Mag-log in夫の裏切りと心ない言葉に傷つき、自分を見失っていた紗月。そんな彼女の前に現れたのは、冷静でストイックな専属トレーナー・怜司だった。「奥様、もう謝らなくていい」――身体を整えるたび、止まっていた人生と恋が再び動き始める。
view more南青山、ルミナス本社の専用アトリエ。やわらかな白い照明の下、紗月が昼夜をかけて完成させた、最初のアクティブウェアの試作品が並んでいた。上質な機能性素材に、人の体に沿う着圧パターンを取り入れたテクニカルウェア。次は、腕を上げ、体を曲げたときに、服がどう動くかを確かめる番だった。紗月は、運動に慣れた怜司へ最初の着用を頼んでいた。ドアが開き、彼が静かに入ってきた。作業台の服を見ながら、袖をまくる。「お呼びですか、奥様」「ありがとうございます。初めての試作品なので、動いたときに引っ張られるところがないか、見ていただきたいんです。小さな違和感も、全部教えてください」濃いコバルトブルーのコンプレッショントップとパンツを渡した。怜司はうなずいて更衣室へ入り、ほどなく着替えて出てきた。くっきりした胸。逆三角形に広がる背中。余分な肉のない、引き締まった腰。計算した立体パターンが、その体と合わさり、見事な造形を見せていた。「着た感じはどうですか?」「胸を支えてくれますが、呼吸は楽です。腕を前へ伸ばしてみましょうか」紗月はすぐ側面を見た。座って描いた線が、実際に動いても残っている。夜通し直した甲斐があった。「背中の起立筋に沿うサポートラインを、2.5cmほど、もう少し詰めてみます」手首にピンクッションをつけ、後ろへ回った。手のひら一枚分ほどの距離になると、森の香りと体温が、急に鮮明になった。紗月の指が、広背筋と背骨沿いの筋肉を慎重にたどった。硬い皮膚の下にある、太い筋肉の流れが指先へ伝わる。触れた途端、彼の背中がわずかに緊張した。「っ……」腰の中心を押さえ、ピンを打った瞬間、低い息が耳をかすめた。「奥様……指が、冷たいですね」紗月はピンを持つ手を一度下ろした。「緊張すると、こうなるんです。少しだけ我慢し
ルミナス1階の大理石のロビーに、怒鳴り声が響いた。「紗月! どこだ! 今すぐ出てこい!」裁判所から送達された離婚の訴状と、仮差押えの通知を握った雅人だった。いつも整っていたオーダースーツはしわだらけで、ネクタイは傾き、酒のにおいと狂気をまとっていた。社長の座を追われ、他人名義の口座も隠し財産も凍結されて、すっかり理性を失っていた。エレベーターから出た紗月を見つけるなり、獣のように飛びかかった。「お前、正気か! 俺に離婚を突きつけて、財産の70%に親権まで要求しやがって! 俺をこの業界から消すつもりか!」胸ぐらへ手を伸ばした、そのとき。怜司が素早く動き、2人の間へ広い肩を入れた。大きな手が雅人の手首を捉え、一気にひねり上げた。「ぐああっ……!」悲鳴を上げ、大理石へ膝をつく。「まず手を下ろしてください。続けるなら、警察へ引き渡します」怜司は声を荒らげなかった。腕を抜こうとするときだけ、手首を確かに押さえた。会員と社員が集まり、ざわめきが広がると、雅人は羞恥で震えながらわめいた。「こいつが愛人なんだろ! 夫の金でジムに通って、若い男と寝て、俺を追い出したんだ。この汚い女が!」身勝手な濡れ衣だった。紗月は怜司の後ろからゆっくり出て、夫を冷たく見下ろした。教わったとおりにお腹を支え、背筋を伸ばす。唇から、冷たい笑いがこぼれた。「ばかなことを言わないで。ホテルで白石沙耶とお金を逃がそうとしていたのは、あなたよ」携帯の写真を開いた。ホテルのテーブルに広げられた現金と、口座の資料だった。「言い訳は、ここじゃなく、取り調べでどうぞ。今日したことも、全部記録しておくから」雅人が青ざめた。唇を震わせるばかりで、反論できない。自分の罪の証拠の前で、虚勢が砂のように崩れていった。警備員が駆けつけ、両腕を押さえて外へ連れ出した。
金曜の午前11時。南青山のルミナス本社、最上階の役員会議室。東京のビル群を見渡せる大きな窓のある部屋へ、紗月は怜司と入った。木のテーブルの上座には、グループを率いる神崎晃(かんざきあきら)が座っていた。元日本代表選手から、世界へ広がるフィットネス企業を築いた経営者だった。神崎は椅子を勧め、ポートフォリオを待った。紗月はバッグから資料を出しながら、テーブルの下で足の裏を均等に床へつけた。「奥様……いえ、デザイナーの橘紗月さんですね。桐生チーフが、ずいぶん熱心に褒めていましたよ」軽く微笑み、手で促した。「この秋に始めるプレミアム・アクティブウェアについて、用意してくださった案を拝見しましょう」紗月は革のファイルを開き、夜を徹して磨いた企画を大型画面へ映した。体の線を見せる正面図と、腕を伸ばし、腰を曲げたときの側面図が並んだ。動きに合わせて生地が引かれる場所、ゆとりの必要な場所が示してある。得意なコバルトブルーとモノトーンは、そのままだった。代わりに背中と脇の切り替えを変え、姿勢を変えたときの負担を減らしていた。「見せるために我慢する服は、作りたくありませんでした。運動中も肩を開き、楽に呼吸できるよう、パターンと素材を一緒に調整しています」生地を引き、戻す手を、神崎が見ていた。「美しくて、着心地もいい服を作るということですね。実際に着ても、この線は保てますか?」「サンプルで確かめます。絵のとおりに押し通さず、着た状態を見て直すつもりです」怜司と確認したメモを出した。わからないところには、印がついたままだった。医療の専門家のように話す必要はない。着る人の動きを聞いて、それを服に落とし込む。その仕事なら、説明できた。神崎が、背中の線を指した。「これをなくせば、生産しやすくなるのでは?」「そうすると、腕を前へ寄せたときに引っ張られます。今は残して、着用結果を見てから決めたいです」
週が明けた月曜の午前10時。東京家庭裁判所の受付。理沙が、紗月の名前の入った厚いファイルを窓口へ提出した。【離婚、慰謝料、財産分与ならびに親権者・監護者の指定を求める訴え】受領書を受け取った紗月は、一番上の自分の名前を確かめた。書類を準備していたときとは違う。もう引き返すつもりはない。その実感が、指先まで伝わってきた。「紗月、受け付けてもらえたわ」理沙が笑顔で書類を渡した。「ホテルの資料と法人カードの伝票、デザインの記録も添えてある。財産分与は70%、花音ちゃんの親権と監護も、あなたが担うよう求めた。相手が何を言っても、資料で答えよう」「ありがとう。1人だったら、ここまで書類を持ってくることさえ難しかったと思う」紗月の目は、今までになく澄んでいた。雅人からは何十件もの着信と、卑屈な懇願、脅すメッセージが入り交じって届いていた。ためらわず、着信を拒否した。連絡は理沙を通して受ける。1人で電話を取り、揺さぶられることを、もう繰り返したくなかった。帰宅して、雅人が残した服と荷物を箱へ詰めた。花音の部屋には、明るいパステルカラーの寝具を置いた。娘が選んだ色だった。カーテンを開けると、その上へ日差しが長く伸びた。* * *午後2時。ルミナスのVVIPルーム。少し軽くなった体と、確かな気持ちで、紗月は怜司の前に立った。彼の鋭い目が、全身を確かめた。「もう、私が言う前にご自分で姿勢を直すんですね。入ってこられたときもそうでした。痛みはどうですか?」その言葉に、紗月は少し誇らしく笑った。「軽くなりました。緊張すると、まだ肩が上がりますけど。どうしたら緩められるのかも、少しわかってきました」「いいですね。今日から第3段階に進みましょう。重さより、まず動きを覚えます。つらいところがあれば、すぐに言ってください」デッドリフトとランジのエリアへ案内された。バーベルを握ると、怜司が背後から、腰