LOGIN結婚して五年。江藤紗季(えとう さき)は、黒田怜司(くろだ れいじ)が息子を連れ、愛人と一緒にいるところを目撃してしまった。 息子は彼女に気づかないふりをし、怜司も彼女をまるで相手にしなかった。 華やかに着飾った客たちを横目に、紗季はくたびれた服の裾をぎゅっと握りしめた。鏡に映った疲れ切った自分の姿を見つめ、かつて誰もが羨むほど輝いていた面影が、もうどこにも残っていないことに気づいた。 その瞬間、彼女は夫と息子に見切りをつけた。 怜司から離婚を切り出されると、紗季はあっさりとうなずいた。 それからというもの、黒田家から理不尽な要求を突きつけられても、紗季は二度と黙って従うことはなかった。 息子が自分になつかないため、幼い女の子を養女に迎え、愛情を注いで育てた。 仕事に力を注ぎ込んだ彼女は、まるで再び咲き始めた花のように輝きを取り戻していった。多くの男たちから想いを寄せられ、名家から次々と縁談を持ち込まれるほど、周囲から注目される存在になった。 やがて、紗季が別の男と結婚するという知らせを聞いた怜司は、土砂降りの夜、息子の手を引いて紗季の住むマンションの前で一晩中待ち続けた。 「もう一度だけ、俺にチャンスをくれ。これが最後だ!」真っ赤に充血した目で、怜司は紗季を壁際へ追い詰め、かすれた声で懇願した。
View More紗季は顔を青ざめさせ、唇を固く結んだまま、ゆっくりと振り返った。膝の痛みに耐えながら、一歩ずつ莉奈のほうへ歩いていく。足元はふらつき、頭もくらくらして、視界もぼんやりしていた。それでも、莉奈の首元にあるダイヤモンドのネックレスだけは、陽の光を受けてきらきらと輝いている。まるで、紗季に向かうべき場所を教えているようだ。紗季が目の前まで来ても、莉奈は友人たちと楽しそうに話し続け、紗季には気づいていなかった。紗季は手を伸ばすと、莉奈の首元からネックレスを勢いよく引きちぎった。首を締めつけられ、莉奈は「痛っ!」と叫んだ。「何するのよ!」莉奈が大声を上げる。紗季はネックレスをそのまま噴水の中へ放り投げると、そのまま背を向けて歩き出した。「ちょっと!」莉奈は怒鳴り声を上げ、友人たちと慌てて噴水へ駆け寄った。紗季は騒然とする人混みをかき分け、その場を抜け出した。車に乗り込むと、痛みで震える脚を手で押さえた。もう莉奈には仕返しをしたはずなのに、どうしてこんなにも悔しいのだろう。怜司のあの目のせいだろうか。まるで道端の犬でも見るような目だった。紗季は必死に涙をこらえた。けれど、最後には耐えきれず、ハンドルに突っ伏して声を上げて泣いた。肩を震わせながら泣いていると、通りすがりの人が不思議そうに車の中を覗いていった。……山の中にある寺は、線香の煙に包まれていた。佳代は落ち着いた色合いのドレスを身にまとい、薄化粧をして、髪もきっちりと整えていた。三本の線香を手に、恭しく座布団に膝をついている。周りでは、参拝に訪れた人々が出世や仕事の成功、裕福な暮らしを願っている。けれど、佳代が願うのは、もう二度と会えない娘のことだった。自分の知らない場所で、どうか無事に成長していますように。住職が歩み寄り、佳代の手から線香を受け取って香炉に立てた。「ご住職さん……私は、もう一度あの子に会えるでしょうか?」佳代がぽつりと尋ねる。住職は深いため息をついた。「ご縁があれば、いつかまた会えるでしょう」線香を供えたあと、佳代は寺に二億円もの大金を寄付した。寺を出たところで、莉奈から電話がかかってきた。電話の向こうでは、莉奈が泣きわめきながら、紗季にどれだけひどいことをされたのか訴えている。佳代は黙って最後まで話を
「そういえば、忘れてた」莉奈は首元のダイヤモンドのネックレスに触れた。「このネックレス、ちょっと傷があるの。お店に持っていって、手入れしてもらってきて」こんなことのために、わざわざ紗季を呼びつけたのだ。紗季は胸の奥がざわついた。ネックレスには手を伸ばさず、莉奈のサングラスに映る自分の姿をじっと見つめた。そのレンズの向こうで、莉奈がどんな目で自分を嘲笑っているのか、容易に想像できる。「午後は仕事があるの。ほかの人に頼んで」「仕事って?何の仕事よ。ずっとお兄ちゃんに養ってもらってたんじゃないの?それに、あなたのお母さんやおばあちゃんだって……」紗季はゆっくり息を吸った。自分たち一家が怜司のお金で暮らしていると黒田家の人たちは思い込んでいる。けれど実際は、母には年金があり、普段は祖母と一緒に手仕事をして小遣いを稼いでいた。五百万円の治療費を除けば、怜司のお金を使ったことは一度もない。「用がないなら、私はもう行くね」これ以上、言い争う気にはなれなかった。「ねえ、莉奈。この人、誰?」若い女の子が尋ねてきた。莉奈は紗季をちらりと見てから、わざと聞こえるように声を張った。「知らない。たぶん、お兄ちゃんに近づいてる女じゃない?」「この人が?あなたのお兄ちゃんの?」「何を取り柄に近づいてるのよ。脂肪が多くて図々しいところ?」「はははは!」莉奈と友人たちは声を上げて笑った。紗季に聞こえているかどうかなど、まるで気にしていない。いや、きっと最初から聞かせるつもりなのだ。紗季は拳を強く握り、唇を噛んだ。それでも、そのまま歩き続けた。もうすぐ怜司とは離婚する。今さら余計な揉め事を起こす必要はない。ところが、莉奈はそれだけでは気が済まなかった。芝生にいた赤髪の青年に、ちらりと目配せする。最近、彼は莉奈に言い寄っていて、彼女の言うことなら何でも聞く。青年は莉奈のほうを見て、小さく頷いた。そして、紗季がそばを通り過ぎようとした瞬間、いきなりバスケットボールを持ち上げ、紗季の頭めがけて投げつけた。ボールが、紗季の頭にまともにぶつかった。「っ……!」紗季は思わず声を上げ、その場に両膝から崩れ落ちた。強い衝撃で、膝から先が一気に痺れ、ほとんど感覚がなくなる。紗季はそのまま膝をついた姿勢で、目の前がぐるぐる
「はい、分かりました」春江は慌てて答えた。怜司は立ち上がると、大股でその場を離れていった。家の生活費は、ずっと春江が管理していた。紗季には毎月十万円の小遣いが渡されている。それ以外に、服やバッグ、宝飾品などを買うときは、怜司にいちいち許可を取らなければならない。けれど、紗季はこれまで一度も何かをねだったことはなかった。クローゼットにあるのも、数着の普段着と何足かの靴だけ。ブランド物は一つもなかった。春江は得意げな顔で食器を片づけにやってきた。ちらちらと紗季を見ながら、あからさまに馬鹿にしている。紗季には分かっていた。これが怜司なりの罰なのだ。何も言わずに立ち上がった紗季に春江は冷たく言い放った。「自分の食器くらい、自分で洗いなさい」春江の立場なら、そもそもこんな家事をする必要はない。怜司がここに住んでもらっているのも、老後をゆっくり過ごしてもらうためだった。それなのに、怜司が家にいると、春江はいつも彼のそばに寄って、あれこれ世話を焼きたがる。「使用人がいるのに、どうして私がやらなきゃいけない?」紗季が聞いた。「使用人は黒田家が雇ってるのよ。どうしてあなたの世話までしなきゃいけないの?」春江は当然のような顔で言い返した。「私も黒田家の嫁だからよ。それとも、お義母さんに電話して聞いてみる?家の使用人に、私の身の回りのことをしてもらってもいいのかどうか」「あなた……」春江は怒りで顔を引きつらせた。紗季はそれ以上何も言わず、二階へ上がって身支度を整え、そのまま仕事へ向かった。家を出て車に乗り込んだ瞬間、紗季はこれまでにないほど、すっきりした気分になった。もう十分だった。この何年もの間、ずっと我慢してきた。黒田家の人間から見下され、好き勝手に扱われてきた。それどころか、家の使用人にまで馬鹿にされる始末だった。これからは少しずつでも、自分で言い返せるようになろう。もう、昔のように何も言えずに耐えるのはやめよう。長い間、元の仕事から離れていたとはいえ、紗季はもともとかなりの才能を持っていた。数日間の研修を終える頃には、すっかり仕事の流れにも慣れていた。そして、あの日を境に、怜司は二度と家に帰ってこなかった。……「うちのチームは、規制制御アルゴリズムのところで、もう半年も行き詰まって
由美と秀子は、そろって言葉を失った。場が一瞬、静まり返った。紗季はたちまち目を赤くし、「ごめんね、お母さん、おばあちゃん。全部、私が奏太を甘やかしてしまったせいよ。奏太!おばあちゃんとひいおばあちゃんに謝りなさい」「嫌だ!」奏太は顔を強張らせたまま、ぷいっと背を向けた。自分が本当に叱られるなんて、奏太は思っていなかった。物心ついた頃から、母にきつく叱られたことなど一度もない。それに、もし母が自分を叱ったとしても、父や本宅の祖母が黙っているはずがない。「奏太……」紗季の声が厳しくなる。由美は紗季が言い終える前に、小さな声で口を挟んだ。「もういいよ。奏太はまだ小さいんだから……」秀子も続けて、「子どもなんてみんなそんなものよ。もう少し大きくなれば、ちゃんと分別もつくわ」気まずい空気になってしまい、紗季は仕方なく奏太を連れて、その場を離れた。細く長い路地は曲がりくねっていて、辺りは薄暗かった。遠くの突き当たりにある街灯だけが、ぼんやりと黄色い光を落としている。紗季と奏太は並んで歩いていたが、二人とも険しい顔をしていた。「奏太、今日のあなたには本当にがっかりしたよ」奏太は唇を固く結び、頑なに黙っていた。「おばあちゃんもひいおばあちゃんも、奏太のことをすごく大切に思ってるの。あんなことをしたら、二人とも悲しいでしょ」紗季はそう言い聞かせながら、もう少し素直に人の話を聞ける子になってほしいと思っていた。「だって、僕はただママと一緒に家に帰りたかっただけだもん。僕、ここに来るのが嫌なんだ。それくらいいいでしょ?」奏太は唇を尖らせ、不満そうに言い返した。その冷めた態度は、まるで怜司そっくりだった。紗季は大きく息を吸った。「あなたが小さい頃は……」「聞きたくない。聞きたくない!」奏太はわざと母に逆らうように、両手で耳を塞ぎ、嫌だとばかりに首を横に振った。紗季は失望したように奏太を見つめたが、それ以上は何も言えなかった。家へ向かう車の中は、しんと静まり返っていた。奏太は顔を強張らせたまま窓の外を眺め、何を考えているのか分からない。やがて車が御山苑の敷地内に入ると、紗季は奏太を連れて車を降りた。そのとき、前方から楽しそうな女性の笑い声が聞こえてきた。紗季が顔を上げると、そこには怜司が数人の友人たちと立