LOGIN調停が不成立になった翌日。 拓也は仕事中も落ち着かなかった。 書類を確認していても、同じ行を何度も読み返してしまう。「朝倉さん、大丈夫ですか?」「あ……はい。すみません」 慌てて作業へ戻る。 仕事は失いたくない。 せっかく美月のために始めたのだ。 ここで辞めたら、それこそ戻ってきてもらえなくなる。 そう思うのに。 頭から離れない。 ――調停は終了します。 もう次の期日はない。 次に届くのが裁判所からの訴状だったら。「……」 拓也は机の下でスマートフォンを握った。 ◇ 昼休みになると、すぐに藤崎法律事務所へ電話を掛けた。『藤崎です』「美月と話しましたか?」『何についてでしょうか』「裁判です」『今後の手続きについては、朝倉さんと相談しています』「もう決めたんですか?」『個別の相談内容についてはお答えできません』「待ってください」 拓也は早口になった。「裁判する前に、条件を出してもいいですか?」『条件、ですか』「俺、離婚したくないです。でも、美月がどうしてもって言うなら……」 言葉が詰まる。 離婚してもいい。 それだけは言えなかった。「半年待ってほしいです」『半年?』「赤ちゃんが生まれるでしょう?」 拓也は続けた。「生まれて、落ち着いて、それからもう一回考えてほしいんです」『そのご希望を奥様へ伝えることはできます』「お願いします」「ただし、奥様が応じる義務があるわけではありません」「分かってます」 拓也は答えた。
家庭裁判所で拓也と鉢合わせてから、美月はしばらくカフェを休んでいた。 体調が悪いわけではない。 ただ、今は無理をしない方がいい。 店長も、「こっちのことは気にしないの~。戻りたくなったら連絡して」 と言ってくれた。 美月はその言葉に甘えることにした。 そして数日後。 藤崎から連絡が入った。『先日の件もありましたので、今後の手続きについて一度お話ししたいのですが』「はい」 美月は藤崎の事務所を訪れた。「前回、ご主人と接触した件については記録に残してあります」「お願いします」「それから、調停についてですが」 藤崎が書類へ目を落とす。「これまでの経過を見る限り、次回もご主人が離婚に応じない場合、これ以上調停を続けても合意の見込みは乏しいでしょう」「……はい」「不成立となれば、次は訴訟を提起するかどうかを決めることになります」 美月は膝の上で手を握った。 裁判。 何度聞いても、重い言葉だった。「時間、かかりますよね」「調停より長くなる可能性はあります」「それでも」 美月は顔を上げた。「進めたいです」「分かりました」「拓也が嫌だと言い続けたら、私はずっと離婚できないんですか?」「訴訟になれば、ご主人が同意しないというだけで結論が決まるわけではありません。ただ、実際に離婚が認められるかは、これまでの経緯や証拠などを踏まえて裁判所が判断します」「はい」「こちらでも、これまでの資料を整理していきます」 美月は頷いた。 拓也からの大量の連絡。 第三者を使った手紙。 病院への問い合わせ。 車を追って住居を突き止めたこと。 住居付近での接触。 蒼真の会社への電話と来訪。 カフェ付近で待っていたこと。 そして、家庭裁判所で待ち、直接話そうとしたこと。 一つ一つが記録されている。「私も、必要なことがあれば話します」「お願いします」 ◇ 次の調停期日。 美月は、いつもと同じ答えをした。「離婚を希望します」「お気持ちに変わりはありませんか?」「ありません」「ご主人と夫婦関係を修復するお考えは?」「ありません」 調停委員が頷く。 美月の答えは、それだけだった。 ◇ 一方。 拓也は調停室へ入るなり言った。「離婚しません」「ご主人のお気持ちは、これまでと変わらないとい
「なんで離婚なんだよ!」 拓也の声が、家庭裁判所の前に響いた。 藤崎が美月との間に立つ。「朝倉さん、これ以上近付かないでください」「近付いてないだろ!」 拓也は足を止めたまま、美月を見る。「俺、何もしてないじゃん!」 仕事を始めた。 直接連絡もしなかった。 家にも病院にも行かなかった。 九条の会社にも、あれから行っていない。「悪いところ直しただろ?」 美月は答えなかった。「美月が嫌だったこと、もうしてないじゃん」「……違う」「何が?」「今やってないからって、今までのことがなくなるわけじゃない」 拓也の顔が歪む。「じゃあ、いつまで怒ってるんだよ」「怒ってるから離婚するんじゃない」「じゃあ何なんだよ!」「もうあなたと夫婦でいたくないの」 拓也が黙った。 美月は自分でも驚くほど静かだった。「仕事を始めたのは、いいことだと思う」「だったら――」「でも、それはあなたの生活のために必要なことでしょ?」「美月と赤ちゃんのためだよ」「私は頼んでない」 拓也の表情が固まる。「ベビーベッドも、歯ブラシも、名前の候補も」「だって必要だろ」「私には必要ないの」「赤ちゃんには必要だよ!」「私が用意する」「俺も父親だろ!」 再び声が大きくなった。 建物の警備員がこちらへ向かってくる。 藤崎が美月へ小さく声を掛けた。「車へ行きましょう」「はい」 美月が背を向ける。「待って!」 拓也が動いた。 警備員が間に入る。「すみません。こちらで大声を出すのはおやめくだ
次の調停の日。 美月は藤崎とともに家庭裁判所へ入った。「今日はご主人から直接話したいという希望が繰り返し出ていることも、こちらから改めて伝えておきます」「はい」「もちろん、朝倉さんが応じる必要はありません」「会いません」 美月は答えた。 もう迷っていなかった。 ◇ 調停室でも、美月の意思は変わらなかった。「ご主人からは、離婚について一度直接話したいというご希望が出ています」「希望しません」「分かりました」 調停委員はそれ以上勧めなかった。「離婚についてのお気持ちにも変わりはありませんか?」「はい。離婚したいです」 これまで何度も繰り返した答えだった。 そして今回は、調停委員から今後についてもう一段踏み込んだ説明があった。「これまで複数回お話を伺いましたが、双方のご意向に隔たりがあり、現状では合意の見込みが難しい状況です」「はい」「次回までの状況にもよりますが、調停を不成立として終了することも考えられます」 美月は藤崎を見る。 藤崎が小さく頷いた。「分かりました」「その場合の今後については、代理人の先生とご相談ください」「はい」 怖くないわけではない。 裁判になれば、もっと時間が掛かるかもしれない。 それでも。 戻るという選択肢はなかった。 ◇ 拓也の番になった。「奥様は、現在も離婚を希望されています」 また同じ言葉。「直接話すことについても、希望されていません」 拓也は調停委員を見た。「それ、本当に美月が言ったんですか?」「奥様ご本人から伺っています」「藤崎先生じゃなくて?」「はい」 拓也の表情が固まった。
その夜。 拓也はほとんど眠れなかった。 目を閉じるたびに、昨日の光景が浮かぶ。 カフェから出てきた美月。 その前に停まった車。 蒼真を見て笑った美月。「……俺には会わないのに」 自分とは十分話すことさえ拒む。 それなのに九条とは、当たり前のように一緒にいる。 仕事を始めたことも。 家を整えたことも。 赤ちゃんのために準備していることも。 美月は何も見ようとしない。「一回話せば分かるのに」 拓也は起き上がった。 スマートフォンを手に取る。 藤崎へメールを打った。『もう一度お願いします。美月と直接話す機会を作ってください』 送信。 続けてもう一通。『裁判になる前に一度だけでいいです』 さらに。『俺は美月に危害を加えるつもりはありません』『第三者がいる場所で構いません』『警察署でも構いません』 送ってから、拓也は息を吐いた。「これならいいだろ」 安全な場所。 第三者もいる。 それでも拒否する理由なんてない。 ◇ 翌朝。 藤崎から美月へ連絡が入った。『ご主人から、また直接面会の希望が来ています』「……」『今回は、第三者がいる場所や警察署でも構わないとのことです』「嫌です」 美月は答えた。 自分でも驚くほど、迷わなかった。「場所の問題じゃないんです」『はい』「私は拓也と会いたくありません」『分かりました』「裁判になる前に話したいって言ってるんですよね?」『そうです』「でも、私はもう何度も答えてます」
拓也は路線図を見上げたまま、しばらく動かなかった。 仕事へ行かなければならない。 せっかく決まった仕事だ。 遅刻するわけにはいかない。「……今日は無理か」 結局、いつもの電車に乗った。 会社へ着けば、普通に仕事をした。 頼まれた作業をこなし、昼休みには同僚とコンビニへ行く。 以前より生活は整っている。 だからこそ拓也には分からなかった。 自分はちゃんとしている。 なのに、なぜ美月は離婚したがるのか。 仕事を終え、駅へ向かう。 改札の前で足が止まった。 帰宅する路線。 その隣に、カフェへ向かう路線が表示されている。「……確認するだけ」 美月が本当に辞めたのか。 それさえ分かればいい。 拓也は行き先を変えた。 ◇ カフェが見える場所まで来ると、拓也は足を止めた。 以前ここへ来た時、店長から美月はもういないと言われた。 店の前まで行けば、また騒ぎになるかもしれない。「入らなきゃいいんだろ」 道路の反対側を歩く。 窓越しに店内を見る。 客が何人かいる。 店員が動いている。 美月はいない。「やっぱり辞めたのか……?」 そのまま帰ればよかった。 けれど拓也は、近くの店へ入った。 窓際の席から、カフェの入口が見える。「少しだけ」 以前、九条の会社で何時間も待ったことを思い出す。 警察には、待ち伏せのようなことはするなと言われた。 でも今回は九条ではない。 美月の家でもない。 病院でもない。 カフェにいるとも分からない。「ただ休んでるだけだ