ログイン病院を離れたあとも、車内には重苦しい空気が流れていた。
運転席の拓也は、ハンドルを握ったまま一言も話さない。
助手席の和江も黙って前を向いていた。
信号待ちで車が止まる。
その時、和江がぽつりと口を開いた。
「見たでしょう?」
拓也は小さく頷く。
「ああ……」
「あんな美月さん、見たことないわ」
和江は首を横へ振る。
「あなたに向かって、あんなことを言う子じゃなかったもの」
拓也は病院でのやり取りを思い返す。
『私は、あなたとは話しません』
『もう我慢するのをやめただけです』
美月は、はっきりそう言った。
頭では理解している。
あれは美月自身の言葉だった。
けれど、心が認めようとしない。
「俺が知ってる美月は……」
拓也は苦しそうに呟く。
家庭裁判所を出た拓也は、不機嫌そうに歩いていた。 美月とは一度も顔を合わせなかった。 同じ建物にいたはずなのに。 自分は直接話したいと何度も伝えたのに。「何のための話し合いなんだよ……」 拓也はスマートフォンを取り出した。 美月へ電話を掛けたい。 けれど、警察から注意され、藤崎からも直接連絡しないよう繰り返し言われている。 さすがに今は掛けられなかった。 そのまま自宅へ戻る。「お帰り」 和江がリビングから顔を出した。「どうだった?」「駄目」 拓也はソファへ座る。「美月、離婚するって言ってる」「まだそんなこと言ってるの?」「しかも、俺と会いたくないって」「会ってもないの?」「一回も」 拓也は苛立ったように髪をかき上げた。「俺は直接話したいって言ったんだよ。でも、美月が嫌だって言ったから駄目だって」「それじゃ話し合いにならないじゃない」「だろ?」 和江に同意され、拓也は勢いづく。「調停委員も俺の話を聞いてはくれたけど、結局、美月が嫌だって言ったらそれで終わりなんだよ」「弁護士も一緒だったんでしょう?」「ああ」「じゃあ、やっぱり周りにいろいろ言われてるんじゃない?」「俺もそう思う」 拓也は迷わず頷いた。 美月が自分の意思で会いたくないと言っている。 その可能性を、二人とも考えようとはしなかった。「次はいつなの?」「また連絡が来る」「それまで待つしかないわね」「……」 拓也は黙った。 待つ。 それが、ひどく長い時間に思えた。「母さん」「何?」「美月、もう腹大きくなってるかな」「そりゃ、少しずつ大きくなってるでしょうね」「……子どもが生まれるまでに戻ってこなかったらどうなるんだろ」 和江も答えなかった。 拓也は初めて、その可能性を具体的に考えた。 美月が戻ってこないまま出産する。 自分の知らない場所で、自分の子どもが生まれる。「それは嫌だ」 低い声が漏れる。「俺の子なのに」 和江が顔を上げる。「まだ時間はあるでしょう」「でも、調停なんかやってたら……」 拓也は唇を噛んだ。 自分が離婚を拒否していれば、美月は妻のままだ。 それで安心していた。 けれど。 結婚しているからといって、美月が帰ってくるわけではない。 子どもに会える保証もない。 その当たり前のこ
数週間後。 離婚調停の日がやってきた。 美月は家庭裁判所の前で、小さく息を吐いた。「緊張しますね……」 隣には藤崎がいる。「今日は、ご自分の考えをそのまま話せば大丈夫ですよ」「はい」 美月は頷いた。 ここまで来た以上、もう引き返すつもりはない。 建物へ入り、案内された待合室へ向かう。 拓也とは別の場所で待つことになっていた。 それでも、同じ建物のどこかに拓也がいる。 そう思うだけで、身体が少し強張った。 やがて名前を呼ばれ、美月は藤崎とともに調停室へ入った。 調停委員から、まず現在の状況や離婚を希望するまでの経緯を尋ねられる。「離婚を希望されているということで、間違いありませんか?」「はい」 美月ははっきり答えた。「離婚したいです」「ご主人は、夫婦関係を修復したいというお考えのようです。それを踏まえても、お気持ちは変わりませんか?」「変わりません」 美月は迷わなかった。「もう戻るつもりはありません」「分かりました」 調停委員はそれ以上、美月を説得しようとはしなかった。 続いて、これまでの経緯を確認される。 拓也の浮気を知ったこと。 家を出たこと。 その後も何度も連絡や接触が続いたこと。 実家やカフェへ来たこと。 警察へ相談したこと。 第三者を通じて手紙を届けてきたこと。 美月は藤崎の助けを借りながら、一つずつ説明していった。「現在、ご主人と直接連絡を取ることには抵抗がありますか?」「はい」「今後の連絡についても、代理人を通してほしいというご希望ですね」「はい。直接会って話すつもりもありません」「分かりました」 調停委員が記録を取る。
拓也は家庭裁判所から届いた書類を、何度も読み返していた。「……意味分かんない」 離婚調停。 文字を見れば見るほど、苛立ちが込み上げてくる。「美月、本気で離婚するつもりなのか?」「でも、調停なんでしょう?」 和江が向かいから書類を覗き込む。「話し合いをするだけじゃないの?」「たぶん」「だったら、離婚したくないって言えばいいじゃない」 拓也は顔を上げた。「そうだよな」「あなたが嫌だって言ってるのに、勝手に離婚なんてできないでしょう」 和江の言葉に、拓也は少し安心した。「俺は絶対に離婚しない」 そう口にすると、ようやく気持ちが落ち着いてくる。 美月が何を言っても、自分が拒否すればいい。 そう思った。 けれど。「……何て言えばいいんだ?」「何が?」「調停で」 拓也は書類をテーブルへ置いた。「離婚したくない理由、聞かれるだろ」「そんなの決まってるじゃない」 和江は当然のように答える。「子どものためよ」「子ども……」「もうすぐ父親になるんでしょう? 父親が必要だって言えばいいじゃない」「そうだよな」 拓也の表情が明るくなる。「俺だって子どものことは考えてる」 まだ生まれていない。 顔も見たことがない。 それでも、自分の子どもだ。「美月だって、一人で育てるより俺がいた方がいいに決まってる」「そうよ」「仕事だってしてないんだし」 拓也はそこまで言って、黙った。 今、自分も無職だった。「……でも、俺はこれから働けばいい」「
数日後。 美月は藤崎の事務所を訪れていた。「では、離婚調停を申し立てる方向で進めます」「はい」 美月はしっかりと頷いた。 拓也が話し合いでの離婚に応じない以上、いつまでも返事を待っているつもりはない。「調停になったら、拓也と会わないといけないんですか?」「基本的には、同じ場所で直接話し合うわけではありません」 藤崎が説明する。「裁判所では、それぞれ別の待合室で待機して、調停委員を介して話をする形になります。事情についてはこちらからも伝えておきます」「そうなんですね」 美月は少しだけ肩の力を抜いた。 拓也と顔を合わせなければならないのではないか。 それが一番不安だった。「ただ、ご主人がどういう主張をするかは分かりません」「……はい」「これまでの経緯についても整理しておきましょう」 藤崎は手元の資料へ視線を落とす。 拓也の浮気。 家を出てから繰り返された連絡。 実家やカフェへの訪問。 警察への相談。 第三者を使って届けられた手紙。 一つずつ並べていくと、美月自身が思っていた以上に多かった。「こんなにあったんですね……」「そうですね」 藤崎は淡々と答える。「記録が残っているものは、今後のためにもまとめておきます」「お願いします」 事務所を出る頃には、美月は少し疲れていた。 けれど、不思議と後悔はなかった。 もう待たない。 そう決めてから、少しずつ前へ進んでいる。 建物の外へ出ると、蒼真の車が停まっていた。 美月に気付いた蒼真が、運転席から降りる。「お疲れさまでした」「ありがとうございます」 車へ乗り込んでから、蒼真が尋ねる。「今日はどうでした?」「離婚調停を申し立てることになりました」「そうですか」「やっぱり少し緊張しますけど」 美月は苦笑した。「でも、拓也が離婚してくれるのを待ってるよりいいと思います」「はい」「裁判所で直接顔を合わせなくていいみたいなので、それはちょっと安心しました」「それなら良かったです」 蒼真はそれ以上、離婚について口を挟まなかった。 そのことが、美月にはありがたかった。 自分で決める。 蒼真は、その決断を邪魔せずに支えてくれる。「終わったら、何か食べて帰りませんか?」 不意に蒼真が言った。「え?」「昼食には少し遅くなりましたが、まだ何も
藤崎からの電話を切ったあとも、拓也はしばらくその場に立ち尽くしていた。 美月は手紙を読んだ。 それなのに、帰ってこない。 離婚する意思も変わっていない。「……なんでだよ」 拓也はソファへ座り込んだ。「俺、ちゃんと書いたよな?」 和江が向かいに座る。「書いたわよ。私も読んだもの」「だったら、普通は少しくらい返事するだろ」「そうね……」「それすらしないって、おかしくない?」 拓也は納得できなかった。 何度も謝った。 やり直したいと伝えた。 九条とのことまで許すと書いた。 それでも美月は、自分を拒絶した。「やっぱり、九条が何か言ってるんだ」 拓也が呟く。「弁護士も美月本人の意思だって言ってたけど、そんなわけない」「拓也……」「だって、あいつはこんな女じゃなかった」 以前の美月なら、拓也が怒れば謝った。 頼めば家事もしてくれた。 多少不満があっても、最後には自分に合わせてくれた。 それが拓也にとっての「美月」だった。「急に人間が変わるわけないだろ」 拓也はそう言い切った。 一方。 サービスアパートメントでは、美月が藤崎からの報告を受けていた。『ご主人には、手紙を受け取ったことと、直接返答する意思がないことを伝えました』「ありがとうございます」『今後の連絡についても、改めてこちらを通すよう伝えています』「はい」『また何かあれば、すぐにご連絡ください』「分かりました」 通話を終える。 美月は小さく息を吐いた。
三日目の朝。 拓也は目を覚ますと、真っ先にスマートフォンを確認した。 通知はいくつか届いている。 けれど、どれも美月からではない。「……まだかよ」 ベッドの上で、何度も画面を更新する。 手紙は確実に届いている。 知り合いが、美月の実家に届けたと言っていた。 なら、美月は読んでいるはずだ。 それなのに、何の返事もない。 拓也は身体を起こした。「考えるって言っても、三日もかかるか?」 もちろん、美月は考えるとは一言も言っていない。 それでも拓也の中では、返事がない理由は「迷っているから」になっていた。 リビングへ行くと、和江がテレビを見ていた。「母さん」「何?」「まだ美月から返事ないんだけど」「そうなの?」「もう三日だよ」 和江は少し考える。「手紙、本当に美月さんが受け取ったの?」「実家には届けたって」「でも、お母さんが美月さんに渡さなかった可能性もあるんじゃない?」 拓也の動きが止まった。「……え?」「だって、あっちのご両親もあなたに怒ってるんでしょう?」「……」「美月さんに見せないで、勝手に捨てたとか」 拓也の表情が変わっていく。「ありえる……」 自分の手紙を読んでも返事をしない。 その可能性よりも、誰かが美月へ届けなかったと考える方が、拓也には受け入れやすかった。「じゃあ、美月は読んでないのかもしれない」「そうかもね」「だったら、返事がないのも当然じゃん」 拓也は立ち上がった。 何か別の方法で、美月本人に届けなければならない。 しかし、すぐに昨日の知







