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昔の笑顔、遠くなりし夢

昔の笑顔、遠くなりし夢

作家:  心原蔵之完了
言語: Japanese
goodnovel4goodnovel
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概要

転生

愛人

ひいき/自己中

クズ男

不倫

スカッと

後悔

椎名育也(しいな いくや)と結婚した望月絵里(もちづき えり)は、お嬢様生活を捨て、夫と息子のために全てを捧げてきた。 だが、どれだけ尽くしても報われることはなく、むしろ犬扱い。 最期の瞬間に、絵里が聞こえたのは息子の歓声──「やった!ママ死んだ!これでやっと颯花さんを堂々と迎えられるのだ!」 絵里はようやく悟った──いわゆる「真心には真心が返る」なんて、まったくの嘘だった! 生まれ変わった絵里が、冷ややかな夫と息子、そして図々しい顔をしている夫の幼馴染・小林颯花(こばやし さやか)を見つめ、にやついて宣言した。 「椎名家夫人の身分も、旦那も息子も、全部譲るわ」 そう言って、財産も要らず、さっぱり離婚。夫も息子も、もうこりごりだった!

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第1話

第1話

椎名育也(しいな いくや)と結婚した望月絵里(もちづき えり)は、お嬢様生活を捨て、夫と息子のために全てを捧げてきた。

だが、どれだけ尽くしても報われることはなく、むしろ犬扱い。

最期の瞬間に、絵里が聞こえたのは息子の歓声──「やった!ママ死んだ!これでやっと颯花さんを堂々と迎えられるのだ!」

絵里はようやく悟った──いわゆる「真心には真心が返る」なんて、まったくの嘘だった。

生まれ変わった絵里が、財産も要らず、さっぱり離婚。夫も息子も、もうこりごりだった!

……

「お望み通り、椎名育也と離婚するわ。今後、あの男はあなたのものよ。息子も」

カフェで、絵里は無表情で離婚届を小林颯花(こばやし さやか)に差し出した。「ただし、この書類は颯花さんが持っていってサインをもらってきてちょうだい。私が渡せば、あの人は承知しないから」

「身一つで離婚して家を出ることになってもいいの?」颯花が信じられない様子で聞いた。

フン、ウケる。

身一つって?

絵里は椎名家で、もともと何一つ持っていなかったのだ。

「ええ、喜んで」

その口調は、朝ごはんのメニューを話すように平坦だ。

「絵里さん、わざと身を引くフリ?」

颯花は眉をひそめて言い放った。「あの時私が海外に行って育也君とすれ違わなきゃ、あんたが椎名家の夫人になるはずなかったんだよ。そんな小手先の真似、やめたほうがいいわ」

「本気だって言ってるでしょ」と絵里は繰り返した。

颯花は書類をじっと見つめ、「じゃこっちも喜んでもらうわ」

颯花は絵里の目の前で電話をかけ、相手が応答するやいなや、べったりとした甘い声で言った。「育也君、今会社のカフェにいるの。ちょっと助けて欲しいことがあるんだけど、来てくれない?」

たちまち、10分とも経たずに父子が来た。

二人の視線は絵里という存在を微塵も認めないようにただ通り過ぎ、まるで空気でも見るようだ。

絵里は冷淡な苦笑いを浮かべた。目の前で、息子の瑛多(えいた)が颯花に抱きついた。「颯花さん、会いたかったよ!」

その熱烈で従順な様子は、颯花のほうが実母であると言わんばかりだった。そして瑛多は絵里に鋭い一瞥をくれて聞いた。

「颯花さん、ママに意地悪されてない?」

育也も、絵里に警戒の眼差しを向けた。その言動の端々に、まるで彼らこそが家族であり、絵里は余所者であるようだ。

絵里は、自分がもう涙も流せないほど傷ついたと思い込んでいた。だが、育也の冷たい目線と瑛多の憎たらしい表情を見て、拳を強く握りしめ、心臓が締め付けられるように痛んだ。

ここ半月、どれだけ泣いて哀願しようが、育也は一度も家に帰ってこなかった。息子は、彼女の世話より、保育園に預けられる方を選び、彼女に迎えに来てもらうことすら嫌がっていた。

なのに、颯花のたった一本の電話で、二人はすぐに駆けつけた。

五年間の結婚生活……絵里はいったい何だったんだろう。

颯花はかばんから書類を取り出し、育也に手渡した。「育也君、弟が結婚するんだけど、資金が足りなくて……」

育也は一秒の躊躇もなく、高級ペンでサインした。

「そんな遠慮はいらない。言われなくても小林健一(こばやし けんいち)に家を買ってあげるつもりだ。叔父さんの体調も思わしくないし、叔母さんもご高齢だし、君に余計な負担をかけたくないからな」

颯花は照れくさそうにうつむいた。「育也君……私の事、そんなに大切に思ってくれてありがとう」

絵里の胸は、締め付けられるような痛みに襲われた。

あの寵愛に満ちた笑顔……彼が絵里に微塵たりとも見せたことのない優しさ。

「育也、これがもし、私との離婚届だったら?」

彼の顔は一瞬で凍りついた。「言っただろう。颯花さんは互いを理解し合う特別な存在だ。くだらない嫉妬はよせ」

絵里は立ちすくんで、激痛に押しつぶされそうだ。もう限界。ここでもういられない。必死で感情を抑え、なんとか涙をこらえた。

すると瑛多が、彼女の苦悶の表情を怒りと勘違いして、不機嫌そうに呟いた。「ママってケチ!颯花さんがママだったらよかったのに。颯花さんは絶対にこんなにケチじゃない!」

悲しみのあまり、絵里は笑いがこみ上げ、涙で曇った目であの親子を見つめた。

育也はその痛々しい表情に一瞬動揺したが、すぐに冷たく言い放った。「大人しくしてくれ。先に帰ってくれ、瑛多と用事があるから」

絵里が返事する前に、育也はすでに颯花に視線を移し、たちまち口調を柔らげた。「瑛多が今日は君と遊園地に行きたいって。もうチケットも取ってあるから、行こうか」

颯花は目を細めてにっこりした。「二人とも先に車で待っていてくれる?私、すぐに行くから」

彼らが去るのを見届けると、勝ち誇ったドヤ顔で颯花が絵里を見た。

颯花は書類を絵里に投げつけ、見下すように言い放った。

「分かったよね、あんたは育也君にとって、どうでもいい存在なのよ。あ、そうだ、忘れないでね、身一つで出て行くって。椎名家からもらったものは、針一本も持って出られないよ」

カフェの外では、育也と瑛多が颯花を待ちわびている。

夫は颯花の乱れた髪の毛を整え、息子は嬉しそうに彼女の手を繋いだ。

窓越しに映る三人は、誰がどう見ても、ひとつの家族だった。

三人の姿が視界から消えるのを確認してから、絵里は棒のように立ち上がり、五年間も育也と共に暮らした別荘へと戻った。荷物を一つ一つ整理していく──スーツケース、衣類、そして……アルバム。

分厚いアルバムの表紙にはほこりがかぶっている。手で払いのけ、震える指でページを開くと、写真に写っている自分と息子の姿に、懐かしい記憶が一気に押し寄せてきた。

前世、二人は家同士の政略結婚で結ばれた。

絵里は知っていた――育也にとって、幼馴染が一番大事な存在だ。だから彼女は愛なんて期待していなかった。ただおとなしく、お互い敬意を払う仮面夫婦を演じ続けた。

けれど、彼がここまで自分を憎んでいるとは思わなかった。骨の髄までの憎悪だった。

彼が憎んだのは、彼女が「椎名家の夫人」の座を奪ったこと。彼女のせいで、颯花が居づらい立場になっていること。息子の瑛多でさえ、颯花に心を寄せ、ママの絵里には嫌悪の眼差しを向けるばかり。

夫の愛情も、息子の尊敬もなく、踏みにじられるだけの人生を、彼女は惨めに生き抜いた。

人生の二周目、絵里はついに目が覚めた。

手に入らない男は、もういらない。恩知らずの息子も、捨てる。

全部、きれいさっぱり手放してやる!

育也が颯花と結ばれたいなら、どうぞご自由に。

瑛多が颯花を母親と呼びたいなら、この母親の役も譲ってあげる。

彼女は苦笑いしながら、アルバムの中の数少ない写真を燃やした。揺れる炎に、涙ぐんだ目がちらりと光った。

絵里は手を上げてそっと頬の涙を払った。離婚が正式受理されるまでに時間がかかると知ると、スマホを取り出して航空会社に電話をかけた。

「もしもし、30日後のM国行きの航空券を一枚お願いします」その言葉が終わらないうちに、寝室の外から子どもの苛立たしげな声が聞こえてきた――

「ママはどこ?なんでご飯も作らないの?掃除もしてないし!ほんとダメだなぁ……颯花さんとは比べものにならないよ」
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コメント

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松坂 美枝
最後まで無責任なクズ父 最後まで無反省なクズ子 最後まで報いなしクズ女 主人公だけ幸せエンド◎
2025-11-23 10:02:01
0
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第1話
椎名育也(しいな いくや)と結婚した望月絵里(もちづき えり)は、お嬢様生活を捨て、夫と息子のために全てを捧げてきた。だが、どれだけ尽くしても報われることはなく、むしろ犬扱い。最期の瞬間に、絵里が聞こえたのは息子の歓声──「やった!ママ死んだ!これでやっと颯花さんを堂々と迎えられるのだ!」絵里はようやく悟った──いわゆる「真心には真心が返る」なんて、まったくの嘘だった。生まれ変わった絵里が、財産も要らず、さっぱり離婚。夫も息子も、もうこりごりだった!……「お望み通り、椎名育也と離婚するわ。今後、あの男はあなたのものよ。息子も」カフェで、絵里は無表情で離婚届を小林颯花(こばやし さやか)に差し出した。「ただし、この書類は颯花さんが持っていってサインをもらってきてちょうだい。私が渡せば、あの人は承知しないから」「身一つで離婚して家を出ることになってもいいの?」颯花が信じられない様子で聞いた。フン、ウケる。身一つって?絵里は椎名家で、もともと何一つ持っていなかったのだ。「ええ、喜んで」その口調は、朝ごはんのメニューを話すように平坦だ。「絵里さん、わざと身を引くフリ?」颯花は眉をひそめて言い放った。「あの時私が海外に行って育也君とすれ違わなきゃ、あんたが椎名家の夫人になるはずなかったんだよ。そんな小手先の真似、やめたほうがいいわ」「本気だって言ってるでしょ」と絵里は繰り返した。颯花は書類をじっと見つめ、「じゃこっちも喜んでもらうわ」颯花は絵里の目の前で電話をかけ、相手が応答するやいなや、べったりとした甘い声で言った。「育也君、今会社のカフェにいるの。ちょっと助けて欲しいことがあるんだけど、来てくれない?」たちまち、10分とも経たずに父子が来た。二人の視線は絵里という存在を微塵も認めないようにただ通り過ぎ、まるで空気でも見るようだ。絵里は冷淡な苦笑いを浮かべた。目の前で、息子の瑛多(えいた)が颯花に抱きついた。「颯花さん、会いたかったよ!」その熱烈で従順な様子は、颯花のほうが実母であると言わんばかりだった。そして瑛多は絵里に鋭い一瞥をくれて聞いた。「颯花さん、ママに意地悪されてない?」育也も、絵里に警戒の眼差しを向けた。その言動の端々に、まるで彼らこそが家族であり、絵里は余所者であ
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第2話
父子が絵里の部屋の前まで来ると、二人そろって眉をひそめた。瑛多が鼻をつまんで二歩下がった。「なにこの匂い!」「うわっ、マジ最悪!ママ、どうして部屋をこんなに散らかすのよ?」育也は眉を寄せて、床に散らばった灰を見つめた。「何を燃やした?家で火を使うのがどれだけ危ないか分かってるのか?火事になっちゃうぜ」「もう消えたでしょ」絵里は顔も上げず、自分の荷造りを続けた。「忙しいから、自分で何か作って食べてください」瑛多はぷうぷうと頬を膨らませた。「颯花さんだって忙しいのに、いつもちゃんとしてくれるよ!ママ、自分がだらしないのはともかく、ご飯さえも作らないの?僕とパパを飢え死にさせようってわけ?ひどいよ!」そう言うと育也の手を引っ張って甘えた。「パパ、颯花さんを呼んで!ママなんて家政婦さん以下だよ!母親失格!」育也は瑛多の頭をぽんと撫でた。「行っておいで」瑛多は甲高く笑いながら弾む足取りで階段を駆け下りた。振り返った絵里と、育也の冷たい視線がぶつかった。「5分で片付けろ。みっともない」そう言い捨て、彼も去っていく――まるで彼女の傷みなんて、どうでもいいかのようで。誰も気付かないゴミ箱の中には、捨てられた指輪と、瑛多のために手縫いした小さな服があった。この家での彼女に関わる全ては、消しゴムのカスに等しいほど取るに足らない存在だ。スーツケースを引きずって部屋を出ると、廊下で瑛多が電話をしていた。「颯花さん、ご飯一緒に食べて!家政婦さんに颯花さんの大好物作らせるから!豚の角煮と鰻の蒲焼きね!」絵里は嗤った。家族にとって彼女はただの「無料で働く家政婦」――妻でも母親でもないようだ。感謝の一言もなく、侮辱されるだけの日々、もう、こりごりだった。すぐに階下でドアが開く音がして、瑛多が「颯花さーん!」とはしゃぐ声が聞こえた。階下から漂ってくる料理のいい匂い。それでも絵里は顔を上げることさえしなかった。考えなくてもわかる――あの食卓に、自分の席はなかったのだ。絵里はまとめ済みのスーツケースを押入れの奥に隠すと、静かに階下へ向かった。リビングでは、育也と颯花が並んで食事をしている。横では瑛多がせっせと颯花のお皿に料理を取っている。「颯花さん、これ、美味しいよ!絶対気に入るよ!」颯花は「あら、ありが
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第3話
翌朝。颯花はとっくに立ち去り、絵里は朝食をとりに階下へ降りた。それを見つけた瑛多は、悪戯っぽく笑ってキッチンへ走り、温めた牛乳を運んできた。「ママ、牛乳どうぞ!熱いうちにね」普段、多忙な父親に代わって登校を任されている母親さえ動けなくすれば――颯花さんとの遊園地の約束が果たせるのだ。絵里は無表情で瑛多を見た。また何か企んでいるのだろうが、もはやどうでもいい。彼女は牛乳を一気に飲み干した。どこか変な味がした。確かめようとした瞬間、豆の青臭い味が喉までこみ上げてきた。絵里は瑛多をまじまじと見つめ、声を詰まらせた。「これ、何を入れたの!?」瑛多はうつむいて言った。「豆乳だよ……ママ、嫌いなの?僕がわざわざ入れてあげたんだよ」信じられない!私が豆乳アレルギーなのに!絵里はそう思うとすぐに、喉が締め付けられるような感覚が押し寄せ、息ができなくなってその場に倒れ込んだ。意識が遠くなる中、瑛多が不満そうに呟く声がかすかに聞こえた。目が覚めると、病室だった。振り返ると、瑛多が不満げな表情でベッドの脇に立っている。絵里が目を開けたのに気づくと、彼は慌てて表情を繕い、鼻をすすりあげて声を詰まらせた。「ママ、やっと起きたんだ……もう、ずっと……」その言葉に、絵里は体が一瞬固まった。これまでは、彼は私の不幸をむしろ喜ぶはずだったのに――なぜ突然、心配するようなふりを?瑛多の後、育也が冷たい眼差しを向けている。「アレルギー程度で、わざわざ病院まで運ばせるような真似は大げさじゃないか?」「ママ、僕のことで怒ってるから、わざと倒れたふりしたんでしょ?」瑛多はしょんぼりとうつむいた。「ごめんね、もう怒らないで、謝るから。早く起きて、学校に送ってよ!」そう言いながら、彼は母親の手首を握り、点滴のチューブを意地悪く引っ張った。点滴の針が皮膚を引き裂く鋭い痛みに絵里は顔をしかめた。絵里が無意識に瑛多を押しのけると、彼はよろめいて倒れそうになった。「正気か!?子供に手を出すなんて!」育也の怒声が響いた。「わあーん!」瑛多はワッと泣き出し、ベッドの絵里を叩きながら叫んだ。「悪いママ!大嫌い!!」暴れ回る瑛多の手に引っ張られ、鋭い痛みに絵里の顔が一瞬で青ざめた。透明だった点滴チューブがみるみるうちに逆流した血液で赤黒く染まって
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第4話
そう言うと、颯花は突然絵里の手を掴み、表情を一変させて哀れっぽく訴えかけた。「絵里さん、ごめんなさい、瑛多と仲良くするつもりじゃなかったんだ。でもあの子のことが本当に好きで……私が悪かった。お願い、傷つけないで。私と育也君が一緒にいるのが嫌なら、もう会わないから。二人の結婚生活にはもう関わらない。お願いだから……あっ!」演技をしている颯花は、悪戯っぽく笑うと、そのまま後ろに倒れこんだ。彼女の細い体が階段を四、五回転がり、踊り場でようやく止まった。乱れた髪、惨めな姿、そして光る涙。その弱々しい泣き声は、見る者の胸を締め付ける。「颯花さん!」育也と瑛多の焦げるような呼び声が、呆然とする絵里の意識を引き戻した。いつの間にか父子は階下に降りてきて駆け寄っている。床に伏した颯花は痛みに呻き、育也を見ると、いっそう涙をあふれさせる。「育也君、ごめん……全部私が悪いんだから。絵里さんのこと、責めないで……私が彼女を怒らせちゃったの……」育也は颯花をお姫様抱っこして、暗く燃える瞳で絵里を睨みつける。「望月絵里、お前に人間の心はあるのか?颯花に何かあったら、その痛みは百倍にして返してやる!」絵里は呆然とその場に立ち尽くしている。男の眼差しに溢れるのは明らかな想い――しかしそれは、決して自分に向けられる温もりではない。五年間の結婚生活で、一度だって彼にそんな風に大切にされたことはなかった。しかし今、別の女性にはそんなにも心を配る。そして、自分の大事な息子は、泣きそうな顔で絵里を一瞥もせず、父の後を追って駆け出している。「颯花さん、もう少し我慢して、すぐ医者に診てもらうから、大丈夫だよ」遠くから聞こえる瑛多の声が、絵里の神経を少しずつ蝕んでいる。幼い声が階段全体に響き渡った。「ママ最低!颯花さんが可哀想!」「颯花さん、安心して、もうあの人をママなんて呼ばないから!これからは颯花さんが僕のママだ!」絵里の心臓は、まるで誰かに握り潰されるように激しく痛んでいる。冷や汗が流れ、呼吸も乱れる。瑛多の言葉が、呪いのように耳裏にこだましていて、頭から離れない。彼女はようやくわかった――この五年間、必死で守ってきた親子の絆は、これで本当にぷつりと切れてしまったのだ。携帯が鳴り、絵里は機械的に応答した。「
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第5話
不意に押された看護師は床に転がった。痛みをこらえながら起き上がり、言い返そうとしたその時――育也の冷たい視線を見て、彼女は口を閉ざした。そして、俯きながらおずおずと病室を後にした。「颯花さん、痛いの痛いの飛んでけ~」瑛多は顔を近づけ、傷口に優しく手をかざした。「瑛多、もう大丈夫よ」颯花は両手で瑛多の頬を包み込むようにして、目の中に溢れんばかりの愛情をたたえて言った。「私はもう子供じゃないんだから、こんなの、全然大丈夫」瑛多は下唇を噛み、頬をぷっくりと膨らませて心配そうな顔をしていた。ふと思いついたように、期待に輝く目を上げて提案した。「颯花さん、しばらくうちに来ない?この病院の看護師さん、全然ちゃんと面倒見てくれないし。うちなら僕とパパがちゃんと世話できるよ」それを聞いた颯花は、さりげなく育也を一瞥し、少し照れくさそうに俯いた。「それは……ちょっと……」「だって私、よそ者だもん。お宅に上がり込んだら、絵里さんに迷惑かかっちゃうよ。やはりそのまま、病院の方がいいわ」瑛多はすぐに不機嫌そうな顔をして、ふんっと鼻を鳴らした。「だってママが怪我させたんだよ!ママが面倒みるのが当然じゃん!」「嫌いなの?颯花さんが僕の言うこと聞かないなら、僕のこと好きじゃないんだね!」颯花は「あはは」と愛想笑いをしながら、育也の顔色をうかがう。彼は颯花への想いが本当なら、断らないはず。長年育んできた二人の絆が、政略結婚の女に負けるわけがないと彼女は思っている。しばし考え込んだ後、育也は静かにうなずく。「颯花、気にするな。家に来る件は……いつかあいつと話すから」……スーツケースを持って階下へ降りた絵里は、玄関に立つ颯花とばったり出くわした。育也が注意を払って彼女を支え、片手には病院の荷物を持っている。その姿を見た絵里は、足が棒のように固まり、まるで雷に打たれたように、その場に立ちすくみ、一歩も動けなくなってしまう。これまでは、颯花とどれだけ親しくても、決して家に連れ込むことはなかった。なのに、まだ離婚もしていないのに、彼は待ちきれないように彼女を連れ戻した。まあね。この関係の中、彼女はずっと部外者だ。育也はまともに彼女を見ようともせず、淡々と言い放った。「颯花がしばらく家に住む。怪我が治ったら出て行く」口
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第6話
颯花はさっと育也の腕をつかみ、気遣うふりをして、さらに煽った。「育也君、絵里さんが嫌ならやっぱいいわ。私、病院に戻るから、ここはあなたと絵里さんの家だし。会いたくなったら、病院に来てくれればいいから」絵里に深々と頭を下げて、颯花はかすかに震える声で詫びた。「ごめん、絵里さん。私、今すぐ出ていくから、二人は私のために喧嘩しないでね」松葉杖をついて立ち去ろうとしたその時、育也に手首を掴まれた。「颯花、俺がいる限り、君をいじめる奴はいない。ここにいていいよ」「でも……よく考えたら……」颯花はわざとらしくため息をつき、可哀想に絵里を一瞥した。「やっぱりやめとくわ、私、二人を引き裂く悪い女になりたくない」この引き際の上手さで、育也に選択を迫る。目尻に一瞬、勝ち誇った色が掠め、口元がほのかにほころんだ。今日という日、この女に身の程を思い知らせてやる。それを聞くや、瑛多は育也の腕を振りほどいて飛び降り、颯花のもとに駆け寄り、両腕でその腰をぐっと抱きしめて、首を激しく振り続ける。「イヤ!颯花さん、行かないで!」彼は絵里を指さし、全身で敵意を向けるような眼差しを投げかける。「出て行くのはあんたの方だ!意地悪な女!あんたがいなくたって、僕とパパだけで颯花さんの面倒は十分見られるんだから!」広いリビングなのに、絵里は居場所がない。あの互いに寄り添う三人の絆を眺めるだけ。父子への期待はとっくに失っていたのに、胸の奥がまたちくりと痛む。どんよりとした闇が覆い、光は見えない。自分はどれほど無能な母親なんだろう。十月十日をかけて産んだ子に、他の女のために家を追い出されるとは。五年も一緒だったのに、夫の心はとっくに私には向いてない。「本当に出て行くつもりか?」育也がじわりと距離を詰め、上から見下ろす。「椎名家はな、好き勝手に出たり入ったりできんのだぞ」絵里の目が冷たく凜とした色が宿る。「はい、この家はあなたたちに譲る。私が出て行くから」「見事だ!望月絵里、やったぞ!」育也は歯を食いしばり、唇を歪めて絞り出すように言い放った。「行きたいなら行け!だがな、颯花のケガが治るまで待てよ!」「それまで、外に出るんじゃねえ!」その胸を張って堂々とした態度は、まるで颯花の傷の責任が全部絵里にあるとでも言うようだ。絵里の瞳
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第7話
床に蹲る颯花が苦しそうに血の気の引いた顔を上げた。「育也君……足が痛い」その痛々しい様子に、育也の気持ちは完全に彼女へと引き寄せられる。もう絵里にかまっている暇はない。彼は腰をかがめて颯花をお姫様抱っこして、階段へ向かう。「すぐにかかりつけ医を呼べ」男の決然とした背中が階段の踊り場で見えなくなり、広い客間には絵里ひとりがぽつんと取り残される。冷たい床に座り、彼女の姿は孤独そのものだ。指先の痛みはズキズキとしている。しかし今、胸を締め付ける苦しみがさらにきつい。椎名家の父子への想いなのか、それとも全く別の感情なのか、絵里自身にも判断がつかない。すぐ横では、使用人がイライラした口調で催促してきた。「奥様、どうか部屋に戻ってください。荷物は後できちんとまとめますから」床に落ちた血の跡を冷たく見下ろし、彼女は倒れた絵里を起こそうと手を差し出した。だが、届く前に、自分の腕が荒々しく振り払われてしまった。絵里は割れた写真フレームを丁寧に拾い上げ、ゆっくりと腰を上げた。「結構よ。私自分で大丈夫」使用人の手から荷物を受け取ろうとしたその瞬間、突然の猛烈ななめまいが襲い、目の前が真っ暗になって気を失った。絵里が意識を取り戻したとき、空はとっくに深い闇に包まれていた。窓から差し込む月明かりに照らされ、自分の手がきちんと手当てされているのに気づいた。何かを思い出したみたいに、彼女はベッドから起き上がり、まっすぐに部屋のドアへ向かった。だが、ドアはすでに外からがっちりと鍵が掛けられていた。「椎名育也!出して!何するつもり?開けて! 私を閉じ込める権利なんて、あんたにはないでしょ!」絵里がどれだけ声を枯らして叫んでも、返ってくるのは果てしない沈黙だけだ。絵里の気持ちはどん底に沈んでいく。壁際にすり寄るように座り込んだ彼女の瞳には、はかりしれない寂しさが漂っている。わけがわからない。育也が私のこと愛してないなら、なんで部屋に閉じ込めてまで離さないのか?ただ颯花の面倒見させるためだけ?そんなの……絵里が考え込んでいるうちに、ドアが外から開いた。颯花が腕を組み、目は細めて、あきらかにバカにした表情だ。「絵里、私だったらとっくに諦めて身を引いてるよ」「五年間も必死にしがみついて、意味ある?五年経っても、育也は
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第8話
育也が会社から戻ってきた時、颯花はソファで瑛多とアニメを観ている。玄関の物音を聞くと、瑛多はすぐにソファから飛び降り、育也の胸に飛びつく。「パパ、おかえり!待ってたんだよ」「今日は外食したいな。前によく行ったあの中華料理屋に、僕と颯花さんを連れて行ってくれない?」彼は期待を込めた目で父親を見上げる。会社の業務を終えたばかりの育也には、外食に付き合う気分はなく、手に持っていた上着を傍らのハンガーに掛ける。「食べたいものがあるなら、母さんに作ってもらって。俺は後で処理しなきゃいけない用事があって、付き合ってる暇はない」それを聞いた瑛多は、ふんと軽く鼻を鳴らし、不機嫌そうに唇をとがらせた。「ママなんて、とっくに僕たちを捨てて行っちゃったよ」「颯花さんの方がずっといいな。何でも一緒に遊んでくれる。ママはいない方がよかった」育也の目が一瞬見開かれた。息子の腕をぐっと掴み、顔色がさっと暗くなった。「今、何て言った?」「パパ、痛い!」痛さに声をあげた瑛多はパパの手を振りほどき、思わず二歩後ろに下がった。「どうしたの?今日のパパ、何か変だよ」だって今まで、ママのことは全然気にしてない。ただ家を出ただけで、なんでパパはそんなに動揺してるの?瑛多には理解できない。ママがいなくなれば、パパは颯花さんと堂々と一緒にいられるのに。育也の顔がどんどん怖くなってくるのを見て、颯花はあわててフォローしようと、困った顔を作った。「育也君、今日瑛多が学校終わって誰も迎えに来なくて……それで絵里さんに一緒に学校行こうって誘おうと思って……」「でも絵里さんの部屋に行ったら、もういなくて……スーツケースも全部なくなったの」わざと話を途中で止め、そして鼻をすすり、泣くように続けた。「育也君、彼女は私がここに住むのが嫌で……行っちゃったのかな……」あとの言葉をあえて濁し、彼女はうつむきながら育也の反応をうかがった。育也の瞳には完全に陰りが差し、苛立ったように胸元のネクタイを緩めると、冷たい口調で言い放った。「望月絵里、俺の許可なしには、お前は一生ここから逃げられない」ポケットから携帯を取り出して、ある番号に電話をかけた。「どんな手を使っても構わない。絵里の居場所を突き止め、明日までに連れ戻せ!」彼は当初、絵里が単なるやきもちを焼いて
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第9話
「いつ俺が離婚届にサインした?」彼の問い詰めに、颯花は下を向いて、もごもごと言葉を濁した。「えっと……あの……この前の書類、実は絵里さんが用意した離婚届だったの。弟の話は嘘だ」「育也君、私はただ、あなたを愛しすぎて……それに、絵里さんに泣きつかれて……嘘ついちゃった。彼女はずっと別れたいと言っているの。私の気持ち、わかってくれるよね?」颯花の言葉は育也の頭の中で雷のように響いた。胸がざわざわして、息が詰まりそうな気分だ。絵里と別れるなんて、一度も考えたことはなかった。この5年間、彼女がそばにいてくれるのが当たり前になっていた。突然いなくなるって、どうしたらいいかわからない。今まで彼女への想いを、単なる責任感だと思い込んでいる。なのに、なぜか胸がぎゅっと痛む。この気持ちは何だろう。育也は眉間を強く押し、一度気持ちを落ち着かせた。淡い目線で相手を見て言った。「颯花、少し一人にしてくれ。今夜は瑛多を連れて外で食事して。俺が奢るから」そして、返事を待たずに背を向け、二階にスッと上がった。遠ざかる背中を見つめ、颯花は垂らしていた手をギュッと握り締めた。胸の中の怒りが溢れんばかり。幼なじみの自分が、たった五年間一緒にいただけの女に負けるわけがない。悔しさに駆られて、彼女は男の行く手に立ちはだかり、潤んだ目で切なく訴えた。「育也君、もう決まったことだよ。いつまで逃げるの?まさか、あの女に本当に惚れたの?」「じゃあ私は?ずっと待ち続けてきた私の想いは、あなたにとっては一体何なの?」問い詰められて、育也は言葉を探したが、何も言えなかった。本当は、目の前のこの人を愛しているはずなの。それなのに、胸が大きな石で押さえつけられたようで、呼吸さえ辛い。沈黙が続く中、颯花の腕がゆっくりと力を抜いた。唇ににじむのは苦い笑みだ。「もう、わかった」「彼女を探したいなら、行って。私は諦める」振り返って去ろうとしたその時、育也が彼女の腕を掴んで、複雑な表情で言った。「颯花、もう少しだけ考えさせてくれないか」「約束する。必ず納得のいく答えを出すから」その言葉に、颯花の瞳にかすんだ希望の光が戻って、そっと彼の胸に寄り添った。「育也君、やっぱり私のことを思ってくれてるんだね」部屋に戻ると、育也はベッドサイドの結婚写真に目が
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第10話
ちょうどその時、ポケットの携帯が鳴った。「椎名社長、申し訳ありません……奥様の行方がどうしても見つからなくて」イヤホンからは、秘書の緊張した息遣いとともに、震えた声が伝わってきた。それを聞き、育也の指先が白くなるほど携帯を握り締め、吐く息が一瞬で冷たくなった。「使えない奴!」「椎名家を出たって、あの女が持ってる金じゃ数日も持たない。銀行に連絡して、夫人名義のサブカードを全部停止しろ」金なしで、あの女がどのくらい持つか見てやるよ。どうせすぐに謝りに戻ってくるんだろ。出て行くって決めるなら、痛い目に合わせてやる!三日後。育也は銀行から届いたメールを見て、口元にかすかな笑みを浮かべた。絵里が持ってた金はせいぜい三日分だ。もうカードも使えなくなって、今夜こそ泣きながら謝りに戻ってくるだろう。しかし彼はリビングのソファで真夜中まで待ち続けたが、彼女からの連絡は一切なかった。代わりに秘書が慌てて駆けつけてきた。「社長、この数日間、国内で奥様のカード利用記録が一切確認できません」何日も手下を使っても絵里の行方はわからず、彼女はこの世から消え去ったかのように、跡形もなく消えてしまう。その報告を聞き、育也はソファから勢いよく立ち上がった。信じられないという顔をした。「何だって?」「生きてる人間一人見つけられないのか?そんなお前たちに何の価値があるっていうんだ!」彼は目の前の椅子を蹴り飛ばし、顔つきが一気に冷たくなった。秘書がびくびくしながら頭を下げて、小さい声で言った。「社長……全国くまなく手分けして探しましたが、奥様の行方はまったく見つからず、これでは……」まだ話の最中に、育也が鋭い視線で睨みつけ、冷ややかな声で遮った。「見つからないなら、探し続けろ」「彼女を見つけ出せないなら、お前たちも戻ってくるな」携帯を取り出して、連絡先から絵里の番号を見つけて、電話してみた。でも「この番号は現在利用できません」って音声が。指がプルプル震えて、携帯を落としそうになった。彼はその場に固まってしまった。え、マジで……彼女の番号、使えなくなってる?椎名家から逃れるために、いつもの番号まで変えたんだ?信じられない思いで、育也はもう一度かけ直した。しかし何度かけても、向こうから聞こえるのは同じ案内音ば
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