Se connecterトゥルルルル…トゥルルルル…
スマホの着信音に、渉の書類を捲る手がピクリと止まった。
画面を見る。
はぁ…
彼は無意識にため息をついていた。期待した相手ではなかったからだ。
「もしもし」
少し苛立ったような声で応答した。
『…。社長ー』
相手は一瞬黙り、その後すぐに言葉を継いできた。
『お忙しいところ、申し訳ありません。先ほど、第一秘書の山内さんから辞職願が郵送されてきたのですが、ご存知のことでしょうか?』
「…なに?」
一瞬にして渉の意識が電話の向こう、相手の声に集中した。
「辞職願だと!?」
『はい。昨日付で…』
「あり得ない!」
バンッと机を叩く音がして、電話口の男が息を呑んだ。
彼は、社長の秘書が辞めるというのでその確認の為に連絡を入れただけだった。それなのに、こうして社長の怒りに晒されて心底震えた。
とんだ災難だ…。
人事部に所属するこの男は、道理で誰も電話したがらないはずだ…と納得した。
ただの従業員の退職じゃない。社長の第一秘書だ。
彼の秘書は他にもいるが、第一秘書というのは社長の何から何まで全てを把握し、彼が多くを語らずともいいように物事を計らうことのできる、そんな人だった。
社内でも、「社長に何か尋ねる前に必ず山内さんに先に尋ねろ」と言われるほど信任が厚く、社長から唯一、全幅の信頼を得ている貴重な人だった。
そんな彼女が今回、彼の出張に同行しないと知った時、何かあるのかと噂になったのはあながち間違いではなかったらしい…。
「では…どのように処理いたしましょう?」
そう尋ねると、彼の耳に荒い息遣いが伝わった。
『保留だ!決まってるだろうっ』
そう言って、ブツッ!と突然通話が切られた。
彼は呆然とし、そしてそっと息を吐いた。
「怖かった…」
小さな声で呟くと、周囲からは同情の眼差しと、苦笑が送られた。
そしてこの件は、人事部だけでなく、あっという間に社内全域にまで広まった。
彼らはまだ知る由もなかった。これから先、社内全域…とりわけ社長室のある最上階フロアが、重苦しい雰囲気の漂う空間になることを…。
*
はぁ…くそっ…どういうことだ…!?
渉は手にしたスマホをデスクの上に放り投げ、ズキズキと痛む頭を抱え込んだ。
「辞めるだと…?何を考えてるんだ、香織の奴っ…」
考えることは山ほどあるのに、最大の厄介事が舞い込んだ気分だった。
「……」
渉は投げ出したスマホをもう一度手に取り、かけ慣れた番号を表示させてタップした。だが…。
『おかけになった電話番号は現在使われておりません』
そんな平坦な機械音声が流れるだけで、一向に繋がらなかった。
「っ…」
何度繰り返しても、同じ結果だった。
あり得ない…あり得ない…っ。香織っ…電話に出ろ!
繋がらないのはわかっているのに、何度もかけ直す。そんな渉の顔は、焦りに彩られていた。
やがて彼は、今回同行していた秘書を呼び出した。
「帰国する。一番早い便のチケットを取れ」
「えっ?でも今夜の晩餐会はー」
「中止だ」
渉は既に上着を手に取っていた。
「では、提携先との件は…」
「二度と言わせるな」
その声は静かだったが、有無を言わせない圧があった。
彼は振り返ることすらなく、そのまま部屋を出て行く。
秘書は呆然としたまま、渉の背中が扉の向こうに消えていくのを見送るしかなかった。
その夜ー。
飛行機が着いた途端、渉は早足で地上に降り立ち、荷物の受け取りもそこそこにポケットからスマホを取り出した。
トゥルルルル…トゥルルルル…
会社の誰も、香織の退職の理由を知らなかった。
辞職願には「一身上の都合」としか書かれておらず、皆も突然のことに驚いているということだった。
渉は、とりあえず香織の捜索を秘書に命じ、自身は急いで自宅へと戻って行った。
彼はまだ、心のどこかで期待していた。
きっと彼女は家にいる。会社を辞めたのは、自分が突然婚約したことへの腹いせに違いない。でなければ、いったいどこへ行くというのかっ…。
だがー。
渉の期待を嘲笑うように、家の中には何もなかった。
家具などはきちんと整っている。だが細かいインテリアや飾り付けた小物など、それら全てが無くなっていた。それはまるで、展示物件のような様相を呈していた。
彼女が持ち込んだ物、そして彼女に関わる全ての物が消えていた。
まるでその人間が、最初から彼の人生に存在していなかったかのようにー。
「……」
渉は呆然とした。
そのままドサッ…とソファに座り、頭を抱え込んだ。
「なぜだ…」
誰もいない空間に、彼の小さな呟きが虚しく響いた。
そしてしばらくそのまま項垂れていると、不意にスマホが着信を告げた。
「!」
渉は慌ててそれを取り出し、画面を確認した。
「……」
が、やはり相手は香織ではなかった。
「わかったか?」
だが、彼女の捜索を命じた秘書だった。
渉は前のめりになりそうな己を頭の中で叱咤し、努めて冷静に尋ねた。
『社長ー』
そんな彼に、秘書である渡辺冬馬(わたなべとうま)は言った。
『山内さんは昨日、K国行きの飛行機便に乗ったと思われます』
「…は?」
昨日ー?
その言葉が耳の中に響いて残り、後に続く報告が上手く聞き取れなかった。
「本当に…彼女が…?」
そのひどく狼狽えた口調に、冬馬は困惑した。
なぜこんなにも気にしてらっしゃるんだ…?彼女に何かあるのか?会社の機密でも握られてる…?
冬馬は、戸惑いながらも口を開いた。
『もっと詳しくお調べいたしましょうか?』
「頼む…。できれば…今現在の居場所が知りたい…」
『かしこまりました』
冬馬との通話を終えてシン…とした家の中でただ一人考えに沈んでいた渉は、その時、キンコーン…という来客を告げるチャイムの音を聞いた。
「…?」
訝しげにドアを開けながら「はい?」と尋ねると、そこには呆れたような顔で佇む美華がいた。
「やだ、あなたたち。なんでそんなにそっくりなの?」「っ…」クスクスと笑いながら言う香織に、だが渉も龍牙も、一瞬その身体を強張らせた。特に渉は香織を見つめたまま、思わず息を呑んでいた。彼は、こんな風に笑う彼女を見たことが一度もなかったのだ。彼の記憶の中の彼女はいつも感情を抑え、礼儀正しく、穏やかだった。もちろん、笑うことはあった。だがそれは、〝笑うべき場面だから〟笑う、決して表情を崩すことのない〝丁寧な微笑み〟だった。渉はふと気がついた。過去自分の側にいた香織は、いつも〝社長秘書〟でしかなかったということにー。そしてここに、一人の〝香織〟という人物として笑う彼女がいる。それに気がついた今、渉の胸は虚しい痛みに襲われていた。しかも、似てる…?俺と、この子が…?訝しげにそう思っていると、龍牙はすぐさま渉から距離を取り、そして言った。「そんなわけないでしょっ。全然、似てないよ!」「ふふっ…ごめんごめん」そのムキになった言い方に、香織も笑いを収めた。だがその目に滲む涙を指で拭っている時も、彼女の口角は上がっていた。渉は、そんな風に戯れる2人をただじっと見つめていた。そして彼は龍牙の視線に気がついた。この小さな子供は警戒するように彼を見つめ、その眉を僅かにひそめて唇をきゅっと結んでいた。その顔には見覚えがあった。昔、鏡の中で何度も目にしてきた顔だ。怒りを飲み込み、理不尽に耐えていた時、自分はこんな顔をしていた。ーー似ている…。いや、まさかな…。一瞬浮かび上がった考えに、だが「そんなはずはない」と自ら否定し、首を振った。彼女とは、妊娠をしてはいけないという条件で契約をしたのだ。もししたのなら、彼女は報告をしたはずだし、少なくとも、相談はしただろう。それもせず、一方的に姿を消すなんて理不尽なこと、彼女はしない。渉は過去、彼女に絶対の信頼を寄せていた。だから、彼女が自分に黙って妊娠し、あまつさえそれを隠して契約満了とともにいなくなるなんて、そんなことをするはずがないと信じていた。そう思うと、やはりこの子たちは兼悟の子なのだろうと、彼の中に確信が満ちた。そして、益々彼を憎らしく思った。彼女は黙って自分のもとを去り、新しい人生を歩み、そして新しい男と家庭を築き、その男の子供を授かった。足を前に踏み出したのは、彼女だけだ
渉は屈み込むと、龍牙と顔を突き合わせた。「なんで家に帰れないんだ?」その答えは、龍牙こそが知りたかった。「知らない」そう答えると、渉はふむ…と首を捻った。そして、あろうことか「なぁ、お前たちのお父さんってのは、中村兼悟なんだよな?」と言ったのだ。「はぁ?」今度こそ、龍牙は渉を思い切り睨みつけた。兼悟おじさんがパパだって!?コイツ、すっごい嫌な奴だっ。いや、クズ男だ!龍牙は、最近ショートドラマにハマっている梨里おばさんに言われたのだ。「龍牙っ、あなたはこんなクズ男になっちゃダメよっ」て。おばさんが言うには、さんざん女を弄んだ挙句責任も取らず、ポイ捨てする男なんだそうだ。そのクセ、女が振り向かなくなったら必死に追いかけてくるらしい…。意味がわからない。それからこうも言われた。「あなたが目指すのは、このイケメンハイスペックヒーローよ!」て。イケメンも、ハイスペックも、ヒーローもわかるけど、この3つが揃ってるような人、いるかな…?無理じゃない?そう思って、流しておいた。それなのに、まさかこんな身近にその〝クズ男〟がいるなんて!でもそういえば、コイツはママにやけに絡んでくるらしいから、やっぱり後悔してるってこと?龍牙はやっぱりよく分からなくて、ふぅ…と息をついたのだった。でも、これだけはわかった。コイツは、僕たちを兼悟おじさんに押しつけようと思ってる。やっぱりママと僕たちを捨てたんだっ。そう思って、彼はこの都月渉という男をギリギリと睨まずにはいられなかった。さっき、ちょっとはいい奴なのかと思ったのに…っ。龍牙は、先ほどエレベーターの中で触れられた感触を思い出して、ふるふるっと頭を振ってそれを追い出した。そんな彼をじっと見つめていた渉は、思ってたの
突然のその声に、鳳花はビクッと身体を揺らし、手に持っていた柄の長いスプーンをカシャン…と滑り落とした。香織は傍らのバッグからティッシュを取り出し、鳳花の目の前にある物をどかしてその小さな鼻を塞いだ。「龍牙、押さえてて」そう言うと、香織はすぐさま荷物をまとめ、「ちょっと待っててね」と支払いに向かった。そして戻ってくると鳳花を抱え、龍牙と手を繋いで店を後にしたのだった。*「香織…?」渉がマンションの地下駐車場に車を停めて、エレベーターで部屋のある階に向かっているとすぐさま、一階で止まった。扉が開いて何気なく乗ってきた人を見た時、彼は驚きに目を見開いた。そこには、2人の子供を連れた香織がいたからだ。「都月社長…?」香織も驚いた。こんな偶然があるなんて…。だが、「ママ…」腕に抱いた鳳花が呼びかけたことで、彼女はハッとした。「あの…」「血が出てるじゃないか。どうしたんだ!?」若干焦ったような声音でそう問われ、香織は事情を説明した。この近くのファミレスでお昼ご飯を食べていたのだが、鳳花が鼻血を出してしまって、家にも帰れずホテルも遠かった為、ここを思い出して申し訳ないが使わせてもらおうと思ったのだ…と。「そうか…鼻血でまだよかった」ホッとしたようにそう呟き、渉は鳳花の顔を覗き込んだ。「どこか苦しいところとか、痛いところはあるか?」「ううん。ない」小さな声でそう答える鳳花に、彼は優しくその頭を撫でた。「泣かなくて偉いな。ママは荷物も持ってるから、おじさんが抱っこしてあげるよ」「ほんと…?」「ああ。おいで」鳳花は、そう言って手を差し出す渉を見て、次に香織を見た。いい?
週末。香織は仕事が休みの今日、子供たちの幼稚園の発表会に来ていた。「ママ〜、ちゃんと動画撮っててね〜」そう言いながら手を振って控室に入って行く2人を見送って席に着き、そっと周りを見渡すと、やはり両親が揃って来ている家庭が多かった。やっぱり寂しいのかな…。先ほど登園してきてすぐ、声をかけてきたお友だちが片手に母親、片手に父親の手を握っているのを見て、鳳花の繋いだ手にきゅっと力が入ったのを、香織は感じていた。まだ5歳だもんね…。家には兼悟も、梨里夫妻も、使用人たちもいるとはいえ、やはり〝父親〟という存在は特別なのかもしれない。「っ…」そう思った時、また刺すような頭痛がした。香織はこめかみに手を押しあて、しばらく息を詰めてじっとその痛みに耐えた。やがてじわじわと痛みが遠のき、薄っすらと浮かんだ冷や汗をハンカチで拭って、香織は頭を軽く一振りした。そしてふぅ…と一つ息をつくと、舞台に上がった子供たちの動画を撮り始めた。同じ組で、少しだけ離れて立っている2人。鳳花は楽しそうに、龍牙は真面目に歌っているその様子を収めて香織も満足し、最後は思い切り拍手を送った。*一方、兼悟と渉は、朝早くからこの辺りでは名門と言われているゴルフ場に来ていた。プロジェクトをスムーズに進める為、観光庁や文化庁、両庁の担当者との、いわゆる接待ゴルフだった。そこでー「お上手なんですね。私にも教えていただけませんか?」コースに出る前の肩慣らしをしていた渉のもとに、一人の女性が近づいてきた。「……」彼女は、黙って次のボールをセッティングする渉に一瞬口元を引きつらせたが、気を取り直したように微笑み、彼の側に立った。兼悟は渉から少し離れた場所で同じようにボールを打っていたのだが、この光景を見てフッ…と鼻で嗤った。見え透いてる。
冬馬は誰よりも知っていた。香織が渉のもとを去ってからの5年間、渉がどんな風に生き、苦悩してきたかをー。彼女が渉と暮らした家に、彼女の痕跡は何も残されていなかった。でも会社には、至る所にそれが残っていたのだ。彼女が渉の為に用意したコーヒー豆や茶葉、彼女用のカップ。彼女のデスクはいつも綺麗に整えられていたが、彼女が使いやすいと気に入って使っていた筆記具もそのままだった。そして社長室にはー。渉のデスクに貼られた、注意書きが書かれた付箋。〝昼食の時間は必ず守ること〟そして、胃の調子がいつも悪い渉の為の〝胃薬は一番上の引き出し〟や、〝必ずコップ一杯のぬるま湯で飲むこと〟といった細かいものまであった。そんな些細なものたちを、渉は一つも処分しなかった。いつだったか、気を利かせようと勝手にこの色褪せた付箋を新しくしようとした新人の秘書は、その場でクビになった。誰もが皆、触らぬ神に祟りなし、と渉のものには手を触れることも、余計な口出しをすることもなくなった。そんなある日ー。雪の降る深夜、冬馬は渉からの電話で急いで書類を届ける為、会社に向かった。シン…とした廊下を抜けて社長室をノックしたが反応がなく、そっとドアを開けると、そこに渉はいた。彼は疲れたように椅子にもたれ、その目を閉じていた。眠っているのかと静かに部屋の中に身体を滑り込ませ、冬馬は持ってきた書類を置いた。何か上掛けを…と近づくとー。彼はその手に一本のマフラーを大事そうに握りしめていた。淡いベージュ色の、暖かそうなマフラーだった。お気に入りだったのか、何度も洗われたことがわかる、少しくたびれたものだった。冬馬は覚えていた。あれは、香織が使っていたものだ。彼女は冬になると毎年あれを使っていた。冬馬がじっと見つめていると、渉の手がふいにそれを優しく撫でた。「
香織は立ち止まって彼を迎えた。渉は冬馬を連れて近づいてくると、にっこりと笑って胸ポケットから薄っぺらい封筒を取り出した。「気に入るかな?」そう言って差し出されたそれは、中身が入っているのか分からないくらいの薄っぺらさだった。「何ですか?」香織が受け取って中の物を取り出すと、それは可愛らしい動物が描かれた数枚の栞だった。「……」香織は一目で気に入った。でもそれをまた封筒に戻し、渉の手に返した。「受け取れません」「なぜ?」「理由がありません」「理由…ね…」渉には、彼女がこれを気に入ったことがわかっていた。見た瞬間に彼女の瞳が輝き、口元も嬉しそうに弧を描いたからだ。それなのに〝理由がない〟なんてね。そう思ってクスッと笑ってしまった。「何ですか?」ムッとしたように問いかけてくる眼差しも、ほんの少し尖った唇も、何もかもが彼の笑いを誘った。彼は言った。「だって、本を読むのが好きだろう?君も。龍牙くんも」「……」その言葉に、香織は眉をひそめた。なぜこの人はこんなにいろいろ知ってるの?好きな花の種類といい、読書の趣味といい。龍牙のことまでー。あの子とは大学で会っただけなのに…。香織は、知らず自分や家族のことを調べられてるのかと疑い、その瞳に嫌悪の気持ちを乗せた。「これ以上、こんなことはしないでくださいと申し上げたはずです」「大したものじゃない」金額の問題じゃないの。香織はチラリと陰から自分たちを覗く人たちを見て、うんざりした。はぁ…また噂されちゃう…。そう思うと、目の前の渉をひどく憎らしく思った。「とにかく、困るんですっ」