愛が冷めたのに、離婚を告げたら泣くの?

愛が冷めたのに、離婚を告げたら泣くの?

By:  柚乃Updated just now
Language: Japanese
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結婚して五年。江藤紗季(えとう さき)は、黒田怜司(くろだ れいじ)が息子を連れ、愛人と一緒にいるところを目撃してしまった。 息子は彼女に気づかないふりをし、怜司も彼女をまるで相手にしなかった。 華やかに着飾った客たちを横目に、紗季はくたびれた服の裾をぎゅっと握りしめた。鏡に映った疲れ切った自分の姿を見つめ、かつて誰もが羨むほど輝いていた面影が、もうどこにも残っていないことに気づいた。 その瞬間、彼女は夫と息子に見切りをつけた。 怜司から離婚を切り出されると、紗季はあっさりとうなずいた。 それからというもの、黒田家から理不尽な要求を突きつけられても、紗季は二度と黙って従うことはなかった。 息子が自分になつかないため、幼い女の子を養女に迎え、愛情を注いで育てた。 仕事に力を注ぎ込んだ彼女は、まるで再び咲き始めた花のように輝きを取り戻していった。多くの男たちから想いを寄せられ、名家から次々と縁談を持ち込まれるほど、周囲から注目される存在になった。 やがて、紗季が別の男と結婚するという知らせを聞いた怜司は、土砂降りの夜、息子の手を引いて紗季の住むマンションの前で一晩中待ち続けた。 「もう一度だけ、俺にチャンスをくれ。これが最後だ!」真っ赤に充血した目で、怜司は紗季を壁際へ追い詰め、かすれた声で懇願した。

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Chapter 1

第1話

江藤紗季(えとう さき)は、まさかパーティー会場で夫の浮気を目の当たりにすることになるとは思ってもいなかった。

黒田怜司(くろだ れいじ)は白いシャツに黒いスラックスという姿で、肩幅は広く腰は細い。背筋の伸びた立ち姿は凛としていて、眉は鋭く、鼻筋もすっと通っていた。薄い唇をわずかに吊り上げるその表情には、雪をまとったような、冷たく近寄りがたい雰囲気が漂っていた。

その隣には、細いストラップの赤いドレスを着た女がいた。怜司の黒いジャケットを肩に羽織り、ゆるくウェーブした茶色のロングヘアを肩に垂らしている。どこか気だるげで、知的な雰囲気のある女性だ。

四歳の黒田奏太(くろだ そうた)は二人の間に立ち、それぞれの手を握っていた。「パパ、美月お姉さん。もうすぐパーティー始まるよ。中に入ろう」

紗季の頭は真っ白になった。

まさか、息子までここにいるとは思わなかった。

口を開き、息子の名前を呼ぼうとした。けれど喉が塞がれたようで、声が少しも出てこない。

奏太は紗季の視線に気づいたのか、振り返った。騒がしい人混みの向こうから、その目がまっすぐ紗季を捉える。

紗季は指先が白くなるほど両手を強く握りしめ、胸の奥にかすかな期待が芽生える。

パーティーの主催者らしい女性が、奏太の視線を追うようにして、警戒した様子で尋ねた。「奏太、あの人、さっきからずっとあなたを見てるけど、知り合いなの?」

奏太は俯き、小さな声で答えた。「知らない」

女性は不満そうに顔をしかめた。「誰が連れてきた人なの?うちの大事なお客さんを、さっきからずっと見てるじゃない」

「さあ。どこかの家の使用人じゃない?」別の人がそう口を挟んだ。

「ちょっと様子を見てきて」女性は使用人にそう命じると、嫌そうな目で紗季を一瞥した。

その騒ぎに気づいた怜司が、ふとこちらを振り返った。

紗季を見ても、浮気を見られた気まずさなど、少しも感じさせなかった。紗季のことを説明しようとする素振りもなく、赤いドレスの女の背中に手を添えると、そのまま彼女を連れて立ち去っていく。まるで、紗季の姿を彼女に見せたくないかのように。

そこへスタッフの一人が紗季のそばまでやって来た。「失礼ですが、招待状を見せていただけますか。お持ちでなければ、こちらからお引き取りいただくことになります」

紗季はいたたまれない気持ちで俯き、落ち着かない手つきで服の裾をいじった。

もともと高橋直樹(たかはし なおき)がドレスを用意すると言ってくれていた。けれど、自分が着ても似合わないと思い、断っていたのだ。

家を出るときも、大きめのジャケットを一枚羽織っただけ。下はジーンズで、華やかに着飾った人たちが集まるこの会場では、どう見ても場違いだった。

「彼女は私が連れてきた人です」直樹が歩み寄り、招待状を差し出した。

「失礼いたしました、直樹様」スタッフは丁寧に頭を下げると、その場を離れていった。

「何かあったの?」直樹が尋ねた。

紗季は首を横に振った。胸の奥に冷たい刃を突き立てられたような痛みが走る。

その痛みが全身に広がり、何か言おうとしても、声にならなかった。

自分が怜司に釣り合わないことは、ずっと前から分かっていた。だから、怜司が人前で自分を妻だと認めるはずがないことも、どこかで分かっていた。

ただ……

息子まで、自分を知らないふりをするとは思わなかった。

紗季が黙り込んでいるのを見て、直樹は困ったように目を上げた。

そのとき、廊下の奥へ向かう怜司の姿が目に入った。怜司は女の肩を抱き、そのまま連れ立って歩いていた。

直樹はそれを見た瞬間、すべてを察した。

「よかったら、先に家まで送ろうか?」直樹が尋ねた。

「ううん、大丈夫」紗季は無理やり笑顔を作る。

午後、怜司は息子を連れて実家へ行くから、自分はついてこなくていいと言われていた。

だから、自分も直樹と一緒に業界の集まりに参加すると伝えた。

返ってきたのは、「勝手にしろ」という冷たい一言だけだった。

自分がどこへ行こうと、怜司にとってはどうでもいいことなのだろう。

まさか、こんなところで彼らを目にすることになるなんて……

「怜司はたぶん、その場の付き合いだよ。あまり気にしなくてもいい」帰り道、直樹がそっと慰めてくれた。

紗季は唇をきゅっと結んだ。

――違う。怜司は本気だ。

あの女を見る怜司の目には、恋人に向けるような優しさがあった。そんな目を、自分に向けてくれたことは一度もなかった。

五年前、妊娠して大きなお腹を抱えた自分が黒田家を訪ねたことで、怜司は仕方なく自分と籍を入れた。

怜司はきっと、この結婚そのものが、自分が計算ずくで手に入れたものだと思っている。だからこそ、今も自分を心の底から憎んでいるのだろう。

この五年間、いつか怜司が自分を愛してくれるかもしれないと期待する一方で、怜司には外に別の女性がいるのではないかと、ずっと気にしていた。

まさか、本当に目の前でそんなことが起こるなんて……

紗季は、自分ならきっと平気だと思っていた。けれど、どうしてこんなにも苦しいのか、自分でも分からない。死んでしまいそうなほど、苦しい。

御山苑の屋敷に戻ると、怜司と息子はまだ帰っていなかった。

紗季は俯いたまま靴を脱いだ。業界の集まりはかなり早く終わったはずだから、三人にはまだ別の予定があるのだろう。

顔を上げると、山田春江(やまだ はるえ)が屋敷に置いてある高級な栄養食品をこっそり食べているところだった。

春江の顔に一瞬、気まずそうな色が浮かんだが、すぐに何事もなかったような顔に戻った。「どこに行ってたの?こんな遅くまで」春江が厳しい口調で問いただす。

紗季は疲れ切っていて、春江の横を通り過ぎ、そのまま二階へ上がっていった。

「ご飯も作らないし、洗濯もしない。それで、明日はお坊ちゃまが幼稚園に行くのに、どうするつもりなの?」背後から春江の声が飛んできた。

紗季の足が階段の途中で止まった。けれど、少しして何も言わず、そのまま上へ進んだ。

春江はただの使用人ではない。怜司は幼い頃から春江に育てられ、母親のように慕っていた。

そのため春江は、自分はほかの使用人とは違うと思っていて、紗季には何かと細かく文句をつけてきた。

子育てを手伝っていると言いながら、奏太の身の回りのことは、結局すべて紗季が一人でやっていた。

幼い頃は、オムツまで紗季が自分で洗っていた。怜司の食事から身の回りの世話まで、すべて紗季がしてきた。

「毎日ベッドでゴロゴロして、寝てばっかり。太っても知らないからね。あのときあなたに騙されてなかったら、うちの怜司様がどうしてあなたみたいな女と結婚するのよ」

春江の嫌味が階下から聞こえてきた。続いて、わざと聞こえるように物を乱暴に扱う音まで響いてくる。

バタン!

返事の代わりに、二階の部屋からドアが勢いよく閉まる音がした。その音を聞いた春江は、二階の寝室を見上げ、呆れたように白い目を向けた。

部屋に入った紗季は疲れた体を引きずるようにして鏡台の前に座り、鏡に映った自分を見つめる。

少し丸みを帯びた体つき、ぼんやりした顎のライン、目の下のクマ、そして目尻にうっすら浮いたシミ。卒業した頃と比べると、まるで三十歳も老け込んだように見えた。

これでも午後の集まりのために、わざわざ化粧をしてきたのだ。

まだ二十七歳なのに、どうしてこんなに老けてしまったんだろう。

好きな人と結婚したら、幸せに暮らせるものじゃないの?

紗季は目元のシミを指でなぞった。

この五年間、自分は幸せだったのだろうか。

そう自分に問いかけようとした瞬間、答えが出るより先に、涙が止めどなく頬を伝った。

泣いたあと、少しだけ気持ちが楽になった。紗季はスマホを取り出し、電話をかけた。

「もしもし」直樹はまだ車を運転していた。

「先輩、前に私を会社に誘ってくれたよね。あの話、まだ有効なの?」

直樹は少し驚いたように間を置いてから答えた。「もちろんだよ」

「ただ、新しく入った社員は二、三年間の海外研修に行ってもらうことになる。その後は会社の状況を見て配属を決めることになるけど……」

「行けるよ」紗季は迷いなく言い切った。

むしろ、直樹のほうが黙り込んだ。

紗季がどれほど怜司を愛しているのか、直樹は知っている。

かつて黒田家に認めてもらうため、紗季はすべての時間と労力をこの家のために使ってきた。一日たりとも外で働いたことはなかった。

そんな環境から、そう簡単に離れられるものではない。

「月曜日に会社に来て。そこでまた話そう」直樹が言った。

「分かった。ありがとう」

「お礼なんていいよ」

電話を切ると、紗季は大きく息を吐いた。胸の奥にあった重苦しさが、少しずつ薄れていく。まるで、長い間閉じ込められていた場所から、ようやく外へ出られるような気がした。

自分がこの檻の中に長いこと閉じ込められていたことくらい、紗季自身が一番よく分かっていた。

それでも、ここから出ようとするたびに、最後の一歩でためらってしまった。

怜司を手放せない。息子も手放せない。

紗季はいつも自分に言い聞かせていた。自分がもっと頑張れば、いつか黒田家も自分を受け入れてくれるかもしれない、と。

けれど、そんなことがあるはずなかった。

五年前、目を覚ました紗季は、自分が怜司のベッドに横たわっていることに気づいた。

怜司は、まるでゴミでも見るような目で、自分を見下ろしていた。

あの目だけは、一生忘れられない。

紗季がベッドで少し休もうとしたとき、スマホが突然、「ピロン」と鳴った。

怜司の妹・黒田莉奈(くろだ りな)が家族のグループチャットに写真を一枚送っていた。

そこには、怜司とその女の後ろ姿が写っている。

怜司は白いシャツに黒いパンツ姿。隣の女は赤いドレスを着ていて、その肩には大きめのメンズジャケットが羽織られていた。

怜司は骨ばった指で、そっと女性の腰に手を添えていた。二人とも容姿が整っていて、後ろ姿だけでもよくお似合いなのが分かる。

すると、莉奈がまたメッセージを送った。【お兄ちゃん、この人って彼女?今度、私たちにも紹介してよ】

家族のグループチャットが、一気に静まり返った。

紗季がスマホの画面を見つめていると、次の瞬間、写真が削除された。

紗季の口元に、力のない乾いた笑みが浮かんだ。

黒田家の全員が、自分がこのグループにいることを知っている。

それでも、誰一人として自分の気持ちなど気にしていない。彼らにとって自分は、操り人形以下なのだ。

そのとき、スマホが鳴った。義母の黒田佳代(くろだ かよ)からだった。

「今夜、本宅に来て食事をしなさい」

紗季が返事をする間もなく、電話は切れた。

紗季が本宅に着くと、門の前に怜司の車が停まっていた。

佳代が黒田家の家族全員を呼び集めたのだから、きっとあの写真のことだろう。

紗季が片足をリビングへ踏み入れた瞬間、中から奏太の幼い声が聞こえてきた。「じゃあ、パパとママは離婚するの?」

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第1話
江藤紗季(えとう さき)は、まさかパーティー会場で夫の浮気を目の当たりにすることになるとは思ってもいなかった。黒田怜司(くろだ れいじ)は白いシャツに黒いスラックスという姿で、肩幅は広く腰は細い。背筋の伸びた立ち姿は凛としていて、眉は鋭く、鼻筋もすっと通っていた。薄い唇をわずかに吊り上げるその表情には、雪をまとったような、冷たく近寄りがたい雰囲気が漂っていた。その隣には、細いストラップの赤いドレスを着た女がいた。怜司の黒いジャケットを肩に羽織り、ゆるくウェーブした茶色のロングヘアを肩に垂らしている。どこか気だるげで、知的な雰囲気のある女性だ。四歳の黒田奏太(くろだ そうた)は二人の間に立ち、それぞれの手を握っていた。「パパ、美月お姉さん。もうすぐパーティー始まるよ。中に入ろう」紗季の頭は真っ白になった。まさか、息子までここにいるとは思わなかった。口を開き、息子の名前を呼ぼうとした。けれど喉が塞がれたようで、声が少しも出てこない。奏太は紗季の視線に気づいたのか、振り返った。騒がしい人混みの向こうから、その目がまっすぐ紗季を捉える。紗季は指先が白くなるほど両手を強く握りしめ、胸の奥にかすかな期待が芽生える。パーティーの主催者らしい女性が、奏太の視線を追うようにして、警戒した様子で尋ねた。「奏太、あの人、さっきからずっとあなたを見てるけど、知り合いなの?」奏太は俯き、小さな声で答えた。「知らない」女性は不満そうに顔をしかめた。「誰が連れてきた人なの?うちの大事なお客さんを、さっきからずっと見てるじゃない」「さあ。どこかの家の使用人じゃない?」別の人がそう口を挟んだ。「ちょっと様子を見てきて」女性は使用人にそう命じると、嫌そうな目で紗季を一瞥した。その騒ぎに気づいた怜司が、ふとこちらを振り返った。紗季を見ても、浮気を見られた気まずさなど、少しも感じさせなかった。紗季のことを説明しようとする素振りもなく、赤いドレスの女の背中に手を添えると、そのまま彼女を連れて立ち去っていく。まるで、紗季の姿を彼女に見せたくないかのように。そこへスタッフの一人が紗季のそばまでやって来た。「失礼ですが、招待状を見せていただけますか。お持ちでなければ、こちらからお引き取りいただくことになります」紗季はいたたまれない気持ちで俯き、落
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第2話
「バカね、莉奈の言うことなんて本気にしなくていいのよ!」佳代はそう言うと、莉奈をたしなめた。「何をくだらないこと言ってるの。一日中ふざけてばかりで、子どもに変なことを教えないでちょうだい」莉奈はにこにこと笑った。「はいはい。じゃあ、私はお邪魔みたいだから先に行くね」ちょうど玄関を出たところで紗季と鉢合わせしたが、まるで見えていないかのように、鼻歌を歌いながらその横を通り過ぎていった。紗季は中へ入ると、「お義母さん」と声をかけた。佳代は軽くうなずいた。「おばあちゃんは二階で休んでるわ。あなたたちを呼んだのは私よ」紗季はふと視線を向け、一人掛けのソファに座る怜司を目の端で捉えた。怜司は脚を少し開き、体を前に傾けて雑誌をめくっている。まるで、周りで何が起きようと自分には関係ないとでもいうように。彫りの深い端正な顔立ちは、どの角度から見ても隙がない。その身からは冷たく人を寄せつけない空気が漂っていて、誰もが無意識のうちに近づくのをためらってしまう。だが、以前の紗季は、どうしようもなく彼に惹かれていた。怜司を見るたび、どうしてもそばに寄りたくなった。たとえ嫌がられても、それでいいと思っていた。「莉奈の性格は、あなたたちもよく知ってるでしょう。今日のことは、あの子が冗談を言っただけよ。だから、誰も気にしないこと。もう二度と口にしないで。いいわね?」怜司は立ち上がると、そのまま外へ向かった。佳代の長い小言を聞くのが、昔から苦手だった。「パパ……」奏太も後を追いかけ、怜司の手を握った。リビングには、紗季と佳代の二人だけが残った。佳代はため息をつき、少し背もたれに体を預けると、隠そうともせず紗季を上から下までじっくり見た。「怜司は外で仕事をしてるんだから、人付き合いも多いし、仕事のために愛想よく振る舞うことだってあるわ。あなたが仕事の面で怜司を支えられるなんて、私たちも最初から期待してない。ただ、妻としてやるべきことくらいはしてちょうだい。自分はいつもきれいにして、家の中もきちんと片づけておくの。黒田家の妻が、そう簡単に務まるものじゃないわ。結婚さえすれば、あとは何もしなくていいなんて思ってるなら、大間違いよ。今回のことをいい教訓にして、これからちゃんと黒田家の妻としてどう振る舞うべきか学びなさい」紗季は佳代
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第3話
月曜日。紗季はまず奏太を幼稚園へ送り届けると、家に戻って離婚の準備を始めた。離婚協議書を作り、そこには一円も受け取らず、奏太の親権も求めないと記した。紗季は幼い頃から成績がよく、全国でもトップクラスの名門校である京陵大学のコンピューターサイエンス学科で、学部から修士課程まで一貫して修了していた。冷静で理性的なのは、生まれつきの長所だ。そんな彼女が人生で唯一つまずいたのが、怜司だった。黒田家の人間は皆、紗季が怜司と結婚したのは、彼の財産が目当てだと思っている。だからこそ紗季は、自分が怜司のお金など一円たりとも必要としていないことを証明したかった。親権については、自分のほうが不利だ。それに、奏太を黒田家に残したほうが、きっと将来のためになる。たとえ苦労して親権を勝ち取ったとしても、大人になった奏太から恨まれる日が来るかもしれない。それなら、いっそ手放したほうがいい。九時四十分、紗季は黒田テクノロジーのビルの前にやって来た。事前に予約を入れていなかったため、受付のスタッフは彼女のことを知らず、そのまま足止めされた。仕方なく、紗季は怜司に電話をかけた。ほどなくして、怜司が最も信頼する助手の西村和也(にしむら かずや)が目の前に現れた。彼女の正体を知っているのは、社内では和也ただ一人だった。「怜司社長は今、仕事の最中ですので、少しお待ちいただくことになるかもしれません」「大丈夫。待つわ」二人でエレベーターに乗って上階へ向かうと、和也は紗季を休憩室へ案内した。そして、そのままどこかへ行ってしまった。紗季は二時間ほど待った。その二時間の間、誰一人様子を見に来ることはなく、水一杯持ってきてくれる人さえいなかった。さすがに落ち着かなくなってきた頃、突然、外からドアが開いた。入ってきたのは、スーツ姿の見知らぬ男だった。男は首を傾けながら、煙草を取り出そうとした。紗季は慌てて声をかけた。「すみません、ここは禁煙です」「何なんだよ」男はぶつぶつ言いながら紗季を上から下まで眺め、地味な服装から身分のある人間には見えないと判断すると、声を荒らげた。「頭おかしいんじゃないのか?ここは喫煙できる場所だぞ!禁煙だって、何様のつもりだ!」紗季は気まずそうに「すみません」と頭を下げた。そのまま外へ出ると、ドアには
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第4話
紗季は唇を噛みしめた。口の中に血の味が広がり、苦いものが込み上げてくる。やっぱり、愛されている女はきれいだ。こんな美月を相手に、自分に何ができるというのだろう。それに、美月は怜司が既婚者だと知らないのだろうか。あれほどプライドの高いお嬢様が、どうして人の愛人なんかになれるというの。胸が重く苦しくなり、紗季は立ち上がった。「私、まだ用事があるから……」「紗季!」突然、美月に呼び止められた。そしてバッグから名刺を一枚取り出すと、心から気遣うような顔で言った。「この数年、あなたに何があったのかは知らない。でも、これ、私の名刺。もし何か力になれることがあったら、いつでも連絡して」紗季の顔から血の気が引いた。歯を食いしばり、「そんなの、必要ない」と言った。「紗季、私たち友達でしょ。こんなことをするのも、別に他の意味なんてない。ただ、あなたの力になりたいだけ……」紗季は震える手で美月を押しのけ、そのまま逃げるように店を飛び出した。カフェにいた他の客たちも、二人の会話が聞こえたのか、一斉に顔を上げて店の外へ目を向けた。同情や哀れみの視線が次々と紗季に向けられ、やがて美月へと戻っていく。そこにあったのは、美人で優しく、何もかもに恵まれた美月への称賛と羨望ばかりだった。背後でドアが閉まる音を聞いた瞬間、美月の笑顔が固まった。彼女は振り返って席に座り、ケーキをひと口すくって口に運ぶ。そして、「このデブ……」と小声で吐き捨てた。カフェを出た紗季は、通りに面した大きなガラス窓に映った自分の姿に目を留めた。だらしなく太った体に、疲れ切った顔。誰が見ても、生活がうまくいっていない人間にしか見えない。美月が自分を助けようとしたのも、無理はない。紗季はガラスに映った自分に苦笑すると、タクシーを拾って高橋テクノロジーへ向かった。直樹があらかじめ話を通してくれていたため、名前を告げるだけで、社員が彼女をオフィスまで案内してくれた。直樹はデスクの奥に座っていたが、紗季が入ってくるとすぐ、立ち上がって迎えた。「座って」そう言って小さな応接スペースへ案内し、向かいの席に座ると、お茶を淹れてくれた。濃紺のスーツに身を包んだ直樹は、すらりとした長身で、穏やかで品のある雰囲気をまとっている。直樹は紗季より二学年上で、京陵大
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第5話
春江は慌てて駆け寄り、奏太を連れていった。「今夜は俺の前に顔を出すな。もう君の顔なんて見たくない」怜司は言った。紗季は小さく頷き、背を向けて二階へ上がった。怜司とはとっくに別居している。帰ってきたところで、同じ部屋で寝ることもない。寝室に戻ると、紗季は引き出しから一冊のノートを取り出して、開いた。そこには「正」の字がびっしりと書き込まれていた。怜司に傷つけられるたびに、紗季は一つずつ書き足してきたのだ。紗季はペンを手に取り、新たに一本書き足そうとした。けれど、手が止まった。ペンを置く代わりに、ノートのページをそっと撫でる。いくつもの「正」の字は凹凸になっていて、指先にひんやりとした感触が伝わってきた。五年間で、怜司にこれほど傷つけられてきたのだ。そして紗季は、もうすぐ三十歳になるというのに、子どもを一人産んだこと以外、何一つ成し遂げていなかった。それなのに今も、ノートに一人の男に傷つけられた記録を残している。十七歳なら、こんなことをしていても可愛らしいと思える。でも、二十七歳にもなってこんなことをしているなんて、ただの愚か者だ。笑ってしまうほど、馬鹿げている。紗季はノートを閉じると書斎へ向かい、一ページずつ破ってシュレッダーに入れた。細かな紙くずが排出口からぱらぱらと落ちていく。まるで雪が降っているようだ。シュレッダーの中で一枚の紙が引っかかり、紗季は手を伸ばして取り除こうとした。そのとき、爪が金属に引っかかり、爪の先が皮膚から剥がれた。あまりの痛みに、思わず声が漏れる。ちょうどそのとき、怜司がドアを開けた。「何してる?」紗季は顔を青ざめさせ、指をぎゅっと握りしめた。「何でもない」「誰が入っていいと言った?」紗季はふいに、何も言いたくなくなった。何を言っても、何をしても、怜司から返ってくるのはいつだって冷たさと嫌悪だけだ。怪我をしたと伝えたところで、怜司はきっと、自業自得だと思うだけだろう。紗季は立ち上がると、そのまま部屋を出て、後ろ手にドアを「バタン」と閉めた。怜司はその場に残ったまま、閉じたドアをしばらく見つめていた。さっきの紗季は、いつもと少し違って見えた。寝る前、紗季は奏太の部屋へ向かった。春江がすでに奏太をお風呂に入れて寝支度を済ませていた。奏太
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第6話
月明かりが白い屋敷を包み込み、書斎には明かりが煌々と灯っていた。修平がドアを開け、トレーを手にして入ってくると、牛乳とフルーツをそっと置いた。美月はパソコンに映し出されたデータの流れをじっと見つめたまま、振り返りもせずに言った。「お父さん、もう休んだら」修平は頷いた。「分かった。君もあまり夜更かしするなよ」「うん、分かってるよ」修平は美月の後ろ姿を見つめ、胸の奥に温かなものが込み上げてくるのを感じた。そして手を伸ばし、美月の頭を優しく撫でた。「君はなあ、お嬢様みたいな暮らしができるのに、わざわざこんな苦労をするんだから」美月は手を止めて振り返ると、真剣な顔で言った。「お父さん、それはちょっと古い考え方だよ。女だって、自分の仕事を持たなきゃ。私は家にいる時は親に、結婚したら夫に頼りっぱなしな女じゃないから」「はいはい、俺の考え方が古くて、君の足を引っ張ってるってことだな」修平は目を細め、娘を愛おしそうに見つめながら言った。そして書斎のドアを開けて出ていった。廊下は薄暗く、両側の壁にはたくさんの絵が飾られていた。どれも修平が描いた作品だった。修平は眼鏡を外し、何気なく絵を眺めながら、ふと思った。一枚の絵さえ売れなかった無名の画家だった自分が、今では美術大学の学長にまでなった。まさに、人生が一気に変わったと言っていい。かつて、狭くて湿っぽい賃貸住宅で、昼も夜もなく絵を描いていた日々は、もう遠い昔のことのようだ。あの頃の暮らしがあまりにも苦しかったせいか、今でもたまに、あの賃貸住宅に戻る夢を見る。夢の中では、妻は昔と変わらない姿で、家事をしながらぶつぶつ文句を言っている。娘は髪を二つに結び、怯えたような顔で賞状を自分の前に差し出してくる。そんな夢を見るたび、修平ははっと目を覚ました。目を覚まして、広々とした明るい屋敷のベッドで眠っていたことに気づくと、いつも大きく息を吐いてほっとした。あんな貧乏暮らしには、もう本当にうんざりだった。……食事を終えると、紗季は奏太を連れて庭で食後の散歩をしていた。由美と秀子は二人で食器を片付けていた。「どうして本当のことをあの子に話さないの?」秀子が尋ねた。由美は庭にいる親子をちらりと見た。「もう何年も経ってるんだもの。今さら話す必要なんてないわ。それ
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第7話
由美と秀子は、そろって言葉を失った。場が一瞬、静まり返った。紗季はたちまち目を赤くし、「ごめんね、お母さん、おばあちゃん。全部、私が奏太を甘やかしてしまったせいよ。奏太!おばあちゃんとひいおばあちゃんに謝りなさい」「嫌だ!」奏太は顔を強張らせたまま、ぷいっと背を向けた。自分が本当に叱られるなんて、奏太は思っていなかった。物心ついた頃から、母にきつく叱られたことなど一度もない。それに、もし母が自分を叱ったとしても、父や本宅の祖母が黙っているはずがない。「奏太……」紗季の声が厳しくなる。由美は紗季が言い終える前に、小さな声で口を挟んだ。「もういいよ。奏太はまだ小さいんだから……」秀子も続けて、「子どもなんてみんなそんなものよ。もう少し大きくなれば、ちゃんと分別もつくわ」気まずい空気になってしまい、紗季は仕方なく奏太を連れて、その場を離れた。細く長い路地は曲がりくねっていて、辺りは薄暗かった。遠くの突き当たりにある街灯だけが、ぼんやりと黄色い光を落としている。紗季と奏太は並んで歩いていたが、二人とも険しい顔をしていた。「奏太、今日のあなたには本当にがっかりしたよ」奏太は唇を固く結び、頑なに黙っていた。「おばあちゃんもひいおばあちゃんも、奏太のことをすごく大切に思ってるの。あんなことをしたら、二人とも悲しいでしょ」紗季はそう言い聞かせながら、もう少し素直に人の話を聞ける子になってほしいと思っていた。「だって、僕はただママと一緒に家に帰りたかっただけだもん。僕、ここに来るのが嫌なんだ。それくらいいいでしょ?」奏太は唇を尖らせ、不満そうに言い返した。その冷めた態度は、まるで怜司そっくりだった。紗季は大きく息を吸った。「あなたが小さい頃は……」「聞きたくない。聞きたくない!」奏太はわざと母に逆らうように、両手で耳を塞ぎ、嫌だとばかりに首を横に振った。紗季は失望したように奏太を見つめたが、それ以上は何も言えなかった。家へ向かう車の中は、しんと静まり返っていた。奏太は顔を強張らせたまま窓の外を眺め、何を考えているのか分からない。やがて車が御山苑の敷地内に入ると、紗季は奏太を連れて車を降りた。そのとき、前方から楽しそうな女性の笑い声が聞こえてきた。紗季が顔を上げると、そこには怜司が数人の友人たちと立
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第8話
「はい、分かりました」春江は慌てて答えた。怜司は立ち上がると、大股でその場を離れていった。家の生活費は、ずっと春江が管理していた。紗季には毎月十万円の小遣いが渡されている。それ以外に、服やバッグ、宝飾品などを買うときは、怜司にいちいち許可を取らなければならない。けれど、紗季はこれまで一度も何かをねだったことはなかった。クローゼットにあるのも、数着の普段着と何足かの靴だけ。ブランド物は一つもなかった。春江は得意げな顔で食器を片づけにやってきた。ちらちらと紗季を見ながら、あからさまに馬鹿にしている。紗季には分かっていた。これが怜司なりの罰なのだ。何も言わずに立ち上がった紗季に春江は冷たく言い放った。「自分の食器くらい、自分で洗いなさい」春江の立場なら、そもそもこんな家事をする必要はない。怜司がここに住んでもらっているのも、老後をゆっくり過ごしてもらうためだった。それなのに、怜司が家にいると、春江はいつも彼のそばに寄って、あれこれ世話を焼きたがる。「使用人がいるのに、どうして私がやらなきゃいけない?」紗季が聞いた。「使用人は黒田家が雇ってるのよ。どうしてあなたの世話までしなきゃいけないの?」春江は当然のような顔で言い返した。「私も黒田家の嫁だからよ。それとも、お義母さんに電話して聞いてみる?家の使用人に、私の身の回りのことをしてもらってもいいのかどうか」「あなた……」春江は怒りで顔を引きつらせた。紗季はそれ以上何も言わず、二階へ上がって身支度を整え、そのまま仕事へ向かった。家を出て車に乗り込んだ瞬間、紗季はこれまでにないほど、すっきりした気分になった。もう十分だった。この何年もの間、ずっと我慢してきた。黒田家の人間から見下され、好き勝手に扱われてきた。それどころか、家の使用人にまで馬鹿にされる始末だった。これからは少しずつでも、自分で言い返せるようになろう。もう、昔のように何も言えずに耐えるのはやめよう。長い間、元の仕事から離れていたとはいえ、紗季はもともとかなりの才能を持っていた。数日間の研修を終える頃には、すっかり仕事の流れにも慣れていた。そして、あの日を境に、怜司は二度と家に帰ってこなかった。……「うちのチームは、規制制御アルゴリズムのところで、もう半年も行き詰まって
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第9話
「そういえば、忘れてた」莉奈は首元のダイヤモンドのネックレスに触れた。「このネックレス、ちょっと傷があるの。お店に持っていって、手入れしてもらってきて」こんなことのために、わざわざ紗季を呼びつけたのだ。紗季は胸の奥がざわついた。ネックレスには手を伸ばさず、莉奈のサングラスに映る自分の姿をじっと見つめた。そのレンズの向こうで、莉奈がどんな目で自分を嘲笑っているのか、容易に想像できる。「午後は仕事があるの。ほかの人に頼んで」「仕事って?何の仕事よ。ずっとお兄ちゃんに養ってもらってたんじゃないの?それに、あなたのお母さんやおばあちゃんだって……」紗季はゆっくり息を吸った。自分たち一家が怜司のお金で暮らしていると黒田家の人たちは思い込んでいる。けれど実際は、母には年金があり、普段は祖母と一緒に手仕事をして小遣いを稼いでいた。五百万円の治療費を除けば、怜司のお金を使ったことは一度もない。「用がないなら、私はもう行くね」これ以上、言い争う気にはなれなかった。「ねえ、莉奈。この人、誰?」若い女の子が尋ねてきた。莉奈は紗季をちらりと見てから、わざと聞こえるように声を張った。「知らない。たぶん、お兄ちゃんに近づいてる女じゃない?」「この人が?あなたのお兄ちゃんの?」「何を取り柄に近づいてるのよ。脂肪が多くて図々しいところ?」「はははは!」莉奈と友人たちは声を上げて笑った。紗季に聞こえているかどうかなど、まるで気にしていない。いや、きっと最初から聞かせるつもりなのだ。紗季は拳を強く握り、唇を噛んだ。それでも、そのまま歩き続けた。もうすぐ怜司とは離婚する。今さら余計な揉め事を起こす必要はない。ところが、莉奈はそれだけでは気が済まなかった。芝生にいた赤髪の青年に、ちらりと目配せする。最近、彼は莉奈に言い寄っていて、彼女の言うことなら何でも聞く。青年は莉奈のほうを見て、小さく頷いた。そして、紗季がそばを通り過ぎようとした瞬間、いきなりバスケットボールを持ち上げ、紗季の頭めがけて投げつけた。ボールが、紗季の頭にまともにぶつかった。「っ……!」紗季は思わず声を上げ、その場に両膝から崩れ落ちた。強い衝撃で、膝から先が一気に痺れ、ほとんど感覚がなくなる。紗季はそのまま膝をついた姿勢で、目の前がぐるぐる
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第10話
紗季は顔を青ざめさせ、唇を固く結んだまま、ゆっくりと振り返った。膝の痛みに耐えながら、一歩ずつ莉奈のほうへ歩いていく。足元はふらつき、頭もくらくらして、視界もぼんやりしていた。それでも、莉奈の首元にあるダイヤモンドのネックレスだけは、陽の光を受けてきらきらと輝いている。まるで、紗季に向かうべき場所を教えているようだ。紗季が目の前まで来ても、莉奈は友人たちと楽しそうに話し続け、紗季には気づいていなかった。紗季は手を伸ばすと、莉奈の首元からネックレスを勢いよく引きちぎった。首を締めつけられ、莉奈は「痛っ!」と叫んだ。「何するのよ!」莉奈が大声を上げる。紗季はネックレスをそのまま噴水の中へ放り投げると、そのまま背を向けて歩き出した。「ちょっと!」莉奈は怒鳴り声を上げ、友人たちと慌てて噴水へ駆け寄った。紗季は騒然とする人混みをかき分け、その場を抜け出した。車に乗り込むと、痛みで震える脚を手で押さえた。もう莉奈には仕返しをしたはずなのに、どうしてこんなにも悔しいのだろう。怜司のあの目のせいだろうか。まるで道端の犬でも見るような目だった。紗季は必死に涙をこらえた。けれど、最後には耐えきれず、ハンドルに突っ伏して声を上げて泣いた。肩を震わせながら泣いていると、通りすがりの人が不思議そうに車の中を覗いていった。……山の中にある寺は、線香の煙に包まれていた。佳代は落ち着いた色合いのドレスを身にまとい、薄化粧をして、髪もきっちりと整えていた。三本の線香を手に、恭しく座布団に膝をついている。周りでは、参拝に訪れた人々が出世や仕事の成功、裕福な暮らしを願っている。けれど、佳代が願うのは、もう二度と会えない娘のことだった。自分の知らない場所で、どうか無事に成長していますように。住職が歩み寄り、佳代の手から線香を受け取って香炉に立てた。「ご住職さん……私は、もう一度あの子に会えるでしょうか?」佳代がぽつりと尋ねる。住職は深いため息をついた。「ご縁があれば、いつかまた会えるでしょう」線香を供えたあと、佳代は寺に二億円もの大金を寄付した。寺を出たところで、莉奈から電話がかかってきた。電話の向こうでは、莉奈が泣きわめきながら、紗季にどれだけひどいことをされたのか訴えている。佳代は黙って最後まで話を
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