LOGIN私の誕生日。その日に婚約者から贈られたのは、スーパーのポイントで交換したという、薄っぺらなゴム手袋だった。 その同じ夜、彼はオークション会場で、初恋の女のために一億円の値がつく宝石を競り落とそうとしていたらしい。 当然、私は怒った。けれど彼は言った。 「俺の金で生活させてやってるんだ。家事くらい完璧にこなして当然だろ?これは結婚前、お前が俺の妻にふさわしいかどうかの最後の試練だったんだぞ。ああ、本当にがっかりだよ」 あまりの言い草に、私の方から別れを叩きつけてやった。彼は待ってましたとばかりに、その足で初恋の女にプロポーズしたそうだ。 それから五年、私たちは、眩しい太陽が照りつけるリゾートアイランドで、再会を果たした。 作業服姿の私がプライベートビーチでゴミを拾っているのを見つけるなり、元婚約者―宮根幸樹(みやね こうき)は、あからさまに嘲りの笑みを浮かべた。 「青山理嘉(あおやま りか)じゃないか。あの時、俺がやった手袋を馬鹿にしたくせに、今じゃビーチのゴミ拾いか。いい様だな。 言っとくが、今さらお前にどんなに泣きつかれたって、もう見向きもしてやらないからな」 私は、そのみっともない独り言を吐き続ける彼を、完璧に無視した。 だって、これは息子の社会科の宿題。「親子で自宅のお庭掃除をしましょう」という課題だ。 ……ただ、問題がひとつ。どうやら息子のパパが、張り切って「庭」を海岸線まで拡張しちゃったらしくて。掃除範囲が広すぎて、マジで大変だ。
View Moreこれで、本当に全て終わりだと思っていた。だが、数日後の退勤時。会社の通用口で、私はまたしても見慣れた姿を見かけた。「理嘉……」幸樹の目は血走り、その精神状態は以前とは程遠いものに見えた。ボロボロのスーツをまとった姿は、かつての自信に満ち溢れた彼とは、まるで別人だった。あの島を離れた後、彼に何があったのかは、私にはわからない。彼は、分厚い一冊のノートを、私の前に差し出した。「これを、覚えてるか?」ノートを開くと、どのページにも、丁寧に作られたバラの押し花が標本のように貼り付けられていた。「お前がくれたバラは、全部取ってあるんだ。枯れるのが怖くて、こうしてノートに挟んだ。ほら、こんなに綺麗だろ」幸樹が、必死に弱々しい笑顔を作った。「お前は言ったよね。『このバラが枯れない限り、絶対笑顔でいる』って……だから、もう一度、やり直そう」私は足を止めず、淡々と言った。「もう意味ないわ。捨ててちょうだい。私たちには、もう必要のないものよ」「待ってくれ!」幸樹が後ろから私の腕を掴もうとする。「志津香のことを気にしてるのか?あの女はもう追い出した!二度と俺たちの前に現れない!」私は足を止め、ゆっくりと振り返った。「幸樹。志津香がどんな女だろうと、もう関係ない。でも子どものことは、見捨てられないでしょう。子どもはまだ小さいのに、母親がいないなんて可哀想だわ」「な……何の子供だ!?俺に子供なんていない!」「五年前のあの日。志津香から写真が送られてきたの。病院での検査結果よ。『もう妊娠四ヶ月だ』って」私が説明した。「理嘉、あれは俺の子じゃない!違うんだ!」幸樹が、狂ったように叫んだ。「お前がいないと生きていけないんだ!もし、もしお前が本当に俺を捨てるなら……」幸樹はまるで全てを投げ打つかのように、自分の命を盾に、私を脅してきた。「――今回こそ、死んでやる!」だが、今回ばかりは、私はもう、他人の運命に介入するつもりはなかった。「勝手にすれば」そう言い捨てて、私は二度と振り返らずにその場を立ち去った。それから、間もなく。ニュースで、路上で刃物を振り回した浮浪の女性が取り押さえられる事件を見た。その犯人の顔が、志津香だと気づくのに時間はかからなかった。彼女は公序良俗に反する行為で、そのまま精神病院に
「もういい加減にして」私がここで遮らなければ、洋平は、きっと半年は嫉妬の炎を燃やし続けるだろう。「自分で言ったじゃない。『二度と振り向かない』って。今になってそんな見苦しいことを言うなんて、自分の顔に泥を塗ってるのと同じよ」幸樹は明らかに焦っていた。言葉がみっともなく上ずる。「違うんだ、理嘉!あれは感情的になって言っただけで、俺は、ずっとお前を待ってたんだ!」私は深いため息をつき、静かに首を振った。「私はもう、妻であり母なの。あなたが私を待つ必要なんてない。あなたを心から愛してくれる女性を見つけて、結婚して……これでお互い、別々の道を歩みましょう」「そんなのいやなんだ!」幸樹が突然、激昂して叫んだ。「俺はもう二度と、お前以上に俺を愛してくれる女性には出会えない!待つよ、理嘉!お前が離――」その言葉が終わる前に、待ってましたとばかりに、洋平の拳が幸樹の顔面を捉えていた。「俺の目の前で、俺の妻の『離婚』を待つ、だと?」洋平の声は、恐ろしいほどに冷え切っていた。聞く者の背筋も凍る、氷のように冷たい声だ。「彼女を手に入れる方法は、ただ一つだけだ――俺を消すことだ。宮根社長、貴様にその実力と度胸があるのかどうか、今ここで見せてもらおうか」洋平は家が大金持ちすぎたせいで、子供の頃に何度も誘拐犯に狙われた過去がある。自衛のために、幼い頃から特殊な訓練を受け、格闘技もテコンドーも一流の腕前だ。本気で殴り合えば、間違いなく流血沙汰になる。今日はこんなに大勢のゲストとメディアがいるのに、明日の朝刊に「緒方社長、チャリティーパーティーで乱闘」なんて見出しが躍るのは見たくない。私は慌てて洋平の首に抱きつき、なだめるように言った。「もういいでしょ、あなた!こんなに人がいるんだから、メディアに撮られちゃうわ!」「メディア?」洋平が片眉を上げた。「俺のニュースを報道する『度胸』のあるメディアがあるなら、ぜひ見てみたいものだ。それとも、揃いも揃って職を失いたいのか?」その一言で、先ほどまでフラッシュを焚いていたメディア関係者たちが、一斉にカメラをしまった。この大物に本気で喧嘩を売る勇気のある者など、この国には誰もいない。「だが、理嘉。今日この男を徹底的に懲らしめなければ、俺は妻一人守れない『腰抜け』だと思われるだろう」……
志津香が、信じられないという顔で目を見開いた。幸樹の手を掴む力が、グッと強くなる。「幸樹……どういうこと?私は、あなたの婚約者よ?なのに、あの女の味方をするっていうの!?」幸樹は、もう何の感情も浮かべない目で、冷静に志津香を見つめた。「たとえお前が婚約者でも、お前を庇うために嘘をつくわけにはいかない」幸樹が自分の味方をしないと悟った志津香は、彼のスーツを掴んでいた手を力なく下ろし、乾いた嘲笑いを漏らした。「ハッ、わかったわ。全部、あの女のせいね。ヨリを戻したいんでしょ。まだそんなに未練があるなら、私は何なの?こんなに長く、あなたのそばにいたのに……私は、一体何だったのよ!」幸樹が、諦めたように首を振った。「そもそも五年前、理嘉にあのゴム手袋を贈って、彼女の本心を試せ、と提案したのはお前だ。俺は愚かにもそれに従って……そして、最愛の人を失った」幸樹は自嘲気味に笑う。「五年間、彼女を探し続けて、今やっとわかったよ。あの時の俺が、どれだけ愚かだったか」「愚か?」志津香が鬼の形相で前に出て、幸樹の襟を掴んで詰問した。「あの女と結婚する方が、よっぽど愚かよ!あの女は、ただの金目当てであなたと付き合ってたの!そうじゃなきゃ、あなたがうつで自ら命を断とうとしてた時に、わざわざ現れて慰めたりなんかすると思う!?」「彼女は優しかったんだ!俺を愛してくれてた!見返りなんて何も求めずに!お前みたいに、俺の血を吸い尽くそうとする強欲な女とは違う!」もうここまで来たら、幸樹も完璧なエリートの仮面を脱ぎ捨てた。長年溜め込んでいた志津香への不満を、全て吐き出す。「お前は、金持ちのオヤジのパトロンのために俺を捨てた!そのオヤジに遊び尽くされて、犬みたいに捨てられてから、俺のところに戻ってきた!付き合い直してからは毎日のように金をせびり、別荘を買ってやったら、今度はお前の弟にも家を買えと言い出した!」二人の罵り合いは、どんどんヒートアップしていく。志津香が、怒りに任せて幸樹の頬を平手打ちした。「じゃあ、最初から私と結婚する気なんてなかったのね!私といたこの八年間が、あの女といたたった三年に及ばないっていうの!?」幸樹は、なぜか苦笑して首を振った。「……いつから彼女が俺の心を占めるようになったのか、もう俺にもわからない。気づい
その一言で、ビーチ全体が水を打ったように静まり返った。空気は、まるで万年雪に覆われたかのように冷え切っている。「『緒方理嘉』という立場で特別扱いされたくない、という君の気持ちは尊重する。だが、やられ放題でいる必要もない。こういう時は俺の名前を出せばいい。俺が、ちゃんと君を守ってやるから」私は緊張でごくりと唾を飲み込んだ。なぜだろう、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。盗人扱いされた時も泣かなかった。元カレに侮辱された時も泣かなかった。それなのに……洋平が「守ってやる」と言ってくれた、その瞬間に、堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。私の目に涙が浮かんでいるのを見て、洋平が珍しく慌てた。すぐに私の頭を優しく撫で、あやすように慰めてくれる。「泣かないでくれ。俺が何か言い間違えたか?それとも、どこか痛むのか?」いつもは冷静沈着で、他人のことなど一切顧みない彼も、愛する妻の涙には勝てないらしい。洋平が必死に私の涙を拭っていると、周囲の人々が、堰を切ったようにざわめき始めた。「誰が雇ったのよ、あのウェイターと警備員!常識がなさすぎだわ!」「緒方夫人のお顔も存じ上げないなんて。ご自分の家の庭で、息子さんの社会科見学を手伝ってらしただけなんでしょう?それを清掃員扱いするなんて……」警備員が、手のひらの汗を必死に拭いながら、硬い表情に愛想笑いを貼り付けて近づいてきた。「お、緒方社長……これは、すべて誤解であります!こちらの方が緒方夫人だとは露知らず、てっきり……」「――てっきり、俺の妻が泥棒だとでも思った、と?」洋平の、私を抱いていない方の手が、音もなく固く握りしめられた。警備員は言葉を失い、ただひたすら「申し訳ございません」と頭を下げることしかできない。「緒方社長、今回は我々のミスです!どうか、どうか大目に……!」「ほう?」洋平が目を細めた。「俺は、そんなにお人好しに見えるとは知らなかったが」警備員は、今度は私に哀願の目を向けてきた。「緒方夫人!本当に申し訳ございませんでした!我々が愚かでした……!どうか緒方社長を説得して、我々の上司に報告しないよう、お願いできませんでしょうか!」私はその懇願を無視し、静かに首を振った。私がしたくないわけじゃない。目の前の男は、一度決めたことを、他人の涙でそう
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