Mag-log in「……朝倉さんの奥様、ですよね?」
背後から声をかけられ、美月は振り返った。
三十代前半くらいの女性が、驚いたような表情で立っている。
「あ……」
どこかで会ったことがある。
記憶をたどると、以前、拓也の会社の懇親会で紹介された女性だと思い出した。
「お久しぶりです」
「やっぱり!」
女性は嬉しそうに笑う。
「私、朝倉さんと同じ部署の佐藤です。一度だけお会いしましたよね」
「はい。ご無沙汰しております」
軽く挨拶を交わすと、佐藤の視線が蒼真へ向いた。
「こちらの方は……?」
どう答えようか迷った、その時だった。
「九条と申します」
蒼真は穏やかに一礼する。
佐藤も慌てて頭を下げた。
「失礼いたしました」
ほんの少しだけ沈黙が流れる。
その空気を切り替えるように、蒼真はホテルのロビーへ視線を向けた。
日曜日の夕方。 美月は、いつもより少し丁寧に髪を整えていた。 今日は久しぶりに蒼真とゆっくり過ごせる。そう思うだけで、朝から何度も時計を確認してしまった。 夕食はどうしようか。一緒に作るのもいいし、近所のお店へ食べに行くのも楽しそうだ。 子供を母に預けて、ほんの一時間だけでも二人で出かけられたら。 そんなことを考えていると、内扉をノックする音が聞こえた。「美月さん、お待たせしました」「蒼真さん!」 扉を開けた美月は、思わず笑顔になった。「お疲れさまです。今日はもう、お仕事終わりですか?」「ええ。今日は大丈夫です」「よかった!」 美月は蒼真を招き入れた。 ところが、彼は部屋に入るなり、子供の寝顔を確認すると、腕時計に目を落とした。「……どうしました?」「いえ。少し時間を確認しただけです」 蒼真はすぐに微笑んだが、美月は小さな違和感を覚えた。 久しぶりに会えたのに、どこか落ち着かない様子だった。「蒼真さん、夕食はどうしますか? 私、まだ何も作ってないんですけど」「そうですね……」 蒼真は少し考え込んだ。「今日は、私が用意してもよろしいでしょうか?」「えっ?」「美月さんには、ゆっくりしていただきたいので」 その言葉に、美月は思わず顔を曇らせた。 また、何か手配するつもりなのだろうか。「……あの、蒼真さん」「はい」「私、一緒にご飯を作りたいです」 蒼真は驚いたように目を瞬かせた。「一緒に、ですか?」「はい。前みたいに、失敗したっていいじゃないですか。二人で作って、二人で食べたいんです」 美月は少し照れくさそうに笑った。 あの水っぽいカレーだって、今となっては楽しい思
「……今日も遅いんですか?」 カフェの休憩室で、美月がぽつりと呟くと、店長が顔を上げた。「何よ、九条さん?」「はい。最近、ずっと忙しいみたいで……」「あらあら。御曹司も大変ねえ」 店長はコーヒーを飲みながら、のんびりと答えた。「でも、あの人、前から忙しかったんじゃないの?」「そうなんですけど……」 美月はスマートフォンを見つめた。 以前は、どんなに仕事が忙しくても、蒼真は時間を作ってくれていた。 夕食を一緒に食べたり、子供の様子を見に来てくれたり。ほんの少しでも、顔を合わせる時間があった。 ところが、最近は違う。 仕事が終わっても、なかなか帰ってこない。 休日も、急な予定が入ったと言って出かけてしまう。「……私が、わがままなのかな」「何が?」「忙しい人だって分かってるのに、もっと一緒にいたいなんて」 店長は、美月をじっと見つめた。「美月ちゃん。あんたたち、恋人同士でしょう?」「……はい」「だったら、一緒にいたいと思うのは普通じゃない?」 美月は小さく頷いた。「でも、蒼真さんには、仕事がありますし……」「仕事かどうか、聞いたの?」「え?」「忙しいって言われたから、勝手に仕事だと思ってるだけじゃないの?」 美月は言葉に詰まった。 確かに、蒼真は最近、具体的な予定を話してくれない。 ただ、帰りが遅くなるとか、今日は用事があるとか、それだけだった。「……そういえば、聞いてないです」「じゃあ、聞けばいいじゃない」 店長はあっさりと言った。「恋人なんだから、寂しい時は寂しいって
「……正直に言ってください。美味しくありませんよね?」 真剣な顔で尋ねる蒼真に、美月は困ってしまった。「ええと……味は、悪くないですよ?」「味は?」「じゃがいもが、ちょっと煮崩れちゃいましたけど」「……そうですね」「それに、水っぽいのも、煮込めば何とかなると思います!」 美月が励ますと、蒼真は深刻そうに鍋を見つめた。「つまり、失敗ですね」「初めてなんですから、当たり前ですよ!」 美月は慌てて首を振った。「私だって、最初から料理ができたわけじゃないですし。何度も作っているうちに、少しずつ上手になるんです」「……何度も」「そうです! また一緒に作りましょう!」 美月は笑顔で提案した。 ところが、蒼真は少し考え込んでから、静かに頷いた。「……そうですね」 その表情が妙に真剣だったことに、美月は気づかなかった。 翌日。 蒼真は仕事の合間に、秘書を呼び出した。「料理教室を探してほしい」「……料理教室、ですか?」 秘書は思わず聞き返した。「ええ。初心者向けで、できれば個別指導が受けられるところを」「承知しました。……ちなみに、どなたが通われるのでしょうか?」「私です」 秘書の手が止まった。「……社長が?」「何か問題でも?」「い、いえ!」 秘書は慌てて姿勢を正した。 蒼真は真剣だった。 美月が自分のためにお弁当を作ってくれたように、今度は自分が彼女を喜ばせたい。 そのためには、まず料理の腕を磨かなければならない。「できる
「蒼真さんがお弁当を?」 美月は思わず聞き返した。「ええ。いつも美月さんに作っていただくばかりでは申し訳ありませんから」「……本気ですか?」「もちろんです」 蒼真は至って真剣だった。 美月は少し考えてから、にっこり笑った。「じゃあ、まずは練習した方がいいですね!」「練習、ですか?」「はい! いきなりお弁当は難しいですから。まずは、一緒に晩ご飯を作ってみませんか?」 蒼真は嬉しそうに頷いた。「ぜひ、お願いします」 こうして、その日の夕食は二人で作ることになった。 子供を寝かしつけた後、美月は蒼真をキッチンへ案内した。「今日は簡単なものにしましょう。カレーとサラダでどうですか?」「いいですね」「じゃあ、まずは野菜を切ってもらえますか?」「分かりました」 蒼真は腕まくりをして、まな板の前に立った。 美月はじゃがいもを手渡した。「皮をむいてくださいね」「……皮を」 蒼真はピーラーを手に取り、しばらく眺めた。「美月さん」「はい?」「これは、どちら向きに使うのでしょうか」「……え?」 美月は目を瞬かせた。 まさか、そこからだったとは。「こうです。刃を当てて、手前に引くんですよ」「なるほど」 蒼真は慎重にピーラーを動かした。 ところが、力加減が分からないらしく、じゃがいもの表面が深く削れてしまった。「あっ、そんなに力を入れなくて大丈夫です!」「……難しいですね」 蒼真は真剣な顔で、じゃがいもと格闘していた。 美月は笑いそうになるのをこらえながら、隣で見守った。 ようやく皮をむき終えた
「……美味しいです」 卵焼きを一口食べた蒼真が、しみじみと言った。「本当ですか?」「ええ。先日のお弁当も美味しかったですが、今日の卵焼きは少し味が違いますね」「気づきました?」 美月は嬉しくなって身を乗り出した。「この前、甘さがちょうどいいって言ってくださったので、今日はお出汁を少し変えてみたんです」「私のために?」「もちろんです!」 蒼真は、もう一口卵焼きを食べた。 その表情があまりにも幸せそうで、美月まで嬉しくなってしまう。「……こういうの、いいですね」「でしょう?」「美月さんが作ってくださったものを、こうして外で一緒に食べる。想像していた以上に楽しいです」 美月は得意げに微笑んだ。「まだまだ、これからですよ!」 食事を終えた後は、芝生の上でのんびり過ごした。 子供を抱っこして園内を散歩したり、池の鴨を眺めたり。特別なイベントがあるわけではないけれど、それだけで十分楽しかった。 途中、子供がぐずり始めると、美月はベビーカーから荷物を取り出した。「そろそろ、おむつかな?」「私が交換しましょうか?」「えっ?」「昨夜、手順も確認しました」 蒼真は真剣だった。 美月は少し驚いた後、くすりと笑った。「じゃあ、一緒にお願いします」 二人でおむつ替えスペースへ向かい、美月が教えながら交換を済ませる。 蒼真は慣れない手つきながらも、一生懸命だった。「……思っていたより難しいですね」「でも、上手でしたよ」「次は、もっと手際よくできるようにします」 その言葉に、美月の胸が温かくなった。 蒼真は、ただお金を使って自分たちを喜ばせようとしているわけではない。 こうして、少しずつ自
「蒼真さん、準備できましたか?」「ええ。いつでも出られます」 約束の日曜日。 内扉を開けた美月は、蒼真の姿を見て目を瞬かせた。 いつものスーツではなく、シンプルなシャツにスニーカー。肩には、見慣れない大きなバッグを提げている。「……そのバッグ、どうしたんですか?」「赤ちゃんとの外出に必要なものを調べまして」 蒼真がバッグを開けると、おむつにおしり拭き、着替え、タオル、ビニール袋まで、きれいに整理されていた。「えっ、全部準備したんですか?」「はい。美月さんばかりに荷物を持たせるわけにはいきませんから」 美月は思わず笑顔になった。「ありがとうございます! 助かります」 蒼真も嬉しそうに微笑んだ。 今日は美月が作ったお弁当もある。保冷バッグをベビーカーの荷物入れに収め、三人は出発した。 駅に到着すると、蒼真はさっそく立ち止まった。「……こちらですね」「何がですか?」「エレベーターです。昨夜、駅の構内図で確認しました」「あ、本当だ!」 美月は驚いた。 普段は車移動の蒼真が、わざわざベビーカーでの乗り換え方法まで調べてくれたらしい。「すごいですね!」「いえ。調べただけですから」 そう答える蒼真の表情は、どこか誇らしげだった。 ところが、改札を抜けたところで問題が発生した。「……美月さん」「はい?」「電車は、どちらに並べばよろしいんでしょうか」 蒼真はホームを真剣に見つめていた。 乗車位置を示す印がいくつもあり、どこに並ぶべきか迷っているらしい。「こっちです。ベビーカーなら、このあたりが乗りやすいですよ」「なるほど」 蒼真は素直に美月の後ろについてきた。 やがて電車が到着