池内蓮司はそう言い放つと、契約書を片付け、何事もなかったかのようにその場を立ち去り、階段を上がっていった。和泉夕子には一瞥もくれなかった。 和泉夕子は彼の言葉に怯え、鼓動が速くなるのを感じながらスマホを手にして屋敷を出ると、急いでジョージに電話をかけた。電話越しに彼の言葉を聞いたジョージは、逆に笑い出した。 「和泉さん、心配しなくていいですよ。彼が穂果ちゃんを本気で始末したいなら、とっくにやっているはずです。今さらそんなことしませんよ」 その言葉に和泉夕子はほっと胸をなでおろし、穂果ちゃんに関するいくつかのことを尋ねた。 ジョージは詳細には語らなかったが、ただこう言った。 「穂果ちゃんは春奈とイギリスのある貴族の間に生まれた子どもですよ」 貴族という言葉を聞いた瞬間、和泉夕子は何か秘密があるのではないかと思ったが、それ以上深く聞くのは控えた。ただ、どうして穂果ちゃんが病気だと思わせたのかを尋ねた。 ジョージは落ち着いた声で答えた。 「病気じゃありません。彼があなたの薬を取り上げたので、ちょっと仕返ししてやっただけですよ」 和泉夕子は驚き、続いて笑みを浮かべた。 「ジョージ先生、そんなことをしたら、彼に怒られるんじゃないですか?」 ジョージは軽く笑いながら答えた。 「全然怖くないです。それどころか、彼をどうにかしてイギリスに留まらせる方法を考えますよ」 ジョージの助け舟に感謝しながら、和泉夕子は静かにお礼を言った。 「ジョージ先生、本当にありがとうございます」 ジョージは軽く「気にしないで」と返事をし、さらにこう続けた。 「それから、薬はちゃんと飲んでくださいね。目の治療薬だけじゃなく、拒絶反応を抑える薬もきちんと飲まないといけません」 「拒絶反応を抑える薬はちゃんと飲んでいます」 その言葉にジョージは安心した様子でうなずいた。 「それならいいですが、今度は新しい住所を教えてください。薬を直接送ります」 これまで池内蓮司の屋敷宛てに薬を送っていたジョージだったが、和泉夕子の手元に届いていなかった事実を知り、送り先を変える必要があると判断した。 「日本国内で薬を買えますか?」 和泉夕子はジョージに迷惑をかけたくないと思い、尋ねたが、彼は即座に否定した。 「私が手配した薬が最適で
和泉夕子は、彼の言葉に隠された意味を感じ取りながらも、それ以上問い詰める気力はなかった。 池内蓮司もまた、それ以上話すつもりはなく、ただ一言忠告を残して立ち上がり、車へと向かった。 その豪車が勢いよく去っていく様子を見届けながら、和泉夕子は心の奥底でほっと胸をなで下ろした。 彼が再び戻ってくるとわかっていても、束の間の自由を得られたことに安堵する。 しかし、ふと600億の話が頭をよぎると、緩んだ身体は再び緊張で固まった。 庭先に蹲り込み、茫然としていると、白石沙耶香から電話がかかってきた。 「遅いよ、まだ来ないの?」 和泉夕子は混乱した思考を振り払い、短く「すぐ行く」と返事をし、車に乗り込んで彼女の別荘へ向かった。 白石沙耶香は、彼女が昼食を取っていないことを気にかけ、庭でたくさんの料理を用意していた。 遠くから降り立つ和泉夕子の姿を見つけると、笑顔で手を振りながら声をかけた。 「夕子、早く来て。ご飯が冷めちゃうよ!」 温かな歓迎を受けて、心の奥に溜まっていた重い気持ちが少しだけ和らぎ、和泉夕子も微笑んだ。 白石沙耶香は彼女を椅子に座らせ、自ら手を伸ばして椅子を引いてくれた。 「ほら、これ食べて。痩せすぎなんだから、しっかり食べないと」 和泉夕子の目に薄っすらと涙が浮かぶ。 「ありがとう、沙耶香。私、本当にあなたに感謝してる」 温かいスープを口に含んだ瞬間、その甘みと温もりが胸に沁み渡り、彼女は静かに涙をこぼした。 これまでの人生、ずっと沙耶香と一緒に過ごすことを夢見てきたのに、それを実現するまでには長い時間がかかった。 ようやく自由を得たものの、その自由がいつまで続くかわからない不安が彼女の心を覆っていた。 白石沙耶香はそんな彼女の様子に気付き、心配そうに眉を寄せた。 「夕子、大丈夫?何かあったの?」 和泉夕子は軽く首を振り、涙に濡れた瞳にかすかな笑みを浮かべた。 「沙耶香、池内蓮司がイギリスに帰ったの」 驚いた白石沙耶香は一瞬目を丸くした後、喜びに満ちた表情を見せた。 「本当?彼、ついにあなたを解放してくれたの?」 しかし、和泉夕子はその言葉に答えず、沈黙を守った。 池内蓮司が取る行動はすべて計画的で、彼女を簡単に手放すはずがないことを、彼女はよく理解していた
車椅に座る温和で品のある男性は、ゆっくりと顔を上げ、その目が白石沙耶香を捉えた。 彼の俊美な顔立ちに、優しい微笑みが浮かんだ。 「沙耶香姉さん……」その馴染みのある呼び名を聞いた瞬間、白石沙耶香の胸は強く震え、目の前の人物が桐生志越であると確信した。 彼女の目からは、涙が止めどなく溢れ出し、けれども顔を上げて毅然とした態度で彼の元へ歩み寄ると、泣きながらも声を荒げた。 「このバカ! 生きてるなら一言くらい知らせてくれてもいいでしょう!」 「毎日お寺に行って、神様に祈ったのよ! 大切な家族を返してくださいって!」 「膝が腫れるくらい祈って、目も泣き腫らして、もう少しで失明するところだったんだから!」 その言葉を聞いた和泉夕子の目にも、じわじわと涙が滲む。 沙耶香は、彼らのためにここまでしてくれていたのだ。命をかけて返しても、きっと足りないだろう。 桐生志越の澄んだ瞳は、目の前に立つ、自分を小さい頃から支えてくれた姉の姿を捉え、次第に赤く染まっていった。 「沙耶香姉さん……ごめんなさい。僕が悪かった……」 白石沙耶香は首を振り、涙声で彼を制した。 「いいのよ。あなたがどうしようもない状況だったのは分かってるから」 和泉夕子が話してくれた通り、桐生志越の命を狙う人たちがいたのだ。彼が生存している事実を他の誰かに漏らすことなどできなかっただろう。 そう語りながら、彼の両足に目を向けた瞬間、彼女の目には再び涙が溜まっていった。 子どもの頃から、彼は誰もが羨む天才だった。 彼女はいつか、彼が知識を武器に世界の頂点に立つと信じていた。 しかし、今ではその天才が、永遠に車椅子の生活を余儀なくされている。 その現実が痛ましく、切なく胸に刺さる。 「もしあのとき、私の言うことを聞いていたら、こんなことにはならなかったのに……」 命を絶とうとしていたあの日、彼女は何度も彼を説得しようとしたが、頑なな彼は聞き入れなかった。 子どもの頃からそうだった。一度決めたことは、誰が何と言おうと曲げない性格だった。 そしてその結果、今や両脚を失い、これから先の長い人生をどう生きていくのか……しかし桐生志越は、まるで何でもないかのように微笑みを浮かべた。 その様子に、白石沙耶香は言葉を飲み込むしかなく、涙を拭
「志越、私たち子供の頃に約束したよね。大きくなったら一緒に住もうって。だから、あなたも夕子も私の家に引っ越してきて」 白石沙耶香は、そう提案しながら彼を見つめた。 彼女が購入した別荘は、単なる衝動買いではなかった。 それは、夢の中で夕子が言っていた言葉がきっかけだった。 「もう一つの世界で家を建てるよ。そしてみんなの人生が終わったら、一緒に暮らそう」 その言葉を胸に、彼女は行動に移していたのだ。 加えて、これまでの別れや変化を経て、彼ら家族はお互いの存在を改めて大切にしなければならないと思った。 だからこそ、彼ら三人が一緒に住むことが重要だと感じていたのだ。 しかし、悠ちゃんはその提案を聞くなり、即座に反対した。 「それは無理です。桐生さんはここを離れることはできません。危険なんです」 その言葉に白石沙耶香は一瞬戸惑ったが、すぐに理解した。 望月景真が死んだからといって、桐生志越の安全が完全に保証されるわけではない。 もし望月家の人間に生存が知られたら、命を狙われる可能性が高い。 彼らはもう、子供の頃のように自由気ままに一緒に過ごすことはできないのだ。 沙耶香も和泉夕子も桐生志越も、それぞれが成長し、異なる人生の道を歩んでいる。 沙耶香は、今さらながら気づいた。 かつての約束や夢が実現することは、時に難しいことなのだと。 彼女の落ち込んだ様子を見て、悠ちゃんは慌てて説明を加えた。 「白石さん、桐生さんがここにいるのは、完全に自由を失ったわけではありません。この一帯は霜村家の人たちが見守ってくれています。だから、マスクや帽子をかぶれば、このエリアで散歩したり、ショッピングや映画鑑賞だって可能です。ただ、なるべくこの区域を出ないほうがいいんです。霜村さんも、四六時中桐生さんの安全を保証できるわけではありませんから」 それを聞いた和泉夕子は、目に見えない何かに突き動かされるように、軽く息を飲んだ。 彼女は予想もしなかった。 霜村冷司が桐生志越を救っただけでなく、彼のために守りの体制を敷いていたことを。 彼がそうするのは、単に夕子のためだけではない。 桐生志越に少しでも自由を与えたいという思いもあったのだろう。 だが、この広大な清和区を守るために、彼はどれほどの人員と資金を投入し
桐生志越は口元に苦笑を浮かべた。命の恩は、豪華な贈り物では到底返せるものではない。 赤く染まった瞳で彼はそばに立つ和泉夕子を見つめた。 彼には分かっていた。霜村冷司が最初から最後まで求めていたものは、ただ彼女一人だったのだ。 しかし、自分が求めているのもまた、彼女一人だけ。もし手放すことを選ぶなら、自分はどうすればいいのだろうか……。 和泉夕子は心の重みを抑え込み、静かに口を開いた。「私は一生あなたを支えると約束しました。だから志越、余計なことを考えないで」 白石沙耶香はその言葉に驚きを隠せず、和泉夕子をじっと見つめた。彼女が桐生志越にそんな約束をしていたとは思いもよらなかったのだ。 桐生志越は震える手で反応のない足を押さえつけ、内に渦巻く崩壊寸前の感情に耐えきれず、背を向けた。「疲れた。悠ちゃん、部屋に戻るよ」 その言葉に、悠ちゃんは胸が締め付けられる思いだった。自分の不用意な発言が彼ら三人の間に溝を生んだのではないかと感じていたからだ。しかし何が原因なのか分からず、ただ申し訳なさそうに白石沙耶香と和泉夕子に微笑みかけると、車椅子を押して桐生志越を連れてその場を後にした。 彼が去っていく背中を見つめながら、白石沙耶香は眉を寄せたが、結局何も言わなかった。彼女が不安げな表情を見せれば、和泉夕子の気持ちをさらに追い詰めることになると思ったからだ。 沙耶香は和泉夕子の顔色が真っ青なのを見て、彼女の手を取り、優しく言った。「夕子、一緒にお寺に行きましょう。願掛けをしに行きたいの」 静かな場所なら、夕子も少しは気持ちが楽になるかもしれない。和泉夕子はその提案にうなずき、「うん……」と小さな声で答えた。 行きの運転は沙耶香が気落ちしていて和泉夕子が担当したが、帰り道では夕子がぼんやりとしていたため、沙耶香がハンドルを握ることになった。 車が市内の繁華街に差し掛かった頃、沙耶香は車を停めた。「少しフルーツを買ってお供えにするね」 二人は車を降り、ショッピングモールに足を踏み入れた。地下のスーパーマーケットに向かおうとしたそのとき、スーツ姿の一団がこちらに向かってくるのが見えた。 先頭に立つ男は、長身で洗練されたテーラードスーツを身にまとい、その冷たく高貴な雰囲気をさらに際立たせていた。彼の彫刻の
和泉夕子はその光景を目にして、そっとまつげを伏せた。ふと昔のことを思い出す。彼が藤原優子の手を引いて、自分の目の前から去っていったあの日のことを。その頃の彼女は何も言う資格がなかった。今となってはなおさら、そんなことを気にする立場ではない。二人の関係は既に終わっている。彼が誰と一緒になろうと、自分にはもう関係のないことだ……。白石沙耶香は二人がリムジンに乗り込むのを見届けると、視線を戻して和泉夕子を見た。彼女の顔には動揺の色が見えなくなっており、平静さを取り戻しているようだった。沙耶香はその様子に安心し、「夕子、ただ腕を組んだだけだし、特に意味はないと思うわ。誤解しないでね」と言った。「それに、彼がもしあなたがここにいると分かっていたら、きっと他の女性とあんなに親しげにすることはなかったはずよ……」沙耶香は桐生志越の味方ではあったが、和泉夕子がまだ霜村冷司を想っているのではないかと心配だった。しかし和泉夕子は唇の端を上げ、穏やかな笑みを浮かべた。「沙耶香、私は何も気にしていないから、心配しないで」沙耶香は彼女がそう言うのを見て、それ以上は何も言わず、彼女の腕を取り、「それじゃ、果物を買いに行きましょう」と言った。和泉夕子は小さくうなずき、二人で地下のスーパーマーケットに向かった。エレベーターに乗る直前、夕子はもう一度振り返り、彼が女性のためにリムジンのドアを開ける姿を見て、ほのかな笑みを浮かべた。「彼も前に進んでいるのね……」リムジンの中、霜村冷司は車内に入るとすぐに丁寧にスーツの上着を脱いだ。対面に座っていた女性が、それを見て首を振りながら言った。「あなたの潔癖症、本当にひどくなってるわね」車両の最後列でスマホをいじっていた霜村涼平は、この女性の声を聞くと顔色を変えた。彼は即座に足を組み直し、背筋を正して座り直し、前列の女性に向かって敬意を込めて言った。「お姉さま……」彼女――霜村若希は振り返り、涼平を見つめ、彼が自分を見て明らかにおびえている様子に気づき、笑みを浮かべた。「涼平、あなたはいつも天真爛漫で怖いもの知らずなのに、どうして私の前では猫のようにおとなしくなるのかしら」涼平は彼女の笑顔を見ると、反射的に唾を飲み込み、何事もないふりをしながら手を振った。「そんなことありません
霜村若希は、つい先ほど仕上げたばかりのネイルを軽く撫でながら、霜村涼平に向かって言った。「あんたの妹の結婚は心配いらないけど、問題はあんたの方ね。何しろ、あんたの評判があまり良くないから、名家のお嬢さんたちも嫁ぎたがらないのよ……」霜村涼平は内心で不満を呟いたが、表面上は平然とした態度を装って答えた。「それなら急ぐ必要はありませんね。しばらくはこのままで……」霜村若希は、彼がまだ遊び足りないことを察し、それ以上口を挟むのをやめた。そして再び視線を霜村冷司に向けた。「それで、あんたはどうする?」窓の外を見つめ続けていた霜村冷司は、彼女の質問に対して冷淡に答えた。「放っておけ」霜村若希の美しい顔には、薄くため息交じりの笑みが浮かんでいた。「冷司、あんた、彼女のために一生独身でいるつもり?」霜村冷司のことを知ったのは、彼女が今年帰国した後のことだった。まさか、幼い頃から「感情に流されるな」と教育されてきた弟が、ある女性のために自殺まで図るとは。彼女は、二人の間に何があったのか詳しくは知らなかったが、霜村冷司がその女性に暴力を振るい、彼女を死に追いやったことは聞いていた。幸いなことに、その「和泉」という名の女性は後に救われたらしいが、一度死を経験した人間が、彼を再び受け入れるとは思えなかった。これだけでも、彼がその女性と結ばれることは不可能だと分かる。無理に望むべきではない。しかし、霜村冷司の性格では、何度説得しても耳を貸すはずがない。それに、霜村家の当主である以上、結婚しないわけにはいかないのだ。「冷司」――彼女のその一言だけで、霜村冷司の心には激しい痛みが走った。その痛みは四肢に広がり、彼の手のひらさえも痛みに襲われるようだった。彼は伏し目がちに自分の右手を見つめ、彼女が地面に倒れたときの絶望的な表情を思い出さずにはいられなかった。彼はかつて彼女をこれほどまでに傷つけた。その罪を贖うために、生涯を費やすつもりだ。どうして彼女を忘れ、別の誰かと結婚することなどできるだろうか。他の人々は理解していない。得られないなら諦めて、新しい道を歩むべきだと。だが、愛するということは、一心に、一途に、死ぬまで貫くことではないのか?以前は、愛とは所有することだと思っていた。だが、望月景真が
彼の兄弟姉妹たちとの関係は、複雑といえば複雑だが、そこまでややこしいわけでもない。霜村家の父の世代には、五人の兄弟がいる。そしてこの五人が生んだ子供たちは合計で八人。長男の霜村郁斗と次男の霜村冷司は長兄の子供、長女の霜村若希は次兄の子供だ。霜村若希と霜村郁斗は同じ年に生まれたため、他の兄弟姉妹たちは皆、彼らを「お兄様」「お姉様」と呼んでいる。三男と四男は三伯父の家の子で、五男と六男は四伯父の家の子。そして、彼と霜村凛音は末っ子の父が育てた子だ。孫世代は依然として男子が多く、女子は非常に少ない。そのため、八番目に生まれた霜村凛音は、霜村家の宝ともいえる存在となった。家族全員が彼女の結婚に注目し、彼女が不幸な結婚をしないようにと心配している。三、四年前からすでに縁談相手を探し始めていた。最初は望月家との縁談が決まりかけていたが、望月景真に拒まれたために破談となった。霜村凛音が留学を終えて戻ってきた今、新たな縁談を探すことになったのだ。リムジンが動き出すと、後ろについていた十数台の車も続いて進み始めた。車はすぐに霜村凛音が住むマンションに到着し、霜村若希は車を降り、優雅な足取りで迎えに向かった。霜村涼平は姉がいなくなるとすぐに霜村冷司に尋ねた。「兄さん、さっき突然車を降りて商業施設に駆け込んだのは、いったい何をしに行ったんだ?」この行動には、護衛たちも驚き、全員がすぐに車を降りて追いかけて行った。霜村涼平は護衛が大勢いるのを見て安心していたが、それでも二男が何をしていたのか分からず、気になっていた。霜村冷司はその問いには答えず、冷たい目つきの中に一瞬の恐怖が浮かんだ。先ほど、とても和泉夕子に似た後ろ姿を見かけ、思わず目で追ってしまった。偶然にも、その後ろ姿に続いて藤原優子が商業施設に入るのを目撃した。咄嗟に運転手に停車を命じ、商業施設に急いで駆け込んだが、それが彼女ではないと分かった。その瞬間、全身が冷や汗にまみれ、安堵感に包まれたが、過去の記憶が影のように蘇り、頭から離れなかった。この三年間、彼は何度も商業施設やトイレで彼女が地面に倒れ、絶望的な表情を浮かべていた夢を見続けていた。その記憶をほんの少しでも思い出すだけで、罪悪感が嵐のように襲い掛かり、彼を激しい苦痛で顔面蒼白にさせた。霜村
大野佑欣は驚いた。「兄さんは適合しなかったって言ってたじゃない?」適合しないなら、心臓を奪っても無駄だ。移植しても拒絶反応が出て、すぐに死んでしまうかもしれない。追い込まれ既に見境がなくなっている春日椿には、そんなこと全く関係がなかった。「彼女には春奈の心臓が移植されているわ。彼女に適合したのならば、私にだって適合するはずだわ。」春日椿がそう言った時、彼女の目に宿る陰湿な光に、大野佑欣は息を呑んだ。母親はいつも優しく上品だったのに、どうしてあんな表情をするのだろう?自分の見間違いだろうか?大野佑欣がもう一度よく見ようと顔を近づけた時には、春日椿は既に鋭さを隠し、か弱く無力な様子に戻っていた。「佑欣、お母さんがずっとそばにいてほしい?」「もちろんよ」そうでなければ、なぜ彼女と兄は世界中を駆け巡ってドナーを探しているのだろう?母親に生きていてほしい、ずっと一緒にいてほしいからに決まっている。「そう思ってくれるなら、お母さんのために春奈の心臓を持ってきてくれない?」「それは......」大野佑欣はためらった。春日春奈の心臓は、すでに和泉夕子に移植されている。つまり、和泉夕子は生きている人間だ。生きている人間の心臓を持ってくるなんて......「あなたも兄さんと同じで、私が生きていてほしくないのね......」「そんなことないわ!この世で私が一番大切なのはお母さんよ......」春日椿は震える手で、大野佑欣の手の甲を軽く叩いた。「お母さんもあなたと離れたくないからこそ、お願いしているのよ......」大野佑欣はまだ抵抗を感じていたが、何も言わなかった。春日椿はそれを見て、深くため息をついた。「先生は彼女の心臓があれば、私はあと数年生きられると言っていたけれど、あなたが嫌ならそれでいいわ。お母さんは、あなたに無理強いするつもりはない」「先生がそう言ったの?」医師は無理だと言ったが、春日椿は聞く耳を持たない。「ええ、先生は春奈の心臓は私と適合するから、移植できると言っていたわ」医療の知識があまりない大野佑欣は、少し迷った後、腰をかがめて、病気でやつれた春日椿の顔に触れた。「できるなら......お母さん、ここでゆっくり休んでて。私が夕子を連れてくるから......」もし霜村冷司が
大野皐月が大野佑欣を見つけた時、彼女は車の中に座り、虚ろな目で遠くの森を見つめていた。気が強く活発な妹が、こんな放心状態になっているのを見るのは初めてで、彼は胸が痛んだ。「佑欣、霜村さんの部下に何かされたのか?」大野佑欣は動かない瞳をゆっくりと動かし、縄を解いてくれている大野皐月を見た。「兄さん、霜村さんの部下に、私が拉致されたの?」大野皐月は苦労して縄を解きながら、頷いた。「彼の妻は春奈の実の妹だ。母と適合するかもしれないと思い、彼女を連れてきたんだ。まさかその前に、霜村さんが君を拉致していたとはな。彼は私を牽制するために、君を巻き込んだんだ。辛い思いをさせてすまなかった。全部、兄さんの責任だ......」大野皐月は縄を解き終えると、大野佑欣に謝った。大野佑欣は事情を理解すると、無表情で首を横に振った。「大丈夫......」沢田健二は霜村冷司の部下だったのか。彼が自分に近づいてきたのは、自分たちがなぜ春日春奈を探しているのか探るためだったのだろう。霜村冷司が兄の計画に乗じて、危険を犯し目的を達成した今、私の利用価値はもう無い。だから沢田健二はあんなに冷酷に去っていったのか。まさか、彼にとって自分は霜村冷司の手先で、用済みになったら捨てられるただの道具だったとは。大野佑欣は全てを理解すると、突然冷笑した......その冷たい笑みに、大野皐月は背筋が寒くなった。「佑欣、大丈夫か?」大野佑欣は無表情のまま、首を横に振った。「兄さん、適合したの?」大野皐月は何も言わなかったが、彼の表情から、大野佑欣は答えが分かった。彼女はそれ以上聞かずに、「母さんの様子を見てくる」と言った。大野皐月を車から降ろした後、大野佑欣は素早く後部座席から運転席に移動し、バックで邸宅を出て行った。猛スピードで走り去る車を見つめ、大野皐月は心配そうに眉をひそめた。「南、後を追って様子を見て、何かあったらすぐに報告しろ」大野佑欣は病院の病室に着くと、苦しそうにベッドで丸まっている母親を見て、胸が痛んだ。「お母さん、大丈夫?」春日椿は息苦しさに胸を押さえ、やっとの思いで息を吸い込んだ。酸素が体内に入ると、彼女の視界がはっきりとしてきた。自分の娘だと分かると、春日椿は震える手で彼女の顔に触れようとしたが、力が入らない。
怒りに満ちていた大野佑欣は、その言葉を聞いて心臓がズキッと痛み、苦しくなった......なんてことだ。彼女は本当に彼のことが好きになってしまったらしい......大野佑欣、なんて役立たずなの!心の中で自分を叱った後、彼女は沢田に宣告した。「どこに逃げても、私は見つけてやるから。今日のことの復讐を果たすまでは!」今回、沢田は何も言わず、ただ唇の端を少し上げた。彼が自ら姿を現さない限り、Sのメンバーを簡単に見つけられるわけがない。しかし、彼は女のために自ら進んで命を落としに行くほど愚かではない。だから、今回のお別れで、大野佑欣とはもう二度と会う事がないだろう。バックミラー越しに、沢田の目に浮かぶ決意を見て、大野佑欣は怒りと憎しみに満ちた。「沢田、この卑怯者!」口説いて、惹きつけて、体まで奪ったのはいいとして、騙しておいて、その後自分に敵わないからって逃げようとするなんて。これでも男か?獣だ!この世にどうして沢田のような人間がいるんだ?よりによって、こんな男を好きになるなんて!信じられない!罪悪感に苛まれながらも、沢田は大野家の前でスピードを落として車を止めた。ドアを開けて車から降り、後部座席に回った。彼はドアを開け、腰をかがめて大野佑欣を起こした。その動作で、二人は向き合った......沢田がちゃんと見れば、大野佑欣の怒りに満ちた目の奥には、実は彼に対する未練があることに気づくはずだった......しかし、沢田は無理やり彼女の顔を見ないようにして、うつむき、彼女の右手を縛っていた縄を解いた。「片手だけ解いてやる。好きなだけ殴ってくれていい。ただ、殴り終わった後は、もうそんなに怒らないでくれ。漢方医によると......女の人が怒ると体に......」言い終わらないうちに、自由になった大野佑欣は、沢田の顔に平手打ちを食らわせ、彼の髪を掴んだ。沢田がまだ状況を把握していないうちに、彼女は片手で彼を車内に引きずり込んだ。そして、雨粒のような拳が彼の胸に降り注ぎ、胸に鈍い痛みを感じ、呼吸困難になり、目がチカチカした......ほら、片手を解いただけなのに、こんなに殴られた。両足を解いていたら、2分も立たなければあの世行きだっただろう......彼女には借りがある。沢田は激痛をこらえ、抵抗しなかった。大野佑欣が殴る
沢田は唾を飲み込み、大野佑欣の前にしゃがみこんで謝った。「ごめん。わざと縛ったわけじゃないんだ」大野佑欣は口にタオルを詰め込まれていて、声が出せない。ただ、沢田を睨みつけることしかできなかった。彼女の目から放たれる憎しみに、沢田は思わず身震いした。「今から君を帰すから、そんな目で見ないでくれないか?」帰してもらえるという言葉を聞いて、大野佑欣はゆっくりとまつげを伏せ、憎しみを隠して、おとなしくなったふりして沢田に頷いた。沢田は彼女がこんなにか弱く見えるのは初めてで、心が揺らぎ、彼女の口からタオルを外した。大野佑欣は大きく空気を吸い込み、呼吸を整えると、充血した目で、全身を縛っている縄を見つめた。「解いて」彼女の視線を追って、沢田は上半身を縛っている縄を見て、思わず首を横に振った。「解いたら、絶対に殴られる......」沢田は想像するまでもなく、縄を解けば、彼女は拳で自分を殴り殺すだろうと分かっていた。自分の命は、まだこれから闇の場で霜村冷司を助けるために必要なのだ。死ぬにしても、女に殺されるわけにはいかない。縄を解いてくれないのを見て、大野佑欣は縛られた両手を握りしめ、怒りを抑えながら、澄んだ瞳を上げた。「健二、あなたのことが好きになったの。殴ったりしない......」あなたのことが好きになったの......沢田は驚き、縄で縛られてやつれた大野佑欣を見つめた。「薬を飲ませて、拉致したのに、それで俺のことを好きになったと言うのか?」彼の信じられないという表情を見て、大野佑欣は花が咲いてような明るい笑顔を見せた。「あなたにはあなたなりの理由があるはずよ。そうでなければ、私を傷つけるはずがないもの。だって......」大野佑欣は2秒ほど間を置いて、沢田の下半身に視線を落とした。「あんなに何度も一緒に寝たんだもの、少しは情が移ったでしょう?」沢田は彼女が自分の下半身を見つめているのに気づき、照れくさそうに膝を閉じた。「俺は......」「もしかして、私のことが好きじゃないの?」その挑発的な問いかけに、沢田はどう返事していいのか分からなかった......タオルを外したら、大野佑欣はきっと最初に自分に向かって暴言を吐き散らかすだろうと思っていたのに、告白されたとは想像もしなか
大野皐月が壁に寄りかかり、顔が赤く、息を切らしているのを見て、春日琉生は恐る恐る尋ねた。「兄さん、だ、大丈夫か?」大野皐月は充血した目で春日琉生を睨みつけた。「どっか行け!」春日琉生は足を速めて去りながら、南に声をかけた。「薬を飲むように言ってくれよ......」南はいつも持ち歩いてる薬を取り出し、水と一緒に大野皐月に渡した。「お、大野様、まずは薬を飲んで落ち着いて......」怒りを必死に抑えようとしている大野皐月は、薬を受け取り、仰向けになって飲み込んだ。気持ちを落ち着かせ、再び目を開けると、その目には冷たい光だけが残っていた。彼は床に落ちた携帯を拾い上げ、霜村爺さんの電話番号を探してかけた......霜村爺さんは大野皐月の話を聞いて固まった。「な、なんだって?彼女が本当に春日家の人間じゃないんだと?」大野皐月は我慢できず、怒鳴った。「耳が聞こえないのか?それとも目が悪くなったのか?!人の話が分からないのか?何度言ったら信じるんだ?!」霜村爺さんは初めてこんなに人に怒鳴られ、激怒した。「耳も目も悪くなってない!まともに話せないくせに、逆ギレするとはいい度胸だ!」どうして霜村家と関わるといいことがないんだ?!若い奴が生意気なのはまだしも。今度は年寄りも楯突いてくるとは!私を誰だと思っているんだ?!「このジジイ、よく聞け!てめえが飯食えば歯に詰まり、水を飲めばむせて死にかけ、車に乗ればタイヤが外れて、外に出れば即交通事故、おまけに子孫は三代続かずに滅ぶように呪ってやる!」大野皐月は一気に怒鳴り散らかした後電話を切り、霜村爺さんの番号をブロックした。霜村爺さんは怒りで体が震え、言い返そうとしたが、ブロックされていることに気づき、さらに激怒した。「この野郎!」「この畜生め!」「わしも呪ってやる!不幸になれ!嫁をもらえず、たとえもらえても、子供には障害あれ!!!」霜村爺さんは一通り怒鳴り散らかした後、霜村冷司が前にもってきたDNA鑑定書を改めて確認した。今はかつて和泉夕子が春日家の人間だと嘘をついていた大野皐月でさえ、彼女が春日家の人間ではないと言っている。ということは、この鑑定書は本物だ......本物だとしたら、春日椿がこの件を利用して霜村家の人間を煽り、和泉夕子を殺すようにと
春日琉生はもったいぶってみたものの、大野皐月はそんなことを許さない。仕方なく、彼は正直に話し始めた。「父から聞いた話では、あの隠し子は祖父が他の女性との間にもうけた子供で、祖母に知られないように柴田家に預けて育てていたそうだ」「しかしその後、祖父はその隠し子を柴田家から連れて帰ろうと考え、隠し子の運勢が良いから養女として引き取って育てれば、家の財産が絶えることがない、と祖母を騙して、それで祖母は同意したんだ」「ところが、その隠し子はまさか霜村さんの父親の愛人になったんだ。祖父は祖母に内緒で彼女を家系図に載せていたのだが、この一件で除名することになった......」「その後、霜村家が春日家の隠し子を死に追いやったという噂が祖母の耳に入り、柴田家で育てられ、春日椿、春日望、春日時と似たような雰囲気の名前の柴田悠が、実は祖父の隠し子だったことを知った祖母は大騒ぎして、離婚寸前まで行ったそうだ......」春日琉生が長々と話した中で、大野皐月は一つのキーワードに注目した。春日家の隠し子が霜村冷司の父親の愛人だったこと......それを聞いた瞬間、彼の頭に一つの考えが浮かんだ。もしかして、霜村冷司は春日家の隠し子が産んだ子供なのではないか?しかし、その考えはすぐに消えた。もし霜村冷司が本当に春日家の隠し子の子供なら、霜村家は彼を後継者にするはずがない。しかし、万が一......大野皐月は、たとえ万が一そうだったとしても、霜村冷司が適合するとは限らないし、彼の心臓を奪うことなどできるはずもないと考えた。大野皐月が考え込んでいると、春日琉生が彼の耳元でぶつぶつと呟いた。「夕子が俺の姉さんじゃなかったのは残念だな。あんな優しい姉さんずっと欲しかったのに......」大野皐月はその言葉を聞いて、和泉夕子の美しい顔が目に浮かんだ。「彼女は優しいのか?」春日琉生は頷き、さらに付け加えた。「兄さんの妹より1000倍も優しい!」大野皐月が眉をひそめると、春日琉生は突然ひらめいたように言った。「あ、姉さんじゃない方がもっといいな。これで彼女にアタックできる!」大野皐月は彼を睨みつけた。「彼女は既婚者だ!」春日琉生は気にしていないように両手を広げた。「知ってるよ。でも、だからどうした?離婚させればいいだけの話だろ?どうせ彼女の夫は霜村家
大野皐月が出てくるのを見て、春日琉生は慌てて駆け寄ってきた。「兄さん、今、姉さんが出て行ったのを見かけたんだ。機嫌が悪そうだったから、声をかけられなかったんだ。椿おばさんと何かあったのかな?」落ち込んでいた大野皐月はふと我に返ると、春日琉生の頬をひっぱたこうとしたが、彼は素早く身をかわした。「兄さん、何するんだよ?!」空振りになった大野皐月は、手を引っ込めて拳を握り締めた。「お前、おばさんが春日家の人間ではないことを、なぜ私に黙っていた?」「望おばさんが春日家の人間じゃない?」春日琉生は不思議そうに眉をひそめた。「どうして彼女が春日家の人間じゃないって分かったんだ?」大野皐月は、春日琉生の少し禿げた頭頂部を睨みつけ、冷たく言った。「夕子が、お前の髪の毛でDNA鑑定をしたんだ。それでお前たちには血縁関係がない事が分かったんだ」春日琉生はそれを聞いて、深呼吸をした。「あの時、祖父と祖母が話していたのは、姉さんの母親のことだったのか......」大野皐月は、彼が油断している隙に、彼の頭頂部をひっぱたいた。「いつそんな話をしていたんだ?!」春日琉生は頭を押さえ、痛そうに叫んだ。「兄さん、優しくしてくれよ!ここはついさっき髪の毛を抜かれたばっかでまだ治ってないんだ!」ブチ切れていた大野皐月は、完全に我慢の限界だった。「南、こいつの髪の毛を全部むしり取れ!!!」「......」春日琉生は唖然とした。彼は半歩後ずさり、正直に話した。「俺も子供の頃、たまたま祖父と祖母がそんな話をしているのを聞いただけで、具体的に誰が春日家の子供じゃないのかは、よく知らないんだ......」大野皐月は、彼が嘘をついているようには見えなかったから、さらに尋ねた。「おばさんは、祖父母が養子として迎えたのか、それとも拾われたのか?」春日琉生は首を横に振った。「俺は、三人の中に一人だけは春日家の人間じゃないって知ってるだけで、どうしてそうなったのかは知らない」「お前の父親は知っているのか?」「俺以外には、誰もこの秘密を知らないはずだ......」だとすると、調べるしかない。大野皐月は面倒くさがりで、調べる気にならなかった。彼にとって、母親と適合しない人間には価値がない。そんなことに時間を無駄にするつもりもない。「この秘密の他
大野皐月がショックを受け入れられないでいると、春日椿はしわくちゃの手を震わせながら彼の服を掴んだ。「皐月、私はもっとあなたのそばにいたいから生きていたいの。お願い、助けて。夢で地獄を見たの。とても恐ろしかった。行きたくない......」大野皐月は血の気の引いた彼女の顔をじっと見つめ、しばらくしてから、ゆっくりと彼女の手を振り払った。「悪いことをしまくった人間しか地獄に行かないんだ。母さんは優しい人だから、地獄になんて行かないさ......」その言葉が、春日椿が再び大野皐月の服を掴もうとした手を空中で固まらせた。彼女は優しい人間だろうか?いや。彼女は散々悪事を働いてきた人間だ。彼女が先に大野社を好きになったのに、彼は春日望の顔が好きだった。しかも彼女と結婚するために大野家の前で三日三晩も跪き続け、やっと婚約を許してもらった。悔しくてたまらなかった彼女は、春日望の親友の柴田琳に近づき、それとなく春日望の顔を傷つけるように唆したのだ。正確に言えば、柴田琳は春日望の顔に薬品をかける前までためらっていた。柴田琳が諦めるのを恐れた春日望は、わざとぶつかったふりをして、やっと薬品を春日望の顔にかけたのだ。罪を裁く者がいるとすれば、その矛先は彼女に向かうに違いない......それに、春日望がお金を借りに来た時も、両親にそれとなく、春日望は祖父の財産を両親には渡すくらいなら、それを持って他人と結婚する方がマシだと言っていたとか、あんな娘にお金を貸しても返ってこないとかと言い聞かせた。それで両親は彼女にお金を貸さなかった。春日望が追い詰められていた時、弟の春日時にも頼った事があった。彼は表面上では断りながらも、陰では彼女にお金を渡した。春日望の連絡先を知っている彼女に、お金を代わりに渡してもらうように頼んだのだ。お金を受け取った彼女は、それでデパートのブランドバッグを買ってスラム街の人に渡しても、お金を春日望には渡さなかった。春日時は今でもこのことを知らず、春日望がお金を受け取って、結婚相手の藤原晴成に渡したと思い込んでいて、彼女が路上で凍死したと聞いても、心を鬼にして一回も見舞いに行かなかった......こんなにたくさんの悪事を働いて、本当に地獄に落ちないのだろうか?春日椿は信じなかった。彼女は生きていたい、ずっと生きていたいのだ!
「どんな条件だ?」「大野家の事業を即座にアジア太平洋地域から引き上げろ」「......」大野皐月の顔色は暗くなった。「いい加減にしろ!」霜村冷司の唇に軽蔑の笑みが浮かんだ。「また妹に会いたいなら、私の言うとおりにしろ」そう言い放ち、男は和泉夕子の手を引いて立ち上がった。大野皐月が彼を呼び止めた。「どういうことだ?私の妹を攫ったのか?」霜村冷司は立ち止まり、振り返って困惑している大野皐月を上から下まで一瞥した。「知っているはずだ。私は準備なしで戦ったりはしない」それを聞いて、大野皐月は理解した。霜村冷司は、自分たちが和泉夕子の臓器を狙っていることを見抜いて、事前に妹を拉致したのだ。自分たちが和泉夕子に手を出したら、妹を人質として引き換えに使うだろう......今、遺伝子型が適合しなかったから、大野皐月にとって彼らをここに置いておく意味はなく、当然帰らせるだろう。しかし、今度は霜村冷司が引き下がらない。妹を人質に取って、大野皐月を一皮剥ければわざわざここまで来た甲斐もあったというものだ。実に完璧な策略だ。妹思いの大野皐月は、霜村冷司のやり方をよく知っているため、妹に何か危害が加えられるのではないかと恐れた。悩んだ末、彼は渋々同意した。「分かった。約束するから、すぐに妹を放せ」霜村冷司の完璧な顔に、やっと薄い笑みが浮かんだ。「大野さん、これからはお前のお母さんを大人しくさせておけ。二度と妻に手を出したら、ビジネスで少しつまずくくらいで簡単に済ませるわけにはいかないぞ......」男の目は笑っていなかった。まるで、彼を怒らせれば、命を落とすことになりかねないかのようだ。霜村冷司と何度も駆け引きしてきた大野皐月は、彼の思慮が自分よりはるかに深いことを、認めざるを得なかった。彼は霜村冷司に返事をする代わりに、視線を和泉夕子に移した。「さっき、君は春日家の人間ではないと言ったが、どういうことだ?」和泉夕子は、大野家と春日家の人間を通して、この事実を皆に公表する必要があったため、ありのままに話した。「琉生が教えてくれたの。春日椿、春日望、春日悠の三姉妹の中に、一人だけ春日家の人間ではない人がいると。それで、琉生から髪の毛を少し借りて、DNA鑑定をしたら、血縁関係がないことが分かったんだ」大野皐月の視線は窓の外に移り、ブラインド