Masuk午後一時。
美月は蒼真とともに、法律事務所を訪れていた。
高層ビルの一角にあるオフィスは、落ち着いた雰囲気で統一されている。
「緊張していますか」
エレベーターを降りたところで、蒼真が静かに尋ねた。
「……少しだけ」
美月は正直に答えた。
弁護士に相談するなんて、生まれて初めてだ。
「大丈夫です」
蒼真はそれ以上励ますことはしなかった。
ただ、その一言だけで十分だった。
応接室へ案内されると、一人の男性弁護士が立ち上がる。
「初めまして。本日はお越しいただきありがとうございます」
穏やかな笑顔に、美月の緊張も少しだけ和らいだ。
「まずは、お話を伺います」
温かいお茶が運ばれてくる。
美月はゆっくりと、自分のこれまでを話し始めた。
妊娠したこと。
夫の浮気を知ったこと。
『確認しただけ、というのは?』 電話の向こうから、警察官の落ち着いた声が返ってきた。 拓也はソファに座ったまま答える。「美月がどこにいるか知らなかったんです」『奥様から住所を教えてもらったわけではないんですね?』「はい」『では、どうやって知ったんですか?』「病院から帰る車についていきました」 隠す理由はなかった。『車についていった?』「俺は車持ってないんで、タクシーで」 電話の向こうが一瞬静かになる。『奥様が乗っている車を、タクシーで追ったということですか?』「追ったっていうか、帰る場所を確認しただけです」『なぜ確認する必要があったんでしょう』「妻だからですよ」 拓也は眉を寄せた。 何を聞かれているのか、本当に分からなかった。「妊娠してる妻が、どこに住んでるかも分からないんですよ? 普通、心配するでしょう」『現在、離婚調停中ですよね』「だからって夫婦じゃなくなったわけじゃないですよね?」『以前、奥様への直接の連絡や接触は控えるよう、お話ししています』「してませんよ」 拓也はすぐに答えた。「電話もしてないし、メッセージも送ってません」『昨日、奥様を見かけて声を掛けていますね?』「名前呼んだだけです」『奥様は怖いと感じておられます』 拓也の顔が曇った。「……なんでですか?」『奥様は現在の居場所をあなたに知らせていませんでした。その場所の近くに突然あなたが現れたことにも、不安を感じています』「でも、何もしてないですよ」『今後は、奥様の居住場所の周辺へ行くことも控えてください』「なんで?」 拓也は思わず聞き返した。『奥様が接触を望んでいないからです』「会いに行かなければいいん
「警察にも連絡します」 車の中で、美月は藤崎からそう言われた。『病院の件もあります。今回のことと合わせて、これまでの経緯を整理して伝えましょう』「はい」 美月はスマートフォンを握りしめる。 スーパーで拓也を見た時の顔が、頭から離れない。「でも……どうして、あそこが分かったんでしょう」『それは現時点では分かりません』「実家にも病院にも来て……今度はここまで……」『朝倉さん』 藤崎の落ち着いた声が返ってくる。『今はご自身で確認しようとしないでください』「……はい」『ご主人に連絡して理由を聞くこともしないでください。こちらで対応します』「分かりました」 通話を終える。 蒼真は何も聞かず、車を走らせていた。 美月は窓の外を見る。 いつもの道。 いつもの建物。 なのに、昨日までとはまるで違って見えた。「……戻って大丈夫でしょうか」「確認してから入りましょう」「はい」 建物の周辺を一度通り過ぎる。 拓也の姿はない。 少し時間を置いてから戻り、地下の駐車場へ入った。 部屋に着いて、ようやく美月は息を吐いた。「九条さん」「はい」「すみません。また……」 そこまで言って、美月は止まった。 また謝ろうとしている。「……ありがとうございます」「はい」 蒼真はそれだけ答えた。 しばらくして、美月のスマートフォンが鳴った。 藤崎からだった。『警察にも状況を伝えました』「はい」
翌日。 拓也は朝から、スマートフォンの地図を開いていた。『美月の家』 昨日登録した場所。 画面を拡大すれば、建物の形まで表示される。「ここなんだよな」 昨日は、美月に会えなかった。 部屋番号も分からない。 それでも、もう探す必要はなかった。 拓也は検索画面を開く。 建物名を入力する。 物件情報や周辺の店が表示された。 スーパー。 コンビニ。 ドラッグストア。「買い物するなら、この辺か」 美月が一人で外へ出ることもあるはずだ。 そう思った。 会いに行くわけではない。 連絡するわけでもない。 ただ、近くへ行くだけ。「それなら問題ないだろ」 拓也は地図を閉じた。 午後。 美月は藤崎からの電話を受けていた。『次回の調停期日について連絡がありました』「はい」 日程を確認する。 前回から、拓也の意思が変わったとは思えない。「また、離婚しないって言うんでしょうか」『その可能性はあります』「そうですよね」『ただ、調停で合意できない場合は、それを踏まえて次の手続きについて考えることになります』「分かりました」 美月はもう、その言葉に怯えなかった。「次も行きます」『はい。こちらでも準備しておきます』 通話を終える。 その日は食材が少なくなっていた。 蒼真へ頼むこともできる。 けれど、近くの店までなら自分で行ける。「牛乳だけ買ってこようかな」 財布とスマートフォンをバッグへ入れる。 外へ出ることに、以前ほど怖さを感じなくな
一歩進んだところで、拓也は立ち止まった。 エントランスの前にはオートロックの操作盤がある。 部屋番号を知らない。「……何号室だ?」 建物を見上げても分かるはずがない。 美月がここにいる。 そこまでは突き止めたのに。 あと少しなのに、呼び出すことすらできない。「九条に聞くわけにもいかないし」 拓也はエントランスから少し離れた。 考える。 美月が外へ出てくればいい。 買い物に行くかもしれない。 散歩くらいするかもしれない。「待ってれば会えるか」 そう思うと簡単だった。 拓也は建物が見える場所まで移動した。 近くの店に入り、窓際の席へ座る。 病院でしていたことと、ほとんど同じだった。 ただ待つ場所が変わっただけ。 スマートフォンを眺めながら、時々エントランスを見る。 一時間。 二時間。 美月は出てこない。「今日は出ないのかな」 拓也はコーヒーを飲んだ。 それでも帰ろうとは思わなかった。 ここに美月がいる。 そう思うだけで、不思議と落ち着いた。 午後。 美月は部屋で洗濯物を畳んでいた。 健診の帰りに蒼真から、「必要なものはありますか?」 と聞かれたが、今日は何も頼まなかった。 冷蔵庫にも食材はある。 日用品も足りている。 久しぶりに、静かな午後だった。 スマートフォンが鳴る。 母からだった。「もしもし?」『美月? 今、大丈夫?』「うん」『この前言ってた録画できるインターホン、付けてもらったよ』「もう?」『お父さんが早い方がいいって』「そっか。ありがとう」『これで誰か来ても確認できるから』「うん」 美月は少し安心した。 拓也から両親への接触は、あの手紙以降ない。 それでも、備えておくに越したことはない。『あんたの方は大丈夫?』「大丈夫だよ。病院のことも、ちゃんと対応してもらってるし」『ならいいけど』「心配しないで」 通話を終える。 美月はスマートフォンを置き、窓の外を見た。 何も変わらない景色。 ここへ来てから、ようやく安心して眠れるようになった。 拓也には知られていない。 だから安全なのだと思っていた。 その頃。 拓也は三杯目の飲み物を注文していた。「……出てこないな」 夕方が近い。 さすがに今日は諦めようか。 そう思った時だった。 建物
次の健診候補日。 拓也は朝から病院の近くにいた。 今日は、いつもの店には入らなかった。 病院の車寄せが見える場所を歩きながら、時々スマートフォンを確認する。「まだかな」 美月が来る保証はない。 前回から考えれば、今日あたりではないか。 ただ、それだけだ。 それでも拓也は待った。 一時間。 二時間。 昼を過ぎても、美月は現れない。「今日じゃないのか」 拓也は残念そうにスマートフォンを開いた。 次の候補日は二日後。「じゃあ、また来ればいいか」 その日は何もせず帰った。 二日後。 拓也は再び病院へ向かった。 午前中から待っていると、昼前になって見覚えのある車が現れた。「来た」 拓也の顔に笑みが浮かぶ。 蒼真の車だった。 助手席から美月が降りる。 以前より、歩き方が少しゆっくりしているように見えた。「お腹、大きくなったからかな」 拓也は目を細める。 美月が病院へ入ったのを確認すると、スマートフォンを取り出した。 近くでタクシーを拾える場所を確認する。 今日は準備してきた。 美月が診察を終えるまで待つ。 やがて。 美月が病院から出てきた。 少し遅れて、蒼真も姿を見せる。 拓也はすぐに移動した。 道路沿いでタクシーに乗り込む。「すみません」「はい」 拓也は前方を見る。 蒼真の車が動き始めた。「あの車と同じ方向に行ってください」 運転手が一瞬、前を見る。「あちらの車ですか?」「はい。知り合いなんです」 拓也は何でもないことのように答えた。 タクシーが発進する。
次の健診日まで、拓也は何度もカレンダーを確認していた。 今度は、ただ美月を見るだけではない。 どこへ帰っているのか。 それを知りたかった。「九条の家なのかな」 拓也はスマートフォンで、蒼真の名前を検索する。 九条グループの代表取締役。 記事や写真はいくつも出てくる。 だが、当然ながら自宅の住所など載っていない。「どこにいるんだよ……」 拓也は画面をスクロールする。 美月が今どこで暮らしているのか。 九条と一緒に住んでいるのか。 それとも、九条がどこか別の場所を用意したのか。 何も分からない。「まあ、次で分かるか」 拓也は画面を閉じた。 その頃。 美月はサービスアパートメントで、次の調停について藤崎と話していた。『このまま双方の意思が変わらない場合、調停での成立は難しいでしょう』「はい」『次回の状況を見て、今後について改めて相談しましょう』「分かりました」 美月は落ち着いて答えた。 拓也が離婚を拒否し続ける。 それ自体は、もう予想している。「時間がかかっても大丈夫です」『はい』「私は戻りませんから」 自分の口から自然に出た言葉だった。 通話を終えたあと、美月は少しだけ笑った。 以前は、離婚できなかったらどうしようと考えていた。 今は違う。 すぐに離婚できなくても、拓也のところへ戻る必要はない。 それだけでも気持ちはずいぶん楽だった。 そして数日後。 拓也が待っていた日が来た。 朝から病院







