和泉夕子は白石沙耶香の言葉に特に何も答えることなく、力なく手を伸ばした。「私が命がけで産んだ子なんでしょ?抱っこさせてくれる?」記憶の一部を失い、知らないことばかりだったとしても、我が子にはなんだか自然と親近感が湧いた。抱きたいと思うのは当然のことなのだろう。白石沙耶香は赤ちゃんを抱きかかえながらベッドに寝かせた。「今の体の状態じゃ、赤ちゃんを抱っこさせるわけにはいかないわ。隣に寝かせてあげるから、撫でてあげて」赤ちゃんが隣に寝かされると、和泉夕子はようやくその顔をよく見ることができた。白くて柔らかな肌、ふっくらとした小さな顔、まだはっきりしていない眉の下には、黒くて輝く大きな瞳。まるで冬の日に溶けかかっている雪のように、温かみを帯びていた。なぜだか、これらの言葉を思い浮かべた時、既視感を覚えた。まるで以前にも経験したことがあるか、あるいは自分の子供がこんな顔をしていると想像したことがあるかのように、すごく知っている気がした。和泉夕子はすっとした鼻筋と、薄い唇をしばらく見つめた後、少し怖くなり、赤ちゃんを撫でていた指を引っ込めた。「沙耶香、記憶の中にあなたたちはいるけど、この子はいない。この見に覚えのない記憶を、今はどう受け入れていいのか少し分からないの......」これは記憶喪失の人が皆必ず経験することだった。かつての桐生志越も、彼女たちの来訪と強要に戸惑い、警備員に追い払わせたのと同じだ。白石沙耶香は和泉夕子の気持ちが理解できた。「どう受け入れていいか分からないなら、今は受け入れなくていい。ひとつの物語だと思うことにすればいいわ。いつか冷司さんと赤ちゃんの存在に慣れたら、その時に受け入れればいい......」彼女は医者の指示を守り、段階的に進めることを選んだ。かつて桐生志越を急き立てたようにするのではなく、和泉夕子には思い出させようと急かすことはせず、ゆっくりでいいと優しく見守った。和泉夕子はこれらの言葉を聞き、頭痛がいくらか和らいだ。そして再び試しに、赤ちゃんの小さな顔を撫でてみた。「この子、綺麗と可愛いを両方兼ね備えているわね。男の子?女の子?」白石沙耶香は持っていた哺乳瓶を後ろにいたベビーシッターに渡すと、笑顔で答えた。「男の子よ。すごくやんちゃで、いつも私を困らせるわ」白石沙耶香の笑顔を見て、和泉夕子もつられて
霜村冷司の脳内のチップの件で、霜村家は如月尭に謝罪を求めていた。そして、霜村家の長女である霜村若希は、もし如月家が謝罪を断るならば、霜村家は如月尭を決して許さないと言った。霜村爺さんが亡くなった今、屋敷を含め霜村家を管理しているのは霜村若希だった。だから彼女は、霜村冷司が如月尭によって、チップを埋め込まれていたことを知ったとき、家の者を連れて北米へと乗り込んだ。怒り狂った霜村家が乗り込んできたわけだが、如月尭にはそれを鎮圧する力があった。しかし、この件について非は自分にあると理解していたため、霜村家から罵詈雑言を浴びせられても、特に言い返すことはしなかった。彼を罵り終えた霜村若希と弟たちは、ようやく如月家へ乗り込んできた目的を口にした。「今、命をもって償えとは言わない。しかし、なんとしてでも弟の脳内のチップを取り出す方法を考えてほしい。さもないと......」彼女は最後の言葉をなんとか飲み込んでいたが、如月尭は彼女の脅しの意味は理解していた。「うちに昔から付き合いのある医者がいてね。脳の手術には結構詳しいんだ。だから、まず彼に冷司さんの状態を診させてくれないか?その上で約束しよう。それでいいかな?」ソファに背を預け、腕を組んだままの霜村若希は、冷ややかに顎を上げると、低く鋭い声で言い放った。「そのチップを埋めたのはあなただよね?もし、あなたの医者がチップを取り出せずに、弟を治すことができなかったら......あなた、自分の命で償いなさいよ!」つまり今ここで、如月尭にに約束させようとしているのだ。そうでなければ、霜村家の人間は絶対にこの件を黙って済ませはしない。団結して向かってくる霜村家の兄妹を前にして、如月尭は自分の子や孫たちの顔を思い浮かべながら、観念したようにうなずいた。「分かった。約束しよう」もう生きていく希望もなかったから、死ぬ前に和泉夕子のために何かできるなら、それもいいと思った。ただ、霜村冷司の脳内のチップは、本当に厄介なものなのだ。如月尭はモーアを連れて再び帰国した。今回は霜村若希にせかされ、和泉夕子に会う暇もなく、霜村冷司に会いに行くこととなった。見るからに生気を失っている霜村冷司は、まるで魂が抜けたように、医師たちに処置にされるがままだった。彼からは全くというほど生きる気力が感じられず、生への執着が完全に無くなっ
霜村涼平が駆けつけて、皆に霜村冷司の脳内のチップはウイルスに覆われていて、少しでも動くと感染が爆発的に広がると伝えた。一同は霜村冷司を危うく死なせてしまうところだった。白石沙耶香はこのチップのことで頭が真っ白になった。相川涼介と相川泰は、このチップが闇の場で埋め込まれたことを知ると、壁を殴りつけて怒り狂った。「闇の場の奴ら、こんな残酷なことをするなんて!」脳に何かが入っているなんて、ウイルスが爆発的に広がるかどうかはさておき、痛みだけでも死ぬほどだろう。なのに霜村冷司は、一言もそんなことは言っていなかった。おかげでみんなは今まで何も知らなかったんだ。もしもっと早く知っていたら、あの時闇の場で憂さ晴らしにもっと何人か殺していたのに。霜村冷司の脳にチップがあることは、病院で発覚してしまい、隠しきれなくなった。霜村家一同は、すぐにこのことを知り、病院に駆けつけた。この時、霜村冷司は既に目を覚ましていた。霜村家の人々の怒りの声に、病床の男は全く反応を示さず、ただ顔を横に向け、窓の外の降りしきる雪を眺めていた......白石沙耶香だけが、彼が和泉夕子に傷つけられたことを知っていた。だから、他の人が怒りに燃えている中、白石沙耶香はただ心を痛めていた。しかし、何も言うことができなかった。皆が帰って行った後、白石沙耶香は霜村冷司の前に歩み寄り、優しく声をかけた。「彼女は一時的な記憶喪失なんです。きっと記憶は戻りますから」霜村冷司の濃いまつげが軽く震えたかと思うと、すぐに伏せられ、目の奥に燃え上がった希望を覆い隠した。どうやらこの男が気にしているのは、和泉夕子の記憶喪失ではないようだった。男自身も、自分が何を思っているかも、よくわからなくなってきた。いや、もしかしたら分かっているのかもしれない。でも、そんな自分は、気にしすぎているように思えた。彼女が一番最後に愛していたのは、明らかに自分なのに、なぜ彼女が誰を一番愛していたかを気にしているんだ?もしかしたら、一時的な記憶喪失が永続的なものになるかもしれないと思っているから、こんなにも気にしてしまうのだろうか。どちらにせよ、桐生志越が良い例だ。記憶喪失のせいで最愛の人を失った。もし和泉夕子も記憶喪失のせいで、完全に自分を拒絶したら、自分は一体どうすればいいのだろうか?霜村冷司はそこまで考えると、苦
桐生志越は病室のベッドのそばに座ると、優しく落ち着いた声で、二人の出会い、恋に落ちた経緯、そして生死を共にした出来事をすべて和泉夕子に語った。話を聞き終えた和泉夕子は、少し呆然としたが、すぐに我に返り、淡々とした口調で言った。「志越、なんだか物語を聞いているみたい。私の人生でこんなことが起きるなんて、信じられないわ」桐生志越は唇の端を上げ、かすかに微笑んだ。「僕が記憶を失っていた頃、お前が訪ねてきて、僕たちの間の出来事を話してくれた時も、まるで物語を聞いているようだった。だから、自分が持っていない見知らぬ記憶を受け入れることに抵抗を感じていた。だが......」桐生志越は言葉を一旦止め、深くため息をついた。「記憶が戻った時、僕はひどく後悔した。お前が他の男を愛し、その男と一緒にいる姿をただ見ていることしかできなかったから。僕は、もうその時お前を愛する資格を失っていたんだ......」和泉夕子は何か言おうと口を開いたが、桐生志越は彼女を遮った。「夕子、これらのことを話したのは、僕の元に戻ってこいと言うためじゃない。記憶を失ったからといって、愛する人を遠ざけるようなことをしてはいけないと伝えたかったんだ。僕と同じように後悔をしてほしくないから」彼女はゆっくりとまつげを伏せ、霜村冷司の絶望的な姿を思い浮かべた。まだ見知らぬ人のように感じるが、その男性が自分を深く愛していることは感じ取れた。だから、彼女は戸惑っていた......彼女は眉をひそめ、彼にまつわる出来事を必死に思い出そうとしたが、何も思い出せない。むしろ、考えれば考えるほど痛みが増し、頭が爆発しそうなほど痛んだ。その痛みは全身の傷にまで広がっていく......彼女はついに痛みに耐えきれず気を失ってしまった。桐生志越は慌てて医師を呼びに行った。赤ちゃんを抱いて駆けつけた白石沙耶香は、和泉夕子が再び気を失っているのを見て、顔面蒼白になった。医師が駆けつけ、蘇生処置をした後も、和泉夕子は昏睡状態のままであった。佐藤医師でさえ、呆れたように言った。「記憶を失っているんです。あなたたちは焦って、刺激を与えすぎたんですよ。記憶を取り戻すには、段階を踏む必要があるんですから......」赤ちゃんを使って和泉夕子に刺激を与えようと考えていた白石沙耶香は、すぐにその考えを捨てた。「今の彼女の状態
数多の神に自分の命と引き換えに和泉夕子を助けてくれ、と祈った。今、神々は命は返してくれたものの、和泉夕子の記憶は奪って行ったようだ。彼女は記憶と命を交換したことによって、目を覚ましたのだ。そう自分に言い聞かせたものの、何故か霜村冷司は笑いが止まらなかった。まるで十数年間、経験してきた全てが、儚い夢だったように......やつれた顔、充血した目、そして苦笑いを浮かべる彼を見て、和泉夕子の心臓は縮こまり、苦しく締め付けられた。心臓に何か異変が起きたと思った彼女は、手を当ててみた。すると異様な痛みはすぐに消えた。その隙に桐生志越はもう一方の手を解く。「夕子、もう旦那さんが戻ってきたんだ。彼とゆっくり話をしなよ。僕はこれで失礼するから。また近いうちに来るからね」桐生志越が踵を返そうとすると、和泉夕子は焦って彼を呼び止めた。「志越、行かないで。彼のことは覚えていないの。一人にしないで、怖い」怖い。その一言が霜村冷司の心臓に突き刺さり、身動き一つできなくなった。太い釘が心臓を貫通し、じわじわと命を蝕んでいくのを、ただ感じるしかなかった......ベッドに寄りかかっていた霜村冷司は、しばらく沈黙した後、濃い睫毛を伏せて、恐怖に満ちた女性を見つめた。「私が怖いのか?」和泉夕子は彼自身ではなく、見知らぬ存在に対する恐怖を感じていた。しかし、それをどう表現すればいいのか分からず、沈黙を選んだ。そして助けを求めるように、桐生志越に視線を向けた。霜村冷司は、彼女が桐生志越をどれほど愛していたのか、これまで見たことがなかった。夢の中で彼の名前を呼ぶのを聞いたことはあったが、今、実際に目にしたことで、霜村冷司は今までの全ての信念を失った。彼は気付かぬうちに、爪が皮膚を切り裂き、血が滲み出るほど強くシーツを握りしめていた。痛みを感じた霜村冷司は握りしめていた手を緩め、ゆっくりと身体を起こす......彼は困惑と絶望を滲ませながら、桐生志越に言った。「私がいると彼女を怖がらせてしまう、だからここに残って彼女に付き添ってくれないか。私は......帰る」そう言った途端、霜村冷司の目は潤んだ。彼らに見られないように、膝の痛みとふらつく体を支えながら、壁に手をついて、背を向けた。よろめく後ろ姿を見て、和泉夕子の心臓は再び痛み出した。今度は、霜村
桐生志越は視線を落とし、和泉夕子の目に映る自分の顔を見つめた。その瞳に、思わず心を奪われた。しかし、彼女がもう自分のものではないことを知っていたため、胸の高鳴りを抑え、苦々しく言った。「違う」桐生志越との子ではないということは、霜村冷司との子だ。全く知らない名前、全く知らない人。和泉夕子はなかなか受け入れられなかった。「私たちずっと一緒にいるって約束したのに、どうして別れちゃったの?」白石沙耶香も医師も霜村冷司が夫だと言う。でも、自分が一番結婚したかったのは桐生志越なのに、どうして別の人と結婚してしまっているのだろう?しっかりと握られた指を、少しずつ離していく。桐生志越は心の中で葛藤した末、優しく和泉夕子の手を振りほどいた。「僕が、愛せなくなったんだ......」自分が記憶喪失になったこと、その間に色々なことが起こったことは分かっていた。それでも、この言葉を聞いた和泉夕子は、とても悲しかった。「志越、あなたは永遠に私を愛するって言ってくれたの。だから、そんな言い訳、信じないから」自分は永遠にお前を愛すだろうが、でもお前は違うんだ。桐生志越はそんな言葉を胸の奥にしまい込み、ただ彼女を慰めた。「お前には、僕よりももっとお前を愛してくれる人がいるんだ。彼が戻ってきて、彼に会ったら、僕たちがなぜ別れたのか分かると思うよ」和泉夕子は、桐生志越の赤くなった目を見て、何かを悟ったようだ。そして、ゆっくりと俯いた。「私が他の人を好きになったから、別れたんだね」桐生志越が何か言おうと口を開いたその時、相川涼介と相川泰に支えられた長身の男が、よろめきながら病室に飛び込んできた。白石沙耶香は霜村冷司に連絡していなかった。連絡したのは医師だった。電話を受けた時、男はまだ神の前でひざまずき、天に祈っていた。和泉夕子が目を覚ましたという知らせを聞いた時、両ひざはもう立ち上がれないぐらいだめになっていて、相川涼介と相川泰に支えてもらい、どうにか病院に戻ってきたのだ。しかし、医師は霜村冷司に、和泉夕子が記憶喪失になったことを伝えていなかった。ただ意識が戻ったとだけ伝えていた。今、和泉夕子が目を覚ましたのを目の当たりにし、霜村冷司はこの半年間張り詰めていた体から、急に力が抜けるのを感じた。そして、絶望に満ちていた色気のある目にも、再び生きる希望の光が灯った。彼