INICIAR SESIÓN夜11時を過ぎていた。
紗奈はベッドに横になり、天井を見ていた。
ワンルームの蛍光灯を消すと、窓の外の街灯が、天井に細長い縞模様を作った。
風が吹くたび、その縞が揺れた。
上の部屋で足音がして、止まり、また静かになった。
幼稚園の前で悠真を見てから、4日目だった。
目を閉じると、青いバッグを背負った子どもの後ろ姿が浮かんだ。
走るのをやめ、振り向いて、紗奈を見上げたあの目。
『おばさん、だれ?』
あの声が、耳から離れなかった。
悠真を見てから、眠れない夜はさらに長くなった。
昼間は電話に出て、書類を片づけ、荷物を受け取っていれば忘れられた。
夜になると、子どもの顔が戻ってきた。
スマホが鳴った。
ベッド脇の床に置いていた画面が、明るく光った。
知らない番号だった。
夜11時に、知らない番号。
紗奈は少しためらってから、通話ボタンを押した。
迷惑電話なら、すぐに切るつもりだった。
通販の広告か、融資の勧誘か。
「もしもし?」
「水原紗奈さんで、間違いありませんか?」
知らない女性の声だった。
慎重な口調だったが、紗奈の名前を正確に知っていた。
「どちらさまですか?」
「私……5年前、水原さんが入院されていた病院に勤めていた者です」
紗奈はベッドの上に起き上がった。
布団が膝へ滑り落ちた。
背中が冷たくなった。
「病院、ですか?」
「はい。産後の療養中に、治療を受けていらっしゃいましたよね。そのとき担当していた看護師です」
紗奈の手が布団をつかんだ。
5年前。
出産後まもなく、産後うつの治療を受けていた頃だった。
病室の消毒薬の匂いと、窓の外の雨音。
記憶の曖昧な部分が、いくつもあった。
顔も思い出せない看護師から電話が来た。そのことに現実味がなかった。
「……覚えていなくて」
「そうですよね。入院期間は短かったですし、看護師も何人もいましたから」
「こんな遅くに……何かあったんですか?」
「番号を調べるのに時間がかかってしまって。夜分に申し訳ありません」
紗奈は布団を蹴りのけ、床に足を下ろした。
素足が冷たい床に触れた。
手が震えて、スマホを反対の手に持ち替えた。
「何があったんですか?」
「あの所見、おかしかったんです」
紗奈の息が止まった。
唇を噛んで、離した。
「所見、ですか?」
「はい。水原さんについて出された、医師の所見書です。あれが出されるまでの過程を、私は見ていました」
「……どういうことですか?」
「治療記録と、所見書の内容に、食い違っている部分があったんです。当時から、おかしいと思っていました」
「どの部分ですか?」
「電話では……お会いしてお話しします。ただ、はっきり言えるのは、所見書だけではないということです」
紗奈の足から力が抜けた。
ベッドの端に腰を下ろしたまま、壁に背を預けた。
喉がからからだった。
看護師の声が、まだ耳の奥で響いていた。
「どうして今なんですか? もう5年もたってるのに」
「5年間、悩んでいました。当時は病院を辞めたばかりで、自分の状況も整理がついていなくて」
「……」
「証拠と呼べるものもありませんでした。もうあの病院を離れた身では、簡単には動けなくて」
「……」
「でも最近、荷物を片づけていて、当時の記録が手元に残っているとわかったんです」
紗奈は流し台まで歩き、コップに水を注いだ。
コップを握る指の関節が白くなった。
そのままひと口飲み、コップを流し台に置いた。
「記録って、どんな記録ですか?」
「詳しいことは、電話では難しくて。お会いしてお話ししたいんです」
「どこでお会いすればいいですか?」
「水原さんのご都合のいい場所にします」
「こちらから連絡します。番号を登録してもいいですか?」
「はい。この番号にお願いします」
「お名前を伺っても?」
「……今は、番号だけにさせてください。お会いしたときに、お伝えします」
「わかりました」
通話が終わった。
紗奈はスマホを握ったまま、流し台にもたれて立っていた。
心臓が、肋骨の内側をたたいていた。
(おかしかった)
看護師の言葉が、頭の中を巡った。
所見書が、おかしかった。
5年間、紗奈を押しつぶしてきた書類。
接近禁止の根拠になり、監護者変更の申立てを退ける理由になった、あの所見書が。
おかしかったとは、どういうことなのだろう。
治療記録と所見書の内容が違うのなら、5年前に法廷へ出されたあの書類は、どうやって作られたのだろう。
紗奈の指が、流し台の縁をつかんだ。
指先が白くなるまで力を込めた。
スマホを持ち上げ、着信履歴から番号を登録した。
名前がわからず、『看護師』とだけ入力した。
連絡先に、見慣れない名前が1つ増えた。
そのまま、癖のようにスマホのファイル一覧を開いた。
音声ファイルのフォルダーが目に入った。
写真のフォルダーの下にある、ほとんど開かない場所。
開いてみると、録音ファイルが1つあった。
妊娠中、紗奈が1人で録音したものだった。
ファイル名は『子守歌』。
日付は、出産の9日前だった。
このファイルは、スマホを替えるたびに移してきた。
クラウドにもバックアップを取っていた。
1度も消したことはない。けれど、最後に再生したのはずっと前だった。
聴くのが、怖かったから。
紗奈はベッドに腰を下ろし、スマホを持った。
流し台で洗った指先が、まだ濡れていた。
再生ボタンに指を重ね、一瞬止まった。
ボタンを押した。
短い静寂のあと、ワンルームに音が広がった。
紗奈の声だった。
低く、柔らかく、少し震えている。お腹に手を当てて歌った、子守歌。
歌詞はなく、旋律だけ。
録音には、ときおり荒い息遣いが混じった。
26平米のがらんとした部屋が、その声で満たされた。
5年前の紗奈が、5年後の紗奈に歌ってくれているようだった。
天井で、街灯の光の縞が揺れていた。
ベッドの向かいでは、子どものために空けてある小部屋の扉が閉じていた。
紗奈はスマホを胸に抱き、床に座り込んだ。
録音の長さは、1分42秒。
子守歌が終わるまで、紗奈は動かなかった。
一週間後の金曜日の夕方。紗奈は再び古書店を訪れた。悠真に渡す絵本をもう一冊買おうと思ったのだ。2階の児童書コーナーへ上がった。篠宮がいた。前と同じ場所、同じ棚の前。今度は黒いニットにコットンパンツ姿だった。手に一冊の本を持ち、読んでいた。紗奈は階段の上で足を止めた。篠宮が顔を上げた。「また来ましたね」「また来ました」篠宮は読んでいた本を棚に戻した。紗奈は絵本の棚へ向かった。前回買った木の話の隣に、新しい本が並んでいた。雲の上を歩く猫の話だった。「表紙がいいですね。猫ですか」「はい。雲の上を歩く猫の話です」「お子さんが猫を好きなら、よさそうですね」「悠真が何を好きなのか、まだよく分からなくて。青を選んだことくらいしか」「面接のときに聞いてみたらどうですか。好きな動物は何かって」「そうしようと思っています。聞きたいことをリストにしておこうかと」紗奈は猫の絵本を取り出して開いた。水彩画のような絵だった。雲の上に座った猫が、下を見下ろしていた。その下には小さな家々が描かれていた。篠宮は棚の反対側で、エッセイのコーナーを見ていた。紗奈は絵本のページをめくりながら、篠宮を見た。書類を前にしたときの緊張感がなかった。肩の力が抜けていた。紗奈は絵本を持って篠宮のほうへ歩いていった。
金曜日の退勤後。紗奈は家の近くにある古書店に入った。小さな店だった。1階には小説やエッセイ、2階には児童書と絵本が並んでいた。紗奈は2階へ上がった。悠真に渡す絵本を探しに来たのだった。次の監督面接は2週間後に決まった。今度はおやつのほかに、絵本も持っていきたかった。5歳の子が喜びそうな絵本を選ぶ自信はなかった。紗奈が知っている悠真の好みは、青を選んだということだけだった。2階は狭かった。木の棚が3つ、壁に沿って並び、中央には低いテーブルがあった。テーブルの上には、おすすめの本が積まれていた。紗奈は絵本の棚の前に立ち、タイトルを読み始めた。動物の話、季節の話、家族の話。家族の話の前で手が止まった。タイトルだけでは内容が分からず、一冊取り出して開いてみた。父親と息子が山へ行く話だった。紗奈は本を棚に戻した。別の本を手に取った。海に住む魚が友達を探す話だった。柔らかな絵だった。青い背景の中を、小さな魚が泳いでいた。値札には300円と書かれていた。「その本、いいですよ」背後から声がした。紗奈は振り返った。篠宮が立っていた。いつものシャツ姿ではなかった。ジャケットにジーンズ、キャンバススニーカー。紗奈が初めて見る服装だった。「篠宮先生?」「こんにちは」篠宮は手に持っていた本を掲げて見せた。エッセイ集だった。「ここにはよく来るんですか」
水曜日の午前。紗奈が席で仕事をしていると、総務課長が近づいてきた。「水原さん、郵便物が届いています。書留です」総務課長が黄色い封筒を差し出した。紗奈の名前の横に、会社の住所が書かれていた。差出人は〇〇法律事務所。書留郵便、内容証明と記されていた。紗奈は封筒を受け取り、机の上に置いた。同僚が横目で封筒を見た。紗奈は書類の下に封筒をしまった。「ありがとうございます」総務課長が戻っていった。紗奈は昼休みになるまで封筒を開けなかった。昼休みになると、会議室が空いていることを確かめて中に入り、ドアを閉めた。封筒を開けた。A4用紙が2枚。内容証明郵便だった。『受取人:水原紗奈 様差出人:〇〇法律事務所(高宮直哉代理人)件名:接近行為に関する警告および中止要請』紗奈は最初の段落を読んだ。『貴殿は未成年の子である高宮悠真に対する保護命令(接近禁止)の対象となった経歴があり、現在、当該保護命令は終了しておりますが、子どもの生活圏への接近は、安定した養育環境を損なうおそれがあります』紗奈は2つ目の段落を読んだ。『貴殿が子どもの通う幼稚園付近に繰り返し現れた事実が確認されており、これは事実上の監視行為に該当する可能性があります。よって、直ちに中止するよう求めます』3つ目の段落。『上記の行為が継続する場合、法的措置を検討することを通知します』紗奈は書類を置いた。指先で書類の端
篠宮の事務所。紗奈が相談室に入ると、篠宮は書類を広げていた。テーブルの上には、書類が3つの束に分けて置かれていた。「調査官の報告書の閲覧結果をお伝えします」紗奈は向かいに座った。篠宮が最初の書類を差し出した。「面接報告書です。調査官の所見が記載されています」紗奈は書類を受け取り、目を通した。『児童は申立人に対して拒否反応を示さなかった。菓子の提供を自然に受け入れ、ブロック遊びでは申立人に指示するなど、相互のやり取りが観察された』紗奈の目は、その一文の上で止まった。悠真がブロックを置くよう指示したことが、報告書に記されていた。『これ、ここ』子どもの短い言葉が、裁判所の言葉では『相互のやり取りが観察された』になっていた。「前向きな内容ですか」「はい。子どもが泣いたり、避けたりしなかったことが記録されたのは重要です。次の面接につなげる根拠になります」篠宮は2つ目の書類を取り出した。「次は診療記録の照会結果です」紗奈は書類を受け取った。診療記録の写しだった。紗奈の入院期間中の記録のうち、担当医とは異なる署名があるページに蛍光ペンで印がつけられていた。「病院側から医師の名簿が提供されました。この署名と一致する院内の医師はいませんでした」「院内の医師ではないということですね」「そうです。外部から来た医師が記録を残したものと思われます」篠宮は万年筆を置き、書類を一枚めくった。「医師番号を照会した結果、この番号は別の病院に所属する精神科専門医に割り当てられたものだと確認できました」「どこの病院ですか」「港区にある個人クリニックです。ただ、身元を確定するには、もう少し手続きが必要です。病院側に、診療した医師との照合を依頼しています」紗奈はうなずいた。篠宮は書類を整理し、3つ目の束を取り出した。監護者変更審判の準備資料だった。紗奈の収入証明、住環境に関する資料、育児支援確認書の写し。「監護者変更の審判申立書の草案を作成し始めます。申立ての趣旨と理由を整理するにあたって、水原さんに確認していただきたい点があります」「どのような点ですか」「養育環境に関する資料です。現在の住居、収入、育児の支援体制を最新のものに更新する必要があります」「給与明細は今月分を持ってきます。賃貸借契約書も更新済みです」「いいですね。育児を支え
月曜日。出勤前に、篠宮からメッセージが届いた。『調査官の報告書が提出されました。閲覧を申請します』『内容はよかったのでしょうか』『報告書を確認する必要があります。ただ、面接が中断せずに行われたこと自体は、前向きな要素です』紗奈はメッセージを読み、スマホをしまった。通勤途中の地下鉄の中だった。週末の間、面接の場面を何十回も思い返した。悠真の声、ブロックを積む手、青い色鉛筆。思い出すたびに細部が少しずつ曖昧になっていくのが怖かった。だからスマホのメモ帳に、覚えていることをすべて書き留めておいた。子どもが口にした言葉、触れたもの、視線を向けた方向まで。退勤後、紗奈は悠真の幼稚園の近くへ向かった。面接のあとでは初めてだった。ケヤキが見える場所に立った。ちょうど降園の時間だった。幼稚園の門が開き、子どもたちが一人、また一人と出てきた。保護者が子どもを連れて帰っていく。悠真はまだ出てこなかった。5分ほどして、悠真が出てきた。青いバッグを背負っていた。面接のときと同じバッグだった。悠真の隣には女がいた。相沢芹奈だった。芹奈は悠真の手を握っていた。紗奈が芹奈と間近で向き合ったのは、5年前の裁判所が最後だった。芹奈の髪は長くなっていた。結ばれていない髪が、背中の真ん中あたりまで垂れていた。芹奈は悠真に何かを渡した。口が動いているのは見えたが、声は聞こえなかった。悠真はうなずきながら歩いた。芹奈は歩調を合わせてついていった。幼稚園の前のベンチで、芹奈が立ち止まった。悠真がベンチに座った。芹奈は悠真の前にしゃがみ込んだ。悠真のスニーカーのひもがほどけていた。芹奈はひもをつかんで結び始めた。まず左から。ひもを交差させ、輪を作り、引っ張った。右側も同じように。芹奈の手は慣れた動きだった。毎日していることだと、指先の動きから伝わってきた。悠真が芹奈の髪をつかんで引っ張った。芹奈が顔を上げた。悠真が何かをしゃべっていた。芹奈が笑った。小さな笑い声だった。悠真も笑った。紗奈の足は止まったままだった。ケヤキの陰に立ち、その光景を見ていた。芹奈が悠真の靴ひもを結んでいる。子どもが芹奈の髪を引っ張っている。二人が一緒に笑っている。芹奈は、法的には悠真の保護者ではなかった。監護者でもなく、親権もな
面接を終えて家に帰った。紗奈は玄関のドアを閉め、靴を脱いだ。スニーカーを靴箱にしまおうとして、手を止めた。朝、きれいに拭いて履いていったスニーカーだった。この靴で面会交流センターの3階まで歩き、悠真と同じ部屋で1時間を過ごした。靴底に汚れ一つなかった。靴箱にしまった。ポケットから青い色鉛筆を取り出した。机の上に置いて椅子に座った。蛍光灯の下で、色鉛筆の青がくっきりと見えた。中央あたりに子どもの指紋が残っていた。小さな指の跡。紗奈はその場所に指先で触れてみた。わずかに滑らかな表面に残る、子どもの手の脂。拭けば消えてしまう跡だった。紗奈は拭かなかった。『おばちゃん、これ』悠真が色鉛筆を差し出したときの声が、耳に残っていた。おばちゃん。お母さんではなかった。紗奈を呼ぶ言葉は、おばちゃんだった。それをおかしいとは思わなかった。5年間会っていない人を、お母さんと呼ぶ子どもはいない。紗奈はそれを分かっていたし、妹にも話していた。『呼ばないよ。私のことを知らないんだから』その言葉が現実になっただけだった。それでも、子どもは色鉛筆を手渡してくれた。子どもの手から、紗奈の手へ。12色の中から子どもが選んだのは青だった。悠真の幼稚園バッグも青い。青が好きなのか、たまたまなのかは分からなかった。スマホが鳴った。妹からだった。「どうだった?」「会えたよ」「本当? どうだった? 泣いた?」「泣かなかった。お菓子を食べて、ブロックを積んだよ」「1時間ずっと?」「うん。調査官が終わりだと言うまで」「子どもから話しかけてきた?」「キリンって何か聞かれた。ブロックをここに置いてって指示もされたよ」「指示されたの? あの子に?」「うん。『これ、ここ』って」電話の向こうで、妹が息を吸い込む音がした。「うまくいったんだよ、お姉ちゃん」「それから、色鉛筆をくれた」「え?」「青い色鉛筆。ケースから一本抜いて、私に差し出したの。『おばちゃん、これ』って」「おばちゃんって呼んだの?」「うん」「……平気?」「平気だよ。当然だよ。私のことを知らないんだから」「でも」「それでも、色鉛筆はくれた」妹はしばらく何も言わなかった。「よかった。本当によかった」「泣いてる?」「泣いてない」「嘘」紗奈は答えなかっ







