Masuk「それでは、私がお手伝いします」
蒼真のその一言に、美月は思わず顔を上げた。
「手伝う……?」
「はい。ただし、勢いだけで離婚を進めるのはおすすめしません」
蒼真は落ち着いた口調で続ける。
「離婚は感情だけではできません。生活、お金、お子さんのこと。整理しなければならないことがたくさんあります」
その言葉に、美月ははっと息をのんだ。
離婚。
そう口にしたものの、その先のことなど何一つ考えられていなかった。
子どもを産んで、一人で育てていけるのだろうか。
不安が胸いっぱいに広がっていく。
「ですが、ご安心ください」
蒼真は穏やかに微笑んだ。
「一つずつ整理すれば、必ず道は見つかります」
その笑みに、美月は少しだけ肩の力が抜けた。
「まず確認させてください。ご主人は現在、お仕事をされていますか?」
「……いいえ」
「いつ頃からですか」
「半年前です。会社をリストラされてしまって」
「その間の生活費は?」
「私が払っていました」
蒼真の表情がわずかに引き締まる。
「家賃もですか」
「はい。家賃も光熱費も食費も……全部です」
美月は苦笑した。
「昼はカフェ、夜はスーパーでアルバイトをしていました」
毎日へとへとだった。
それでも拓也は落ち込んでいたから。
責めることなんてできなかった。
「仕事が決まるまでだから」
そう言われれば、信じるしかなかった。
「ご主人は再就職活動をされていたのですね」
「そう聞いていました」
美月はゆっくりとうつむく。
「でも、今思えば……違ったんです」
今日の電話が脳裏によみがえる。
『ねぇ~、拓也さぁん』
甘えるような女の声。
あれが答えだった。
「私、妊娠したって伝えたかっただけなんです」
ぽつりと漏れた本音に、蒼真は静かに耳を傾けていた。
「きっと喜んでくれると思っていました」
涙がぽたりとテーブルへ落ちる。
「なのに……」
「美月さん」
蒼真は穏やかに名前を呼んだ。
「人を信じたことを恥じる必要はありません」
美月は顔を上げる。
「信じる相手を間違えただけです」
その言葉が胸に染みた。
責められなかった。
笑われもしなかった。
今日初めて、自分を否定されなかった気がした。
「ありがとうございます……」
「礼には及びません」
蒼真がそう言った、その時だった。
テーブルの上に置いたスマートフォンが激しく震え始める。
ブルルルルッ。
画面に表示された名前を見た瞬間、美月の表情が凍りついた。
『拓也』
着信は止まらない。
一度切れても、すぐにまた鳴る。
ブルルルルッ。
ブルルルルッ。
ブルルルルッ。
「……出なくて構いません」
蒼真は静かに告げた。
「今は冷静な判断ができる状態ではありませんから」
美月は震える指でスマートフォンを握り締める。
やがて着信が止み、今度はメッセージの通知音が鳴り始めた。
――ピコン。
『どこにいる』
――ピコン。
『電話に出ろ』
――ピコン。
『ふざけるな』
次々と届く通知。
そして最後の一通を見た瞬間、美月の顔から血の気が引いた。
『さっき電話に出た男は誰だ』
拓也は病院から帰る電車の中でも、スマートフォンのカレンダーを眺めていた。 今日の健診日は当たった。 前回からの日数を数える。「このくらいか……」 次も同じ間隔とは限らない。 それくらいは、拓也にも分かっていた。 だから候補日をいくつか入れておけばいい。 仕事もまだ決まっていない。 時間ならある。「一日くらい外れてもいいし」 誰かに予定を教えてもらう必要はない。 自分で確かめればいい。 そう考えると、病院で断られたことさえ大した問題ではなくなった。 帰宅すると、和江がリビングにいた。「どこ行ってたの?」「美月の病院」「病院?」「今日、健診だった」 和江が驚いた顔をする。「美月さんから聞いたの?」「聞いてないよ」「じゃあ、どうして分かったの?」「前に行った日から予想したら当たった」 拓也は得意そうに答えた。「今日も見たよ。美月」「話したの?」「話してない」「そう」「見るだけなら問題ないだろ?」 和江は少し黙った。 けれど、止めることはなかった。「病院にも聞いてみたんだ」「何を?」「次の予約とか予定日」「教えてくれた?」「全然」 拓也はソファへ座った。「夫だって言っても駄目だった」「最近はそういうの厳しいのかしらね」「意味分かんないよな」 拓也は笑った。 怒っているようには見えなかった。「まあ、別にいいけど」「いいの?」「うん。次も自分で当てればいいから」 そう言って、スマートフォンを和江へ見せる。 カレンダーには
数日後。 美月は健診のため、病院を訪れていた。 診察を終え、医師から今回も問題ないと聞いて、ようやく緊張がほどける。「ありがとうございます」 診察室を出たあと、美月は少し迷ってから受付へ向かった。「あの、相談したいことがあるんですけど」「はい。どうされましたか?」「夫のことで……」 受付の女性が美月を見る。「できれば、夫が来ても私のことを教えないでほしいんです」 言葉にすると、胸がざわついた。「今、離婚の話し合いをしていて、直接会うことも避けています」「そうなんですね」「以前、この病院の近くで待っていたこともあって……」 正確には、以前病院で偶然拓也に見つかった。 けれど今となっては、また来る可能性を考えずにはいられない。「少々お待ちください」 受付の女性は奥の職員へ声を掛けた。 しばらくして、美月は別の場所で詳しい事情を説明することになった。 現在、離婚調停中であること。 警察にも相談していること。 本人への直接の連絡を控えるよう言われているにもかかわらず、実家へ第三者を使って手紙を届けてきたこと。「夫が来た場合、私の予約日とか、通院しているかどうかを教えないでもらえますか?」「もちろん、患者さんの受診状況や予約について、ご本人の同意なくお答えすることはできません」「良かった……」「ご不安があるということですので、院内でも情報を共有しておきますね」「お願いします」 美月は頭を下げた。 こんな相談までしなければならない。 少し前なら、申し訳ないと思っていたかもしれない。 けれど今は違う。 自分と子どものために必要なことだ。 診察を終えて病院を出ると、蒼真の車が待っていた。
次の調停の日がやってきた。 美月は前回と同じように、藤崎と家庭裁判所を訪れていた。 緊張していないわけではない。 けれど、前回ほど身体は強張っていなかった。「お気持ちに変わりはありませんか?」 調停委員に尋ねられ、美月は頷く。「はい。離婚したいです」「ご主人は、今回も夫婦関係を続けたいと希望されています」「そうですか」 予想していた。「ご主人からは、生活を立て直すために仕事を探しているというお話もありました」「はい」「今後は家族を大切にしたいと。その点を踏まえても、お気持ちは変わりませんか?」「変わりません」 美月は迷わず答えた。「拓也がこれからどうするかとは別に、私はもう一緒に暮らしたくありません」「分かりました」 調停委員は静かに頷いた。「では、そのご意向としてお伝えします」 美月は小さく息を吐く。 前回と同じだ。 拓也が何を約束しても、自分の答えは変わらない。 しばらくして、今度は拓也が調停室へ入った。「奥様は、離婚の意思に変わりはないとのことです」「……またですか?」「はい」「俺が仕事を探してることは伝えました?」「お伝えしています」「もう浮気もしないってことも?」「夫婦関係を改善したいというご意向についてもお伝えしています」「それでも?」「はい」 拓也は黙った。 以前なら、そこで苛立っていたかもしれない。 けれど今日は違った。「分かりました」 調停委員が少し意外そうに拓也を見る。「離婚に同意されるということでしょうか?」「違います」 拓也は穏やかに答えた。「離婚はしません」「そ
翌日。 拓也は近所のドラッグストアにいた。 目的は決まっている。 美月が帰ってきた時に必要なものを揃えるためだ。「シャンプー……これだったよな」 棚に並んだ商品を見比べる。 美月が以前使っていたもの。 同じパッケージを見つけ、かごへ入れた。 次は歯ブラシ。 洗顔料。 化粧水。 拓也は店内を歩きながら、以前家にあったものを思い出していく。「これも使ってた気がする」 正確には覚えていない。 それでも、見覚えのある商品を次々とかごへ入れた。 会計を済ませる頃には、袋が二つになっていた。 家へ戻ると、和江が驚いた顔をする。「ずいぶん買ったのね」「美月の」「全部?」「うん」 拓也は袋を持って、自分たちが夫婦で使っていた部屋へ向かった。 美月が出ていってから、ほとんど変わっていない。 空いている場所へ、買ってきたものを一つずつ置いていく。 洗面所には新しい歯ブラシ。 浴室にはシャンプー。 棚には洗顔料と化粧水。「これでいいか」 拓也は少し離れて眺めた。 足りないものは、美月が帰ってきてから買えばいい。 何を使いたいのか、その時に聞けばいい。「拓也」 和江が洗面所を覗く。「これ、開けない方がいいんじゃない?」「なんで?」「いつ帰ってくるか分からないでしょう」「でも、すぐ使える方がいいじゃん」「歯ブラシくらいは袋のままでいいんじゃない?」「……それもそうか」 拓也は歯ブラシだけ元の包装へ戻した。 その顔は真剣だった。 美月を困らせないために準備している。 本人
数日後。 和江が掃除をしていると、拓也が廊下を何度も行き来していた。「さっきから何してるの?」「ちょっと片付けようと思って」「珍しいわね」 拓也は返事をせず、家の中を見回した。 美月が出ていってから、そのままになっているものも多い。 もちろん、美月が持っていったものもある。 けれど拓也には、それが一時的なことのように思えていた。「赤ちゃんが来るなら、物多いよな」 和江が振り返る。「赤ちゃん?」「うん」 拓也は当然のように答えた。「帰ってきた時に危ないものがあったら困るだろ」「……そうね」「この辺も片付けた方がいいかな」 拓也はリビングの棚を見る。 赤ちゃんが生まれて、すぐに歩き回るわけではない。 そんなことは考えていなかった。 ただ、美月と子どもが帰ってくる。 そのための準備をしておきたかった。「母さん、この棚使ってる?」「上の方は使ってるけど」「じゃあ下だけ空けてよ」「何を入れるの?」「赤ちゃんのもの」 まだ、ガーゼハンカチ一枚しかない。 それでも拓也の中では、そこはもう子どものための場所だった。「ベビーベッドって必要かな」「さあ。美月さんに聞かないと分からないんじゃない?」「今は聞けないから」 拓也はスマートフォンを取り出す。「調べればいいよ」 ベビーベッド。 ベビー布団。 哺乳瓶。 おむつ。 次々と検索する。「結構いろいろいるんだな」「生まれる前に全部買う必要はないでしょう」「でも、帰ってきて何もなかったら困るじゃん」 帰ってくる。 和江も、もうその言葉に何も言わなかった。 拓也は商品を眺めながら、楽しそうにしている。「これ、かわいいな」 小さなベビー服だった。 淡い色のロンパース。「サイズ分かんないけど」「生まれてからでいいんじゃない?」「そうかな」 拓也は少し迷って、画面を閉じた。「じゃあ、今は場所だけ作っとく」 その日の午後。 拓也は棚の下段を空にした。 中に入っていたものを別の場所へ移し、きれいに拭く。 そして、一枚だけ持っているガーゼハンカチを置いた。「……よし」 何もない棚。 その真ん中に、小さなハンカチだけが置かれている。 拓也は満足そうに眺めた。 一方。 美月はサービスアパートメントで、藤崎と電話をしていた。『次回も
それから数日。 美月はサービスアパートメントで、穏やかな時間を過ごしていた。 拓也からの電話もない。 実家に手紙が届くこともない。 藤崎からも、新たな接触についての連絡はなかった。「最近、静かですね」 昼食を終えたあと、美月が呟く。「ご主人のことですか?」「はい」 蒼真に聞かれ、美月は頷いた。「何もない方がいいのに、何もないと逆に気になっちゃって」「また何かあるのではないかと?」「……たぶん」 電話に出なければ、別の番号から掛けてきた。 会うことを拒めば、実家へ手紙を届けてきた。 何度もそんなことが続いたせいで、静かな時間にも身構えるようになっていた。「でも、ずっと気にしてても仕方ないですよね」 美月は苦笑する。「次の調停もあるし、今は自分のことを考えます」「それがいいと思います」 蒼真はそれ以上、拓也の話を続けなかった。 そのことに、美月は少しほっとした。 一方。 拓也はスマートフォンのカレンダーを眺めていた。 次の健診だと予想した日まで、まだしばらくある。「長いな……」 待っていればいい。 そう決めたはずなのに。 数日経つと、もう美月の様子が気になっていた。 あの日見た美月。 以前より丸くなった腹。 隣を歩く九条。 思い出すたび、胸の奥がざわつく。「俺の子なのに」 何度目か分からない言葉を呟く。 その時、ふと思った。 病院へ行く時しか、美月は外に出ないのだろうか。 買い物。 食事。 散歩。 普通に生活しているなら、ほかにも外へ出るはずだ。「……どこに住んでるんだろ」 以前から気になっていた。 九条が用意したサービスアパートメント。 それ以上は分かっていない。 調べようとしても、九条が経営する会社の情報ばかり出てきて、美月の居場所にはたどり着けなかった。「まあ、いいか」 拓也はスマートフォンを置いた。 無理に探す必要はない。 病院なら分かっている。 また会える。 そう自分に言い聞かせた。 けれど翌日。 拓也は、また病院の最寄り駅にいた。「……近くまで来ただけ」 もちろん、今日は健診ではないだろう。 それでも、もしかしたら。 そんな気持ちがあった。 前回と同じように、病院から少し離れた場所を歩く。 正面玄関が見える場所まで来て、拓也は足を止めた。