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第5話

Author: 美桜
last update publish date: 2026-07-06 10:10:46

「ありがとうございます」

「……」

渉はそんな彼女の微笑みが美しければ美しいほど、打ちのめされた。

仏頂面をするなと言ったのは自分なのに、いざ彼女が増えた報酬に喜んだ姿を目の当たりにすると、言いようのない不快感に苛まれたのだった。

はぁ…

彼は渡されたままになっていたパジャマを手に着替えに行くと、話題を変えた。

「明日から10日間、出張でS国に行く。お前も同行しろ」

そう言うと、香織は少し考え、そして答えた。

「行けません。別の方にお願いしてください」

「は?」

初めての拒否に、渉は驚いてポカンと口を開けてしまった。

「私たちの契約はあと6日…あ、5日で終わります。なので、10日後までご一緒できません」

「…そういう意味で言ってるんじゃない」

渉はいつも出張の時は香織を同伴し、一つの部屋でいつもと同じように過ごしていた。

だから、今回もそうするのかと彼女が誤解したのだろうと思ったのだ。

「そうですか…」

渉は、彼女が慌てふためいて顔を赤くするだろうと思った。だが…。

「そうだとしても、今回はご一緒できません」

香織は表情も変えず、普通に答えた。

渉はぎゅっと眉を顰めた。

「なぜだ?仕事だぞ?」

「申し訳ありません。ちょっと、体調が優れなくて…」

「……」

彼にはそれが、単なる口実だとわかった。それでも、もういい…と思った。

「わかった」

そう言うと、彼はベッドに入り、香織に背中を向けて横になった。

香織はそれを見て、静かに彼の出張の準備をする為にクローゼットに向かったのだった。

*

翌日。

午前も遅く、香織は目を覚ました。

階下に行くとそこには既に渉の姿はなく、昨夜彼女が用意した彼の荷物も消えていた。

ふと見ると…。

ソファの上に大きな紙袋が置いてあり、覗いてみると、中には彼女が置いて帰った着替えとバッグが入っていた。

「……」

持って帰ってくれたの…?

そんな些細なことが、胸をきゅうっと締めつけるほど嬉しかった。

以前似たようなことがあった時、どうするか尋ねたホテルの支配人に、彼が「処分して構わない」と答え、勝手に捨てられていたことがあった。

その服は祖母が買ってくれたものだったからひどくショックを受けてしまったのだが、それを見た渉が何を勘違いしたのか、ショップに連れて行ってくれて新たに買ってくれたのが、この服だった。

「これでいいだろう?前のものよりいいもので補償したんだ。いつまでも暗い顔をするな」

そう言われたことには傷ついたが、彼からのプレゼントには嬉しさが込み上げた。

それ以来、大切な仕事の時には身に着けるようにしていた。

彼がそれに気づいていたのかどうかはわからないが、少なくとも、今回は勝手に捨ててしまうようなことはされなかった。

香織には、それで十分だった。

そうして彼女が丁寧に畳まれている服を取り出した時、不意にスマホが鳴りだした。

画面を見ると祖母が入っている療養院からで、一瞬にして彼女の顔に緊張が走った。

「お婆ちゃん!」

*

バタバタと廊下を走り、辿り着いた祖母の部屋には涙を流したのか、目を赤くした介護士がいた。

香織はその光景だけで、何が起こったのか察知した。

「そんな…嘘ですよね…?」

香織はよろよろと祖母の寝ているベッドに近づき、その静かな様子に目を見開いた。

「お婆ちゃん」

彼女の瞳から涙が溢れ出て、ポタポタと顎から滴り落ちていった。

何度も躊躇しながら、やがてそっとその手を握り、冷たい肌に涙に濡れた頬を押しつけた。

「うぅ…っ…どうして…っ」

彼女の悲痛な声は、全身で絶望を表していた。

そんな彼女に、介護士は説明した。

「昨日あなたが来られた時に何か嬉しいことがあったようで、お帰りになった後、僕にもニコニコと笑顔で言ってくれたんです。〝ありがとう〟て。〝もう思い残すことはないから〟て。それで、そのまま普通に過ごされて、夜もよく眠っていらして…。今朝、なかなか起きられないな…と思って様子を見たときにはもう…」

香織はそれを聞いて更に涙を流した。

「私の…私のせいだ…っ。私が、あんなこと言ったから…っ」

昨日香織は、パーティーに行く前にここに寄って自身の妊娠と、今日これから相手の両親と会うかもしれない…と報告した。

いつも自分の世話をさせて申し訳ないと口にしていた祖母に、嬉しい報告をしてあげたかったのだ。

彼女はとても喜んで香織の手を握りしめ、「幸せになってね」と言ってくれた。

それなのにー。

香織は祖母の冷たくなった掌に顔を埋め、全身を震わせながら泣いた。

お婆ちゃんがいなくなったー。それはつまり、この世界で自分を愛してくれる最後の人まで失われた…ということなのだろうか。

香織は涙を拭くと介護士に礼を述べ、予め用意していた謝礼を手渡した。

予想以上の金額に驚く介護士へ、香織はただ静かに首を振る。

それは、祖母を最期まで看取ってくれた感謝であり、突然職を失ったことへの手当でもあった。

介護士は頭を下げ、そしてそのまま静かに去って行った。

香織はしばらく祖母の側に座り込んだ後、スタッフの指示に従い火葬の手続きを済ませた。

葬儀は今は行わない。新しい住まいとお墓を用意できてからでいい。祖母ならきっと、理解してくれる。

今となってはもう、急いで渉の家を出る理由もなかった。

彼は出張中で、その間に契約も終わる。

それなら最後の日までそこに留まり、報酬を受け取ってから去ればいい。痕跡を全て消して。

そう決めると、香織は渉の家へと戻った。

*

玄関の前に、一人の人影が立っていた。

渉の婚約者、高橋美華だったー。

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