LOGIN一言も返さない私を見て、隼人の態度が急に変わった。怒りと焦りが、そのまま声に滲む。「離婚、離婚って簡単に言うけどさ……お前、離婚したらどこ行くんだよ。結婚のとき実家ともめたの、忘れたのか?子ども産まれたら誰が面倒見るんだよ。育てられるほどの金、あんのかよ?せっかく楽に暮らせてんのに、なんで自分から苦労しに行くんだ?!……ほんと、調子に乗るなよ!お前なんて、俺がいなきゃやってけないだろう……」醜く歪んだ顔がこちらに向けられる。愛の末路は、いつもこうして憎しみに変わる。どれだけ仲のいい夫婦でも、別れる瞬間はみじめで、汚く、どうしようもないものだ。私は静かに口を開いた。「愛の違いって、分かる?」その質問に、隼人が口をつぐむ。私はまっすぐ彼を見つめた。「私の両親は、本気で私の幸せを願ってた。嫌われてもいい。恨まれてもいい。それでも私を幸せにしようとしてくれた。でも、あなたの愛は違う。あなたの愛は、飴に包まれた毒だった。うれしそうにかじって、その甘い殻が溶けきったとき、ようやく気づく。心の奥底まで滲む苦みと、死ぬほどの痛みを。それと、子どもの心配はいらないよ。弁護士にも、もう相談済みだ。——不倫した側は、慰謝料を払わないといけないって。しかも、先週あなたが買ってくれたあのマンション、私に贈与したよね?だから財産分与には入らないって……ありがとう。そういえば、つきよちゃんは、あの部屋ほしがってたよね?ふーん、貸してあげてもいいけど……家賃は高くするよ」「……お前……いつからそんな腹黒くなったんだ……」歯を食いしばりながら、隼人は吐き捨てるように言った。「あなたのおかげだよ」これ以上、彼と付き合う理由なんて、もうどこにもない。兄がアクセルを踏み込み、今までのすべてを後へ投げ捨てるように走り出した。バックミラーには、膝から崩れ落ちている隼人と、何かを叫び続けるつきよの姿が小さく映る。けれど、それはもう——私には関係ない。今日からは、全部やり直しだ。……それは全部、あとで聞いた話だ。あの大騒ぎのあと、佐藤家は街中の噂になり、隼人の母は毎日のように泣き崩れたらしい。そのくせ、隼人の母が事件の張本人であるつきよだけは息子の嫁として認めなかった
義母が、作り笑いを引きつらせながら私の手を握ってきた。「恵美、うちはね、そんなにひどいことしてないでしょう?家だって、ちゃんと買ってあげたのに……それに隼人だって……男なら、ああいう過ちを犯すものなのよ。そんなに大騒ぎしちゃって……これからどうやって暮らしていくの?どうやって顔を合わせればいいの?」一瞬の躊躇もなく、私はその手を振り払った。「いい男なんて、この世にいくらでもいる。よりによって、なんでこんなクズ男に縛られなきゃいけないわけ?」顔をゆがめた義母に、つきよがすかさず腕を取って寄り添い、わざとらしくため息をついた。「怒っちゃだめですよ。こんな恩知らずの女のことで体なんて壊したら、ほんともったいないですよ。それに……えみさん。夫をつなぎ止められないのは——あなた自身にも原因があると思いますけど?」——バシッ!乾いた音がホールに響いた。つきよが顔を押さえたまま、呆然と私を見る。「な、殴った……?こ、この私に?」「はぁ?いけないの?」袖をまくり上げ、私はつきよの髪をつかんだ。そのまま左右から、容赦なく頬を叩きつける。バシッ、バシッ、パシンッ——!念入りにセットされた髪は一瞬でほどけ、口元から血が滲んだ。「……えっ?」しばらく呆然としていたつきよが、次の瞬間、突き上げるように悲鳴を上げた。「隼人さん!!助けて!!この女、本気で殺す気だよ!!」隼人が飛び込もうとした瞬間、兄の拳が、すさまじい音を立てて隼人の頬に入った。「てめぇ……妻より愛人の方を選んだよな!この人間以下のクズが……よくも俺の妹をもらったな!!」兄の声は、底が見えないほど冷たかった。片手で隼人を押さえ込み、もう片手でつきよを床に押し戻した。「えみ、好きに殴ってろ。こいつらが手を出したら、俺がまとめて黙らせる」その話を聞いたとたん、つきよが必死にもがきはじめ、兄の手に噛みついた。兄が思わず手を離した、その瞬間——つきよの掌が、大きく振りかぶられて私に迫る。顔に当たる刹那、私はすっと身を沈めた。——バチィンッ!!つきよのビンタは、そのまま見物していた義母の顔面に直撃した。義母は大学の元教授。ずっと尊敬されてきて、誰かに叩かれたことなんて一度もなかったはずだ。だから固まっ
ちょうどそのとき、隼人とつきよが並んでダイニングホールに入ってきた。ふたりとも、妙に楽しそうに喋っていた。「えみさん!お久しぶりです。隼人さんがね、『えみさんに呼ばれた客だから、迎えに行かなくちゃ』って、わざわざ車出してくれたんですよ。そんなことで、怒ったりしませんよね?だって、えみさんって、いつもやさしいですもんね?」口では申し訳なさそうに言っているくせに、その視線には、隠そうともしない勝ち誇りがにじんでいた。席に着くと、つきよはわざとらしく義母を押しのけ、隼人の隣へすべり込む。そのあからさまさに、親戚たちは顔を見合わせ、空気が一瞬きしむほど固まった。隼人ですら、露骨に気まずそうだ。けれど私が何も言わないので、まあいいかと、みんなはその場を流してしまった。ただひとり、兄だけが険しい顔をしていた。私は兄にそっと目で合図を送り、湯呑みを手にして立ち上がった。「お酒は飲めませんから、お茶で失礼いたします。それと……せっかくのめでたい時期に、こうして皆さんにも集まっていただいたので、いろいろ気持ちを伝えさせて頂きたいと思います一緒にかんぱいを三回しましょう。一杯目は……つきよさんへ。新居の件、本当にお世話になりました。あなたが走り回ってくれたおかげで、私と隼人の結婚生活も順調に始められました」テーブルの下で隼人の脚と絡ませていたつきよは、自分の名前が出た瞬間、びくりと跳ねた。勢いよく立ち上がった拍子に足を取られ、危うく前につんのめる。義母の顔が、みるみる沈んでいく。嫁が、義母である彼女を差し置いて、まず他人の女に杯を向けるなんて——この場では、考えられないほどの非常識だ。けれど私は気にも留めず、ふたたび杯を掲げた。「二杯目は……私の夫、隼人へ。妊娠中の私が大変だろうって、つきよさんを連れ回して発散してたみたいですので……本当に——思いやりのある、いい夫です」「へぇっ!?」驚きの声が、場のあちこちで同時に上がった。隼人の顔は、赤いどころか、どす黒い紫へと変わっていた。血管が浮き上がり、目は大きく見開かれ、「信じられない」と口だけがかすかに震えている。私に殴りかかろうとしたその腕を、兄が無言で押さえ込んだ。「慌てないで。まだ三杯目がありますから」その場に立っ
隼人は、つきよの額にそっと唇を寄せて、髪を静かに撫でた。「最初は俺も焦ったよ。今日のあれ、わざとじゃないかって。でも……恵美の性格、知ってるだろ?もし気づいたなら、あんなふうに落ち着いてるわけないさ。笑って俺と一緒に晩ご飯食ったのよ」「……まあ、それは、そうよね」ほとんど聞こえない声で、つきよはつぶやいた。「あんなの……耐えられるわけないもん。 ぜんぶ……偶然、だよね?」その一言に、隼人がわずかに眉をひそめた。ほんの一瞬、言葉にできない不安がその顔にかすめる。けれど——つきよの長い指が、その胸元をゆっくりとなぞっている。その一瞬の感触に気を奪われ、隼人はそれ以上考えるのをやめた。つきよの腰を抱え上げ、そのままホテルの中へと姿を消した。——どうせ恵美のお腹には、赤ちゃんがいる。簡単に暴れたりするはずがない。そんな傲慢さが、背中越しに透けて見えた。私は無表情のままスマホを持ち上げ、二人の姿を静かに録画した。そして、撮り終えた動画を、そのまま弁護士へ送信した。用は終わった。アクセルを静かに踏み込み、私は家へ戻って眠ることにした。——妊娠後期の中絶は、体に大きな負担がかかる。だから今は、体力を無駄に削るわけにはいかない。そんなことを考えているうちに、隼人がいつ帰ってきたのかすら、私は気づかなかった。……翌朝の食卓で、私は何でもない顔で声をかけた。「新しい家、買ったんだし……お祝いしよ?みんな呼んで、ホテルでダイニングホール取ったらどう?だいぶ集まってなかったし……ね?」その話に、隼人は嬉しそうに笑った。「恵美がそうしたいなら……うん、いいよ。なんでも」——そう、私は嬉しいなら、自由に何をしてもいい。私が元気になったら赤ちゃんもきっと元気になる。それだけで、彼は安心する。彼はいつもこう言っている。その「安心」はいつまで続けるかな。そのまま表情ひとつ変えずに、私はスマホを軽く叩き、つきよにひと言を送った。【この前の新居祝い、来れなかったでしょ?今度も集まりがあるから……よかったら、来てくださいね】彼女はきっと、これを堂々と隼人を奪って、私に見せつけるチャンスだと思うだろう。そう思わせるように、ずっと振る舞ってきたのだから。そしてその
長いあいだ、私は黙っていた。椅子の肘置きを握りしめ、ゆっくり立ち上がった。帰る間際、先生にだけはお願いした——「……隼人には言わないでください。中絶のことを、絶対に」まだ片づけなきゃいけないことが、いくつも残っている。……帰りのタクシーで、隼人の投稿をすべて保存し、ひとつのフォルダにまとめた。弁護士にも、もう相談済みだ。——本人のアカウントと証明できれば、はっきりした不倫の証拠になる。調停なら、六割以上の財産分与も狙える。それに顔が映っている動画や写真がさらに強い証拠になれそう。私自身の財産は、そもそも分与の範囲に入っていない。そしてこの子のほうは……お金さえ払えば、受けてくれる私立クリニックなんていくらでもある。私はそれほどのいい人ではない。あのクズの子どもを産んで、一生なにも言わずに育てるほど強くもない。それで終わらせるのは、私にとっても、この子にとってもきっと正しい。……家のドアを開けた瞬間、温かな匂いがふわりと漂ってきた。エプロン姿の隼人が、キッチンから急いでこちらへ駆け寄ってくる。「手、洗おうか」そう言いながら、私に着替えを手伝って——そのまま食卓へと。席に腰を下ろした私の前に並んでいたのは、どれもこれも、私の好きなものばかりだった。時計を見ると、もう夜の八時近い。「今日は、ナイトラン行かないの?」そう訊ねると、隼人は小さく首を振り、れんこんたっぷりの豚汁を湯気ごと私の前に差し出した。「もう行かないよ。また何かあったらどうするんだよ」いつもは向かいに座る彼が、今日は椅子を隣へ寄せて、私の横顔をじっと見つめている。まるで何かを確認しているみたいに。豚汁を飲み干して、私はほっと笑った。「またうまくなったね」その一言に、張りつめていた隼人の肩が、ふっと下がった。食器を片づけたあと、彼はいつものように、優しくマッサージをしてくれた。その手つきは変わらないのに、もう前みたいには戻れない。……深夜。隼人が、そっとベッドを抜け出した気配で目が覚めた。薄く目を閉じたまま耳を澄ませると、足音が寝室から少しずつ離れていく。完全に気配が消えたところで、私は静かに目を開き、枕元のスマホを取った。時刻は、午前一時二十三分。外で、エン
産婦人科の須藤海子(すとう うみこ)先生が、いつもの明るい笑顔で声をかけてきた。「恵美さん、今日はひとりですか?隼人さんは?いつもなら必ず一緒でしたのに……こんな週数になって、逆に見なくなるなんて珍しいですねぇ」妊娠が分かってから、隼人は一度も妊婦健診を欠かしたことがなかった。しかも来るたびに、決まってフルーツや菓子折りを手土産に持ってくる。「先生たちも疲れてるだろ?少しでもおいしいもの食べれば、妻にも優しくしてくれるでしょ?」あのときの隼人は、まるで「理想の旦那さん」の見本みたいに振る舞っていた。気づけば、私たちは先生とすっかり顔なじみになっていて、この子の性別も、こっそりと教えてくれた。私の、かわいいプリンセスだった。でも今回は……椅子にもたれ、私は目を閉じてから、ようやく声を絞り出した。「……須藤先生。今日は健診ではなく、中絶の相談に来ました」「うん、中絶ですね…………ちゅう、……?……中絶!?」思わず大きな声を上げてしまった須藤先生に、待合室にいた妊婦さんたちも一斉にこちらを見つめた。慌ててドアを閉めた先生の顔からは、さっきまでの笑顔が跡形もなく消えていた。代わりに浮かんでいたのは、事情を察した人だけが向ける、深い同情だった。産婦人科医という仕事柄、心が折れた妊婦を何度も見てきたのだろう。だから私が何を抱えているのか、聞かずとも分かったのだ。それでも、先生は迷うように口を開いた。「……恵美さん。何か……誤解ではないでしょうか?隼人さんはね、本当に……私が見てきた中でも、いちばん良い旦那さんで……」どうやら、隼人まで浮気することを信じられないのは……私だけじゃないらしい。胸に溜まった痛みを、もうこれ以上噛みしめたくなかった。だから私は、ただ「産みたくない」とだけ、先生に伝えた。その瞬間、先生は、きゅっと眉を寄せた。「……恵美さん、私ね、隼人さんの味方をするつもりはありません。でも、倫理的には、この赤ちゃんはもう……ひとりの人間として認められているのですよ。だから、よほどの奇形がなく、母体に重大なリスクもない限り……中絶は認められません」その瞬間、怒りが跳ね上がった。おかしくないか。どれだけ踏みにじられても、裏切られても、妻は産むしかな