LOGIN椎名育也(しいな いくや)と結婚した望月絵里(もちづき えり)は、お嬢様生活を捨て、夫と息子のために全てを捧げてきた。 だが、どれだけ尽くしても報われることはなく、むしろ犬扱い。 最期の瞬間に、絵里が聞こえたのは息子の歓声──「やった!ママ死んだ!これでやっと颯花さんを堂々と迎えられるのだ!」 絵里はようやく悟った──いわゆる「真心には真心が返る」なんて、まったくの嘘だった! 生まれ変わった絵里が、冷ややかな夫と息子、そして図々しい顔をしている夫の幼馴染・小林颯花(こばやし さやか)を見つめ、にやついて宣言した。 「椎名家夫人の身分も、旦那も息子も、全部譲るわ」 そう言って、財産も要らず、さっぱり離婚。夫も息子も、もうこりごりだった!
View Moreそうと決めた途端、颯花は迷いなくスマホを取り出し、椎名家の連絡先をすべてブロックした。作業を終えると、彼女は逃げるように病院を後にした。……育也は、とても長い夢を見た。夢では、絵里がいつもと同じように、温かい食卓を整えて彼の帰りを待っていた。「お帰りなさい。今日は、お好みの料理を用意したの。いっぱい食べてね」ふわりと微笑むその顔は、あまりにも懐かしい。確かめるみたいに、育也は彼女を抱きしめた。——ああ、あたたかい。「ごめん……悪かった。絶対に、一人にはしない……だから、もう……消えないでくれ……」失って、やっと気づいた。だからこそ、二度と手放したくなかった。絵里の首元に顔を埋め、泣きながら、ただ強く抱きしめた。戻ってくれたんだ。戻ってきてくれて、本当によかった。今度こそ、何があっても、この手は放さない。やがて、涙が落ちて肩を濡らした頃。絵里はそっと育也を押し離し、どこか不思議そうに首をかしげた。「何があったの?離れたりなんてしないよ。だって……ずっと一緒だもん」甘い言葉に、胸がぎゅっと締め付けられた。「……それ、本当か?」「もちろん、本当だよ」微笑む絵里の顔が、夢のように優しい。涙をぬぐい、育也はその手を強く握りしめた。「それじゃ、約束だ。俺たちは、永遠に一緒なんだから」……三年後。まぶしい光に目を細めながら、育也はゆっくりとまぶたを開いた。「……ここは……どこだ?」あまりにも突然な声に、ベッドの横でカルテを確認していた看護師は、一瞬だけ呆然としたあと、慌てて廊下へと飛び出していった。「椎名様が目を覚まされました!」声が遠ざかる中、育也はベッド脇に立つ少年と視線を合わせた。「瑛多……なのか?俺は……どれくらい、眠ってた?」昔の幼さがほとんど消え、記憶の輪郭から少しずれた少年は、しばらく黙ってから無表情のまま答える。「三年だよ。あの事故のせいで、父さんは三年間、ずっと眠ったままだった」そして、淡々と続けた。「そのあいだに、母さんは別の男と結婚した。颯花さんは父さんを捨てて、どこかへ消えた。誰も、帰ってこなかった」語れば語るほど、少年の声が震え始めた。「全部……全部、父さんのせいだ!母さんとやり直したいなんて思わなければ
これ以上、ここにはいられない。背を向け、そのまま離れようとする絵里。その動きを目にした育也は、慌てて服を引っ掴み、彼女の前に立ちはだかった。「違うんだ……本当に!どうしてこうなったのか、俺にも分からないんだ。今日は酔ってて……瑛多に部屋まで運ばれて、それで……気づいたら、こんな……どうしても信じられないなら……瑛多に直接聞いてくれ。あいつは、嘘なんてつかないから……!」聞けば、それは必死に縋りつくようなものだった。それなのに、絵里の瞳は、氷みたいに冷えきっていた。「誰よりも正気な目をしてるくせに、酔ってただと?そんなくだらない言い訳、もう聞き飽きたよ。お二人で好きに幸せになればいい。だからもう二度と、私に関わらないで」そう告げると、絵里は立ち尽くした男をすり抜け、そのまま姿を消した。——その夜を境に。育也の連絡手段を、絵里はひとつ残らず切り捨てた。会社に押しかけても、警備員に止められ、顔さえ見せなかった。……そして、三ヶ月後。絵里の知らせを、育也が耳にしたのは、それが初めてだった。秘書が慌てて駆け込んできて、喉に何か詰まらせたような声で言った。「社長、奥様が……今日、桜井社長のプロポーズを……受けたそうです」ガシャンッ。手にしていたグラスが床に落ち、砕け散った。育也は弾き飛ばすように立ち上がり、秘書の襟を掴み上げる。「今は……どこだ!」「東町の……シティホテルです……」返答を聞いた瞬間、育也は秘書を突き放し、車のキーを掴んで飛び出した。待っていろ。間に合えば、まだ終わっていない。終わらせてたまるか。アクセルをベタ踏みし、彼はこの街を爆走する。信号なんて目に入らない。——ひとつでも遅れたら、もう永遠に届かない。ただ、それだけが彼を支配していた。だから気付けなかった。前方の交差点で、一両の大型トラックが操作を誤り、獣のように突っ込んでくるのを。タイヤが悲鳴を上げ、空気が裂けた。次の瞬間、鈍い轟音と共に視界が白く弾ける。車体が宙を舞う。育也の頭がハンドルに叩きつけられ、世界が遠のいた。……事故の報道を見た颯花は、慌てて病院へと駆け込んだ。しかし医者の言葉が、最後まで抱えてきた希望を粉々に打ち砕いた。「……残念ですが、意識の回復
少しは迷ったものの、やがて覚悟を決めたように、瑛多は小さくうなずいた。数分後。彼は水の入ったコップを両手で抱え、ソファに沈み込んだパパの前へそっと差し出す。「パパ……お水、飲んで」その声に、育也はゆっくりと目を開いた。胸の奥に痛みが沈み込み、呼吸がふっと止まりかける。それでも、かすむ視界の中で、目の前にいる小さな息子にだけは、微笑みかけることを忘れなかった。「……瑛多、いい子だな」コップを受け取り、そのまま一気に飲み干す。「もう遅いし……先に休んでくれ」しかし瑛多は、しがみつくように首を振った。「パパも休んで。部屋に連れて行く」その言葉に、育也はようやく笑うような表情を見せた。「そうか……じゃあ、頼む」酔いでよろめきながら、瑛多の肩に手を置いて階段へ向かっていった。影のように後へついてきた颯花に、育也はまったく気づかなかった。……二人が部屋に入るのを確認したあと、瑛多は廊下の暗がりでじっと待ち続けた。——三十分後。彼はスマホを握りしめた。「ママ、来て……!足が……足が痛いよ……!」向こうから響いてきた泣き声に、絵里の心がえぐられた。「どうしたの!?パパは?そばにいないの?」瑛多は必死にしゃくりあげた。「まだ帰ってない……僕ひとりで……こわい……ごめんなさい……もう二度と……ママを怒らせないから……だから……来てくれないかな……?」考える暇なんてなかった。絵里は上着を掴み、ほとんど駆け出すように玄関へと向かった。「どこにいるの?すぐ行くから!」瑛多が伝えた場所にたどり着いた彼女は、ドアを叩こうとして息を呑む。——扉が、わずかに開いていた。まるで、わざとそうしたみたいに。胸の奥が不気味に冷える。絵里はそっと押し開け、中へと足を踏み入れた。リビングは暗い。子どもの気配はない。「……瑛多?どこにいるの……?」返事は、どこからも返ってこなかった。不安が喉元までせり上がり、スマホを取り出そうとした、その瞬間。——二階から、かすかに音がした。何かが揺れる音。絵里は顔を上げた。階段の先、中央の寝室だけがぽつりと明かりを灯している。嫌な想像が、皮膚の下を這い回るように広がった。足が勝手に動き、彼女は寝室の前へたどり着く。
宴会から戻ってきたあと、育也は魂が抜けたようにソファへ崩れ落ちた。手にしていたボトルを無造作に傾けて、残っていた酒を一気に飲み干す。五年間。いつだって自分の後ろを追いかけ、「愛してる」と五年間も言い続けてきたその女が——その口で、他の男を好きになったと言った。ついこの前まで、温かい食事を用意し、帰りを待っていてくれたというのに。結婚してから五年間。どれだけ突き放しても、先に折れるのはいつも彼女のほうだった。なのに、いつからだろう。彼女がもう自分に寄り添わなくなったのは。残業が続いても心配する気配すらなくなったのは。自分を見る目も、あれほど愛しさに満ちていたのに……気づけば、氷のような冷たさになっていたのは。それらに気づいたのは——あまりにも遅すぎたのだ。片手で顔を覆うと、こぼれた涙が育也の頬を静かに伝って落ちた。それは、深い底なしの海へと静かに沈んでいくような感覚。後悔と無力感が胸を締めつけ、息さえまともにできないほどに。今回は本当に……彼女を失ったのかもしれない。全部夢ならいいのにと、何度願っても現実は冷酷なまま。今さら後悔しても、もう……——もしもう一度やり直せるなら、絵里だけは、絶対に手放さない。絶対に。生まれて初めて見たパパの惨めな姿に、瑛多は思わずその手を必死に握りしめた。「パパ、こんな顔やめてよ……こわいよ……」だが、その小さな手は乱暴に振り払われ、次の瞬間、酒瓶が床へと叩きつけられた。鋭い音が室内に弾ける。「黙れ!俺に構うな!」咆哮のような声に、瑛多の体がびくりと震えた。それきり声が出なくなり、ただ怯えた瞳でパパを見つめることしかできなかった。颯花さんは言っていた。自分が言われたとおりにすれば、ママが戻ってくるって。なのに……どうしてこんなことになっちゃったの?膝を抱え、小さく丸まった瑛多はソファの端に座り、黙ったまま育也の傍に寄り添った。窓から差し込む銀色の光が、床に二つの影を落とす。大きな影も、小さな影も。どちらも、ひどく寂しげだった。……翌日から。育也は本気で後悔したのか、毎日のように絵里の会社へ現れては許しを乞うた。彼女を取り戻すために、ネットで「ロマンチックな告白」とやらを検索し、必死に真似ようともした。
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