LOGIN「私に、お任せいただけませんか」
美月は思わず息をのんだ。
「でも……これ以上、ご迷惑をおかけするわけには」
「迷惑ではありません」
蒼真は穏やかな笑みを浮かべる。
「今の美月さんを一人にする方が、よほど心配です」
その言葉に、美月は返す言葉を失った。
今日初めて会ったわけではない。
蒼真はカフェの常連客だった。
忙しい時間帯を避けて来店し、スタッフが慌ただしくしていれば黙って待っていてくれる。
いつも丁寧で、誰に対しても穏やかな人。
だからこそ、安心して話せるのかもしれない。
「ですが、一つだけ約束してください」
蒼真は表情を引き締めた。
「これからしばらくは、ご主人と二人きりで会わないこと」
「……はい」
「話し合いが必要になったとしても、一人で応じる必要はありません」
その言葉に、美月は小さくうなずく。
もう一人で我慢しなくていい。
そう思えただけで、胸の奥の重石が少し軽くなった気がした。
「では、移動しましょう」
蒼真は立ち上がり、美月の荷物をそっと手に取る。
「えっ、私が持ちます」
「今日は患者さんです。遠慮しないでください」
そう言われると、断ることができなかった。
二人は病院のロビーへ向かう。
受付前を通ると、スタッフたちが蒼真へ一斉に頭を下げた。
「お疲れ様です」
「本日はありがとうございました」
まるで、病院の職員が上司へ挨拶するような態度だった。
美月は不思議そうに首をかしげる。
「蒼真さんって、本当に顔が広いんですね」
蒼真は少しだけ笑った。
「仕事柄、お世話になる機会が多いだけですよ」
「そうなんですか」
深くは考えなかった。
今の美月には、それどころではなかったからだ。
病院を出ると、一台の黒い高級車が静かに滑り込んできた。
後部座席のドアが開き、スーツ姿の男性が深々と頭を下げる。
「蒼真様、お迎えに参りました」
美月は目を丸くした。
「え……?」
蒼真は困ったように小さく笑う。
「少し事情がありまして」
そう言うと、運転手へ視線を向けた。
「予定を変更します」
「かしこまりました」
運転手は迷いなくうなずく。
美月はますます戸惑った。
常連客だと思っていた蒼真。
けれど、目の前の光景はどう見ても普通ではない。
「蒼真さん……あなた、一体……」
それから数日。 美月はサービスアパートメントで、穏やかな時間を過ごしていた。 拓也からの電話もない。 実家に手紙が届くこともない。 藤崎からも、新たな接触についての連絡はなかった。「最近、静かですね」 昼食を終えたあと、美月が呟く。「ご主人のことですか?」「はい」 蒼真に聞かれ、美月は頷いた。「何もない方がいいのに、何もないと逆に気になっちゃって」「また何かあるのではないかと?」「……たぶん」 電話に出なければ、別の番号から掛けてきた。 会うことを拒めば、実家へ手紙を届けてきた。 何度もそんなことが続いたせいで、静かな時間にも身構えるようになっていた。「でも、ずっと気にしてても仕方ないですよね」 美月は苦笑する。「次の調停もあるし、今は自分のことを考えます」「それがいいと思います」 蒼真はそれ以上、拓也の話を続けなかった。 そのことに、美月は少しほっとした。 一方。 拓也はスマートフォンのカレンダーを眺めていた。 次の健診だと予想した日まで、まだしばらくある。「長いな……」 待っていればいい。 そう決めたはずなのに。 数日経つと、もう美月の様子が気になっていた。 あの日見た美月。 以前より丸くなった腹。 隣を歩く九条。 思い出すたび、胸の奥がざわつく。「俺の子なのに」 何度目か分からない言葉を呟く。 その時、ふと思った。 病院へ行く時しか、美月は外に出ないのだろうか。 買い物。 食事。 散歩。 普通に生活しているなら、ほかにも外へ出るはずだ。「……どこに住んでるんだろ」 以前から気になっていた。 九条が用意したサービスアパートメント。 それ以上は分かっていない。 調べようとしても、九条が経営する会社の情報ばかり出てきて、美月の居場所にはたどり着けなかった。「まあ、いいか」 拓也はスマートフォンを置いた。 無理に探す必要はない。 病院なら分かっている。 また会える。 そう自分に言い聞かせた。 けれど翌日。 拓也は、また病院の最寄り駅にいた。「……近くまで来ただけ」 もちろん、今日は健診ではないだろう。 それでも、もしかしたら。 そんな気持ちがあった。 前回と同じように、病院から少し離れた場所を歩く。 正面玄関が見える場所まで来て、拓也は足を止めた。
美月が病院へ入ったあとも、拓也はその場を離れなかった。 どれくらい待てば出てくるのかは分からない。 けれど、帰るという考えはもうなくなっていた。 近くの店に入り、窓際の席へ座る。 そこからなら、病院の正面が見えた。「別に待ってるわけじゃない」 拓也はコーヒーを飲みながら呟いた。 少し休んでいるだけ。 美月が出てきても、話しかけるつもりはない。 ただ元気そうか確認する。 それだけだ。 一時間ほど経った頃。 病院から、美月と蒼真が出てきた。 拓也はすぐに身体を起こした。「出てきた」 美月は手に小さな紙袋を持っている。 蒼真と何か話しながら歩いていた。 その表情は明るい。 拓也の胸がざわつく。 自分と暮らしていた頃、美月はあんなふうに笑っていただろうか。「……九条がいるからって」 拓也は唇を噛んだ。 けれど、すぐに別のことへ気付く。 美月がお腹へ手を添えた。 ほんの一瞬だった。 それだけで、拓也の視線はそこへ釘付けになる。「俺の子……」 あそこにいる。 見えないだけで、確かに自分の子どもがいる。 なのに、自分だけが何も知らない。 今日の健診で何を言われたのか。 順調なのか。 予定日はいつなのか。「なんで九条は知ってるんだよ」 拓也の中で、苛立ちが膨らんだ。 夫である自分が知らないことを、九条は知っている。 それはおかしい。 順番が逆だ。 そう思った。 美月たちが車に乗り、走り去る。 拓也はその車を追わなかった。 今日は、それで満足だった。 美月を見ら
数日後。 拓也は自宅のソファでスマートフォンを眺めていた。 画面には、以前保存した病院周辺の地図が表示されている。 あれから何度も開いていた。 行くつもりはない。 ただ見ているだけ。 そう思っていたはずだった。「……今日、暇だな」 拓也は呟いた。 仕事はまだ決まっていない。 応募しようと思って求人情報はいくつか見たものの、実際に応募したのは二社だけだった。 一社からはすでに不採用の連絡が来ている。 もう一社からは返事がない。 拓也は地図へ視線を戻した。 病院へ行くわけではない。 近くへ行くだけなら、何も問題はない。「別に病院に用があるわけじゃないし」 誰に聞かれたわけでもないのに、口に出していた。 美月が今日、健診だという保証もない。 そもそも、今も同じ病院へ通っているかさえ分からない。 なら、会う可能性などほとんどない。 それでも――もし会ったなら。 それは偶然だ。 拓也は立ち上がった。「ちょっと出てくる」 リビングにいた和江が振り返る。「どこ行くの?」「その辺」「仕事探し?」「まあ、そんな感じ」 嘘ではない。 帰りに求人でも見ればいい。 拓也は家を出た。 病院の最寄り駅に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。 改札を出たところで、足が止まる。「……本当に来ちゃった」 一瞬だけ、帰ろうかと思った。 だが、ここまで来たのだから少しくらい歩いてもいい。 病院とは反対方向へ行く理由もない。 拓也は地図を確認しながら歩き始めた。 やがて、見覚えのある建物が見えてくる。 以前、美月を見つけた病院だった。 正面玄関から少し離れた場所で足を止める。 病院へは入らなかった。「これなら何もしてないよな」 ただ道に立っているだけだ。 誰かを待っているわけでもない。 そう考えながら、出入りする人たちを眺める。 十分。 二十分。 三十分。 美月は現れない。「そりゃそうか」 拓也は苦笑した。 健診の日なんて知らないのだから、当然だ。 帰ろう。 そう思った時だった。 病院の前に、一台の車が停まった。 拓也の表情が消える。 見覚えがあった。「……九条」 運転席から蒼真が降りてくる。 そして助手席へ回り、ドアを開けた。 そこから降りてきた女性を見た瞬間。 拓也は息を止
翌朝。 拓也はいつもより機嫌よく朝食を食べていた。 昨日までの焦りが嘘のようだった。 離婚しなければいい。 子どもが生まれれば、必ず美月とつながる理由ができる。 そう思えば、何も急ぐ必要はない。「母さん」「何?」「赤ちゃんって、今どれくらいなんだろ」「さあ。美月さん、何か月だった?」「……分かんない」 拓也は箸を止めた。 考えてみれば、知らないことばかりだった。 今、妊娠何か月なのか。 予定日はいつなのか。 どこの病院へ通っているのか。 性別は分かったのか。「俺、父親なのに何も知らないじゃん」「美月さんが教えてくれないんだから、仕方ないでしょう」「そうだけど……」 拓也はスマートフォンを手に取った。 以前、美月を見かけた病院。 名前は覚えている。 検索すれば、すぐに病院のサイトが出てきた。「ここだ」 診療科の案内。 診察時間。 アクセス方法。 画面を次々と開いていく。「何してるの?」「病院調べてる」「行くの?」「行かないよ」 拓也は笑った。「警察にも言われてるし」 今はまだ。 わざわざ問題を起こす必要はない。 ただ、知っておくだけだ。「次の健診、いつなんだろ」「そんなの分からないわよ」「でも、妊婦って定期的に病院行くんだろ?」「そうでしょうね」 拓也は検索欄へ指を伸ばす。『妊婦健診 頻度』 表示された情報を読みながら、小さく頷いた。「なるほど……」 何週
その夜。 拓也はベッドの上で、何度もスマートフォンをスクロールしていた。 離婚調停。 離婚拒否。 復縁。 検索する言葉を変えるたびに、さまざまな情報が出てくる。 けれど、拓也が欲しい答えはなかなか見つからなかった。「……違うんだよな」 離婚の条件が知りたいわけではない。 財産の話がしたいわけでもない。 自分はただ、美月と元に戻りたいだけなのだ。 画面を閉じる。 頭に浮かんだのは、今日の調停だった。 美月は同じ建物にいた。 ほんの少し離れた場所に。 それなのに、一度も会わなかった。 拓也は直接話したいと伝えた。 だが、美月は拒否した。「……なんで会わないんだ?」 本当に自分のことが嫌いなら。 もう絶対に戻る気がないのなら。 直接顔を見て、そう言えばいい。 それができないということは――。 拓也の指が止まった。「もしかして……」 一つの考えが浮かぶ。 美月は、自分に会いたくないのではない。 会えないのではないか。 拓也はゆっくり身体を起こした。「俺に会ったら、迷うから……?」 口にすると、不思議なくらい納得できた。 美月は昔から押しに弱かった。 喧嘩をしても、拓也が謝れば最後には許してくれた。 困った顔をしながらも、結局は自分のそばにいた。 今だって同じなのかもしれない。 弁護士や九条に離婚した方がいいと言われている。 だから離婚しようとしている。 けれど、自分と直接会ってしまったら。「戻りたくなるんだ」 拓也の口元が、ゆっくりと緩んだ。
家庭裁判所を出た拓也は、不機嫌そうに歩いていた。 美月とは一度も顔を合わせなかった。 同じ建物にいたはずなのに。 自分は直接話したいと何度も伝えたのに。「何のための話し合いなんだよ……」 拓也はスマートフォンを取り出した。 美月へ電話を掛けたい。 けれど、警察から注意され、藤崎からも直接連絡しないよう繰り返し言われている。 さすがに今は掛けられなかった。 そのまま自宅へ戻る。「お帰り」 和江がリビングから顔を出した。「どうだった?」「駄目」 拓也はソファへ座る。「美月、離婚するって言ってる」「まだそんなこと言ってるの?」「しかも、俺と会いたくないって」「会ってもないの?」「一回も」 拓也は苛立ったように髪をかき上げた。「俺は直接話したいって言ったんだよ。でも、美月が嫌だって言ったから駄目だって」「それじゃ話し合いにならないじゃない」「だろ?」 和江に同意され、拓也は勢いづく。「調停委員も俺の話を聞いてはくれたけど、結局、美月が嫌だって言ったらそれで終わりなんだよ」「弁護士も一緒だったんでしょう?」「ああ」「じゃあ、やっぱり周りにいろいろ言われてるんじゃない?」「俺もそう思う」 拓也は迷わず頷いた。 美月が自分の意思で会いたくないと言っている。 その可能性を、二人とも考えようとはしなかった。「次はいつなの?」「また連絡が来る」「それまで待つしかないわね」「……」 拓也は黙った。 待つ。 それが、ひどく長い時間に思えた。「母さん」「何?」「美月、もう腹大きくなってるかな」「そりゃ、少しずつ大きくなってるでしょうね」「……子どもが生まれるまでに戻ってこなかったらどうなるんだろ」 和江も答えなかった。 拓也は初めて、その可能性を具体的に考えた。 美月が戻ってこないまま出産する。 自分の知らない場所で、自分の子どもが生まれる。「それは嫌だ」 低い声が漏れる。「俺の子なのに」 和江が顔を上げる。「まだ時間はあるでしょう」「でも、調停なんかやってたら……」 拓也は唇を噛んだ。 自分が離婚を拒否していれば、美月は妻のままだ。 それで安心していた。 けれど。 結婚しているからといって、美月が帰ってくるわけではない。 子どもに会える保証もない。 その当たり前のこ







