Masuk数日後。
美月はリビングで赤ちゃん用品のカタログを眺めていた。
「これも可愛い……」
思わず小さく笑みがこぼれる。
妊娠が分かってからというもの、赤ちゃんのことを考える余裕などなかった。
浮気が発覚し、家を飛び出し、離婚を決意して。
毎日を乗り切るだけで精一杯だった。
だからこそ、こうしてゆっくりカタログを眺められる時間が、少しだけ嬉しかった。
その時、スマートフォンが震えた。
画面には、『藤崎』の文字が表示されている。
「もしもし」
「朝倉さん、お世話になっております」
いつもと変わらない穏やかな声だった。
「ご主人側から、離婚協議書について返答がございました」
美月は思わず姿勢を正す。
「返答、ですか」
「はい」
藤崎は淡々と続ける。
「内容につきましては、直接ご説明した方がよ
法律相談を終えた翌日、拓也は紹介された書式を確認しながら、答弁書に書く内容を考えていた。 離婚には同意しない。 夫婦関係を修復したい。 生まれてくる子供と三人で暮らしたい。 書きたいことはいくらでもあったが、相談した弁護士からは、感情のまま長々と書くのではなく、まずは必要な対応をするよう言われている。 拓也は結局、その弁護士に依頼することにした。「今後、相手方とのやり取りはどうなるんですか?」「訴訟についてはこちらで対応します。奥様には代理人がついていますので、必要な連絡も原則として代理人を通すことになります」「美月本人とは?」「以前から直接の面会を拒否されているんですよね?」「はい」「でしたら、連絡や接触は控えてください」 また同じことを言われた。 拓也は不満を飲み込む。「子供が生まれたら、それは教えてもらえますか?」「奥様側から連絡があるとは限りません」「俺、父親ですよ?」「出生後のお子さんに関することと、奥様への直接の接触は分けて考える必要があります」「……じゃあ、知らないままになることもあるんですか?」「少なくとも、出産予定の病院を探したり、奥様の行動を確認したりすることはやめてください」 拓也は口を閉じた。 そんなことをするつもりはない。 病院には行かないと決めているし、警察にも言われている。 ただ、自分の子供が生まれるのに何も知らされないということだけが、どうしても理解できなかった。 ◇ 美月の腹は、以前よりさらに大きくなっていた。 立ち上がる時にも自然と動作がゆっくりになり、長く歩けば疲れる。 カフェへの復帰は、出産後に落ち着いてから考えることにした。「これで大体揃ったかな」 サービスアパートの部屋で、美月は入院用のバッグを確認していた。
それから数日、美月は藤崎から頼まれた資料を確認していた。 拓也から届いたメッセージやメールは、すでに藤崎のもとにも多く残っている。それでも、結婚生活について時系列で整理するため、美月自身にしか分からないことを確認する必要があった。「これ、全部ですか?」「現時点でこちらが把握しているものは、ほぼ揃っています」 藤崎の机の上には、印刷された記録が並んでいる。 見覚えのある文章を読むたびに、美月は当時のことを思い出した。「こんなにあったんですね」「一件ずつ見ている時には、分かりにくいものですから」「そうかもしれません」 病院へ来たこと。蒼真の車を追って住んでいる建物を突き止めたこと。両親の家へ知人を使って手紙を届けたことや、蒼真の会社を訪ねたこと。 それぞれが別々に起きた時には、ただ怖くて、その場をやり過ごすことしか考えられなかった。 けれど、こうして順番に並べると違って見える。「私、ずっと嫌だって言ってたんですね」「はい」 藤崎は短く答えた。 美月は一枚の書類を見つめた。 自分がもっとはっきり言えばよかったのではないか。どこかで誤解させたのではないか。 そんなことを考えた時期もあった。 けれど記録の中には、何度も同じ意思が残っている。 戻らない。 会わない。 離婚したい。「これでお願いします」「分かりました。こちらで準備を進めます」 ◇ 拓也はその日も、仕事から帰ると郵便受けを開けた。 封筒が何通か入っている。 広告。 公共料金の知らせ。 そして、その奥に見慣れない封筒があった。「……」 差出人を確認した瞬間、指が止まった。 裁判所。 その文字を見ただけで、心臓が強く鳴った。 拓也は急いで部屋
翌日、藤崎から拓也の申し出を聞いた美月は、しばらく何も言わなかった。「ご主人は、二人だけで直接話す機会を設けるのであれば、離婚について考える、と」「二人だけで?」「はい」 美月は眉を寄せた。 家庭裁判所で、すでに直接伝えたはずだ。離婚したいことも、もう一緒には暮らさないことも、会いたくないことも。九条や藤崎に言わされているわけではなく、すべて自分の意思なのだとも伝えた。 それでも、拓也にはまだ足りないらしい。「会いません」「分かりました」「それで拓也が離婚しないと言うなら、裁判を進めてください」「はい」 藤崎は淡々と答えた。「ご主人の同意を得るために、直接会うことを条件として受け入れる必要はありません」 美月は頷いた。「前だったら……裁判なんて大変だから、一回くらい我慢した方がいいのかなって思ったかもしれません」 十分だけ、一度だけ。それで済むなら我慢すればいい。 そうやって美月は何度も、自分が嫌だと思うことを後回しにしてきた。「でも、もう嫌です」「そのご意向でお伝えします」「お願いします」 ◇ その日の夕方、拓也のもとへ藤崎から連絡が入った。『奥様は、直接の面会には応じないとのことです』「……じゃあ、裁判するんですか?」『今後の手続きについて準備を進めています』「俺、離婚を考えるって言いましたよね?」『伺っています』「だったら普通、会うでしょう」『奥様はそうお考えではありません』「なんでですか?」『朝倉さん』 藤崎の声は変わらない。『奥様は、離婚に応じてもらうために直接会うことを希望していません』「でも、裁判しなくて済むんですよ?」『ご主人が離婚に同意されるのであれば、直接会うことを条件にせず、その旨をお伝えいただければと思います』 拓也は黙り込んだ。「……それじゃ意味ないでしょう」『意味がない、とは?』「俺は美月と話したいんです」『奥様は希望していません』「だから!」 思わず声が大きくなり、拓也は周囲を見回した。まだ会社の近くだ。通行人の視線に気づき、慌てて声を落とす。「俺が離婚を考えるって言ってるんだから、美月だって少しくらい譲るべきじゃないですか?」『そのような条件での面会には応じない、というのが奥様の回答です』「……」『ほかにご用件がなければ、失礼します』
調停が不成立になった翌日。 拓也は仕事中も落ち着かなかった。 書類を確認していても、同じ行を何度も読み返してしまう。「朝倉さん、大丈夫ですか?」「あ……はい。すみません」 慌てて作業へ戻る。 仕事は失いたくない。 せっかく美月のために始めたのだ。 ここで辞めたら、それこそ戻ってきてもらえなくなる。 そう思うのに。 頭から離れない。 ――調停は終了します。 もう次の期日はない。 次に届くのが裁判所からの訴状だったら。「……」 拓也は机の下でスマートフォンを握った。 ◇ 昼休みになると、すぐに藤崎法律事務所へ電話を掛けた。『藤崎です』「美月と話しましたか?」『何についてでしょうか』「裁判です」『今後の手続きについては、朝倉さんと相談しています』「もう決めたんですか?」『個別の相談内容についてはお答えできません』「待ってください」 拓也は早口になった。「裁判する前に、条件を出してもいいですか?」『条件、ですか』「俺、離婚したくないです。でも、美月がどうしてもって言うなら……」 言葉が詰まる。 離婚してもいい。 それだけは言えなかった。「半年待ってほしいです」『半年?』「赤ちゃんが生まれるでしょう?」 拓也は続けた。「生まれて、落ち着いて、それからもう一回考えてほしいんです」『そのご希望を奥様へ伝えることはできます』「お願いします」「ただし、奥様が応じる義務があるわけではありません」「分かってます」 拓也は答えた。
家庭裁判所で拓也と鉢合わせてから、美月はしばらくカフェを休んでいた。 体調が悪いわけではない。 ただ、今は無理をしない方がいい。 店長も、「こっちのことは気にしないの~。戻りたくなったら連絡して」 と言ってくれた。 美月はその言葉に甘えることにした。 そして数日後。 藤崎から連絡が入った。『先日の件もありましたので、今後の手続きについて一度お話ししたいのですが』「はい」 美月は藤崎の事務所を訪れた。「前回、ご主人と接触した件については記録に残してあります」「お願いします」「それから、調停についてですが」 藤崎が書類へ目を落とす。「これまでの経過を見る限り、次回もご主人が離婚に応じない場合、これ以上調停を続けても合意の見込みは乏しいでしょう」「……はい」「不成立となれば、次は訴訟を提起するかどうかを決めることになります」 美月は膝の上で手を握った。 裁判。 何度聞いても、重い言葉だった。「時間、かかりますよね」「調停より長くなる可能性はあります」「それでも」 美月は顔を上げた。「進めたいです」「分かりました」「拓也が嫌だと言い続けたら、私はずっと離婚できないんですか?」「訴訟になれば、ご主人が同意しないというだけで結論が決まるわけではありません。ただ、実際に離婚が認められるかは、これまでの経緯や証拠などを踏まえて裁判所が判断します」「はい」「こちらでも、これまでの資料を整理していきます」 美月は頷いた。 拓也からの大量の連絡。 第三者を使った手紙。 病院への問い合わせ。 車を追って住居を突き止めたこと。 住居付近での接触。 蒼真の会社への電話と来訪。 カフェ付近で待っていたこと。 そして、家庭裁判所で待ち、直接話そうとしたこと。 一つ一つが記録されている。「私も、必要なことがあれば話します」「お願いします」 ◇ 次の調停期日。 美月は、いつもと同じ答えをした。「離婚を希望します」「お気持ちに変わりはありませんか?」「ありません」「ご主人と夫婦関係を修復するお考えは?」「ありません」 調停委員が頷く。 美月の答えは、それだけだった。 ◇ 一方。 拓也は調停室へ入るなり言った。「離婚しません」「ご主人のお気持ちは、これまでと変わらないとい
「なんで離婚なんだよ!」 拓也の声が、家庭裁判所の前に響いた。 藤崎が美月との間に立つ。「朝倉さん、これ以上近付かないでください」「近付いてないだろ!」 拓也は足を止めたまま、美月を見る。「俺、何もしてないじゃん!」 仕事を始めた。 直接連絡もしなかった。 家にも病院にも行かなかった。 九条の会社にも、あれから行っていない。「悪いところ直しただろ?」 美月は答えなかった。「美月が嫌だったこと、もうしてないじゃん」「……違う」「何が?」「今やってないからって、今までのことがなくなるわけじゃない」 拓也の顔が歪む。「じゃあ、いつまで怒ってるんだよ」「怒ってるから離婚するんじゃない」「じゃあ何なんだよ!」「もうあなたと夫婦でいたくないの」 拓也が黙った。 美月は自分でも驚くほど静かだった。「仕事を始めたのは、いいことだと思う」「だったら――」「でも、それはあなたの生活のために必要なことでしょ?」「美月と赤ちゃんのためだよ」「私は頼んでない」 拓也の表情が固まる。「ベビーベッドも、歯ブラシも、名前の候補も」「だって必要だろ」「私には必要ないの」「赤ちゃんには必要だよ!」「私が用意する」「俺も父親だろ!」 再び声が大きくなった。 建物の警備員がこちらへ向かってくる。 藤崎が美月へ小さく声を掛けた。「車へ行きましょう」「はい」 美月が背を向ける。「待って!」 拓也が動いた。 警備員が間に入る。「すみません。こちらで大声を出すのはおやめくだ







