ログイン深夜。
香織がベッドの中で鬱々と眠れずにいると、階下から玄関のドアが開く音がした。
帰って来たの…?
彼女は僅かに眉を顰めた。
渉はいつも実家に帰った時、その日は帰らず泊まってくる。
ましてや今夜は彼のグループ総裁就任と、婚約が発表されたのだ。夜を徹してお祝いをしても不思議じゃない。
それなのに、なんで…?
香織は、耳に届く彼がリビングのテーブルに鍵を置く音や、何か荷物らしき物を置く音、そして、深いため息をつく音を聞いた。
やがてー。
カチャ…
静かに寝室のドアが開き、ほんの少しだけ彼が入り口で立ち止まった気配を感じた。
ふぅ…
吐き出された息は小さかったが、香織の胸はズキリと痛んだ。
まるで、彼が自分に失望した証拠のような気がしたのだ。
「香織…起きてるだろ?」
「……」
渉は確信を持って呼びかけてきた。
香織は瞑っていた瞼を上げ、ゆっくりと身体を起こした。
「お帰りなさい」
「うん…」
彼は香織の頭をひと撫でし、上着に手をかけた。
「……」
いつもなら、ここで彼女は立ち上がり、彼から脱いだ上着を受け取ってクローゼットにしまい、寝支度を整えだすはずだ。
だが、今夜の彼女は動かなかった。
渉がシャワーを浴びた後、いつもの場所を見ても着替えは用意されてなかった。
「……」
仕方なくバスタオルを腰に巻いて寝室に戻ると、相変わらず部屋の明かりは消したままで、香織もまた、ベッドに潜り込んていた。
脱いだ上着も、そのまま放置されていた。
「香織」
渉の声に、若干の苛立ちが混じる。
彼女が再び目を開けると、真横に立った渉が探るような視線で見下ろしてきた。
「どうした?機嫌が悪いのか?」
「……別に」
香織は無感情にそう呟くと、のろのろとベッドから下りた。
そして放り出されていた渉の上着を手に取ってクローゼットに向かい、戻った時にはその手に彼のパジャマがあった。
「どうぞ」
平坦な声音で差し出され、渉の眉がピクリと動いた。
「何をそんなに怒っているんだ?」
「怒ってません」
「怒ってるだろうっ」
「いいえ…怒ってません。本当に…」
「……」
そう…香織は怒ってなどいなかった。ただ、無性に虚しかったのだ。
「香織…」
「おやすみなさい」
「待てっ」
再びベッドに入ろうとした彼女の腕を咄嗟に掴み、渉はその眉を寄せた。
「いったいどうしたんだ?何があった?」
「……」
香織はそんな彼の顔をチラリと見て、そして目を逸らした。
「何もありません。ただ…自分の愚かさに嫌気が差しただけです」
「どういう意味だ?」
投げやりな彼女の言葉に問い返すと、彼女は視線を戻さないままフッ…と鼻で嗤った。
「香織…?」
渉が訝しげに彼女の名を呼ぶと、思わぬ強さで掴んでいた腕を振り払われた。
「なんでもないって言ったでしょう!?いい加減にして!」
「なんだ、その言い方は!?こっちは心配してー」
「心配!?」
渉の言葉を遮って、香織が睨みつけてきた。
「誰がそんなこと求めました?余計なことしないでくださいよ。あなたは、あなたの大切な人を気にかけてればいいでしょ!」
「……」
渉はこんな香織を見たことがなく、呆然とした。
だがー
「ただの契約関係なんだから、これ以上踏み込んでこないで!!」
そう言われた瞬間、カッとした。
「ただの契約関係だと!?」
「そうよ!何か間違ってる!?」
「お前ー!」
咄嗟に手を振り上げた。
でもその瞬間、彼女がビクリと身を竦め、腕で顔を守ったところを目にした途端、その衝動が消えた。
はぁ……
彼は気を落ち着ける為、一度深くため息をついた。
「もし、美華のことを言っているのなら…それはお前には関係ないことだ」
「っ…」
香織はその言葉に、胸の奥が鋭いナイフで抉られたかのような錯覚を覚えた。
ズキズキする胸を抱え、自嘲するように嗤った。
「ええ…そうでしょうね…」
俯いてそう呟くと、溢れそうな涙をグッと堪えた。
関係ない。確かにそうだ。彼が誰と婚約しようが、誰と結婚しようが、そんなことに自分はまったく関係ない。自分と彼は、ただの金銭の絡んだ契約関係なのだから…。
香織は気持ちを整えると顔を上げ、平坦な声で告げた。
「おやすみなさい」
「……」
渉はそれを見て、チッと舌打ちした。
「わかった。今回の報酬に100万上乗せしてやる。それでいいだろう?いい加減、その仏頂面をなんとかしろっ。気分が悪いっ」
「っ…」
香織は、その言葉に心臓をきつく鷲掴みされたような気がした。
結局、お金なのね…。彼の中で私はお金で何でもする女…それだけの認識なのね…。
改めてそう理解すると、彼女は最後のプライドを保つ為に微笑った。
「やだ、あなたたち。なんでそんなにそっくりなの?」「っ…」クスクスと笑いながら言う香織に、だが渉も龍牙も、一瞬その身体を強張らせた。特に渉は香織を見つめたまま、思わず息を呑んでいた。彼は、こんな風に笑う彼女を見たことが一度もなかったのだ。彼の記憶の中の彼女はいつも感情を抑え、礼儀正しく、穏やかだった。もちろん、笑うことはあった。だがそれは、〝笑うべき場面だから〟笑う、決して表情を崩すことのない〝丁寧な微笑み〟だった。渉はふと気がついた。過去自分の側にいた香織は、いつも〝社長秘書〟でしかなかったということにー。そしてここに、一人の〝香織〟という人物として笑う彼女がいる。それに気がついた今、渉の胸は虚しい痛みに襲われていた。しかも、似てる…?俺と、この子が…?訝しげにそう思っていると、龍牙はすぐさま渉から距離を取り、そして言った。「そんなわけないでしょっ。全然、似てないよ!」「ふふっ…ごめんごめん」そのムキになった言い方に、香織も笑いを収めた。だがその目に滲む涙を指で拭っている時も、彼女の口角は上がっていた。渉は、そんな風に戯れる2人をただじっと見つめていた。そして彼は龍牙の視線に気がついた。この小さな子供は警戒するように彼を見つめ、その眉を僅かにひそめて唇をきゅっと結んでいた。その顔には見覚えがあった。昔、鏡の中で何度も目にしてきた顔だ。怒りを飲み込み、理不尽に耐えていた時、自分はこんな顔をしていた。ーー似ている…。いや、まさかな…。一瞬浮かび上がった考えに、だが「そんなはずはない」と自ら否定し、首を振った。彼女とは、妊娠をしてはいけないという条件で契約をしたのだ。もししたのなら、彼女は報告をしたはずだし、少なくとも、相談はしただろう。それもせず、一方的に姿を消すなんて理不尽なこと、彼女はしない。渉は過去、彼女に絶対の信頼を寄せていた。だから、彼女が自分に黙って妊娠し、あまつさえそれを隠して契約満了とともにいなくなるなんて、そんなことをするはずがないと信じていた。そう思うと、やはりこの子たちは兼悟の子なのだろうと、彼の中に確信が満ちた。そして、益々彼を憎らしく思った。彼女は黙って自分のもとを去り、新しい人生を歩み、そして新しい男と家庭を築き、その男の子供を授かった。足を前に踏み出したのは、彼女だけだ
渉は屈み込むと、龍牙と顔を突き合わせた。「なんで家に帰れないんだ?」その答えは、龍牙こそが知りたかった。「知らない」そう答えると、渉はふむ…と首を捻った。そして、あろうことか「なぁ、お前たちのお父さんってのは、中村兼悟なんだよな?」と言ったのだ。「はぁ?」今度こそ、龍牙は渉を思い切り睨みつけた。兼悟おじさんがパパだって!?コイツ、すっごい嫌な奴だっ。いや、クズ男だ!龍牙は、最近ショートドラマにハマっている梨里おばさんに言われたのだ。「龍牙っ、あなたはこんなクズ男になっちゃダメよっ」て。おばさんが言うには、さんざん女を弄んだ挙句責任も取らず、ポイ捨てする男なんだそうだ。そのクセ、女が振り向かなくなったら必死に追いかけてくるらしい…。意味がわからない。それからこうも言われた。「あなたが目指すのは、このイケメンハイスペックヒーローよ!」て。イケメンも、ハイスペックも、ヒーローもわかるけど、この3つが揃ってるような人、いるかな…?無理じゃない?そう思って、流しておいた。それなのに、まさかこんな身近にその〝クズ男〟がいるなんて!でもそういえば、コイツはママにやけに絡んでくるらしいから、やっぱり後悔してるってこと?龍牙はやっぱりよく分からなくて、ふぅ…と息をついたのだった。でも、これだけはわかった。コイツは、僕たちを兼悟おじさんに押しつけようと思ってる。やっぱりママと僕たちを捨てたんだっ。そう思って、彼はこの都月渉という男をギリギリと睨まずにはいられなかった。さっき、ちょっとはいい奴なのかと思ったのに…っ。龍牙は、先ほどエレベーターの中で触れられた感触を思い出して、ふるふるっと頭を振ってそれを追い出した。そんな彼をじっと見つめていた渉は、思ってたの
突然のその声に、鳳花はビクッと身体を揺らし、手に持っていた柄の長いスプーンをカシャン…と滑り落とした。香織は傍らのバッグからティッシュを取り出し、鳳花の目の前にある物をどかしてその小さな鼻を塞いだ。「龍牙、押さえてて」そう言うと、香織はすぐさま荷物をまとめ、「ちょっと待っててね」と支払いに向かった。そして戻ってくると鳳花を抱え、龍牙と手を繋いで店を後にしたのだった。*「香織…?」渉がマンションの地下駐車場に車を停めて、エレベーターで部屋のある階に向かっているとすぐさま、一階で止まった。扉が開いて何気なく乗ってきた人を見た時、彼は驚きに目を見開いた。そこには、2人の子供を連れた香織がいたからだ。「都月社長…?」香織も驚いた。こんな偶然があるなんて…。だが、「ママ…」腕に抱いた鳳花が呼びかけたことで、彼女はハッとした。「あの…」「血が出てるじゃないか。どうしたんだ!?」若干焦ったような声音でそう問われ、香織は事情を説明した。この近くのファミレスでお昼ご飯を食べていたのだが、鳳花が鼻血を出してしまって、家にも帰れずホテルも遠かった為、ここを思い出して申し訳ないが使わせてもらおうと思ったのだ…と。「そうか…鼻血でまだよかった」ホッとしたようにそう呟き、渉は鳳花の顔を覗き込んだ。「どこか苦しいところとか、痛いところはあるか?」「ううん。ない」小さな声でそう答える鳳花に、彼は優しくその頭を撫でた。「泣かなくて偉いな。ママは荷物も持ってるから、おじさんが抱っこしてあげるよ」「ほんと…?」「ああ。おいで」鳳花は、そう言って手を差し出す渉を見て、次に香織を見た。いい?
週末。香織は仕事が休みの今日、子供たちの幼稚園の発表会に来ていた。「ママ〜、ちゃんと動画撮っててね〜」そう言いながら手を振って控室に入って行く2人を見送って席に着き、そっと周りを見渡すと、やはり両親が揃って来ている家庭が多かった。やっぱり寂しいのかな…。先ほど登園してきてすぐ、声をかけてきたお友だちが片手に母親、片手に父親の手を握っているのを見て、鳳花の繋いだ手にきゅっと力が入ったのを、香織は感じていた。まだ5歳だもんね…。家には兼悟も、梨里夫妻も、使用人たちもいるとはいえ、やはり〝父親〟という存在は特別なのかもしれない。「っ…」そう思った時、また刺すような頭痛がした。香織はこめかみに手を押しあて、しばらく息を詰めてじっとその痛みに耐えた。やがてじわじわと痛みが遠のき、薄っすらと浮かんだ冷や汗をハンカチで拭って、香織は頭を軽く一振りした。そしてふぅ…と一つ息をつくと、舞台に上がった子供たちの動画を撮り始めた。同じ組で、少しだけ離れて立っている2人。鳳花は楽しそうに、龍牙は真面目に歌っているその様子を収めて香織も満足し、最後は思い切り拍手を送った。*一方、兼悟と渉は、朝早くからこの辺りでは名門と言われているゴルフ場に来ていた。プロジェクトをスムーズに進める為、観光庁や文化庁、両庁の担当者との、いわゆる接待ゴルフだった。そこでー「お上手なんですね。私にも教えていただけませんか?」コースに出る前の肩慣らしをしていた渉のもとに、一人の女性が近づいてきた。「……」彼女は、黙って次のボールをセッティングする渉に一瞬口元を引きつらせたが、気を取り直したように微笑み、彼の側に立った。兼悟は渉から少し離れた場所で同じようにボールを打っていたのだが、この光景を見てフッ…と鼻で嗤った。見え透いてる。
冬馬は誰よりも知っていた。香織が渉のもとを去ってからの5年間、渉がどんな風に生き、苦悩してきたかをー。彼女が渉と暮らした家に、彼女の痕跡は何も残されていなかった。でも会社には、至る所にそれが残っていたのだ。彼女が渉の為に用意したコーヒー豆や茶葉、彼女用のカップ。彼女のデスクはいつも綺麗に整えられていたが、彼女が使いやすいと気に入って使っていた筆記具もそのままだった。そして社長室にはー。渉のデスクに貼られた、注意書きが書かれた付箋。〝昼食の時間は必ず守ること〟そして、胃の調子がいつも悪い渉の為の〝胃薬は一番上の引き出し〟や、〝必ずコップ一杯のぬるま湯で飲むこと〟といった細かいものまであった。そんな些細なものたちを、渉は一つも処分しなかった。いつだったか、気を利かせようと勝手にこの色褪せた付箋を新しくしようとした新人の秘書は、その場でクビになった。誰もが皆、触らぬ神に祟りなし、と渉のものには手を触れることも、余計な口出しをすることもなくなった。そんなある日ー。雪の降る深夜、冬馬は渉からの電話で急いで書類を届ける為、会社に向かった。シン…とした廊下を抜けて社長室をノックしたが反応がなく、そっとドアを開けると、そこに渉はいた。彼は疲れたように椅子にもたれ、その目を閉じていた。眠っているのかと静かに部屋の中に身体を滑り込ませ、冬馬は持ってきた書類を置いた。何か上掛けを…と近づくとー。彼はその手に一本のマフラーを大事そうに握りしめていた。淡いベージュ色の、暖かそうなマフラーだった。お気に入りだったのか、何度も洗われたことがわかる、少しくたびれたものだった。冬馬は覚えていた。あれは、香織が使っていたものだ。彼女は冬になると毎年あれを使っていた。冬馬がじっと見つめていると、渉の手がふいにそれを優しく撫でた。「
香織は立ち止まって彼を迎えた。渉は冬馬を連れて近づいてくると、にっこりと笑って胸ポケットから薄っぺらい封筒を取り出した。「気に入るかな?」そう言って差し出されたそれは、中身が入っているのか分からないくらいの薄っぺらさだった。「何ですか?」香織が受け取って中の物を取り出すと、それは可愛らしい動物が描かれた数枚の栞だった。「……」香織は一目で気に入った。でもそれをまた封筒に戻し、渉の手に返した。「受け取れません」「なぜ?」「理由がありません」「理由…ね…」渉には、彼女がこれを気に入ったことがわかっていた。見た瞬間に彼女の瞳が輝き、口元も嬉しそうに弧を描いたからだ。それなのに〝理由がない〟なんてね。そう思ってクスッと笑ってしまった。「何ですか?」ムッとしたように問いかけてくる眼差しも、ほんの少し尖った唇も、何もかもが彼の笑いを誘った。彼は言った。「だって、本を読むのが好きだろう?君も。龍牙くんも」「……」その言葉に、香織は眉をひそめた。なぜこの人はこんなにいろいろ知ってるの?好きな花の種類といい、読書の趣味といい。龍牙のことまでー。あの子とは大学で会っただけなのに…。香織は、知らず自分や家族のことを調べられてるのかと疑い、その瞳に嫌悪の気持ちを乗せた。「これ以上、こんなことはしないでくださいと申し上げたはずです」「大したものじゃない」金額の問題じゃないの。香織はチラリと陰から自分たちを覗く人たちを見て、うんざりした。はぁ…また噂されちゃう…。そう思うと、目の前の渉をひどく憎らしく思った。「とにかく、困るんですっ」