「ないない。もう別れてから何年も経っているし、未練なんかないよ。あったとしても、友人とか家族みたいな気持ちとかじゃない?」「彼とは長かったの?」「んー、四、五年かな?元々小学生の頃から近所に住んでいて仲が良くて、いつも一緒に学校に行ったりしていたの。私が中学二年生で夏也が三年生の時に付き合って私が大学に入学するまでかな。」(四、五年!?学生時代に?)佳奈が淡々と語る過去に俺は耳を疑った。思春期と大人になってからの四、五年では重さや記憶に残る濃さが違う。恋愛が生活の中心になるあの時期に色々な思い出を共有した相手……。「でも、喧嘩すると勢いで『もう別れる!』って言って、一時的に離れた時期もあるから実質四年間くらいかな?」四年間でも十分に長い。俺はよりを戻したことがないから分からないが、しかも、一度は別れたのに再び付き合うということは、他の人では駄目だと思うくらい二人の間に深い絆があったことを物語っているように思えた。切っても切れないような関係。佳奈が言う「家族みたい」という言葉は、俺の想像を遥かに超える、濃密な時間を過ごした人にしか分からない深い絆を表す言葉なのかもしれない。俺は、どうしようもない劣等感を覚えた。「結局、夏也は県外の専門学校に進
数日後、オフィスで夏也から来た依頼メールを再確認していたが、いてもたってもいられずに佳奈に連絡を取った。「木下さんの、今の職業って知ってる?」恐る恐る尋ねる俺の問いに、佳奈は不思議そうに答えた。「え?ううん、知らない。夏也、昔からやりたいことが色々あったみたいで、仕事を転々としていたから……。なんで?」事の経緯を説明すると、佳奈は「え!?」と驚きの声をあげ、すぐに両親や妹に確認してくれた。そして、依頼主はやはりあの時に会った夏也だったことが確定した。DVDを届けに来た日、夏也は俺たちを見送った後に三奈を誘い、ご飯に行ったそうだ。そこで俺たちのことを根掘り葉掘り聞かれ、俺がIT会社の経営者だと話したらしい。しかし、三奈は会社名までは覚えていなかったので、ネットで探して見つけたのではないか、とのことだった。「三奈も口は堅い方なんだけど、夏也とは本当に長い付き合いだから、つい色々話してしまったんだと思う。」「別にいいよ。ただ、俺の会社に依頼が来たことに驚いただけ。」佳奈が申し訳なさそうにしているのが伝わってきたが、俺はそれ以上触れなかった。三奈が話してしまったことよりも、「長い付き合い」という言葉に、俺の胸はまたざわついていた。「それにしても、啓
数日後、佳奈の実家訪問の余韻に浸りながらいつものように業務をこなしていく。そんな中、一人の社員が、少し興奮した様子で俺に報告してきた。「社長、規模の大きい新規案件の依頼メールが届いているんですが、目を通していただけますでしょうか?」「ああ、分かった。」メールを読み進めていくと、内容は地方創生IT化プロジェクトの協力依頼だった。受注金額も大きくありがたい話だが、俺の会社はまだ設立して間もないベンチャー企業だ。なぜ俺たちに依頼が来るのか少し不思議に思った。しかし、内容を詳細に確認していくとさらに驚かされた。依頼主の会社とプロジェクトの場所は、偶然にも佳奈の実家がある地域だった。そして、メールの送信元であるベンチャー企業の代表者の名前を見て俺は思わず息をのんだ。「代表 木下 夏也」その名前に俺の心臓は激しく波打った。脳裏にこんがりと焼けた肌と人懐っこい笑顔が浮かび上がる。(同じ地域に住む、佳奈の元彼と同じ名前の人物から、このタイミングで仕事の依頼メール。偶然にしては出来過ぎている……。まさか、佳奈の元カレが俺の会社だと分かった上で仕事を依頼してきたと言うのか?)彼が俺たちの会社をどうやって知ったのか。そして、なぜ連絡をして仕事の依頼をしてきたのか
佳奈の実家への訪問は、俺の想像とは全く違う形で、不思議な幕を閉じた。出発前、「結婚挨拶 実家訪問」と検索し、サイトに書かれている手順を何度もシミュレーションした。手土産を渡すタイミング、自己紹介の仕方、そしてご両親に結婚の承諾を得るための言葉。完璧な段取りを頭の中で描いていた。しかし、現実は違った。実家へ到着してすぐに手土産を渡すことはできたが、ご両親が俺の緊張をほぐすため、次々と話題を振ってくれたことで、挨拶のタイミングを完全に失ってしまった。妹の三奈が帰宅してからは、さらに会話は加速し、気がつけば四時間も喋りっぱなしだ。俺は、結婚の承諾を正式に得るための言葉を、喉の奥にしまい込んだまま、言い出す機会を失っていた。そして、佳奈の元カレである夏也が現れ、三奈が「お姉ちゃんの彼氏で今度結婚する予定なんだよ」と口走ったことで、俺が何かを改めて発する必要もなく、結婚の件は暗黙の了解のようにそのまま帰宅となった。あんなに緊張して行ったのに、結婚の言葉も出さずに帰ってくるなんて、まるで狐につままれた気分だ。帰り道、俺は真剣な表情で佳奈に尋ねた。「結婚のこと、俺から何も言わなかったけれど、また改めてちゃんと伺って言うべきかな?」真面目にそう尋ねる俺に、佳奈は笑って返してきた。「大丈夫だよ。みんな啓介が来た理由も分かっているし、誰も反対なんてしないから。うちはもう賛成ってこ
「このDVD持っていたことすら忘れてた。そんな慌てて返さなくてもいいのに。なんで持ってきたんだろう?」帰りのタクシーの車内で、隣に座る佳奈は夏也が持ってきてDVDを不思議そうに眺めながら、独り言のように呟いた。(それは佳奈に会うための、単なる口実だったんじゃないか?)俺は、そう言いたくなるのを必死に堪えていた。余計なことを言ってせっかくの穏やかな空気を壊したくなかった。黙って窓から見える景色を眺めながら、さきほどの佳奈と夏也の帰り際の光景が頭の中で何度もリピートされていた。海外留学の経験がある佳奈は、驚きつつも慣れた様子で、夏也の背中に手を回し、トントンとあいさつに応じていた。その自然な仕草に、俺はなぜか心をかき乱された。「さっきの彼も、海外に行っていたことあるの?」俺は努めて冷静を装い何気ないふりをして尋ねた。「え? 夏也のこと? ううん、ないけど。」「じゃあ、親しい人には誰に対してもあんな感じなの? 彼ってフレンドリーだね。」俺が「夏也」という名前を使わず、「彼」と呼んでいることに佳奈は気づいたようだった。彼女は少し黙った後、何かを察したように話し始めた。
翌朝。潮風の香りがほんのりと漂う中、俺と佳奈は坂本家を後にしようとしていた。昨夜は、佳奈の温かい家族と過ごした時間と、布団の中で佳奈と寄り添った幸福感で最高の一日だった。しかし、その余韻も冷めやらぬうちに再び不穏な影が忍び寄る。「良かった、間に合って。佳奈が帰る前に渡しておきたい物があって。」玄関先でタクシーを待っていると、そこに現れたのは昨晩の訪問者、夏也だった。彼は息を切らしながら駆け寄ってきてカバンから一枚のDVDを取り出した。「これ、佳奈が好きで一緒に観ようって俺のうちに持ってきたやつ。」「え、あ、うん……。わざわざありがとう」。夏也が差し出したDVDに、佳奈は少し戸惑ったように答えた。隣でそのやり取りを聞きながら、内心そんな重要な用件ではないと思った。佳奈の家族と親しいのなら、わざわざ佳奈に会いに来なくても美香さんやお父さんに渡しておけばいいはずだ。そうしなかったのは単純に佳奈に会うためかもしれない。昨夜に続き、夏也の行動に微かな違和感を覚えていた。「彼が噂の婚約者? 初めまして、木下夏也です。」