All Chapters of 奪われた息子が、私を「お母さん」と呼ぶ日まで: Chapter 1 - Chapter 10

39 Chapters

1話. 塀の向こう

紗奈は、幼稚園の塀の外に立っていた。ケヤキの木陰でバッグの持ち手を両手で握り、正門を見つめていた。4月だった。桜の散った枝には、淡い緑の葉が芽吹いていた。住所を突き止めるまでに2年かかった。通っている幼稚園を確かめるのに、さらに3か月。降園の時間に合わせてここに立つのは、今日が初めてだった。半休を取ると決めたのは3日前だ。会社を出るとき、手が震えて交通系ICカードを2度も落とした。地下鉄を降り、幼稚園まで歩く15分の間に、スマホのロック画面を7回つけた。そこには、5年前に新生児室で撮った1枚の写真があった。小さな握りこぶしが、紗奈の人差し指をつかんでいる。あの写真だ。スマホが鳴った。「お姉ちゃん、着いた?」妹だった。「うん。道の向かい側にいる」「接近禁止は解けても、面会交流の制限はまだあるんだからね。見つかっちゃだめだよ」「わかってる。塀の外にいるから」「誰かに気づかれたら、すぐ離れて」「ここに私を知ってる人はいないよ」「……大丈夫?」正門の前に、親たちが1人、また1人と集まり始めていた。黄色い送迎バスが1台、路地を曲がって見えなくなった。「大丈夫」「5年だよ、お姉ちゃん。最後に抱っこしたの、5年前なんだよ」紗奈は答える代わりに通話を切った。スマホをバッグにしまい、ケヤキの幹に背を預けた。樹皮のざらつきが、ブラウス越しに伝わってきた。心臓が速く打っていた。正門の前で、親たちが話していた。「今日は園外保育だったんだって。きっと泥だらけね」「また洗濯機回さなきゃ。昨日も回したのに」「春って毎日こうよ。毎日」「干す場所がなくて困るのよね」紗奈は、その輪には入れなかった。この幼稚園に自分の子が通っていると知る人は、あの中に1人もいない。塀の向こうから、子どもたちの笑い声が漏れてきた。バッグの持ち手を握る指を緩め、また握り直した。塀の上に、赤い滑り台のてっぺんがのぞいていた。あの中で、あの子が走り回っている。そう思うだけで指先がしびれた。カーン。鐘の音とともに、正門が開いた。黄色い帽子が、いっせいにあふれ出した。「ママ!」「パパ来てる!」「おばあちゃん、こっち!」「颯太、こっちよ!」子どもたちが、それぞれの迎えの人に駆け寄っていく。抱きつき、ぶら下がり、バッグを放り出す。母親に
last updateLast Updated : 2026-11-04
Read more

2話. 引き出しの中

紗奈が玄関のドアを開けようとすると、隣の部屋の前に立っていた女性と目が合った。「あら、今日は早いのね」「半休を取ったんです」「顔色がよくないわね。ご飯は食べた?」「大丈夫です」「お汁作ったんだけど、少し持っていく? 1人暮らしだから心配で」「大丈夫です、本当に。ありがとうございます」紗奈は頭を下げ、部屋に入った。ドアが閉まると、そこに背を預けて息を吐いた。隣のおばさんの好意はありがたくて、それでも重かった。26平米ほどのワンルーム。流し台とベッドの間は、腕を伸ばせば届いた。窓が1つ。トイレが1つ。玄関脇には、靴が2足入るだけの細い棚。敷金30万円で借りた、アパートの一室だった。会社からは地下鉄で40分、幼稚園からは1時間以上かかった。紗奈は靴を脱ぎ、スリッパに履き替えた。バッグをベッドに置いたところで、スマホが鳴った。「どうだった?」妹だった。「見たよ」「……どうだった?」紗奈はベッドの端に腰を下ろした。「大きくなってた。背も、ずいぶん伸びてた」「元気そうだった?」「走ってた。友だちと。転びそうになっても、また走って」「よかった」「笑ってた」「え?」「笑いながら、走ってた」「……」「誰が迎えに来てたの?」「女の人。名前はわからない」「あの女でしょ」「たぶん」「何してた?」「靴の土を払ってあげてた。焼きそば食べたいって言うのに、だめって。そんなこと」「……お母さんみたいに?」紗奈は流し台で、コップに水を注いだ。コップを握る指から力が抜け、少しだけ水がこぼれた。「わかんない」「聞こえたの? その会話」「すぐ前を通ったから」「危ないよ。近づいちゃだめって言ったのに」「向こうから、こっちに歩いてきたの」「それで? 目、合った?」「うん」「どうなったの?」紗奈は水をひと口飲んだ。喉が狭くなったようで、うまく飲み込めなかった。「おばさん、だれ? って」「……」「切るね」「お姉ちゃん、泣かないで」「泣いてない」「声、震えてる」「泣いてないよ。切るね」「明日、仕事が終わったら行く。一緒にご飯食べよう」「うん」紗奈は電話を切り、残りの水を飲んだ。コップを流し台に置くと、手のひらが汗で湿っていた。ブラウスのボタンを外し、Tシャツに着替えた。ブラウスを畳んで洗濯
last updateLast Updated : 2026-11-04
Read more

3話. 接近禁止

翌日の夕方、妹が訪ねてきた。両手にレジ袋を1つずつ提げ、玄関の前に立っていた。「お母さんから。味噌汁と、じゃこの佃煮と、しその葉の漬物」狭い流し台の上に、保存容器を3つ、順に並べた。紗奈の冷蔵庫を開けると、入っていたのは水と豆腐半丁だけだった。妹が舌打ちした。「お姉ちゃん、こんな生活してたら倒れるよ」「ありがとう」「お母さんには?」「幼稚園に行ったこと? 言ってない」「それでいいよ。まだ言わないほうが」紗奈はご飯をよそい、クッションの上に置いた盆に載せた。26平米ほどのワンルームには食卓がなく、床に並んで座って食べるしかなかった。妹は来るたびに狭いと言ったが、紗奈にはこれで十分だった。ご飯と味噌の匂いが、たちまち狭い部屋に満ちた。妹が味噌汁をひと口すすり、ベッド脇の引き出しを見た。中古家具店で3,000円で買ったものだ。いちばん下の段の取っ手だけが、ひどく擦り減っていた。「昨日、また開けたでしょ」紗奈は答える代わりに箸を置いた。引き出しを開け、透明なファイルを3つ取り出した。「見てほしいものがあるの」書類の束を床に広げた。妹が味噌汁の椀を脇に寄せ、書類のほうへ体を向けた。「これ、全部何?」「5年分の書類」紗奈は最初の1枚を手に取った。上部に『保護命令決定書』という表題が印刷されていた。日付の横には、家庭裁判所の公印がかすかに残っていた。「離婚が確定して、すぐこれが出たの。接近禁止」「接近禁止って、誰が誰に?」「私が悠真に。お義母さんの側から申し立てたの」妹の箸が盆の上に落ちた。箸が盆に当たる乾いた音が、狭いワンルームに響いた。「お姉ちゃんが、子どもにとって危険だっていうの? 何を根拠に?」「産後うつの治療記録と、医師の所見を添えてあった」紗奈は書類の縁を指でなぞった。5年来の癖だった。薄くなった紙の一角が、指先に引っかかった。「保護命令の有効期間は最長3年。その3年間、悠真に近づいちゃいけなかった」「3年も……」妹の声が沈んだ。窓の外には、薄暗くなった路地が見えていた。「近づくだけじゃない。連絡も、贈り物も、幼稚園の近くへ行くのも。全部」紗奈は書類の中の一文を指さした。『乳児に危害を及ぼすおそれ』と印字されていた。「これが、所見書に書いてあった言葉。自傷および乳児への加害の
last updateLast Updated : 2026-11-04
Read more

4話. 弁当

月曜の朝、紗奈はオフィスのドアを開けた。総務課の机には、週末の間にたまった書類が山になっていた。「水原さん、3階の複合機、また壊れたそうです」席につく間もなく、同僚が声をかけてきた。「修理を手配します」「それと、金曜日に荷物が2つ届いてます。受け取りのサインが必要で」「わかりました」「あ、それから課長が、今月の消耗品の予算をまとめてほしいって」「いつまでですか?」「水曜日まで」紗奈はメモに、やることを書き出した。複合機の修理、荷物の受け取り、消耗品の予算、月末の精算。書き終えると、メモが1枚埋まっていた。モニターの横に貼り、終わった項目に線を引きながら片づけていった。修理業者に電話をかけ、日程を決めた。最短でも、翌週の火曜日の午前中だった。使用禁止の貼り紙を印刷して3階に貼り、4階へ上がっての給湯室の浄水器フィルターも確認した。もう10時を過ぎていた。机のコーヒーは冷めていた。ひと口飲んで、受話器を取った。顧客対応の電話が鳴った。「お電話ありがとうございます。ご用件をお伺いいたします」「商品が届いて1週間なんですけど、返品できますか?」「はい、承ります。注文番号を教えていただけますか?」「JP-0408-0917です」紗奈は番号をシステムに入力しながら、相手の話をメモした。不満の内容を整理し、返品の手順を案内して、電話を切った。すぐに次の電話が入った。「交換を頼んだ商品、いつ届くんですか? もう5日目なんですけど」「確認いたします。少々お待ちください」配送システムを調べると、まだ出荷前だった。「物流センターの都合で遅れております。明日までに発送の手配をいたします」「明日ですか? 早くしてくださいよ」「申し訳ございません。できる限り急いで手配いたします」電話を切り、内線で物流課へ連絡した。担当者が席を外していたので、隣の席の社員に伝えた。「物流課の木村主任がご不在なので、出荷の件をお伝えいただけますか」「はい、メモを残しておきます」昼休みになった。同僚たちが社員食堂へ向かう間に、紗奈は席でスマホを取り出した。給与明細が届いていた。手取り20万9,000円。厚生年金、健康保険、所得税、住民税。控除の項目を、1つずつ確かめた。毎月見ている数字なのに、癖のように確認してしまう。スマホ
last updateLast Updated : 2026-11-04
Read more

5話. 夜の電話

夜11時を過ぎていた。紗奈はベッドに横になり、天井を見ていた。ワンルームの蛍光灯を消すと、窓の外の街灯が、天井に細長い縞模様を作った。風が吹くたび、その縞が揺れた。上の部屋で足音がして、止まり、また静かになった。幼稚園の前で悠真を見てから、4日目だった。目を閉じると、青いバッグを背負った子どもの後ろ姿が浮かんだ。走るのをやめ、振り向いて、紗奈を見上げたあの目。『おばさん、だれ?』あの声が、耳から離れなかった。悠真を見てから、眠れない夜はさらに長くなった。昼間は電話に出て、書類を片づけ、荷物を受け取っていれば忘れられた。夜になると、子どもの顔が戻ってきた。スマホが鳴った。ベッド脇の床に置いていた画面が、明るく光った。知らない番号だった。夜11時に、知らない番号。紗奈は少しためらってから、通話ボタンを押した。迷惑電話なら、すぐに切るつもりだった。通販の広告か、融資の勧誘か。「もしもし?」「水原紗奈さんで、間違いありませんか?」知らない女性の声だった。慎重な口調だったが、紗奈の名前を正確に知っていた。「どちらさまですか?」「私……5年前、水原さんが入院されていた病院に勤めていた者です」紗奈はベッドの上に起き上がった。布団が膝へ滑り落ちた。背中が冷たくなった。「病院、ですか?」「はい。産後の療養中に、治療を受けていらっしゃいましたよね。そのとき担当していた看護師です」紗奈の手が布団をつかんだ。5年前。出産後まもなく、産後うつの治療を受けていた頃だった。病室の消毒薬の匂いと、窓の外の雨音。記憶の曖昧な部分が、いくつもあった。顔も思い出せない看護師から電話が来た。そのことに現実味がなかった。「……覚えていなくて」「そうですよね。入院期間は短かったですし、看護師も何人もいましたから」「こんな遅くに……何かあったんですか?」「番号を調べるのに時間がかかってしまって。夜分に申し訳ありません」紗奈は布団を蹴りのけ、床に足を下ろした。素足が冷たい床に触れた。手が震えて、スマホを反対の手に持ち替えた。「何があったんですか?」「あの所見、おかしかったんです」紗奈の息が止まった。唇を噛んで、離した。「所見、ですか?」「はい。水原さんについて出された、医師の所見書です。あれが出されるまでの過程を、
last updateLast Updated : 2026-11-04
Read more

6話. 訴訟費用

昼休み、紗奈はトイレの前の廊下に出て、スマホを取り出した。看護師にメッセージを送った。『お会いできますか。時間と場所を決めたいです』5分で返事が来た。『今週の土曜日、午後2時に神保町の辺りでいかがですか』紗奈はカレンダーを確認した。その土曜は、隔週の出勤に当たっていなかった。『大丈夫です。場所を送ってください』『神保町駅のA3出口前のカフェにしましょう。詳しい場所は金曜日に改めて送ります』送信済みの画面をもう1度確かめ、スマホをポケットにしまった。廊下の突き当たりの窓から、4月の日差しが差し込んでいた。5年間、1歩も前へ進めなかった。今、何かが動き始めている気がした。看護師が持っているという記録が何なのか、まだわからない。それでも、胸が高鳴った。スマホがまた鳴った。妹だった。「お姉ちゃん、看護師さんに連絡した?」「今、メッセージを送った。土曜日に会うことになったよ」「一緒に行こうか?」「ううん。1人で行く」「どうして? 危ないかもしれないよ」「危なくはないと思う。カフェで会うから」「でも」「1人で行かなきゃ。看護師さんに負担を感じさせたくないの」妹は少し黙ってから、ため息をついた。「わかった。終わったらすぐ電話して」「うん」「何を言われても、録音とかしちゃだめだよ。相手の同意なしにやっちゃだめ」「わかってる」「それと、弁護士は探してる?」「探してるよ。費用の問題があって」「どのくらい?」「30から50」「……万円?」「万円」妹の唇が、薄く引き結ばれた。「私も少し出す」「大丈夫」「大丈夫じゃないでしょ。お母さんにも話したほうがいいんじゃないの?」「まだ。はっきりしてから」「わかった。土曜日、電話してね」通話を終え、オフィスへ戻った。昼休みが終わる5分前だった。残していた海苔巻きを1本、急いで食べた。コンビニで買った、80円のツナの細巻きだった。席につき、口元を拭った。同僚が自分の席から手を振った。「水原さん、また荷物です。5階だそうです」「はい、行きます」紗奈は段ボール箱を抱えてエレベーターに乗った。5階に届けて下りてくると、内線が鳴った。「水原さん、2階のプロジェクターがつかないって。見てもらえる?」「今行きます」2階の会議室のプロジェクターは、リモコンの電池が
last updateLast Updated : 2026-11-04
Read more

7話. 診療記録

土曜の午前、紗奈は5年前に入院していた病院を訪ねた。看護師に会う前に、確かめておきたいことがあった。出産後まもなく、産後うつの治療を受けた場所。5年ぶりに足を踏み入れたロビーは、改装され、見知らぬ場所のようになっていた。受付の位置が変わり、エレベーターの横にコーヒーの自販機ができていた。それでも、廊下に満ちる消毒薬の匂いは5年前と同じだった。医事課の受付窓口に並んだ。前には3人、待っている人がいた。紗奈はバッグの持ち手を、握っては緩めた。「次の方、どうぞ」紗奈は窓口の前に立った。「診療記録の開示をお願いしたくて来ました」「ご本人の記録ですか?」「はい」「身分証をお願いします」マイナンバーカードを差し出した。職員が画面を見ながら、氏名と生年月日を照合した。「水原紗奈さんですね。入院歴が1件あります。産婦人科で、産後うつに関する治療ですね」「はい、そうです」「閲覧だけですか? 写しもご希望ですか?」「写しもお願いします。全部です」「写しは1件100円、追加のページが1枚10円になります」「はい、大丈夫です」「発行まで20分ほどかかります。待合室でお待ちください」「ありがとうございます」紗奈は申請書を書き、医事課の隣にある待合室の椅子に座った。廊下の消毒薬の匂いが、鼻を突いた。5年前にも、この匂いを嗅いだ。匂いは同じなのに建物だけが変わっていることが、妙な感じだった。あのときは、出産して間もなかった。体が回復しないうちに、涙が止まらなくなった。主治医に産後うつと診断され、投薬とカウンセリングが始まった。2か月間の入院。病室の窓越しに、季節が変わるのを見た。治療が終わりに近づいた頃、離婚の書類が届いた。紗奈は病院のベッドで、監護者指定の審判申立書を1字ずつ読んだ。隣に座っていた看護師の顔は、思い出せなかった。スマホが鳴った。妹だった。「お姉ちゃん、病院行った?」「うん。診療記録の写しを待ってる」「それでいいと思う。看護師さんに会う前に、自分の記録を確認しないと」「うん」「何かおかしなところがあったら、すぐ写真を撮っておいて」「わかった」「診療録と所見書、内容を比べてみて。違ってるところがないか」「そのつもり」「それで、看護師さんとは2時だよね?」「うん」「カフェで会うなら、私
last updateLast Updated : 2026-11-04
Read more

8話. 面談

神保町駅のA3出口を出てカフェまで歩く間に、紗奈はバッグの持ち手を3度握り直した。バッグには、午前中に病院で受け取った診療記録の写しが入っていた。28枚の書類と、その中で1枚だけ異質だった所見書。書類の重みが、バッグの持ち手を通して肩に伝わってきた。今日の面談が何をもたらすのか、まだわからなかった。それでも、5年たって初めて、誰かが『おかしい』と言ってくれた。その事実が、紗奈の足を速めた。カフェの看板が見えた。ガラスのドアの向こうでは、半分以上の席が埋まっていた。土曜の午後の店内は、ノートパソコンを開く人や、おしゃべりするグループでにぎわっていた。紗奈はドアを開けて入り、奥の隅の席を取った。壁を背にする席。出入り口の見える場所だった。カウンターへ行き、メニューを見た。アイスのアメリカーノを頼んだ。「380円です」カードを出し、飲み物を待った。時計を見た。1時50分。約束より10分早く着いていた。飲み物を受け取って、席に戻った。ストローのそばで、溶けかけた氷がぱきりと鳴った。店内のざわめきと音楽が、混ざり合っていた。紗奈はバッグの上に手を置き、出入り口を見つめた。中の書類の角が、手の甲に触れた。2時ちょうどに、カフェのドアが開いた。短い髪に眼鏡をかけた女性が、店の奥を見回した。灰色のコートに包まれた肩は細く、バッグを体の前で抱えていた。紗奈と目が合うと、おずおずと近づいてきた。「水原さん、ですか?」紗奈は立ち上がった。「はい。どうぞ」女性は向かいに座った。コートの襟元を合わせ、周囲をひと通り見た。店員が来ると、温かいゆず茶を注文した。しばらく沈黙があった。隣のテーブルで笑い声が上がり、やんだ。女性のほうから口を開いた。「お顔を見ると……思い出しますね」「すみません。私は、よく思い出せなくて」「当然ですよ。入院中は、何人もの看護師が交代しますから」女性は運ばれてきたゆず茶を受け取り、カップを両手で包んだ。指が細く、手の甲にそばかすがあった。記憶のどこかで、似た手を見た気もした。けれど、確かではなかった。「あの頃は、私もまだ新人でした。産婦人科病棟に配属されて、1年ほどで」「……」「水原さんを担当したのは、入院2週目からです」「何か、覚えていらっしゃいますか?」「経過はよかった
last updateLast Updated : 2026-11-04
Read more

9話. 法律事務所

看護師に会ってから、1週間がたった。紗奈は会社の昼休みを使い、弁護士を検索した。『家事事件に強い弁護士』『監護者変更』『面会交流の変更』。検索語を変えながら、口コミと経歴、勝訴率を比べた。3人の名前と連絡先、費用の目安をメモにまとめた。印刷して、バッグに入れた。仕事帰りの地下鉄で、妹に電話した。「弁護士、調べた?」「うん。3人見つけた。そのうち1人は、知り合いの紹介がある」「誰が紹介してくれたの?」「会社の先輩の旦那さんが、法曹関係の人なの。家事事件に詳しい弁護士を知ってるって」「名前は?」「篠宮怜。篠宮法律事務所」「篠宮怜?」「経験はかなりあるみたい。監護者変更の事件を、たくさん扱ってきたって」「費用は?」「相談のときに話すことになってる。ひとまず予約は取れたよ」「いつ?」「来週の水曜日、午後4時」「水曜日なら、半休を取らなきゃ」「半休、取れる?」紗奈はカレンダーを確認した。今月はすでに1度、半休を取っていた。「取れるよ。ありがとう」「一緒に行こうか?」「ううん。1人で行く」「また1人で?」「弁護士に相談するだけだから」「緊張してる?」「少し」「出かける前に、書類を確認してね。離婚の判決書と、診療記録の写し」「用意してある」「所見書のページも?」「うん」妹がため息をついた。「うまくいくよ。終わったら電話して」水曜日。午後の半休に向け、午前中の仕事を急いで片づけた。消耗品の発注確認、荷物の受け取りが2件、顧客対応の電話が4本。昼はコンビニでおにぎりを2つ買い、10分で食べた。同僚が紗奈のバッグを見て、首をかしげた。「今日も半休? どこに行くの?」「ちょっと、用事があって」「水原さんって、ほんとに用事が多いね」紗奈は軽く笑って、席を立った。2時に会社を出て、地下鉄に乗った。千代田区で降り、法律事務所の入ったビルを探した。8階建ての灰色の建物だった。1階のロビーは大理石張りで、壁に入居テナントの案内板があった。法律事務所が3つ、税理士法人が1つ、社会保険労務士法人が1つ。紗奈の日常からは、遠い世界の名前ばかりだった。篠宮法律事務所、7階。エレベーターのボタンを押して、待った。鏡に映る自分を見た。出勤時に着てきたブラウスに、しわが寄っていた。7階で降りた。廊下
last updateLast Updated : 2026-11-04
Read more

10話. 日付

相談室のドアが閉まった。篠宮は紗奈に席を勧め、自分も向かいに座った。シャツの袖をもう1度まくりながら、紗奈を見た。紗奈はバッグから書類を出し、机に置いた。離婚判決書、監護者指定の審判書、そして28枚の診療記録の写し。篠宮は透明なファイルから1つずつ取り出し、時系列に沿って並べた。机の上が、書類で埋まった。紗奈は向かいの椅子で、その手を見ていた。袖は肘までまくられていた。左手に万年筆を持ち、右手で書類をめくっていた。紙を扱う手つきは、速く、正確だった。何百件もの書類をめくってきた手だった。自分の事件もその1つなのだと思うと、不思議に慰められた。篠宮の手が、診療録で止まった。目が1行に留まった。「ここに、『自傷念慮なし。乳児に対する危険行動は認められず』とありますね」「はい。主治医が書いた経過記録です」「治療経過は良好で、薬への反応もよかった」紗奈はうなずいた。「ところが、こちらは」篠宮が所見書を取り出した。残る27枚とは書式の違う、あの1枚。「『自傷および乳児への加害のおそれ』と書かれています」「はい」「同じ病院、同じ入院期間なのに、診療録と所見書で内容が正反対です」篠宮の声に感情はなかった。事実を確かめていく声だった。その淡々とした口調に、紗奈はかえって安心した。前の弁護士は、同情するような顔で紗奈を見た。結果は却下だった。事実だけを確かめるこの弁護士のほうが、頼もしく思えた。「水原さん。治療を受けたこと自体は、事実ですね?」「はい。産後うつと診断されて、2か月入院しました」「治療を受けたことは、証拠になります」紗奈は顔を上げた。「証拠、ですか?」「治療によって改善した記録は、監護者としての適格性を示す資料です。産後うつと診断されたこと自体が、監護者として不適格だという理由にはなりません」紗奈の口の中が乾いた。5年間、産後うつの記録は自分の弱点でしかないと思っていた。それが逆に証拠になる。そんな言葉を聞いたのは、5年で初めてだった。膝の上で、手をきつく握った。「ただ、所見書は別の問題です」篠宮は所見書を取り、机の中央に置いた。その動きに無駄はなく、インクのにじんだ角には触れなかった。「書式が違う。書体も違う。署名の筆跡にも疑問があります。これだけで偽造とは証明できませんが、不自然
last updateLast Updated : 2026-11-04
Read more
PREV
1234
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status