INICIAR SESIÓN昼休み、紗奈はトイレの前の廊下に出て、スマホを取り出した。
看護師にメッセージを送った。
『お会いできますか。時間と場所を決めたいです』
5分で返事が来た。
『今週の土曜日、午後2時に神保町の辺りでいかがですか』
紗奈はカレンダーを確認した。
その土曜は、隔週の出勤に当たっていなかった。
『大丈夫です。場所を送ってください』
『神保町駅のA3出口前のカフェにしましょう。詳しい場所は金曜日に改めて送ります』
送信済みの画面をもう1度確かめ、スマホをポケットにしまった。
廊下の突き当たりの窓から、4月の日差しが差し込んでいた。
5年間、1歩も前へ進めなかった。今、何かが動き始めている気がした。
看護師が持っているという記録が何なのか、まだわからない。それでも、胸が高鳴った。
スマホがまた鳴った。
妹だった。
「お姉ちゃん、看護師さんに連絡した?」
「今、メッセージを送った。土曜日に会うことになったよ」
「一緒に行こうか?」
「ううん。1人で行く」
「どうして? 危ないかもしれないよ」
「危なくはないと思う。カフェで会うから」
「でも」
「1人で行かなきゃ。看護師さんに負担を感じさせたくないの」
妹は少し黙ってから、ため息をついた。
「わかった。終わったらすぐ電話して」
「うん」
「何を言われても、録音とかしちゃだめだよ。相手の同意なしにやっちゃだめ」
「わかってる」
「それと、弁護士は探してる?」
「探してるよ。費用の問題があって」
「どのくらい?」
「30から50」
「……万円?」
「万円」
妹の唇が、薄く引き結ばれた。
「私も少し出す」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょ。お母さんにも話したほうがいいんじゃないの?」
「まだ。はっきりしてから」
「わかった。土曜日、電話してね」
通話を終え、オフィスへ戻った。
昼休みが終わる5分前だった。
残していた海苔巻きを1本、急いで食べた。
コンビニで買った、80円のツナの細巻きだった。
席につき、口元を拭った。
同僚が自分の席から手を振った。
「水原さん、また荷物です。5階だそうです」
「はい、行きます」
紗奈は段ボール箱を抱えてエレベーターに乗った。
5階に届けて下りてくると、内線が鳴った。
「水原さん、2階のプロジェクターがつかないって。見てもらえる?」
「今行きます」
2階の会議室のプロジェクターは、リモコンの電池が原因だった。
予備の電池に替え、動くことを確かめた。
会議の出席者は、もう待っていた。
「ありがとうございます、水原さん」
「いえ」
オフィスに戻ると、席にメモが置かれていた。
3階から、複合機の修理日程を変えてほしいという依頼だった。
もう1度業者に電話し、日程を調整して、ようやく自分の仕事に取りかかれた。
午後は、顧客対応の電話が続いた。
「配送が遅れている件、調べてください。もう1週間以上ですよ」
「注文番号を教えていただけますか?」
「SS-0412-1138です」
「確認いたします」
システムを調べると、物流センターで返品処理の途中だった。
「こちらの商品は、返品処理のあと、再発送する予定です。明日までには出荷の予定です」
「わかりました。早くお願いします」
「はい。申し訳ございません」
退勤時刻になると、同僚たちが1人ずつ席を離れた。
紗奈は消耗品予算のファイルを仕上げ、課長にメールを送った。
オフィスには、紗奈だけが残った。
蛍光灯が1本切れていて、席の周りは薄暗かった。
自販機で買ったコーヒーを飲みながら、予算ファイルの数字を確認した。
薄暗い明かりの下で、コーヒーから湯気が立っていた。
ビルを出ながら、スマホを取り出した。
検索欄に『家事事件 弁護士費用』と入力した。
ブログと法律相談サイトを、交互に読んだ。
監護者変更を争うための弁護士費用は、およそ30万から50万円だった。
着手金20万円というところが最も多く、成功報酬は別途相談。
印紙代、郵便料、鑑定費用は別にかかる。
前の裁判でかかった費用が浮かんだ。
30万円を用意するため、1年間、朝食を抜いたこともあった。
そして、結果は却下だった。
あのお金で、悠真におもちゃの1つでも送れたのではないか。そんな思いが、あとになって湧いてきた。
紗奈は地下鉄を待ちながら、スマホの電卓を開いた。
月給は、手取り20万9,000円。
家賃と管理費、保険料、交通費、通信費、日用品代。
電卓で、1つずつ引いていった。
固定費だけで、半分近くが消えた。
残ったお金から、食費を1日800円とした。
1か月2万4,000円。
そこから雑費と予備のお金を引けば、実際に貯められるのは月3万から4万円。
弁護士費用が30万円なら、8か月から10か月。
50万円なら、1年以上。
印紙代と郵便料を足せば、さらに延びる。
鑑定費用まで含めれば、もっとかかる。
証拠集め、公証の手続、交通費まで加えると、数字は増え続けた。
電車が来た。
紗奈は電卓の画面を消し、空いていた席に座った。
窓の外を、暗いトンネルの壁が流れていった。
また、数字を打ち込んだ。
法律扶助の収入基準を確かめた。
基準となる所得の中央値の125%。
紗奈の収入は、その基準をわずかに上回っていた。
正社員だから、法律扶助を受けられない。その皮肉。
(今度も、だめなのかな)
食費を1日500円に減らせば、月1万5,000円。
9,000円を余分に貯められる。
そうすれば、6か月から7か月。
コンビニ弁当とおにぎりでしのぐ、6か月から7か月。
地下鉄の窓の外を、暗いトンネルの壁が速く流れた。
紗奈の降りる駅に着いた。
改札を出て、路地へ入った。
ワンルームに帰り、バッグを置くと、また電卓を開いた。
数字を打って、消して、また打った。
どう計算しても、ぎりぎりだった。
できなくはない。ただ、危うい。
予備のお金が底をつけば、給料が1か月遅れただけで、もたなくなる。
それでも、不可能な数字ではなかった。
やってみることはできる。
紗奈は電卓の数字を消し、初めからもう1度打ち込んだ。
一週間後の金曜日の夕方。紗奈は再び古書店を訪れた。悠真に渡す絵本をもう一冊買おうと思ったのだ。2階の児童書コーナーへ上がった。篠宮がいた。前と同じ場所、同じ棚の前。今度は黒いニットにコットンパンツ姿だった。手に一冊の本を持ち、読んでいた。紗奈は階段の上で足を止めた。篠宮が顔を上げた。「また来ましたね」「また来ました」篠宮は読んでいた本を棚に戻した。紗奈は絵本の棚へ向かった。前回買った木の話の隣に、新しい本が並んでいた。雲の上を歩く猫の話だった。「表紙がいいですね。猫ですか」「はい。雲の上を歩く猫の話です」「お子さんが猫を好きなら、よさそうですね」「悠真が何を好きなのか、まだよく分からなくて。青を選んだことくらいしか」「面接のときに聞いてみたらどうですか。好きな動物は何かって」「そうしようと思っています。聞きたいことをリストにしておこうかと」紗奈は猫の絵本を取り出して開いた。水彩画のような絵だった。雲の上に座った猫が、下を見下ろしていた。その下には小さな家々が描かれていた。篠宮は棚の反対側で、エッセイのコーナーを見ていた。紗奈は絵本のページをめくりながら、篠宮を見た。書類を前にしたときの緊張感がなかった。肩の力が抜けていた。紗奈は絵本を持って篠宮のほうへ歩いていった。
金曜日の退勤後。紗奈は家の近くにある古書店に入った。小さな店だった。1階には小説やエッセイ、2階には児童書と絵本が並んでいた。紗奈は2階へ上がった。悠真に渡す絵本を探しに来たのだった。次の監督面接は2週間後に決まった。今度はおやつのほかに、絵本も持っていきたかった。5歳の子が喜びそうな絵本を選ぶ自信はなかった。紗奈が知っている悠真の好みは、青を選んだということだけだった。2階は狭かった。木の棚が3つ、壁に沿って並び、中央には低いテーブルがあった。テーブルの上には、おすすめの本が積まれていた。紗奈は絵本の棚の前に立ち、タイトルを読み始めた。動物の話、季節の話、家族の話。家族の話の前で手が止まった。タイトルだけでは内容が分からず、一冊取り出して開いてみた。父親と息子が山へ行く話だった。紗奈は本を棚に戻した。別の本を手に取った。海に住む魚が友達を探す話だった。柔らかな絵だった。青い背景の中を、小さな魚が泳いでいた。値札には300円と書かれていた。「その本、いいですよ」背後から声がした。紗奈は振り返った。篠宮が立っていた。いつものシャツ姿ではなかった。ジャケットにジーンズ、キャンバススニーカー。紗奈が初めて見る服装だった。「篠宮先生?」「こんにちは」篠宮は手に持っていた本を掲げて見せた。エッセイ集だった。「ここにはよく来るんですか」
水曜日の午前。紗奈が席で仕事をしていると、総務課長が近づいてきた。「水原さん、郵便物が届いています。書留です」総務課長が黄色い封筒を差し出した。紗奈の名前の横に、会社の住所が書かれていた。差出人は〇〇法律事務所。書留郵便、内容証明と記されていた。紗奈は封筒を受け取り、机の上に置いた。同僚が横目で封筒を見た。紗奈は書類の下に封筒をしまった。「ありがとうございます」総務課長が戻っていった。紗奈は昼休みになるまで封筒を開けなかった。昼休みになると、会議室が空いていることを確かめて中に入り、ドアを閉めた。封筒を開けた。A4用紙が2枚。内容証明郵便だった。『受取人:水原紗奈 様差出人:〇〇法律事務所(高宮直哉代理人)件名:接近行為に関する警告および中止要請』紗奈は最初の段落を読んだ。『貴殿は未成年の子である高宮悠真に対する保護命令(接近禁止)の対象となった経歴があり、現在、当該保護命令は終了しておりますが、子どもの生活圏への接近は、安定した養育環境を損なうおそれがあります』紗奈は2つ目の段落を読んだ。『貴殿が子どもの通う幼稚園付近に繰り返し現れた事実が確認されており、これは事実上の監視行為に該当する可能性があります。よって、直ちに中止するよう求めます』3つ目の段落。『上記の行為が継続する場合、法的措置を検討することを通知します』紗奈は書類を置いた。指先で書類の端
篠宮の事務所。紗奈が相談室に入ると、篠宮は書類を広げていた。テーブルの上には、書類が3つの束に分けて置かれていた。「調査官の報告書の閲覧結果をお伝えします」紗奈は向かいに座った。篠宮が最初の書類を差し出した。「面接報告書です。調査官の所見が記載されています」紗奈は書類を受け取り、目を通した。『児童は申立人に対して拒否反応を示さなかった。菓子の提供を自然に受け入れ、ブロック遊びでは申立人に指示するなど、相互のやり取りが観察された』紗奈の目は、その一文の上で止まった。悠真がブロックを置くよう指示したことが、報告書に記されていた。『これ、ここ』子どもの短い言葉が、裁判所の言葉では『相互のやり取りが観察された』になっていた。「前向きな内容ですか」「はい。子どもが泣いたり、避けたりしなかったことが記録されたのは重要です。次の面接につなげる根拠になります」篠宮は2つ目の書類を取り出した。「次は診療記録の照会結果です」紗奈は書類を受け取った。診療記録の写しだった。紗奈の入院期間中の記録のうち、担当医とは異なる署名があるページに蛍光ペンで印がつけられていた。「病院側から医師の名簿が提供されました。この署名と一致する院内の医師はいませんでした」「院内の医師ではないということですね」「そうです。外部から来た医師が記録を残したものと思われます」篠宮は万年筆を置き、書類を一枚めくった。「医師番号を照会した結果、この番号は別の病院に所属する精神科専門医に割り当てられたものだと確認できました」「どこの病院ですか」「港区にある個人クリニックです。ただ、身元を確定するには、もう少し手続きが必要です。病院側に、診療した医師との照合を依頼しています」紗奈はうなずいた。篠宮は書類を整理し、3つ目の束を取り出した。監護者変更審判の準備資料だった。紗奈の収入証明、住環境に関する資料、育児支援確認書の写し。「監護者変更の審判申立書の草案を作成し始めます。申立ての趣旨と理由を整理するにあたって、水原さんに確認していただきたい点があります」「どのような点ですか」「養育環境に関する資料です。現在の住居、収入、育児の支援体制を最新のものに更新する必要があります」「給与明細は今月分を持ってきます。賃貸借契約書も更新済みです」「いいですね。育児を支え
月曜日。出勤前に、篠宮からメッセージが届いた。『調査官の報告書が提出されました。閲覧を申請します』『内容はよかったのでしょうか』『報告書を確認する必要があります。ただ、面接が中断せずに行われたこと自体は、前向きな要素です』紗奈はメッセージを読み、スマホをしまった。通勤途中の地下鉄の中だった。週末の間、面接の場面を何十回も思い返した。悠真の声、ブロックを積む手、青い色鉛筆。思い出すたびに細部が少しずつ曖昧になっていくのが怖かった。だからスマホのメモ帳に、覚えていることをすべて書き留めておいた。子どもが口にした言葉、触れたもの、視線を向けた方向まで。退勤後、紗奈は悠真の幼稚園の近くへ向かった。面接のあとでは初めてだった。ケヤキが見える場所に立った。ちょうど降園の時間だった。幼稚園の門が開き、子どもたちが一人、また一人と出てきた。保護者が子どもを連れて帰っていく。悠真はまだ出てこなかった。5分ほどして、悠真が出てきた。青いバッグを背負っていた。面接のときと同じバッグだった。悠真の隣には女がいた。相沢芹奈だった。芹奈は悠真の手を握っていた。紗奈が芹奈と間近で向き合ったのは、5年前の裁判所が最後だった。芹奈の髪は長くなっていた。結ばれていない髪が、背中の真ん中あたりまで垂れていた。芹奈は悠真に何かを渡した。口が動いているのは見えたが、声は聞こえなかった。悠真はうなずきながら歩いた。芹奈は歩調を合わせてついていった。幼稚園の前のベンチで、芹奈が立ち止まった。悠真がベンチに座った。芹奈は悠真の前にしゃがみ込んだ。悠真のスニーカーのひもがほどけていた。芹奈はひもをつかんで結び始めた。まず左から。ひもを交差させ、輪を作り、引っ張った。右側も同じように。芹奈の手は慣れた動きだった。毎日していることだと、指先の動きから伝わってきた。悠真が芹奈の髪をつかんで引っ張った。芹奈が顔を上げた。悠真が何かをしゃべっていた。芹奈が笑った。小さな笑い声だった。悠真も笑った。紗奈の足は止まったままだった。ケヤキの陰に立ち、その光景を見ていた。芹奈が悠真の靴ひもを結んでいる。子どもが芹奈の髪を引っ張っている。二人が一緒に笑っている。芹奈は、法的には悠真の保護者ではなかった。監護者でもなく、親権もな
面接を終えて家に帰った。紗奈は玄関のドアを閉め、靴を脱いだ。スニーカーを靴箱にしまおうとして、手を止めた。朝、きれいに拭いて履いていったスニーカーだった。この靴で面会交流センターの3階まで歩き、悠真と同じ部屋で1時間を過ごした。靴底に汚れ一つなかった。靴箱にしまった。ポケットから青い色鉛筆を取り出した。机の上に置いて椅子に座った。蛍光灯の下で、色鉛筆の青がくっきりと見えた。中央あたりに子どもの指紋が残っていた。小さな指の跡。紗奈はその場所に指先で触れてみた。わずかに滑らかな表面に残る、子どもの手の脂。拭けば消えてしまう跡だった。紗奈は拭かなかった。『おばちゃん、これ』悠真が色鉛筆を差し出したときの声が、耳に残っていた。おばちゃん。お母さんではなかった。紗奈を呼ぶ言葉は、おばちゃんだった。それをおかしいとは思わなかった。5年間会っていない人を、お母さんと呼ぶ子どもはいない。紗奈はそれを分かっていたし、妹にも話していた。『呼ばないよ。私のことを知らないんだから』その言葉が現実になっただけだった。それでも、子どもは色鉛筆を手渡してくれた。子どもの手から、紗奈の手へ。12色の中から子どもが選んだのは青だった。悠真の幼稚園バッグも青い。青が好きなのか、たまたまなのかは分からなかった。スマホが鳴った。妹からだった。「どうだった?」「会えたよ」「本当? どうだった? 泣いた?」「泣かなかった。お菓子を食べて、ブロックを積んだよ」「1時間ずっと?」「うん。調査官が終わりだと言うまで」「子どもから話しかけてきた?」「キリンって何か聞かれた。ブロックをここに置いてって指示もされたよ」「指示されたの? あの子に?」「うん。『これ、ここ』って」電話の向こうで、妹が息を吸い込む音がした。「うまくいったんだよ、お姉ちゃん」「それから、色鉛筆をくれた」「え?」「青い色鉛筆。ケースから一本抜いて、私に差し出したの。『おばちゃん、これ』って」「おばちゃんって呼んだの?」「うん」「……平気?」「平気だよ。当然だよ。私のことを知らないんだから」「でも」「それでも、色鉛筆はくれた」妹はしばらく何も言わなかった。「よかった。本当によかった」「泣いてる?」「泣いてない」「嘘」紗奈は答えなかっ







