LOGIN運命の番を見抜ける唯一の監査官でありながら、自分には番が存在しないと思っていた女性が、調査対象である冷血アルファ王こそ自分の番だと知り、王国を揺るがす偽造刻印事件に巻き込まれていく契約結婚ロマンス。
View More王の即位式を止めるのなら、もう少し劇的な方法があったのかもしれない。
祭壇へ駆け上がるとか、衛兵を振り切って王の前に立ちはだかるとか、あるいは大勢の貴族が見守る中で「その男は王に相応しくありません」と叫ぶとか。
けれど、私は昔からそういう芝居がかったことが苦手だった。
だから北方七群の代表者と王国の重臣、それに神殿の高位司祭までが息を潜めて見守る荘厳な即位式の最中、私は監査官用の黒い手袋を外しながら、ごく普通の声で言った。
「恐れ入りますが、その即位式、一度止めていただけますか」
一瞬、誰も意味を理解しなかったのだと思う。
大聖堂に響いていた聖歌が止まり、銀の香炉を持っていた少年司祭がぽかんとこちらを見て、その少年の横にいた老司祭が「え?」と非常に格式のない声を漏らした。
私としては、そちらのほうが少し面白かった。
もちろん笑える状況ではない。
「何者だ」
低い声が大聖堂の奥から落ちてきた。
声を荒らげたわけでもないのに、空気が変わる。
祭壇の中央に立つ男――北方七群を実質的に統べるアルファ王、カエル・ドラヴェンが私を見ていた。
黒髪。
金の瞳。
即位式用の黒衣には銀糸で王家の狼が刺繍され、肩から垂れた黒い毛皮まで含めれば、これほど「近寄ったら噛み殺します」と全身で主張している男も珍しい。
実際、噛み殺すどころでは済まないという噂だった。
反乱を起こした南部のアルファを一晩で鎮圧した。
三年前の国境戦争では敵将七人を自ら討った。
裏切った家臣を笑顔一つ見せずに処刑した。
私が王都に入ってから聞かされた話だけでも、人間が食事中にする話題としては胃にもたれるものばかりだった。
そんな男が、私を見ている。
「月印監査院所属、上級監査官リア・ヴェイルです」
「知っている」
「あら」
思わず言ってしまった。
カエルの眉がわずかに動く。
「私、有名でしたか」
「俺の即位式の二日前に王都へ入り、到着早々、宿屋の主人夫婦の番契約が偽造だと暴き、その翌日には西門守備隊長の重婚を摘発した女だろう。嫌でも報告書が上がってくる」
「後者は私ではありません。重婚を見つけたのは守備隊長の奥様です。私は契約書を確認しただけです」
「今、その訂正が必要か?」
「事実は正確であるべきですので」
左右から何とも言えない視線が突き刺さる。
駄目だ。
初対面の王に対する態度ではなかった。
分かってはいる。
けれど、王だからといって間違っている記録をそのままにされるほうが落ち着かない。
カエルは数秒間、私を見た。
怒るかと思った。
ところが彼は、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「なるほど。報告どおりだ」
「どういう意味でしょう」
「面倒な女だという意味だ」
「奇遇ですね。陛下について提出された資料にも似たようなことが書かれていました」
今度こそ大聖堂が凍りついた。
誰かが小さく咳き込む。
私は少し後悔した。
半分だけ。
「監査官殿」
祭壇脇から、痩せた高位司祭が進み出た。
「あなたが月印監査院から正式に派遣された方であることは承知しております。しかし今は陛下の即位式です。監査については式典終了後、しかるべき場所で――」
「それでは遅いから止めています」
「遅い?」
「はい」
私は鞄から一枚の書類を取り出した。
途端に、周囲の視線がそこへ集まる。
「三日前、月印監査院へ匿名の告発状が届きました。内容は、カエル・ドラヴェン陛下が王位継承資格を得るため、番刻印を人工的に偽造しているというものです」
ざわめきが爆発した。
「馬鹿な!」
「王への侮辱だぞ!」
「番刻印の偽造など……」
「静まれ」
カエルが一言発すると、それだけで声が消えた。
やはり王というのは便利な職業らしい。
私が監査院で「静かにしてください」と言っても、だいたい三回は言わないと誰も聞かない。
「続けろ」
「よろしいのですか?」
「止めたのはお前だろう」
「それもそうですね」
「……お前は俺を苛立たせたいのか?」
「違います。ただ、緊張すると余計なことを言う癖がありまして」
「緊張しているようには見えないが」
「そう見えるよう訓練しました」
嘘だった。
実際、心臓はかなりうるさい。
これだけの狼人族が集まった大聖堂の中央で、その頂点に立つ男へ「あなたは不正をしているかもしれません」と告げているのだ。
怖くないわけがない。
膝が震えていないだけでも、自分を褒めてやりたいくらいだった。
私は息を整えてから、告発状を掲げた。
「北方王位継承法、第十二条。王位継承者は、成人後に生じた番刻印または月神殿が認定した単独継承の証明を提出する必要があります。陛下の場合、三年前に胸部へ出現した番刻印が王位継承資格の根拠の一つとなっています」
「ああ」
「ですが、その刻印には相手側の記録が存在しません」
「相手が見つかっていない。それだけだ」
「通常ならそうです。しかし――」
ここから先を言えば、後戻りはできない。
もともと戻るつもりなどなかった。
「事前に提出された魔導写本を確認したところ、陛下の刻印には三箇所、不自然な魔力の断絶がありました。自然発生した番刻印には通常見られないものです」
重臣たちの顔色が変わった。
カエルだけは動かなかった。
「つまり?」
「偽造である可能性があります」
今度は誰も声を出さなかった。
静かすぎて、天井近くで燃える蝋燭の音まで聞こえそうだった。
「陛下」
「なんだ」
「確認させていただけますか」
「ここでか?」
「ここだから意味があります。別室へ移動したあとでは、刻印そのものが交換された、監査院と王家が裏取引をした、私が脅されたなど、いくらでも余計な疑惑が生まれます」
「俺がお前を脅すかもしれないとは考えないのか」
「考えています」
これは即答した。
カエルがわずかに目を細める。
「ずいぶん正直だな」
「監査官なので」
「便利な言葉だ」
「ええ。気に入っています」
カエルがゆっくり祭壇から降りてきた。
一段。
二段。
磨き抜かれた黒い靴が石床を踏むたび、周囲の人々が自然と道を空ける。
私の目の前まで来ると、想像していた以上に大きかった。
私は背が低いほうではない。それでも見上げなければ顔が見えない。
それに、近い。
狼人族のアルファには特有の圧力がある。
弱い者なら、それだけで膝をつくこともあると聞く。
けれど私には狼としての本能がほとんどない。
いわゆる無月者。
狼へ変身できない、半端者。
だからだろうか。
周囲の者が息すら詰めているのに、私が感じたのは恐怖より先に――妙な匂いだった。
森。
雨。
それから、冷たい石のような匂い。
胸の奥が、ほんの少しだけ疼いた。
何だろう。
「どうした」
「いえ」
「顔色が変わった」
「陛下が思ったより大きかったので、少し腹が立ちました」
「なぜ俺の身長でお前が腹を立てる」
「見上げ続けると首が疲れます」
「……本当に面倒だな、お前」
「先ほども聞きました」
そのときだった。
カエルが自分の胸元へ手をかけた。
留め具を外し、黒い正装の襟をわずかに開く。
ざわ、と女性たちの間から妙な空気が流れた。
私はそちらを見ないことにした。
「確認しろ」
「では失礼します」
私は右手の手袋を完全に外した。
監査には素手で触れる必要がある。
他人の番刻印。
偽りの契約。
強制された絆。
私には、それらに生じる小さな亀裂が見える。
なぜそんなものが見えるのかは分からない。
幼い頃からそうだった。
ただ、その能力のおかげで私は生きてこられた。
狼になれない役立たずではなく、監査官リア・ヴェイルとして。
「触れます」
「ああ」
「嫌でしたら今のうちに言ってください」
「俺にそれを聞くのか」
「本人の同意なく身体へ触れるのは嫌いなんです」
カエルは一瞬黙った。
その沈黙だけが妙に長かった。
「……構わない」
「ありがとうございます」
胸元に指先を伸ばす。
銀色の刻印は左胸、心臓に近い場所に浮かんでいた。
欠けた月。
その周囲を囲む獣の牙。
相手側の紋様が存在しないため、完成していない。
指先が触れる。
その瞬間。
「――っ」
世界から音が消えた。
熱い。
いや、痛い。
胸の奥へ直接、焼けた針を突き刺されたような痛みが走り、私は反射的に手を引こうとした。
だが、その前にカエルが私の手首をつかんだ。
「待て」
「離して――」
言い終わらなかった。
銀色の光が弾けた。
誰かが悲鳴を上げた。
私の手首が、焼けるように熱い。
「何……これ……」
そこには、今まで存在しなかった印が浮かんでいた。
銀色の三日月。
その周囲を囲む獣の牙。
カエルの胸にあるものと、鏡合わせの紋様。
同時に、彼の胸の不完全だった刻印が光り、欠けていた部分が埋まっていく。
完成してしまった。
「番だ……」
どこかで誰かが呟いた。
「陛下の番だ」
「月神よ……」
「王妃だ!」
声が広がった。
ひとり。
二人。
やがて大聖堂中の狼人族が、一斉に膝をついていく。
何なの。
冗談じゃない。
私は自分の手首をこすった。
消えない。
監査官として何百という刻印を見てきた。
偽物も見た。
本物も見た。
そして嫌になるほど理解している。
この光り方。
この魔力の流れ。
この異様なほど自然な馴染み方。
どう見ても――
「見つけた」
低い声がした。
顔を上げる。
カエルが私を見ていた。
さっきまでの冷たい王の顔ではない。
金色の瞳の奥で、何か獣じみたものが揺れている。
私の手首をつかむ指が、わずかに強くなった。
「お前だったのか」
「何がです」
「三年前から、俺の刻印の先にいた女だ」
「それはまだ――」
「俺の番」
その言葉を聞いた瞬間。
腹が立った。
怖かったからかもしれない。
混乱していたからかもしれない。
けれど何より私は、周囲の人々の目が一瞬で変わったことが嫌だった。
さっきまで私は、王を告発した不届きな監査官だった。
それが今では、王の番。
未来の王妃。
私という人間そのものが、たった一つの刻印で別物にされた。
十七歳のあの日と同じだ。
――お前が私の番であるはずがない。
胸の奥に古い声が蘇る。
嫌だ。
もう二度と。
私はカエルの手を振り払った。
「違います」
大聖堂中から視線が集まる。
カエルの眉が寄った。
「何が違う」
「私は、あなたの番だとは認めません」
「……刻印が出ている」
「見れば分かります」
「俺の刻印も完成した」
「それも見れば分かります」
「では何が不満だ」
「そういうところです」
「どういうところだ?」
心底分からないという顔をされたので、余計に腹が立つ。
「刻印が出た。だから番だ。はい、今日から王妃です。そんな話を、監査官である私がそのまま受け入れると思いますか?」
「本物の刻印に見えるが」
「私にもそう見えます」
「だったら――」
「だから調べるんです」
私はカエルの胸を指した。
「そもそも私は、あなたの刻印が不自然だからここへ来たんです。その私が触れた途端に都合よく対になる刻印が現れて、それで『ああ、本物でした。めでたしめでたし』と帰ったら、監査院の同僚に笑われます。いえ、笑われるだけならまだしも、院長に報告書を投げ返されます」
「今、王妃になるかもしれない話をしているんだぞ」
「私には報告書のほうが現実的です」
カエルが黙った。
私は手首の銀色の刻印を睨みつける。
「それに」
「まだあるのか」
「あります」
「言え」
「私は運命という言葉が嫌いです」
今度こそ、彼の表情からわずかな余裕が消えた。
「運命だから結婚する。運命だから愛する。運命だから一生離れられない。便利ですよね、自分で決めなくていいんですから。でも、その運命が間違っていたとき、誰が責任を取るんです?」
答えはなかった。
私は静かに息を吐いた。
「ですから、陛下。この刻印も監査します」
「俺との番契約を?」
「ええ」
「王家始まって以来かもしれないぞ。自分自身の番刻印を偽物だと疑う監査官は」
「光栄です」
「褒めていない」
「知っています」
しばらく、私たちは睨み合った。
先に視線を逸らしたほうが負け、という子供じみた意地が途中から混ざっていた気がする。
困ったことに、カエルもかなり負けず嫌いらしい。
最終的に、彼が小さく息を吐いた。
そして。
笑った。
本当に少しだけ。
けれど噂に聞いていた冷血王が笑うとは思っていなかったので、私は何も言えなくなった。
「いいだろう」
「……何がです」
「調べろ」
「もちろん、そのつもりですが」
「最後まで聞け」
「はい」
「お前の言う通り、この刻印が偽物なら暴けばいい。俺が王位のために作ったというなら、その証拠も探せ。ただし」
再びカエルが私の手首をつかんだ。
今度は振り払える程度の力だった。
だからこそ、妙に意識してしまった。
銀色の刻印同士が近づく。
どくん、と心臓が跳ねた。
自分の鼓動なのか。
彼の鼓動なのか。
一瞬だけ、分からなかった。
「証明するまでは、俺のそばにいろ」
「嫌です」
「即答するな」
「条件が大雑把すぎます。『そば』とは具体的に何メートルですか。それに期間も――」
「リア・ヴェイル」
初めて名前を呼ばれた。
なぜか、それだけで背筋がぞくりとした。
カエルは私を見下ろし、金色の目を細めた。
「ならば証明しろ」
周囲には、まだ膝をついたままの者たちがいる。
祭壇には王冠。
私の手首には、つい数分前まで存在しなかった銀色の刻印。
そして目の前には、王国で最も面倒そうな男。
「お前が俺の番ではないということを――俺のそばでな」
その瞬間、私は確信した。
今回の監査。
たぶん、ものすごく面倒なことになる。
そして私はまだ知らなかった。
この日、私の手首に現れた銀色の刻印が、たった一人の王との結婚だけではなく――王国そのものを壊しかねない秘密へつながっていることを。
もちろん、そのときの私はそんな大それた未来など想像もせず、ただ一つの現実的な問題について考えていた。
――王宮滞在になったら、監査院の日当は増額されるのだろうか。
我ながら色気のない話だった。
けれど運命より日当のほうが信用できる。
少なくとも、このときの私は、本気でそう思っていた。
第60話 あなたの気持ちが聞こえなくなっても、私はあなたの隣にいられますか? 自分から提案した処置なのだから、当日の朝になって怖くなったとしても、それを理由に逃げるつもりはなかったけれど、北境第三静養所の臨時処置室でカエルと向かい合って座り、老医師が私たちの刻印を繋いでいる三本の共有経路へ月銀製の封鎖針を並べたとき、私は昨夜まで考えていた以上に、この小さな処置を恐れている自分へ気づかされた。 刻印そのものを消すわけではなく、真正な番であるという事実も変わらず、処置が順調なら将来また共有を開くこともできる。それでも、冠戴式で初めてカエルへ触れて以来、疑おうとしても嫌おうとしても、いつも胸のどこかに存在していた彼の気配が一度完全に消えるのだと思うと、自分の身体の一部を切り離すような不安があり、私は処置直前になってから、無意識に彼の手をかなり強く握ってしまっていた。「リア、痛いわけではないんだよな」 カエルが私の手を握り返しながら尋ねたので、私は少し恥ずかしくなりながらも、ここで平静なふりをする意味はないと思って正直に答えた。「痛くはありませんが、今になってかなり怖くなりました。昨日は『便利ではない方法を覚えましょう』なんて偉そうなことを言いましたけれど、本当にあなたの気持ちが聞こえなくなると思うと、自分で提案しておきながら中止したくなるくらいには嫌です」「それなら、まだ止めてもいい」「あなたは止めたいですか」「聞かれると困るな。俺個人の気持ちだけなら、今すぐ全部片づけて、お前を連れてこの施設から帰りたいくらいには止めたいが、それをやれば白狼封印の負荷が残り、母親のところへも行けなくなるんだろう」「はい。それに北へいる誰かが私を強制覚醒させようとしている以上、ここから逃げれば問題がなくなるわけでもありません」「なら、俺も同意は変えない。ただし、怖くなったことまで我慢するな。昨日までのお前なら、『自分で決めたから平気です』と言いそうだから、そこだけは先に言っておく」「最近、本当に扱いが上手くなりまし
第59話 王の番でいる限り白狼が目覚めるなら、私はこの刻印を一度閉じます 北境第三静養所の第一封鎖区画で、「保存対象S」が三か月前まで生命活動を維持していたという記録と、セラ・ルネアが眠っている理由について「彼女の中へ封じられたものまで目覚めるから起こしてはならない」という警告を得たあと、私は本来なら一刻も早く施設の深部へ降りて母の所在を確かめたかったのだけれど、ユアンが見つけた別の記録が、その衝動へかなり冷たい水を浴びせることになった。「リア監査官、これを見てください。十九年前にセラ夫人があなたへ施した封印について、最終調整記録が残っていますが、これまでヴェイル邸地下で見つかったものより条件設定が細かく書かれています」 ユアンが差し出した記録板には、幼い私の身体を示す月脈図と、その周囲を何重にも囲む封印術式が描かれており、中央の白狼核そのものより、外側から入ってくる魔力を遮断するための層へ大量の術式が使われていた。「白狼核を内側へ押さえ込む封印より、外部との接続を遮る層のほうが大きいですね。これなら母が恐れていたのは白狼が勝手に暴れることだけではなく、外から何かへ接続されることだったという第58話の資料とも一致します」「はい。それに、遮断対象が具体的に記録されています」 私はユアンが示した行を読んだ。『高濃度王血月脈との継続共鳴を禁止』 その下にはさらに、『月鏡中枢からの同期信号を遮断』『白狼核に対する番系統経由の外部座標付与を拒否』とあり、十九年前の母が、まだ十歳だったカエルを含む王血候補との接触をなぜ避けようとしていたのかが、少しずつ一つの構造として見え始めていた。「番系統経由の外部座標付与というのは、三年前にカエルの刻印へ月鏡の未来候補情報が入れられ、その刻印を介して冠戴式のとき私へ共鳴したこととも繋がりますね」「その可能性が高いと思います。ただし、十九年前の記録なので、セラ夫人が三年前の具体的な処置まで予測していたとは考えないほうがいいでしょう。おそらく当時から、王血と白狼を番系統で接続し、その経路を使っ
第58話 母が私を封じた理由は、「強すぎたから」ではありませんでした 北境第三静養所が最初に見えたとき、私はそこが十九年間も母の秘密を抱え続けてきた場所だとは、どうしても信じることができなかった。 深い針葉樹林を抜けた先に建つ施設は、王家と白月勢力が共同運用していた特殊療養院という言葉から想像していたほど大きくなく、雪を被った三階建ての本棟と、その左右へ低い治療棟が一つずつ繋がっているだけだった。石壁には蔦が這い、屋根の一部は崩れ、正面玄関へ続く道にも人が頻繁に通っているような跡はなかったものの、白狼覚醒によって鋭くなった私の嗅覚には、建物の外観とは明らかに矛盾する匂いが届いていた。「誰かが最近まで火を使っています。薪を燃やした匂いが完全には消えていませんし、薬草も古いものだけではなく、昨日か一昨日に煮出したものが混じっています。それから途中で感じた三人の気配についても、一人はまだ本棟の中にいて、残る二人は地下へ移動した可能性が高いと思います」 私が正面玄関から目を離さずに説明すると、ローデンは雪へ残された痕跡を確認しながら、剣へ手を添えた。「こちらでも新しい足跡を確認しましたが、人数はリア監査官の感知とおおむね一致します。ただし施設西側にも古い搬入口がありますので、二人が地下へ入ったのか、すでに外へ逃げたのかまでは断定できません」「現在使われている王家の認証もここから発信されていましたから、少なくとも昨日まで人がいたことは確実です。廃墟だと思って気を抜かないほうがよさそうですね」 ユアンがそう言いながら探査鏡を調整している横で、セレーネは施設全体を見上げたまま、いつになく静かだった。「どうしました?」 私が聞くと、妹は少し迷ってから答えた。「思っていたより普通の建物だから、それが逆に嫌なの。もっと禍々しい地下神殿みたいな場所なら、『ここで酷いことをしていました』って言われても分かりやすいけれど、病気の人を治すための場所みたいな顔をしているでしょう」「酷いことをする人間が、必ずしも酷い場所を
第57話 白狼になった私を、王宮は「兵器」として登録しようとしました 白狼が部分覚醒してから一晩が明けても、私は誰かを食い殺したい衝動に駆られることもなければ、巨大な白狼へ変身して監視小屋の屋根を吹き飛ばすこともなく、朝食に出された硬い黒パンへ「もう少し柔らかいものはなかったのでしょうか」と文句を言える程度には普段どおりの自分だったので、少なくとも昨夜の時点で想像していた最悪の事態は起きなかった。 ただし、世の中というものは本人が落ち着いたからといって一緒に落ち着いてくれるほど親切ではなく、朝食を半分ほど食べたところで王都から届いた緊急通信は、私が昨日の旧軍道で白狼の力を発現したという情報が、すでに七群評議会へ漏れていることを知らせてきた。「早すぎませんか。昨日の襲撃からまだ一日も経っていませんし、こちらから王都へ送った正式報告だって昨夜遅くでしょう」 通信鏡を設置していたユアンへ尋ねると、彼は寝不足の顔で複数の報告書を並べながら、かなり嫌そうに首を振った。「正式報告からではありません。北方の軍用通信網で、『白髪白眼の女が狼化した男を一撃で吹き飛ばした』という目撃情報が先に流れ、そのあと『王の番が伝説の白狼へ覚醒したらしい』へ変わり、今朝には『陛下が古代兵器を妻として囲っている』という、かなり想像力豊かな噂になっています」「最後だけ急に物語になっていますね」「噂というものは、事実だけで満足できない人間が育てると非常によく成長しますから」 向かいで黒パンを食べていたカエルが、露骨に嫌そうな顔をした。「俺が兵器を妻として囲っているという部分は、どこから出てきたんだ」「『白狼は一国を滅ぼせる力を持つ』『白狼は陛下の真正な番である』『陛下とリア監査官は暫定婚姻中である』という三つの話を、誰かが都合よく一つへ繋げたのでしょう」「全部別々なら一部は事実なのが腹立たしいな」「私、一国を滅ぼせるとは確認されていませんけれど」「そこが一番問題だろ。誰にも分からな
reviews