺を困らせないでくれ。俺が立場を使って誰かを特別扱いするのを一番嫌ってるって、知ってるだろ」 彼を困らせたくなくて、その後の3年間、私は二度と何も頼まなかった。 ところが今日、母の診察に付き添って病院を訪れ、特別外来の前を通りかかったとき、甘えるような女の声が聞こえた。 「幼なじみがお医者さんで本当によかった。病院に来るたび、創真が特別枠で案内してくれるの。予約も待ち時間も、気にしたことないんだから」 思わず足が止まった。 顔を上げると、水野莉奈(みずの りな)の隣に立っていたのは、3年間付き合ってきた私の恋人、創真だった。

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Capítulo 1

第1話

そばにいた看護師たちは莉奈の話を聞き、笑いながら口々に言った。

「水野さんは本当に幸せですね」

「黒川先生、普段はあんなにそっけないのに、水野さんには本当に細やかですもの」

「そうそう。特別診療枠はなかなか取れないのに、先生がひと言頼めば、水野さんは毎回すぐ診てもらえるんですから」

莉奈は目を細めて笑った。

「そんなことないですよ。創真は昔から気が利くんです」

控えめに否定しているようで、その声には得意げな響きが隠しきれずににじんでいた。

私はその場に立ち尽くし、母の診察受付票を少しずつ握りしめた。

昨夜からほとんど眠らずに予約枠を確認し続け、午前4時になってようやく取れた予約だった。

一般外来で待ち、検査室で待ち、会計でもまた待った。

足の悪い母は顔を青ざめさせながら、それでもずっと「大丈夫」と言っていた。

それなのに創真はどうだろう。

彼なら、ひと言確認するくらいはできたはずだ。たったひと言でよかった。

けれど、彼が私に返す答えは、いつも「原則」だった。

今すぐ駆け寄って問い詰めたかった。

創真。

あなたの原則はどこへ行ったの。

あれほど特別扱いを嫌っていたのは、何だったの。

ところが一歩踏み出した途端、母に手首をつかまれた。

やせ細った手の関節が食い込み、痛いほどだった。

「美緒、行かないで」

母は首を横に振り、私をなだめた。

「私のことで創真くんと喧嘩しないで。仕事も忙しいし、プレッシャーだって大きいでしょう。それに、ちゃんと診てもらえたんだから、少しくらい待ってもいいじゃない」

鼻の奥がつんとした。

問題は、少し待つことではなかった。

この3年間だった。

初めて断られて以来、私は一度も彼に助けを求めなかった。

困らせたくなかった。聞き分けのない女だと思われたくなかった。

私が「わきまえのないこと」をすれば、二人の関係まで気まずくなってしまう気がしていた。

けれど今、颯真は自ら莉奈に付き添い、看護師に一つひとつ細かく念を押していた。

「セフェム系抗菌薬にアレルギーがある。カルテにはっきり書いておいて。痛みに弱いから、採血はできるだけ優しく。それから消毒液のにおいが苦手だから、診察室の換気もお願い」

淡々とした声だったが、ひと言ひと言に細やかな気遣いがこもっていた。

莉奈が彼を見上げ、嬉しそうに笑った。

「創真、まだ覚えてたの?」

創真は莉奈を見下ろした。その目には、私がほとんど見たことのない柔らかさがあった。

「莉奈のことなら、覚えてるに決まってる」

両家の顔合わせをした日のことが、ふいに脳裏をよぎった。

母は魚介類にアレルギーがあり、特にカニやエビは口にできない。私はそのことを、前もって何度も彼に伝えていた。

それなのに、初めて母に会いに来た日、創真が手土産に持ってきたのは、大きなカニとエビの詰め合わせだった。

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第1話
そばにいた看護師たちは莉奈の話を聞き、笑いながら口々に言った。「水野さんは本当に幸せですね」「黒川先生、普段はあんなにそっけないのに、水野さんには本当に細やかですもの」「そうそう。特別診療枠はなかなか取れないのに、先生がひと言頼めば、水野さんは毎回すぐ診てもらえるんですから」莉奈は目を細めて笑った。「そんなことないですよ。創真は昔から気が利くんです」控えめに否定しているようで、その声には得意げな響きが隠しきれずににじんでいた。私はその場に立ち尽くし、母の診察受付票を少しずつ握りしめた。昨夜からほとんど眠らずに予約枠を確認し続け、午前4時になってようやく取れた予約だった。一般外来で待ち、検査室で待ち、会計でもまた待った。足の悪い母は顔を青ざめさせながら、それでもずっと「大丈夫」と言っていた。それなのに創真はどうだろう。彼なら、ひと言確認するくらいはできたはずだ。たったひと言でよかった。けれど、彼が私に返す答えは、いつも「原則」だった。今すぐ駆け寄って問い詰めたかった。創真。あなたの原則はどこへ行ったの。あれほど特別扱いを嫌っていたのは、何だったの。ところが一歩踏み出した途端、母に手首をつかまれた。やせ細った手の関節が食い込み、痛いほどだった。「美緒、行かないで」母は首を横に振り、私をなだめた。「私のことで創真くんと喧嘩しないで。仕事も忙しいし、プレッシャーだって大きいでしょう。それに、ちゃんと診てもらえたんだから、少しくらい待ってもいいじゃない」鼻の奥がつんとした。問題は、少し待つことではなかった。この3年間だった。初めて断られて以来、私は一度も彼に助けを求めなかった。困らせたくなかった。聞き分けのない女だと思われたくなかった。私が「わきまえのないこと」をすれば、二人の関係まで気まずくなってしまう気がしていた。けれど今、颯真は自ら莉奈に付き添い、看護師に一つひとつ細かく念を押していた。「セフェム系抗菌薬にアレルギーがある。カルテにはっきり書いておいて。痛みに弱いから、採血はできるだけ優しく。それから消毒液のにおいが苦手だから、診察室の換気もお願い」淡々とした声だったが、ひと言ひと言に細やかな気遣いがこもっていた。莉奈が彼を見上げ、嬉しそうに笑
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第2話
私は言葉を失った。すると創真は眉をひそめた。「最近は手術続きなんだ。そんなことまで覚えていられるか。手ぶらで来なかっただけ、礼儀は尽くしただろ」あの日、母は笑ってその場を取り繕った。「気にしなくていいの。食卓が華やかになるだけでも嬉しいから」と。けれど夜になると、母の肌には人知れず発疹が出ていた。私を悲しませまいと、母は最後まで黙っていた。胸の奥が鈍く痛んだ。私のためには曲げられなかった原則を、創真は莉奈のためなら簡単に曲げた。私の話は覚えていられないと言ったのに、莉奈のことは何もかも覚えていた。特別外来で楽しそうに笑い合う二人を見ているうちに、自分がひどく滑稽に思えてきた。この3年間、私は何度も自分に言い聞かせてきた。創真はただ無愛想なだけ。気持ちを言葉にするのが苦手なだけ。誰に対しても、感情より規則を優先する人なのだと。けれど、違った。彼は優しくできる。細やかに気遣うこともできる。大切な人のためなら、どんな一線でも越えられる。ただ、その相手が私ではなかっただけだ。……「お母さん、病室に戻ろう」もう問いただす気はなかった。揉める気にもなれなかった。答えは、目の前に出ていた。母を病室へ送り届けたあと、会計を済ませ、薬を受け取り、診察結果を医師に確認した。病室に戻ると、母はもう眠っていた。スマホが何度も震えた。すべて仕事のグループチャットからの通知だった。ノートパソコンを開き、企画書の修正に取りかかった。本当は、ひどく疲れていた。明け方から予約を取り、母の検査に付き添い、入院手続きを終えるまで、丸一日で口にしたのはパンを半分だけだった。それでも、休むわけにはいかなかった。働いて、母の治療費と手術費を稼がなければならない。創真には彼の原則があり、助けてはくれない。ならば私は、誰にも頼らずに済む人間になるしかなかった。仕事を終えたときには、午前2時を回っていた。病室には、医療機器のかすかな作動音だけが響いていた。母はまだ眠っていた。コップを手に給湯室へ向かうと、その入口に創真がいた。白衣姿の彼は、目元に疲れをにじませていた。私に気づくと、自分から歩み寄ってきた。「顔色が悪い。どこか具合でも悪いのか?」見上げた彼の顔に、廊下
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第3話
私はうなずいた。目の奥が焼けるように熱かった。「そうね。私はあなたの恋人だものね。だから聞き分けよくしなきゃいけない。あなたを困らせちゃいけない。明け方から予約を取って、病院中を走り回って、治療費を払ったあとも徹夜で仕事をする。それで、あなたがほかの人にだけ特別なことをしてあげるのを、黙って見ていればいいんでしょう?」声は次第に小さくなり、最後には自分でも聞き取れないほどになった。創真は私を見つめ、ようやく何かに気づいたようだった。手を伸ばして私に触れようとした。「美緒、そういう意味じゃない」私は一歩後ろへ下がり、その手を避けた。たった一歩だった。けれど、その一歩で、3年間目を覚まさなかった自分がようやく現実を見た気がした。いつも彼の言い訳を代わりに探していた私。傷つきながらも「平気」と笑っていた私。聞き分けよくしていれば、いつか大切にしてもらえると信じていた私。突然、どうしようもなく疲れた。言い争うことさえ、もう力の無駄に思えた。私は彼を見つめ、静かに告げた。「創真、別れよう」彼はその場で固まった。意味が分からないという顔だった。数秒して、ようやく眉をひそめた。「お母さんを特別扱いしなかったから、それだけで別れるのか?」喉が詰まる思いだったが、それでも、私はうなずいた。「そう。それだけ」創真は呆れたように笑った。「美緒、今は感情的になってる。別れるなんて、勢いで口にするな」私は彼を見た。もう説明する気力さえなかった。コップを持ったまま彼の脇を通り過ぎた。「勢いで言ったんじゃない。もう決めたの」創真が私の腕をつかもうとした、そのときだった。突然、彼のスマホが鳴った。莉奈からだった。画面を見た途端、彼の眉間に浮かんでいた苛立ちが消えた。「莉奈?」電話の向こうで何を言われたのか、創真の声はたちまち優しくなった。「怖がるな。今すぐ行く」電話を切ると、私を見た。「美緒、この話はあとでしよう」私は答えず、お湯を手に病室へ戻った。扉が閉まった瞬間、その扉に背を預けた。涙がようやく頬を伝った。別れ話まで、莉奈のあとに回されるのか。翌朝、会計を済ませて病室へ戻ると、扉が少し開いていた。中から莉奈の声が聞こえた。
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第4話
「一生、おばさんの病気に縛られて生きていくなんて、かわいそうです。本当に美緒さんのことを思うなら、これ以上彼女に無理をさせるべきじゃないと思います」その言葉が落ちた直後、母が突然、激しく息を乱した。胸を押さえたまま、体が横へ崩れた。「お母さん!」私は駆け寄って母を支えた。額には冷や汗がびっしり浮かび、唇は紫色に変わっていた。母の指が私の袖を必死につかんだ。「美緒……お母さんが……あなたの重荷になってるの?」涙が一気にこぼれた。「違う!お母さんは重荷なんかじゃない!あの人の話なんて聞かないで。お願いだから、私を怖がらせないで!」けれど母の呼吸はますます速くなった。胸が大きく上下しているのに、どうしても息を吸い込めないようだった。私は夢中でナースコールを押した。「先生!誰か来て!早く!」病室はたちまち騒然となった。その様子を見た莉奈も青ざめ、そっと後ずさると、そのまま病室から逃げ出した。母は救命処置室へ運ばれた。私はそのあとを追ったが、足に力が入らず、立っているのがやっとだった。医師は検査結果をめくるうち、表情を険しくしていった。「非常に危険な状態です。以前にも手術を受けておられ、心臓の機能がかなり落ちています。すぐに処置しなければなりません」私は医師の袖をつかんだ。「お願いします。母を助けてください」医師は私を見た。「難しい症例です。当院でこの種の手術に最も詳しいのは、黒川先生です」体が凍りついた。冷水を頭から浴びせられたようだった。結局、私はまた彼に頼るしかなかった。スマホを取り出したが、手が震え、番号さえうまく押せなかった。1度目は出なかった。2度目も出なかった。3度目で、ようやくつながった。向こうは騒がしく、その中に莉奈の涙声が聞こえた。「創真、手が痛い……」すぐに創真の声が続いた。「俺がいる。怖がらなくていい」私は唇を強くかんだ。「創真。お母さんが救命処置を受けてるの。危険な状態で、先生があなたにも来てほしいって」電話の向こうが、一瞬静かになった。次いで、創真の声が冷たくなった。「美緒、いい加減にしてくれないか」私は耳を疑った。「ふざけてなんかいない。お母さん、本当に今、救命処置を受けてるの」彼は怒
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第5話
看護師から、緊急処置や治療に関する同意書を何枚も渡された。手がひどく震えた。最後の一枚に書いた名前は、文字の形さえ分からないほど崩れていた。私は何度も繰り返した。「母を助けてください。お願いします。どうか、助けてください」救命処置室のランプは、いつまでも消えなかった。空が明るくなり、また暗くなるまで。廊下を行き交う人が、何度も入れ替わるまで。とうとう泣く声さえ出なくなるまで。やがて、医師がマスクを外して出てきた。その目は重く沈んでいた。「高瀬さん。できる限りの処置はしましたが……残念ながら、お力になれませんでした」その瞬間、世界からすべての音が消えた。母がいなくなったのだと、残酷なほどはっきり分かった。私を困らせまいと、冷や汗を流すほど痛くても「大丈夫」と言った人。入院するたびに費用を気にして、薬を勝手に減らしていた人。親戚に「うちの娘は立派になった」と、嬉しそうに話していた人。その人が、もういない。私はその場に立ち尽くした。涙すら出なかった。……その後の数日間、私は抜け殻のようになりながら、たった一人で母の葬儀を終えた。そして、最後の荷物を引き取るために病院へ戻った。病室にはもう別の患者が入り、シーツは真っ白に取り替えられていた。窓辺には、小さな鉢植えだけが残っていた。入院した初日、母を元気づけたくて買ったものだった。「美緒、退院するときはこれも家に持って帰ろうね。お母さんが元気いっぱいに育ててあげるから」鉢を抱き上げると、涙が土に落ちた。スマホにメッセージが届いた。創真からだった。【今どこにいる?】返信しなかった。続けて、また届いた。【あの日は言い方がきつかった】【一度会いたい】【顔を見て話せないか?】私は答えず、スマホの電源を切った。母が残したわずかな荷物を抱え、病院を出た。ところが正面玄関まで来ると、創真が立っていた。ずいぶん長く待っていたようだった。白衣を腕に掛け、目には赤い血管が浮いていた。私を見つけると、足早に近づいてきた。「美緒」私は立ち止まったが、何も言わなかった。青ざめた私の顔を見て、創真は深く眉を寄せた。「どうして何日も電話に出なかったんだ?お母さんの具合は?」「お母
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第6話
創真の手が、びくりと止まった。私の手首を握る力が一瞬強まり、次の瞬間には、やけどでもしたように離れた。看護師を凝視するうち、彼の顔からみるみる血の気が引いていった。「今、何て言った?」急に鋭くなった声に、看護師はおびえ、言葉を詰まらせながら繰り返した。「た、高瀬さんのお母さまは……先週の水曜日の夜、救命処置の甲斐なく……亡くなられました……」「先週の水曜日」という言葉が、鈍い刃のようにゆっくりと空気を切り裂いた。創真が息をのみ、そのまま呼吸さえ止めたのが分かった。ゆっくりと振り向き、私を見た。その目には、信じられないという思いしかなかった。「美緒」声がかすれていた。「今の話……本当なのか?」私は何も答えなかった。創真は一歩踏み出すと、取り乱したように両手で私の肩をつかんだ。「嘘だと言ってくれ。お母さんは元気だっただろ?あの日だって、美緒は給湯室で俺と話して――」「あれは月曜日だった」彼の言葉を遮った。自分の耳にも届かないほど、かすかな声だった。「火曜日の夜にお母さんが救命処置を受けて、水曜日の未明に亡くなったの」創真の瞳孔が大きく縮んだ。胸を強く殴られたように半歩よろめき、何度も唇を動かしてから、ようやく声を絞り出した。「あの夜……俺に電話を……」「そう。あの夜、あなたに3回電話した」彼は呆然と私を見た。私が冗談を言っている証拠でも探すように、私の顔を食い入るように見つめていた。けれど私の顔からは血の気が引き、目は乾いたままで、もう涙さえ出なかった。「あなたは、私が嘘をついてると言った」あの夜の言葉を、淡々となぞった。「病院にはほかにも医師がいる。莉奈の手当てに付き添うから、用もないのに電話するなって。それから、電源を切った」ひと言告げるたび、創真の顔から血の気が引いていった。最後には、全身の力が抜けたようにその場に立ち尽くし、唇からもすっかり血の気が失せていた。「知らなかった……本当に、知らなかったんだ……」彼は突然、私の手をつかんだ。冷たい手のひらだった。骨が痛むほど、強く握りしめられた。「美緒、どうして言ってくれなかった?どうして、ちゃんと説明しなかったんだ?」手首に食い込む指を見下ろすと、ひどく疲れた。「私はちゃ
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第7話
「創真。莉奈をここへ呼んで」彼は目を見開いた。「あの日、莉奈はお母さんの病室へ来て、いろいろ言ったの。お母さんは私の重荷だとか、あなたの家族も迷惑に思っているとか、私の人生がお母さんの病気に縛られるべきじゃないとか。お母さんが急変したのは、その話を聞いた直後だった」私はひと言ずつ、ゆっくりと告げた。まるで、自分とは関係のない出来事を説明しているようだった。創真の表情が少しずつ崩れていった。「莉奈が……お母さんの病室で、そんなことを言ったのか?」「そう。信じる?」彼は口を開いた。「莉奈はそんな人間じゃない」と言いかけたのだろう。けれど、その言葉は喉につかえ、最後まで出てこなかった。迷いを見て、思わず笑った。「ほら。やっぱり私を信じない」背を向けた途端、また手首をつかまれた。今度は、壊れ物に触れるように、ほとんど力を込めていなかった。「信じる」低い声だった。全身の力を振り絞るように、もう一度言った。「美緒を信じるよ」振り返ると、創真の目は真っ赤に充血し、下まぶたまで赤く染まっていた。私をじっと見つめていた。この3年間、見落としてきたものすべてを、今さら私の表情から読み取ろうとしているようだった。けれど私は、彼の指を一本ずつ、静かに外した。「信じても、信じなくても、もうどうでもいい。創真、お母さんは死んだの。あなたが信じようと信じまいと、もう戻ってこない」病院の正面玄関を出ると、背後の明かりは分厚いガラス扉に細く切り取られ、やがて完全に閉ざされた。母の鉢植えを抱え、7月の強い日差しの下に立った。肌は焼けるほど熱いのに、骨の奥まで凍りついていた。ポケットの中で、スマホがいつまでも震えていた。見なくても、誰からか分かっていた。けれど、もう応える力はなかった。葬儀から7日後、私は創真と暮らしていた部屋へ戻った。鍵を差し込み、いつもの癖で回した。扉を開けると、リビングは静まり返っていた。ローテーブルには先週買った果物がまだ置かれ、しなびて皮にしわが寄っていた。ソファには彼のグレーの部屋着が掛かり、リモコンがクッションの脇に斜めに転がっていた。部屋には、彼のにおいが染みついていた。かすかな消毒液のにおいと、シダーウッドの香りがする洗剤。それ
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第8話
彼からの誕生日の言葉を待った。私だけに向ける特別な扱いを待った。たった一度でいいから、私のために原則を曲げてくれる日を待った。自分がまだ足りないからだと思っていた。もっと聞き分けよく、もっと思いやりを持ち、もっと彼に尽くさなければならないのだと。ところが莉奈が現れた。彼女は何もしなくてよかった。ただそこにいるだけで、創真は、私がどれほど望んでも手に入らなかったものを、何もかも差し出した。スーツケースのファスナーを閉じた、そのときだった。背後で扉が開いた。創真が立っていた。白衣から着替える暇もなかったらしく、手にはスマホを握っていた。足元のスーツケースを見た瞬間、その場に縫いつけられたように動かなくなった。「出ていくのか?」声は今にも切れそうな糸のように、張り詰めていた。私は顔を上げず、最後のセーターをスーツケースに押し込んだ。「今月分の家賃はもう払ってあるから、来月までは住める。敷金は返さなくていい。早く解約する分に充てて」「美緒」彼は大股で近づき、スーツケースを手で押さえた。「話をしよう」私は体を起こし、ようやく彼を見た。先週よりさらにやせ、目はくぼみ、顎には剃り残した青いひげが浮いていた。いつも冷静だった瞳には、隠しきれない動揺が浮かんでいた。「何を話すの?」喉仏が上下した。「莉奈のことは……本人に聞いた」私は黙って続きを待った。「あの日は、お母さんを見舞うために、自分で作ったお粥を持っていったそうだ。俺たちが喧嘩したと知って、仲直りさせようとした。でも、言葉を選べず、余計なことを言ってしまった。悪気はなかったらしい」創真は話している間、ずっと私の表情をうかがっていた。少しでも気持ちが揺らぐのを待っているようだった。私は最後まで聞き、うなずいた。「それで?」「美緒に謝るよう言った。莉奈も分かったと言ってる。明日、二人で会おう。面と向かって謝らせるから」颯真は焦ったように言葉を継いだ。「創真。お母さんは死んだの」彼の顔から、また血の気が引いた。「莉奈に悪気があったかどうかで、結果は変わらない。あの人の言葉で、お母さんは強い衝撃を受けた。あなたが、故意じゃない、ただ言葉を間違えただけだと思うのは自由よ。でも、私は莉奈を許せない。
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第9話
創真は勢いよく顔を上げた。「私を愛していたなら、私の家族を守りたいと思ったはず。私を傷つけたくないと思ったはず。たった一度くらい私のために例外を認めても、それでよかったと思えたはずよ。でも、あなたは一度もしなかった」私は彼を見つめた。「莉奈を特別枠に入れたとき、原則のことを考えた?アレルギーも、痛みに弱いことも、消毒液のにおいが嫌いなことも覚えていて、あれこれ気を配ったとき、『立場を利用してはいけない』と考えた?考えなかったでしょう。あなたにとって、あれは特別扱いではなく、いつものことだった。自分から莉奈にしてあげたいと思っていたことだから」創真の唇が震えた。「それなのに、私が何か頼めば、あなたには押しつけにしか思えなかった。そこまで嫌なら、無理して応えてもらう必要なんてなかったのに」私は腰をかがめ、スーツケースを押さえていた彼の手をそっと外した。「もういい。そんなふうにしてまで何かしてもらいたいとは思わない。これからは、一人でやっていくから」キャリーハンドルを引き上げると、車輪が床を低く鳴らした。玄関まで歩いたところで、背後から、限界まで押し殺した声が聞こえた。「美緒」足を止めたが、振り返らなかった。「もし……俺がお前を愛してると言ったら?」声はかすれ、ほとんど聞き取れなかった。ハンドルを握る手に力が入った。とうに感覚を失ったはずの胸が、不意に鋭く痛んだ。肉の中に折れて残ったとげを、いきなり深く押し込まれたような痛みだった。「創真。あなたが愛していたのは、決してあなたを困らせない私よ。あなたを困らせず、例外を求めず、いつも聞き分けよく振る舞う人が必要だっただけ。でも、私はもう、その人じゃない。お母さんが亡くなった日から、私はその人ではなくなったの」扉を閉めた瞬間、部屋の中で何かが激しく床へ落ちる音がした。鈍く、砕けるような音だった。まるで、彼を辛うじて支えていた最後の何かが、音を立てて崩れ落ちたようだった。私は振り返らなかった。部屋を出たあと、職場の近くにある小さなワンルームを借りた。無理なく払える家賃で、支払いを済ませても食費には少し余裕が残った。毎朝6時に起き、身支度をして、簡単な朝食を取り、仕事へ向かった。夜10時まで残業して帰宅すると、シャワーを浴び、本
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第10話
紙袋に目を落とした。中に入っていたのは、青々とした新しい鉢植えだった。病院から持ち帰った、あの鉢ではない。私の疑問に気づいたのか、創真は目を伏せた。「あの鉢は……俺が枯らした。ごめん」喉が急につかえた。「ごめん」と言ってうつむく姿は、別れた夜、目を真っ赤にして「愛してると言ったら?」と尋ねたときによく似ていた。おそるおそる、最後に残った何かを握りしめ、手放すまいとしているようだった。けれど、見覚えのない鉢植えを見ても、私の心には何も浮かばなかった。「いらない。あなたが持っていて」紙袋を差し出した手が、宙で止まった。長い沈黙のあと、創真は手を引っ込め、かすかな声で言った。「どこに住んでる?送っていく」「いい。すぐ近くだから」「美緒」呼び止められ、足を止めた。街灯に引き伸ばされた創真の影が、私の足元まで届いていた。「病院を辞めた」振り返った。「特別外来の仕事は、すべてほかの人に引き継いだ。莉奈にも……はっきり伝えた。これから先、莉奈がどうなろうと、俺には関係ない」彼は目を真っ赤にしながら、それでも懸命に笑おうとした。「美緒の言うとおりだ。俺が愛していたのは、ありのままの美緒じゃなかった。俺を困らせない、都合のいい幻だった。でも、この3年間、お前がつらそうにするたび、本当は気づいてた。俺は見えないふりをしていただけだ。今は、ちゃんと見えてる。もう一度だけ……機会をくれないか?」風が吹いた。7月末の夜風には、真夏の湿った熱気がまとわりついていた。それでも私は寒かった。骨の隙間から、冷たさが幾重にも染み出してくるようだった。「創真。病院を辞めることも、莉奈と縁を切ることも、新しい鉢植えを育てることも、あなたがしたいなら、自分のためにすればいい。でも、私のためにはしないで。私はもう、何も必要としていないから。お母さんが生きていたとき、私はあなたを必要としていた。けれど、あなたはいなかった。お母さんがいなくなった今、何をされても、もう意味はない」創真は街灯の下に立ち尽くした。紙袋が指先から滑り落ち、かすかな音を立てて地面に落ちた。鉢植えが転がり、土がアスファルトの上に散らばった。鮮やかな緑の葉にも、灰色の埃がまとわりついていた。私は背を向けて歩き出した。
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