啓介side
「おつかれ、今日は先に失礼するよ」
終業後、オフィスを抜けて帰ろうとしている時だった。
ダッダッダッダッ――――
誰かが俺のあとを追いかけてくるように、遠くから走ってくる足音が聞こえてきた。振り返ると、息を少し弾ませた三田がいた。
「あの社長!すみません……、おつかれさまです。」
「三田、そんなに慌ててどうしたんだ?」
終業後の静かな廊下で、彼女は小さく肩を前後し息を整えていた。
「プロジェクトメンバーの件、ありがとうございます!あの、どうしてもお礼が言いたくて……私、一生懸命頑張ります。」
三田は深々と頭を下げた。。
「ああ、あれは俺じゃなくて吉野の推薦だ。だが、もちろん俺も期待している。よろしく頼むよ。」
「は、はい!よろしくお願いします!」
俺がそう言って微笑むと、三田は緊張しながら再びぺこりと頭を下げた。
佳奈side「昨夜は本当にごめん。」宿からマンションに帰ってきた日の夜、朝よりも少し顔色が良くなった啓介が、リビングのソファで再び謝ってきた。「うん……。」啓介も無理やり連れていかれたわけだし、その後、仕事の話もされて帰るに帰れなくなったことも分かる。頭では理解しているが、楽しみにしていた分、簡単には許すことが出来ず、一日中、そのわだかまりが胸に沈殿していた。「最近、佳奈が元気ないように見えたから気になっていたんだ。だから、本当は昨日、ゆっくりお酒でも楽しみながら色々と話ができたらと思っていたのに、本当にごめん。」「え……そうだったの?」啓介がそんな風に私のことを思っていてくれたなんて知らなかった。私も、本当は打ち明けたかったけれど、それは自分だけの都合だ。勝手に不貞腐れていた自分が、急に恥ずかしくなった。「私こそごめんなさい。昨日、啓介と久々に夜のんびり過ごすことができると思って、すごく楽しみにしていたの。啓介も断れない状況だったし、しょうがないって分かっていたんだけど……。」「俺も、楽しみにしてた。だから、なんで今なんだよ、空気読めよって、結城さんたちを恨んだよ。」
佳奈side『ごめん、タイミング見計らってすぐに戻るから。』少ししてから啓介からメッセージが届いた。私は、テレビをつけて啓介が戻ってくるのを待った。しかし、一時間経っても、二時間経っても、啓介は戻ってこない。部屋には、テレビの音だけが虚しく響いている。「あーもう、なんなのよ。全然戻ってこないじゃない。」痺れを切らした私は、道中で買った赤ワインを開けて一人で飲み始めた。啓介が用意してくれた日本酒は、二人で飲もうと思っていたのに、日付が変わっても帰ってこない。怒りにまかせて日本酒も開けて飲み始めたが、一人で飲むお酒はちっとも美味しくない。虚しくなって途中で封をして布団に入った。怒りと悲しみと寂しさが胸の中で渦巻いていた。そして、啓介が部屋に戻ったのは、うっすらと陽の光が部屋に差し込んだ明け方だった。啓介は飲み過ぎてまだお酒が残っているのか、ぐったりと布団に横になっている。(せっかく、せっかく二人でのんびり過ごせると思ったのに!!!)二日酔いで気持ち悪そうにしている啓介をひとり部屋に残して、朝風呂へと向かった。冷たい水を顔に浴び、私の心と身体は冷え切っていた。
佳奈side「ふぅー気持ちいい!!!やっぱり足を伸ばせるって最高ー!」この日、車で一時間ほどの場所にある温泉旅館に来た私たちは、束の間の休日を楽しんでいた。夕食前に大浴場の温泉に入り、日頃の疲れを癒す。露天風呂から見える、深い緑の山々と、遠くに流れる川の自然溢れる景色に心も体も解き放たれていくのを感じていた。部屋に戻ると、浴衣姿の啓介がくつろいでいる。「温泉良かったな」「ね、気持ちよかった。露天風呂からの景色もいいし最高だね。」「ああ、そうだな。これ、夕食後に一緒に飲まないか。」啓介は、鞄から小さな日本酒の瓶を出して冷蔵庫に入れた。来る途中で買った赤ワインもあり、今宵はお酒を嗜みながらのんびりと夫婦の時間を過ごすことができそうだ。啓介がこっそり用意してくれていたことが嬉しかった。「ありがとう、嬉しい。」食後のことを思うと、期待に胸が弾む。私は浴衣姿の啓介に抱き着き、彼の頬に「チュッ」と音を立ててキスをした。私を見つめながら、頭を優しく撫でてくれる。啓介の温かい手に、私は全身の力が抜けていくような安堵を感じた。
啓介side「三田は意識も高いし、勉強熱心だから大丈夫だよ。それに、受注してくる人たちは分かっていない人がほとんどだ。三田がいることで、よりいい物が生まれるんだよ。」「え……?」三田は不思議そうな顔をして、俺の顔を見返している。しかし、その瞳は、何かを理解しようと、純粋でまっすぐだった。「俺たちも気を付けているが、長年の癖で、つい専門用語を使ったり、説明も分かっている前提で進めている時もある。三田は、三年以上この業界にいるから初心者ではないけれど、分からない人は、どこが分からないのか、どこを重点的に知りたいのか、意見をもらえると俺たちも気づきになるんだ。だから遠慮せずに聞いてほしい。最初は恥ずかしいかもしれないけど、ここには馬鹿にするようなヤツは一人もいないから。」「はい……。ありがとうございます。」俺の言葉を聞き終えた三田は、涙目になりながら静かにお礼を言った。三田の必死さが伝わってきて胸が熱くなる。「今日は、そろそろ帰らないか?残業ばかりだと疲れるだろ。」三田の支度が終わるまで入口で待って施錠をし、静まり返ったオフィスを二人で後にした。外に出ると、夜の冷たい風が頬にあたる。「それじゃ、気を付けて帰れよ」
啓介side取引先との会食を終えた二十二時過ぎ。オフィスの前を通り過ぎようとしていると、ぽつんと灯りがついているのが見えた。(こんな時間まで、誰が残っているんだ?)今は納期の近い案件もなく、比較的落ち着いていて、みな早く帰ることができていたはずだ。何か問題でも発生したのかと不安になり足を止めた。少しお酒を口にしてしまったが、俺は顔を出すことにした。エレベーターを降り、ドアを開けると、そこには静かにモニターに向かう三田真奈美の姿があった。キーボードを叩く規則的な音だけが広いオフィスに響いている。「おつかれさま。三田、まだ残っていたのか?」「きゃっ!……あ、社長。おつかれさまです。」俺が声を掛けると、突然のことに、三田は肩をビクンと大きく動かして驚き、振り返る。その顔には、一瞬、焦りの色が見えた。「悪い、おどかすつもりはなかったんだが……。」三田は、モニターに開いていた画面をすべて閉じると俺の方に身体を向けた。何をしていたのか少し気になったが、深くは考えなかった。「いえ、私の方こそすみません。お仕事おつかれさまでした。」
啓介side「社長、本日の会食での手土産です。」美山は、丁寧に包装された百貨店の紙袋を俺に差し出した。「ああ、ありがとう。正直、手土産って何選んでいいかいつも迷っていて……助かるよ。」あれから美山は、スケジュール管理以外でも積極的に携わるように声を掛けてくるようになっていた。彼女の細やかな気遣いのおかげで俺の負担は減り、受注案件など売上にかかわる仕事に専念できるようになっていた。「あ、社長、ちょっと待ってください。」そう言うと、美山は俺の肩を両手で掴んで立ち止まらせた。彼女の白くてしなやかな手が、俺の肩に触れる。俺は一瞬、戸惑い言葉を失った。美山は、俺の頭から胸元までじっくりと眺めると満足したように頷いた。「ネクタイも曲がっていないし、うん、いい。カッコいいです。」他の社員もいる前で、いきなり両肩に触れられ、周りの視線が俺たちに集まっている。その言葉に、気まずさを感じていた。「……ありがとう。なんだか俺、小さな子どもみたいだな。ほら、入学式とか七五三の写真を撮る前みたいな感じ。」冗談