奥様、その姿勢は反則です

奥様、その姿勢は反則です

last updateHuling Na-update : 2026-09-27
By:  6jayIn-update ngayon lang
Language: Japanese
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夫の裏切りと心ない言葉に傷つき、自分を見失っていた紗月。そんな彼女の前に現れたのは、冷静でストイックな専属トレーナー・怜司だった。「奥様、もう謝らなくていい」――身体を整えるたび、止まっていた人生と恋が再び動き始める。

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24 Kabanata
1話. 結婚記念日の贈り物
結婚6周年の夜だった。紗月(さつき)が3時間かけて用意したヒレステーキは、フランス産のワインと並んだまま、すっかり冷めていた。垂れた蝋が白く固まり始めたころ、ようやく玄関の電子錠が鳴った。時計の針は、もう日付を越えている。ドアが開き、夫の一条雅人(いちじょうまさと)が入ってきた。上質なオーダースーツから、いつものシトラスに交じって、覚えのない甘い花の香りがした。「雅人さん、お帰り。遅くなるなら、連絡くらいくれても……」エプロンをほどきながら歩み寄る。けれど雅人は紗月を見もせず、ブランド物のブリーフケースをソファに放った。「仕事が忙しかったんだ。こういう日だからって、大げさに用意しなくていいって言っただろ」食卓を一瞥した目にあったのは、喜びではない。隠そうともしない疲労と、面倒くささだった。ほどきかけた紐が指から滑った。結び目の端が手首に引っかかっても、紗月はしばらく外せなかった。夫のブランドが年商数十億円を上げるようになってから、こんな扱いは日常になっていた。「花音は?」「9時に寝たわ。パパを待つんだって、最後まで頑張っていたけど……」「そう。疲れたから先にシャワー浴びる」雅人は乱暴にネクタイを緩め、寝室のウォークインクローゼットへ向かった。食卓を片づけようとした紗月の目に、ジャケットの内ポケットから滑り落ちた銀色の封筒が留まった。厚みのあるエンボス紙に、南青山の高級プライベートジム『ルミナス』のロゴが金箔で押されている。(プレゼント……?)記念日を忘れていたわけではなかったのかもしれない。ほんの一瞬、そんな期待が胸をよぎった。シャワーを終え、ガウン姿で戻ってきた雅人は、封筒を持つ紗月を見て鼻で笑った。「もう見たのか。明日の朝、渡そうと思ってたんだけど」「これ、何? プライベートジムの会員権……?」炭酸水を飲み、雅人は食卓の向かいに気だるげにもたれた。紗月の頭から足先までを眺める目は、売れ残りの商品を品定めするように冷たい。「来月、うちのブランドのリニューアル記念ガラがあるだろ」「ええ。半年以上かけて準備しているパーティーでしょう?」「主要な投資家もインフルエンサーも、みんな夫婦で来るんだ」雅人はボトルを食卓に置いた。硬い音がした。「俺も妻を連れていかなきゃならない。だけど正直、今のお前のその格好で、あの人た
last updateHuling Na-update : 2026-09-24
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2話. 壊れた体
「壊れた、って……」乾いた声が唇からこぼれた。顔が熱くなるのに、全身の血が一度に足先へ引いていくような寒気がした。昨夜、雅人に投げつけられた言葉が、また耳の奥を刺す。『女として見られない』『人前に出せるくらいにはまともになれ』夫に受けた屈辱も癒えていないのに、初めて会ったトレーナーまで、自分の体を壊れていると切り捨てる。握った指が震えた。「初対面の会員に……少し、言いすぎじゃありませんか」無理に顎を上げ、冷たく言い返した。傷ついたと悟られたくなくて、声に棘を含ませた。けれど、揺れる目までは隠せなかった。怜司は引かなかった。むしろ188cmの長身から紗月を見下ろし、もう一歩近づいた。大理石の床に、重い足音が静かに落ちた。「不快にさせるために申し上げたのではありません」声は低く、落ち着いていた。「入ってこられたときから見ていました。左肩がかなり内側に入り、顎は前に15度以上出ています。骨盤は右にねじれているので、歩くたびに右のかかとに体重がかかりすぎています」紗月の息が止まった。彼の目には、いやらしさも値踏みする色もない。レントゲンを読む外科医のように、骨や筋肉が上げている悲鳴を正確に拾っていた。「首と腰に負担が集中する姿勢です。少し立っているだけで肩が痛くなりませんか。夜、足がつったり、腰の痛みで目が覚めたりすることは?」「……」そのとおりだった。花音を産み、授乳をしていたころから、夜になると腰がちぎれそうに痛んだ。人知れず湿布を貼りながら泣いた夜が、次々によみがえる。雅人はそれを、怠けている証拠だと言った。けれど怜司は、わずか10秒で、紗月が耐えてきた痛みの跡を見抜いた。彼は部屋の隅にある個室の更衣室を顎で示した。「今の服装では、動きを正確に確認できません。抵抗があれば、今日はカウンセリングだけでも結構です。続けるかどうかは、説明を聞いてから決めてください」「……」「運動をしてみようと思われるなら、ロッカーのウェアに着替えてきてください。どの動きがつらいのか、そこから見ていきます」ドアノブを回し、少し開けたまま、彼は付け加えた。「奥様」深い低音に乗ったその呼び方が、耳に残った。ただの敬称ではない気がした。夫の陰に隠れ、自分をすり減らしている今の紗月を指しているように聞こえた。唇を強く噛んだ。ここで
last updateHuling Na-update : 2026-09-24
Magbasa pa
3話. 謝らなくていい
怜司の大きな指が、右の肩甲骨のあたりに触れた。厚いグローブ越しに伝わるのは、革の冷たさではない。しっかりした指の圧と、深く染みてくる男の体温だった。「っ……」抑えた声が、紗月の唇から漏れた。触れられたところから電流が走ったように、背筋がこわばる。結婚して6年。夫の雅人でさえ、ほとんど触れてこなかった体だった。知らない男の大きな体がすぐ後ろにある。それだけで、肋骨を内側から打つほど心臓が騒いだ。首筋と耳が赤くなる様子まで、鏡は映していた。「肩の力を抜いてください。うまくやろうとして踏ん張らなくていいんです。今は、どこがつらいかを確認しています」涼しい声が耳をかすめた。指先が丸まった肩甲骨の内側を捉え、深く圧をかける。「あ……!」鋭い痛みに、紗月は肩をすくめてうつむいた。息を吸うたび肋骨の内側がきつくなり、背中全体が焼けるようだった。「すみません……私、体が硬すぎて」反射的に謝っていた。雅人と暮らすうち、体の奥まで染みついた習慣だった。家事が少し遅れても、娘が風邪をひいても、夫の機嫌が悪くなっても。先に『ごめんなさい、私が悪かったわ』と言わなければ、家の中は収まらなかった。怜司の手が、ぴたりと止まった。鏡の中で、彼の眉が寄る。「なぜ謝るんですか」「え……?」「痛いのは奥様でしょう。どうして私に謝るんですか」後ろから一歩横へ移動し、鏡越しに紗月の目をまっすぐ見た。厳しい目だった。その奥に、言い表せないような痛ましさがある。「僧帽筋と菱形筋がこれほど硬くなり、胸椎が動かなくなっているのは、怠けていたからではありません」鎖骨の下、大胸筋のあたりを、彼が指先でそっと押さえた。凝り固まった筋肉に圧がかかり、重い痛みとともに息が詰まる。「毎晩、お子さんを抱いてミルクを飲ませるために、肩を丸めていたんでしょう。休まず家事をして、周りの人の世話をして。その間、ご自身の呼吸は浅いままになっていた」「……」「机に長く向かう作業もされていましたか。いつから痛みが強くなったのか、知りたいんです」「デザインの仕事をしていました。花音を寝かせてから、明け方まで。湿布を貼れば少し楽になったので……そのまま我慢していました」あのころのことを口にすると、もう何でもない顔ではいられなかった。紗月は鏡から目をそらした。夫は、子どもを産んだく
last updateHuling Na-update : 2026-09-24
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4話. 自分の足で立つ
紗月は鏡に映る肩の高さを確かめた。さっきまでは顎を上げるだけで首筋が引きつれたのに、今は正面を見るのがずっと楽だった。「その姿勢で、呼吸をしてみてください」言われて、お腹に力を入れた。けれど息を吸おうとした瞬間、また肩が上がった。せっかく整えた姿勢が崩れそうで、無意識に全身を固めていた。「こうですか?」「息を止めていますね」「あ……伸ばしているようにと、おっしゃったので」怜司は腰の横を支えていた力を緩めた。紗月が自分の足でバランスを取るのを待ち、鏡に映る肩の線を指した。「まっすぐ立つことと、固まることは違います。少し力を抜いても、倒れませんよ」紗月は足の指を伸ばした。靴の中で丸めていたことさえ気づかなかった。かかとに体重が下りると、膝のこわばりも少しほどけた。「私が横にいます。まずは息をしましょう」すぐ後ろにいた怜司が、半歩横へ移った。鏡に、2人の顔が並ぶ。紗月は彼の表情ではなく、自分の唇が開くのを見ながら短く息を吐いた。怜司が姿勢を確かめるため、もう一度後ろに立つ。広く硬い胸が、背中を包み込むほど近くにあった。涼しい森の香りと濃い体温が、鈍っていた感覚を容赦なく揺さぶる。「鼻から深く吸って、口からゆっくり吐いてください」大きな手のひらが、肋骨の下部を左右からそっと包んだ。震える息を吸うと、その手の下で胸郭が少しずつ膨らんだ。「もう少し吸ってみましょう。肩はそのまま。私の手が触れているところが広がるのを、感じてください」指先が肋骨に細かく触れ、動きの鈍くなった横隔膜を導く。触れられるたび、硬くなった胸椎の間に、重い熱が広がった。「あ……っ、ふ……」こんな深い呼吸は初めてで、紗月は少しめまいがした。いつも胸の上だけで浅く、せわしなくしていた呼吸が、彼の手に沿って下腹と骨盤の奥へ落ちていく。「その調子です」耳元で、低い声がした。熱い息が耳をかすめ、全身が粟立った。紗月は唇の内側を噛んだ。(これは……ただの体の調整。運動のために触れているだけ)何度も心の中で繰り返し、冷静でいようとした。それでも、背後にある筋肉の厚みと心臓の音を、ないことにはできなかった。今度は手が、傾いた骨盤の後ろ、仙骨のあたりに下りてきた。親指が、硬くなった臀部の筋肉と腸骨稜の間を深く押す。「あっ……! 待って、そこは……!」反
last updateHuling Na-update : 2026-09-24
Magbasa pa
5話. 嫌だと言えた日
翌朝10時。南青山の『ルミナス』、VIPトレーニングルーム。紗月は昨日よりずっと自然に、紺のブラトップとレギンスを身につけ、マットに立った。たった1日で痛みが消えたわけではない。それでも、目を覚ましたとき、腰にのしかかっていた重いこりは、明らかに軽くなっていた。足の裏全体で床を踏む感覚も、前より確かだった。「マットに仰向けになってください」怜司の落ち着いた指示に従い、中央にまっすぐ横たわって天井を見た。硬くなった腸腰筋と大腿直筋、骨盤の奥の筋肉を緩めるストレッチが始まろうとしていた。怜司が片脚を持ち上げ、膝を直角に曲げて、足首を自分の肩に載せる。大きな手が太腿の内側と骨盤の前を押さえ、股関節を深く曲げた。「っ……!」関節の奥から引き裂かれるような痛みが走り、背筋を伝って上がってきた。紗月は歯を食いしばり、指の節が白くなるほどマットをつかんだ。全身に力が入る。「力を抜いてください、奥様。無理に踏ん張ると、筋肉ではなく関節や靱帯を傷めてしまいます」握りしめた手を見た怜司が、押す力を弱めた。けれど、6年かけて身についた身の守り方は、簡単には解けなかった。冷や汗がにじみ、息が荒くなる。「すみません……私が硬すぎるせいで、先生にご迷惑ばかり。本当に、すみません……」また、反射的に謝っていた。雅人に少しでも小言を言われないよう、先に頭を下げる、惨めな癖だった。その瞬間、骨盤を押さえていた手が止まった。怜司は上体を起こし、深く涼しい瞳で紗月を見下ろした。部屋に、冷たい沈黙が落ちた。「奥様」昨日より、さらに低い声だった。「お話ししましたよね。痛いことは、謝ることではありません」「でも……私がうまくできなくて、先生に負担をかけている気がして……」「それのどこが、私に謝る理由になるんですか」彼は横で片膝をつき、目の高さを合わせた。視線が、逃げ場のない近さで重なった。「体が痛くてつらいなら、謝るのではなく、痛い、嫌だと言ってください」「……え?」「今つらいのは、私より奥様です。私の顔色をうかがわないでください」さらに目線を低くして、怜司は待った。こんなに近くで、自分の返事を待つ人の顔を、紗月は初めて見た。「家でも、つらいという言葉からのみ込んでしまうんですか。誰かの機嫌を損ねないように」「……それは」喉が詰まった。
last updateHuling Na-update : 2026-09-24
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6話. 画面に残った裏切り
浴室のドアの隙間から、激しいシャワーの音が響いていた。紗月は息もできず、その場に立ち尽くしていた。ソファの上のジャケット。そのポケットから半分のぞく、夫のスマートフォン。画面の名前と文章が、目の奥をえぐった。【白石沙耶:社長、今日のホテル、すごくよかったです。明日の午前のレッスン前、少しだけ私のマンションに来られますよね?】指先が、感覚を失うほど冷えていく。心臓は肋骨を破って飛び出しそうに暴れていた。(ホテル……? 明日も、レッスンの前に会うつもりなの?)ばらばらだった不吉な断片が、一枚の残酷な絵になった。結婚記念日なのに、日付が変わるまで帰ってこなかった夫。服から漂っていた、知らない花の香り。そして、妻に放り渡した1回3万円のプライベートジムの会員権。すべて、自分を嘲り、遠ざけるための欺きだった。(泣かないで。今、座り込んでいる場合じゃない)紗月は唇を噛み、震える手で自分のスマートフォンを出した。指の関節が固まって、うまく動かない。それでも必死にカメラを夫の画面へ向けた。シャッター音が出ないアプリを開き、白石沙耶の名前とメッセージを、続けて撮影した。そのとき、水音が止まった。急いで携帯をポケットへ押し込み、テーブルから数歩離れた。かちゃり。ガウンを羽織った雅人が、タオルで髪を拭きながら出てきた。リビングの真ん中に背筋を伸ばして立つ紗月を一瞥し、疑いもせずスマートフォンを取り上げる。通知を見た口元が、満足げに緩んだ。紗月は、その卑しい笑みを見ていた。「水は? まだ用意してないのか」顎で示され、感情を押し殺した声で答えた。「ウォーターサーバーから自分でどうぞ。私はもう寝るわ」雅人は眉を寄せ、舌打ちした。「何だよ。今日はやけに頑固だな。疲れてるんだから、さっさと寝ろよ」携帯を持ったまま書斎へ入り、ドアを閉めた。紗月は閉ざされたドアを見つめた。涙は出なかった。胸の中で、冷たい怒りと意地が、刃のように立ち上がっていた。* * *翌朝9時30分。港区赤坂の高級レジデンス。地下駐車場へ、銀色のケルブランのセダンが滑り込んだ。車を降りた雅人は慣れた足取りで専用エレベーターへ乗り、18階へ上がった。暗証番号を押して室内へ入ると、甘いバニラの香りに包まれた。「社長! 思ったより早かったですね」駆け寄ってき
last updateHuling Na-update : 2026-09-24
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7話. 離婚しようと思う
南青山、『ルミナス』の専用駐車場。エンジンを切った紗月は、ハンドルに額を深く伏せ、震える息を整えた。裏切られた痛みと羞恥が込み上げ、全身の神経を引っかいていた。けれど、今崩れたら、何もかも奪われてしまう。歯を食いしばり、感情を抑えて短縮ダイヤルの1番を押した。呼び出し音が3回鳴る前に、聞き慣れた歯切れのいい声がした。『紗月? 珍しい。この時間にそっちからかけてくるなんて』大学の同期で、大手法律事務所出身の離婚問題を専門とする弁護士、三崎理沙(みさきりさ)だった。「理沙、今、話せる?」『うん。ちょうど書面を一つ出したところ。どうしたの? 声、ずいぶん沈んでるけど』鋭い問いに、紗月は震える息を吸い、言葉を一つずつ口にした。「私……離婚しようと思う。何から準備したらいいか、わからなくて」電話の向こうが、一瞬、張り詰めた。『……雅人さん? 女ができた?』「ええ。昨夜、リンクオンのメッセージを見たの。ホテルで会ったって。写真も撮ってある」『よく聞いて。今は絶対、気づいたそぶりを見せたり、怒ったりしないこと。こういう相手は、勘づいた途端に別名義の口座へお金を移して、証拠を消そうとするから』「わかってる。何もなかったふりをして出てきたわ」『それでいい。まず、ご両親が貸したお金と、紗月が会社でやってきた仕事を整理しよう。口座明細やカード伝票は、正当に持っている資料だけ送って。手元にないものは、私が手続きを踏んで集める。ドラレコの原本も勝手にいじらないでね。花音ちゃんのことは別に、きちんと考えるから。今は何か食べて。運転がつらいなら、車を止めて』「うん。先に写真を送る。今、駐車場にいるの。少し落ち着いたら上がるわ」電話を切り、熱くなった目元を手の甲で押さえた。ただ被害者として座り込み、泣くだけの時間は終わりにしよう。花音を守り、自分の人生を取り戻すためにも、まっすぐ立たなければならなかった。* * *更衣室で機能性ウェアに着替え、トレーニングルームへ入ると、器具の整理を終えた怜司が振り返った。黒いウェア越しにも際立つ体格と、涼しい眼差しが紗月へ向いた。歩き方とこわばった肩の線を見て、彼の眉間がわずかに狭くなる。「いらっしゃいましたね」「おはようございます、先生」努めて何でもないように笑い、頭を下げた。けれど、怜司はすぐ横まで
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8話. 夫と、どんなお話を?
紗月は鏡の前で、目元をタオルで押さえた。怜司もドアへ顔を向けた。女が2人を見比べていた。開いたドアから身を乗り出しているのは、鮮やかなネオンピンクのピラティスウェア。濃いアイメイク。鼻を刺す人工的なバニラの香り。そして、見せつけるように露わにした細い腰。白石沙耶だった。ドアにもたれ、怜司へ媚びた笑みを向ける。「午前のレッスン、空いてるって聞きましたよ? このあと、VIPのストレッチルームを少し借りたくて……」言い終える前に、怜司の後ろにいる紗月が目に入った。濃く縁取られた目が揺れ、表情がわずかに固まる。鏡の前で背筋を伸ばす紗月の体には、落ち着いた品のよさがあった。昨夜、雅人がベッドで『子どもを産んで体が崩れたおばさん』とこき下ろしていた、その妻なのだと、沙耶は直感した。けれど、目の前の紗月は、聞いていたようなみすぼらしい女でも、おどおどした女でもなかった。手術や美容施術では作れない生まれつきの気品と、確かな存在感が、部屋の空気を涼しく支配していた。胸の底から、得体の知れない嫉妬と苛立ちがこみ上げる。沙耶の口元が、薄い嘲りにゆがんだ。(高いウェアを着たところで、子持ちのおばさんが独身の体に戻れるわけないでしょ)わざとらしい歩き方で、部屋へ踏み込んだ。手首のダイヤモンドのテニスブレスレットが、照明を弾いた。数百万円はする品だった。会社の初期ブランディングを完成させても、紗月が一円も受け取れなかった仕事の対価。それは今、雅人の法人カードで買われ、不倫相手の手首に巻かれていた。沙耶は、紗月の鎖骨、腰、骨盤の線を、頭から足先まで眺めた。下品なほど露骨な品定めであり、敵意を隠さない眼差しだった。「あら……もしかして、一条社長の奥様ですか?」よく知る相手にでも話しかけるように、馴れ馴れしく顎を上げる。「社長、奥様の体形をずいぶん心配していらっしゃいましたよ。来月のガラで着るドレスが入らないとか。会社でもため息ばかりついていらしたから、どんな方なのか気になっていたんです」言葉の一つひとつに、巧妙な毒があった。職場で、夫と私的な会話まで交わしている。その親密さをちらつかせながら、妻の体を傷つける。「ここはVVIPのマンツーマンだと1回3万円でしょう? でも、奥様みたいに硬いお体なら、激しいウエイトより、うちのピラティススタジオで基
last updateHuling Na-update : 2026-09-24
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9話. 飾りの妻には戻らない
怜司の冷たい声が、部屋の壁に響いた。沙耶はその目に圧され、一歩後ずさった。「れ、怜司先生……ただ、お会いできてうれしかったから、ご挨拶しただけですよ。どうしてそんなに怖い顔を?」無理に笑い、引き締まった腕に触れようとした。けれど怜司は、指が届く前に身をかわした。「ルミナスのVVIPルームは、担当トレーナーとご予約の会員様以外、施設の責任者であっても勝手には入れない区画です。規約を忘れたんですか」ためらいなく、壁のインターホンを取った。『はい、VVIP受付です』「桐生です。3番ルームに、別部門のフリーランス講師が無断で入り、レッスンを妨害しています。受付マネージャーをすぐによこしてください。退出の対応と、契約違反への処分手続きをお願いします」『は、はい! 申し訳ありません、桐生チーフ。直ちに対応いたします!』統括マネージャーの慌てた声が、受話器から響いた。沙耶の顔が、屈辱と恐怖で白くなった。施設のエースで、元日本代表のVVIP統括チーフ。その一言があれば、フリーランスにすぎない自分の契約など、明日にでも打ち切られかねない。「……お2人とも、本当にひどいんですね」怒りをのみ込めないまま2人をにらみ、ヒールを高く鳴らして出ていった。ドアが閉まる。トレーニングルームに、静けさが戻ってきた。怜司は紗月へ向き直り、丁寧に頭を下げた。「不愉快なことでレッスンを妨げてしまい、申し訳ありません。施設として、再発防止と処分を徹底します」紗月は首を振った。口元には、かすかでも確かな笑みがあった。「いいえ。先生が謝る必要はありません」「……はい?」「ありがとうございます。1人だったら、私が悪かったのかもしれないと思っていたはずです。さっきは……言いたいことを、最後まで言えました」もう、傷ついて不安に震えるだけの目ではなかった。自分の足で立ち、向き合っていこうとする意志が、青い火のように宿っていた。怜司は黙って見つめた。いつも冷静な口元に、ごく淡い、温かな笑みが浮かぶ。「続けても大丈夫ですか。もう少し休まれても構いません」彼は紗月を、バーベルやダンベルが整然と並ぶフリーウエイトのエリアへ案内した。「今日は下半身の軸と、臀部、体幹のバランスを整えます。スクワットと、ルーマニアンデッドリフトです」バーベルの前に立つ。後ろに来た怜司
last updateHuling Na-update : 2026-09-24
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10話. そのデザインは、私のものです
夜7時。都内の最高級ホテル、38階の日本料理店のVIP個室。紗月は無駄のない、上品な紺のワンピースでドアの前に立った。怜司に教わったとおり、下腹を引き締め、肩を開く。頭のてっぺんが天井へ届くように、背骨を伸ばした。ドアを開けて入ると、先に来ていた雅人が振り返った。その目に、一瞬、戸惑いと驚きが走った。いつも背を丸めておびえていた、みすぼらしい妻はどこにもいなかった。まとめた髪の下に見える首筋。無理なく開いた肩。紗月は夫が椅子を引くのを待たず、自分で腰を下ろした。(……何だよ。何で、こんなにまともに見えるんだ)雅人は不愉快な危機感を払いのけるように咳払いし、ぶっきらぼうに顎を動かした。「来たか。遅れなくてよかったな。座ってろ」やがてドアが開き、重厚な雰囲気の紳士と、品のある女性が入ってきた。大成インベストメント社長、高瀬修一(たかせしゅういち)。その妻で高瀬文化財団理事長の、高瀬玲子(たかせれいこ)だった。雅人は即座に、卑屈なほど愛想よく笑って頭を下げた。「高瀬社長、理事長。本日はわざわざお越しいただき、本当にありがとうございます」「一条社長、お久しぶりです。そちらは……奥様ですか」修一に聞かれると、雅人は誇らしげに見せかけて紗月の肩へ手を回した。「はい、妻の紗月です。家のことばかり任せているので、こういう場には慣れていなくて」世間知らずの役に立たない主婦だと妻を下げ、自分を大きく見せようとする、浅い計算だった。けれど玲子の目は、その手を越えて、紗月の顔に長く留まった。食事が始まると、雅人は待っていましたとばかりに語り出した。まるで、すべてのデザインもブランドづくりも、1人で進めてきたかのように。「今回の新作も、私が徹夜でディレクションしたんです。消費者の感性に届くミニマリズムと、タイポグラフィの調和。それが経営者としてもデザイナーとしても、私の哲学でして」シャンパンのグラスを上げ、得意げに笑った。静かに料理を味わっていた玲子が、ナプキンで口元を押さえ、口を開いた。「一条社長。5年前、創業初期のシグネチャーロゴと、最初のカタログを覚えていらっしゃいますか」「もちろんです。私の青春と魂を注いだ、自信作ですから」その厚かましい返事に、玲子がかすかな笑みを浮かべた。「おかしいですね。そのコバルトブルーの配色と文字間
last updateHuling Na-update : 2026-09-24
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