FAZER LOGIN恋人が医師だと知ると、親戚たちは口々に羨ましがった。 「これで、お母さんが病院にかかるときも安心ね」 「お医者さんが娘婿になるなら、予約も専門医の紹介も融通が利くでしょう」 私・高瀬美緒(たかせ みお)は笑って首を横に振った。 「そういう特別扱いはしない人だから」 それが、黒川創真(くろかわ そうま)の信条だった。 母が心筋梗塞で入院し、急いで冠動脈バイパス手術を受けなければならなかったときも。 私が、どの専門医に診てもらうべきか聞いてほしいと頼んだだけなのに、創真は腹を立てた。 「美緒、俺を困らせないでくれ。俺が立場を使って誰かを特別扱いするのを一番嫌ってるって、知ってるだろ」 彼を困らせたくなくて、その後の3年間、私は二度と何も頼まなかった。 ところが今日、母の診察に付き添って病院を訪れ、特別外来の前を通りかかったとき、甘えるような女の声が聞こえた。 「幼なじみがお医者さんで本当によかった。病院に来るたび、創真が特別枠で案内してくれるの。予約も待ち時間も、気にしたことないんだから」 思わず足が止まった。 顔を上げると、水野莉奈(みずの りな)の隣に立っていたのは、3年間付き合ってきた私の恋人、創真だった。
Ver mais紙袋に目を落とした。中に入っていたのは、青々とした新しい鉢植えだった。病院から持ち帰った、あの鉢ではない。私の疑問に気づいたのか、創真は目を伏せた。「あの鉢は……俺が枯らした。ごめん」喉が急につかえた。「ごめん」と言ってうつむく姿は、別れた夜、目を真っ赤にして「愛してると言ったら?」と尋ねたときによく似ていた。おそるおそる、最後に残った何かを握りしめ、手放すまいとしているようだった。けれど、見覚えのない鉢植えを見ても、私の心には何も浮かばなかった。「いらない。あなたが持っていて」紙袋を差し出した手が、宙で止まった。長い沈黙のあと、創真は手を引っ込め、かすかな声で言った。「どこに住んでる?送っていく」「いい。すぐ近くだから」「美緒」呼び止められ、足を止めた。街灯に引き伸ばされた創真の影が、私の足元まで届いていた。「病院を辞めた」振り返った。「特別外来の仕事は、すべてほかの人に引き継いだ。莉奈にも……はっきり伝えた。これから先、莉奈がどうなろうと、俺には関係ない」彼は目を真っ赤にしながら、それでも懸命に笑おうとした。「美緒の言うとおりだ。俺が愛していたのは、ありのままの美緒じゃなかった。俺を困らせない、都合のいい幻だった。でも、この3年間、お前がつらそうにするたび、本当は気づいてた。俺は見えないふりをしていただけだ。今は、ちゃんと見えてる。もう一度だけ……機会をくれないか?」風が吹いた。7月末の夜風には、真夏の湿った熱気がまとわりついていた。それでも私は寒かった。骨の隙間から、冷たさが幾重にも染み出してくるようだった。「創真。病院を辞めることも、莉奈と縁を切ることも、新しい鉢植えを育てることも、あなたがしたいなら、自分のためにすればいい。でも、私のためにはしないで。私はもう、何も必要としていないから。お母さんが生きていたとき、私はあなたを必要としていた。けれど、あなたはいなかった。お母さんがいなくなった今、何をされても、もう意味はない」創真は街灯の下に立ち尽くした。紙袋が指先から滑り落ち、かすかな音を立てて地面に落ちた。鉢植えが転がり、土がアスファルトの上に散らばった。鮮やかな緑の葉にも、灰色の埃がまとわりついていた。私は背を向けて歩き出した。
創真は勢いよく顔を上げた。「私を愛していたなら、私の家族を守りたいと思ったはず。私を傷つけたくないと思ったはず。たった一度くらい私のために例外を認めても、それでよかったと思えたはずよ。でも、あなたは一度もしなかった」私は彼を見つめた。「莉奈を特別枠に入れたとき、原則のことを考えた?アレルギーも、痛みに弱いことも、消毒液のにおいが嫌いなことも覚えていて、あれこれ気を配ったとき、『立場を利用してはいけない』と考えた?考えなかったでしょう。あなたにとって、あれは特別扱いではなく、いつものことだった。自分から莉奈にしてあげたいと思っていたことだから」創真の唇が震えた。「それなのに、私が何か頼めば、あなたには押しつけにしか思えなかった。そこまで嫌なら、無理して応えてもらう必要なんてなかったのに」私は腰をかがめ、スーツケースを押さえていた彼の手をそっと外した。「もういい。そんなふうにしてまで何かしてもらいたいとは思わない。これからは、一人でやっていくから」キャリーハンドルを引き上げると、車輪が床を低く鳴らした。玄関まで歩いたところで、背後から、限界まで押し殺した声が聞こえた。「美緒」足を止めたが、振り返らなかった。「もし……俺がお前を愛してると言ったら?」声はかすれ、ほとんど聞き取れなかった。ハンドルを握る手に力が入った。とうに感覚を失ったはずの胸が、不意に鋭く痛んだ。肉の中に折れて残ったとげを、いきなり深く押し込まれたような痛みだった。「創真。あなたが愛していたのは、決してあなたを困らせない私よ。あなたを困らせず、例外を求めず、いつも聞き分けよく振る舞う人が必要だっただけ。でも、私はもう、その人じゃない。お母さんが亡くなった日から、私はその人ではなくなったの」扉を閉めた瞬間、部屋の中で何かが激しく床へ落ちる音がした。鈍く、砕けるような音だった。まるで、彼を辛うじて支えていた最後の何かが、音を立てて崩れ落ちたようだった。私は振り返らなかった。部屋を出たあと、職場の近くにある小さなワンルームを借りた。無理なく払える家賃で、支払いを済ませても食費には少し余裕が残った。毎朝6時に起き、身支度をして、簡単な朝食を取り、仕事へ向かった。夜10時まで残業して帰宅すると、シャワーを浴び、本
彼からの誕生日の言葉を待った。私だけに向ける特別な扱いを待った。たった一度でいいから、私のために原則を曲げてくれる日を待った。自分がまだ足りないからだと思っていた。もっと聞き分けよく、もっと思いやりを持ち、もっと彼に尽くさなければならないのだと。ところが莉奈が現れた。彼女は何もしなくてよかった。ただそこにいるだけで、創真は、私がどれほど望んでも手に入らなかったものを、何もかも差し出した。スーツケースのファスナーを閉じた、そのときだった。背後で扉が開いた。創真が立っていた。白衣から着替える暇もなかったらしく、手にはスマホを握っていた。足元のスーツケースを見た瞬間、その場に縫いつけられたように動かなくなった。「出ていくのか?」声は今にも切れそうな糸のように、張り詰めていた。私は顔を上げず、最後のセーターをスーツケースに押し込んだ。「今月分の家賃はもう払ってあるから、来月までは住める。敷金は返さなくていい。早く解約する分に充てて」「美緒」彼は大股で近づき、スーツケースを手で押さえた。「話をしよう」私は体を起こし、ようやく彼を見た。先週よりさらにやせ、目はくぼみ、顎には剃り残した青いひげが浮いていた。いつも冷静だった瞳には、隠しきれない動揺が浮かんでいた。「何を話すの?」喉仏が上下した。「莉奈のことは……本人に聞いた」私は黙って続きを待った。「あの日は、お母さんを見舞うために、自分で作ったお粥を持っていったそうだ。俺たちが喧嘩したと知って、仲直りさせようとした。でも、言葉を選べず、余計なことを言ってしまった。悪気はなかったらしい」創真は話している間、ずっと私の表情をうかがっていた。少しでも気持ちが揺らぐのを待っているようだった。私は最後まで聞き、うなずいた。「それで?」「美緒に謝るよう言った。莉奈も分かったと言ってる。明日、二人で会おう。面と向かって謝らせるから」颯真は焦ったように言葉を継いだ。「創真。お母さんは死んだの」彼の顔から、また血の気が引いた。「莉奈に悪気があったかどうかで、結果は変わらない。あの人の言葉で、お母さんは強い衝撃を受けた。あなたが、故意じゃない、ただ言葉を間違えただけだと思うのは自由よ。でも、私は莉奈を許せない。
「創真。莉奈をここへ呼んで」彼は目を見開いた。「あの日、莉奈はお母さんの病室へ来て、いろいろ言ったの。お母さんは私の重荷だとか、あなたの家族も迷惑に思っているとか、私の人生がお母さんの病気に縛られるべきじゃないとか。お母さんが急変したのは、その話を聞いた直後だった」私はひと言ずつ、ゆっくりと告げた。まるで、自分とは関係のない出来事を説明しているようだった。創真の表情が少しずつ崩れていった。「莉奈が……お母さんの病室で、そんなことを言ったのか?」「そう。信じる?」彼は口を開いた。「莉奈はそんな人間じゃない」と言いかけたのだろう。けれど、その言葉は喉につかえ、最後まで出てこなかった。迷いを見て、思わず笑った。「ほら。やっぱり私を信じない」背を向けた途端、また手首をつかまれた。今度は、壊れ物に触れるように、ほとんど力を込めていなかった。「信じる」低い声だった。全身の力を振り絞るように、もう一度言った。「美緒を信じるよ」振り返ると、創真の目は真っ赤に充血し、下まぶたまで赤く染まっていた。私をじっと見つめていた。この3年間、見落としてきたものすべてを、今さら私の表情から読み取ろうとしているようだった。けれど私は、彼の指を一本ずつ、静かに外した。「信じても、信じなくても、もうどうでもいい。創真、お母さんは死んだの。あなたが信じようと信じまいと、もう戻ってこない」病院の正面玄関を出ると、背後の明かりは分厚いガラス扉に細く切り取られ、やがて完全に閉ざされた。母の鉢植えを抱え、7月の強い日差しの下に立った。肌は焼けるほど熱いのに、骨の奥まで凍りついていた。ポケットの中で、スマホがいつまでも震えていた。見なくても、誰からか分かっていた。けれど、もう応える力はなかった。葬儀から7日後、私は創真と暮らしていた部屋へ戻った。鍵を差し込み、いつもの癖で回した。扉を開けると、リビングは静まり返っていた。ローテーブルには先週買った果物がまだ置かれ、しなびて皮にしわが寄っていた。ソファには彼のグレーの部屋着が掛かり、リモコンがクッションの脇に斜めに転がっていた。部屋には、彼のにおいが染みついていた。かすかな消毒液のにおいと、シダーウッドの香りがする洗剤。それ