LOGIN拓也の視線は、本社の住所が表示された画面で止まっていた。
「やっぱり会いに行くの?」
和江が尋ねる。
拓也はすぐには答えない。
しばらく画面を見つめたあと、スマートフォンをゆっくり伏せた。
「……その前に、一つだけ気になることがある」
「何?」
「九条は、どうして美月を助けたんだ」
あの日、偶然職場で倒れた美月を病院へ連れて行った。
その後、住む場所まで用意した。
普通なら、そこまで他人に親切にするだろうか。
「やっぱり、おかしい」
拓也は何度目か分からない言葉を口にする。
和江は腕を組みながら頷いた。
「そうよ」
「社長さんなんでしょう?」
「忙しい人が、見ず知らずの女性のために、そこまでする?」
「……しないよな」
「でしょう?」
和江は身
藤崎からの電話を切ったあとも、拓也はしばらくその場に立ち尽くしていた。 美月は手紙を読んだ。 それなのに、帰ってこない。 離婚する意思も変わっていない。「……なんでだよ」 拓也はソファへ座り込んだ。「俺、ちゃんと書いたよな?」 和江が向かいに座る。「書いたわよ。私も読んだもの」「だったら、普通は少しくらい返事するだろ」「そうね……」「それすらしないって、おかしくない?」 拓也は納得できなかった。 何度も謝った。 やり直したいと伝えた。 九条とのことまで許すと書いた。 それでも美月は、自分を拒絶した。「やっぱり、九条が何か言ってるんだ」 拓也が呟く。「弁護士も美月本人の意思だって言ってたけど、そんなわけない」「拓也……」「だって、あいつはこんな女じゃなかった」 以前の美月なら、拓也が怒れば謝った。 頼めば家事もしてくれた。 多少不満があっても、最後には自分に合わせてくれた。 それが拓也にとっての「美月」だった。「急に人間が変わるわけないだろ」 拓也はそう言い切った。 一方。 サービスアパートメントでは、美月が藤崎からの報告を受けていた。『ご主人には、手紙を受け取ったことと、直接返答する意思がないことを伝えました』「ありがとうございます」『今後の連絡についても、改めてこちらを通すよう伝えています』「はい」『また何かあれば、すぐにご連絡ください』「分かりました」 通話を終える。 美月は小さく息を吐いた。
三日目の朝。 拓也は目を覚ますと、真っ先にスマートフォンを確認した。 通知はいくつか届いている。 けれど、どれも美月からではない。「……まだかよ」 ベッドの上で、何度も画面を更新する。 手紙は確実に届いている。 知り合いが、美月の実家に届けたと言っていた。 なら、美月は読んでいるはずだ。 それなのに、何の返事もない。 拓也は身体を起こした。「考えるって言っても、三日もかかるか?」 もちろん、美月は考えるとは一言も言っていない。 それでも拓也の中では、返事がない理由は「迷っているから」になっていた。 リビングへ行くと、和江がテレビを見ていた。「母さん」「何?」「まだ美月から返事ないんだけど」「そうなの?」「もう三日だよ」 和江は少し考える。「手紙、本当に美月さんが受け取ったの?」「実家には届けたって」「でも、お母さんが美月さんに渡さなかった可能性もあるんじゃない?」 拓也の動きが止まった。「……え?」「だって、あっちのご両親もあなたに怒ってるんでしょう?」「……」「美月さんに見せないで、勝手に捨てたとか」 拓也の表情が変わっていく。「ありえる……」 自分の手紙を読んでも返事をしない。 その可能性よりも、誰かが美月へ届けなかったと考える方が、拓也には受け入れやすかった。「じゃあ、美月は読んでないのかもしれない」「そうかもね」「だったら、返事がないのも当然じゃん」 拓也は立ち上がった。 何か別の方法で、美月本人に届けなければならない。 しかし、すぐに昨日の知
知り合いと別れたあと、拓也は一人で自宅へ戻った。 玄関を開けると、和江がリビングから顔を出す。「お帰り。どうだった?」「駄目だった」「何が?」「あいつ、もう協力しないって」 拓也は苛立った様子でソファへ腰を下ろした。「手紙は届けてくれたんでしょう?」「昨日はな」「じゃあ、もう一度頼めばいいじゃない」「頼んだよ」 拓也はスマートフォンをテーブルへ置く。「美月から返事があるか聞いてきてくれって言ったら、そこまではしたくないって」「どうして?」「知らないよ」 和江は不満そうに眉を寄せる。「それくらい聞いてくれてもいいのにね」「だろ?」「手紙を届けるのも、返事を聞くのも同じじゃない」 拓也は大きく頷いた。 自分たちにとっては、その違いが理解できなかった。「美月、読んだかな」「読んでるでしょう」「そうだよな」 拓也は自分に言い聞かせるように呟く。 手紙には、自分の気持ちをきちんと書いた。 怒っていないこと。 九条とのことも許すこと。 帰ってきてほしいこと。 子どもが生まれたら、今度こそ家族としてやり直したいこと。 あれを最後まで読めば、美月だって少しは考え直すはずだ。「でも、返事がないんだよ」「まだ一日でしょう?」「……そうだけど」「考えてるんじゃない?」 和江の言葉に、拓也の表情が少し明るくなる。「そうかな」「すぐ返事できるような話じゃないもの」「そうだよな」 拒絶されているとは考えない。 返事がないのは、迷っているから。 そう思えば、拓也には希望があるように感じられた。「しばら
美月は、拓也から届いた手紙を封筒へ戻した。 できれば二度と見たくない。 それでも、捨てるわけにはいかなかった。「明日、藤崎先生に連絡します」 美月が言うと、父が頷いた。「その方がいいな」「うん」 母はまだ玄関の方を気にしていた。「でも、本当に誰だったんだろう。あの人」「何か言ってなかった?」「『朝倉美月さんに渡してください』って、それだけ」「拓也の名前は?」「言ってないよ。だから私も普通に受け取っちゃった」「そっか……」 母を責める気にはなれなかった。 自分宛ての封筒を持ってきた人間が、拓也に頼まれた人物だとは普通は思わない。「顔は覚えていますか?」 蒼真が尋ねる。「うーん……見たら分かると思うけど」 母は少し考える。「知らない人だったから、そんなにちゃんとは見てないかな」「そうですよね」 蒼真もそれ以上は聞かなかった。 美月は封筒をバッグへしまう。 せっかく久しぶりに実家へ帰ってきたのに、気持ちはすっかり沈んでしまった。「ごめんね」 思わず口から出た。 父が眉を寄せる。「何がだ?」「せっかく久しぶりに帰ってきたのに、また拓也のことで……」「美月が謝ることじゃないだろ」「でも」「手紙を持ってこさせたのは拓也さんでしょ」 母も言う。「美月じゃないんだから」「……うん」 何度も同じことを言われている。 拓也がしたことまで、自分の責任にしなくていい。 頭では分かっているのに、つい謝ってしまう。「今日はもう、その話やめよう」 母
美月は白い封筒を見つめたまま、しばらく動けなかった。「美月?」 母に呼ばれ、ようやく顔を上げる。「……拓也から」「え?」 母の表情が変わった。 父もすぐに身を乗り出す。「どうしてここに?」「分からない」 美月は封筒を裏返した。 郵送されたものではない。 切手も消印もなかった。「さっき、誰が持ってきたの?」 美月が尋ねる。「宅配の人かと思って出たんだけど、若い男の人だったよ」「男の人?」「美月に渡してほしいって、これだけ渡されて……」 母も今になって気付いたらしい。「拓也さん本人じゃなかったよ」 美月の背筋が冷たくなる。 警察から直接接触を控えるよう言われた。 だから、自分では来なかったのだろうか。「朝倉さん」 蒼真が静かに声を掛ける。「無理に読む必要はありません」「……はい」 美月は封筒を握り締める。 読みたくない。 そう思う一方で、何が書かれているのか分からないままなのも怖かった。「読みます」 美月は封筒を開いた。 中には、便箋が数枚入っている。 最初の一行を見ただけで、胸がざわついた。『美月へ』 見慣れた拓也の字だった。『ちゃんと話を聞いてほしくて、手紙を書くことにしました。電話にも出てもらえないし、会いに行くと周りの人に邪魔されるから、こうするしかありませんでした。』「……」 美月の指先に力が入る。 邪魔される。 拓也は、そう思っているのだ。 美月が自分の意思で拒絶しているとは、今も考えていない。 続きを読む。『病院で九条さんと一緒にいる君を見て、正直ショックでした。でも、俺は怒っていません。
数日後。 美月は蒼真の車で実家へ向かっていた。 体調は悪くない。 それでも、久しぶりに両親へ会うと思うと少し緊張した。「なんだか変ですね」 助手席で、美月がぽつりと呟く。「何がですか?」「自分の実家に帰るだけなのに、ちょっと緊張してます」「久しぶりだからではありませんか」「そうかもしれません」 やがて、見慣れた住宅街へ入る。 実家の前に車が停まると、美月はシートベルトを外した。「ありがとうございます」「帰る頃に連絡してください」「はい」 車を降りようとして、美月は少し迷った。「九条さん」「はい」「良かったら、一緒にお茶でも飲んでいきませんか?」「私もですか?」「はい。せっかくここまで来たんですし」 蒼真は少し迷ったあと、頷いた。「では、お邪魔します」 二人で玄関へ向かう。 インターホンを押すと、すぐにドアが開いた。「美月!」「お母さん」「待ってたよ。体調、大丈夫?」「うん。今日は平気」 母は美月の顔を見て、安心したように笑った。 そして、その後ろに立っている蒼真に気付く。「あら、九条さん」「こんにちは」 蒼真が丁寧に頭を下げた。「今日は九条さんに車で送ってもらったの」 美月が説明すると、母は少し驚いた。「そうなの? わざわざありがとうございます」「いえ」「良かったら、九条さんも上がっていきませんか?」「ありがとうございます。では、お邪魔します」 蒼真が美月の実家へ入るのは、これが初めてだった。 リビングへ向かうと、父も待っていた。「美月」「お父さん、久しぶり」「ああ」