登入第72章アリナの視点彼の唇が、私の息を奪うほどの必死さで重ねられた。一瞬、私は固まった。こんなの嫌だった。こんな形でも、今でもない。けれど、頭で考えるより先に体が反応してしまった。ショックだったのかもしれない。二人を隔てるものの重みのせいかもしれない。あるいは、まるで自分を繋ぎ止める最後の何かに縋るように震える、彼の手のせいだったのかもしれない。すぐに突き放さなかった自分が嫌でたまらなかった。彼のキスは優しくなかった。すべてが現実離れしていて、儚く、美しかったあの島での、あの柔らかく丁寧なものとは違っていた。荒々しく、切迫していて、痛かった。離したら私が消えてしまうとでも恐れているかのように、彼の両手は当てもなく私の腕や腰を掴んだ。「エドリック」私は囁き、それから声を強めた。パニックが胸に忍び寄る。「エドリック、やめて」彼はやめなかった。胸に掌を押し当てて引き剥がそうとしたが、まるで壁を押しているようだった。アルコールと怒り、そして心の奥深くに抱えた破滅的な何かに突き動かされた彼は、私よりも遥かに強かった。「お願い」声が裏返る。「酔ってるわ」私が抵抗すればするほど、彼の力は強くなった。荒い息遣いが肌に吹きかかり、ついに冷たく麻痺するような恐怖が全身を駆け巡った。これは私の知っている男ではない。私を大切な存在として見つめてくれていた、あの男ではない。「エドリック!」私は残された体力を振り絞って彼を押しのけ、叫んだ。口元に激痛が走った。息を呑み、鋭い痛みに後ずさると、唇から温かい血が滲み出てくるのが分かった。噛まれたのだ。その瞬間、私の中で何かがプツリと切れた。私は恐怖、屈辱、怒りのすべてを込めて、彼を強く突き飛ばした。彼はバランスを崩し、鈍い音を立ててベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。考えるよりも先に、手が勝手に動いていた。平手打ちの音が狭い部屋に響き渡った。彼の首が横に跳ねた。直後、静寂が訪れた。私は胸を大きく上下させ、衝撃で指先を痺れさせながら、その場に立ち尽くしていた。唇が鶉(うずら)のように腫れて痛み、血の味が広がる中で、視界が涙で滲んだ。「正気なの!?」声の震えを抑えきれずに問いただす。「どうしちゃったのよ!?」一瞬、彼は動かなかった。それからゆっくりと、痛々しいほどゆっくりと、頭をこちらに向けた。その瞳は焦
第71章アリア視点どれだけ豪華な場所に座っていても、実際には私のものではないと思うと、何の意味もないように感じた。エドリックは、まだ私のものではない。少なくとも、私が望んでいる形では。私は一人でリビングルームに座り、両手をお腹に重ねながら、壁に掛けられたアンティーク時計のゆっくりとした秒針の音を聞いていた。一秒ごとに、その音が大きくなっていくように感じる。すでに夜は深まり、ヴェイル邸はいつもの冷たい静寂に包まれている。それなのに、エドリックはまだ帰ってこなかった。まただ。考えすぎないように、と自分に言い聞かせる。彼は忙しい。いつだって忙しい。でも、それが分かっていても、待つことが楽になるわけではなかった。「もしかしたら、今夜はペントハウスに泊まるかもしれないわね」ハンナが何気ない口調で言いながら部屋に入ってきた。そして、私の前のテーブルに紅茶を置く。「会社にも近いでしょう?」私は奥歯を噛みしめた。エドリックの従姉妹であるハンナは、いつものように笑っていた。礼儀正しすぎる笑顔。作り物めいた笑顔。まるで同じ部屋にいてくれるだけで、私に恩を売っているかのようだった。まるで、ここにいてくれることに感謝しろと言わんばかりに。「赤ちゃんのためにもいいことよ」そう付け加えながら、彼女は紅茶のカップを少し私のほうへ押した。「リラックスしないと」その一言一言が、私の神経を逆撫でする。私は彼女が嫌いだった。この家の人間がみんな、私を壊れやすいガラス細工のように扱うことも嫌いだった。まるで声を荒らげたり、私と意見が食い違ったりしただけで、私が壊れてしまうとでも思っている。妊娠したからといって、突然何もできない子供になったわけじゃない。それに、私がこの結婚にこぎつけたとき、こんなふうに家族全員と一緒に暮らすことになるなんて思ってもいなかった。エドリックが私のために、私だけの邸宅を用意してくれると思っていた。でも、構わない。息子が生まれれば、すべては私のものになる。「紅茶はいらないわ」私は素っ気なく言った。ハンナの笑顔がわずかに崩れる。「アリア、あなた、あれからほとんど何も食べていないでしょう……」「あなたの存在もいらないわ」私はようやく顔を上げ、彼女を見た。「出ていって」部屋に沈黙が落ちた。ほんの一瞬。
ALINA視点こんな彼を見たことは、一度もなかった。島で一緒に過ごした一か月の間でさえ、一度も。それ以前にも、もちろん。エドリックは、まるで顔だけを借りた別人のように、私の部屋の入口に立っていた。髪は乱れ、前髪が目にかかっている。いつもならきちんと整えられているシャツも皺だらけで、ボタンはいくつか外れていた。彼がいつも自然に纏っていた、鋭く、揺るぎない雰囲気は消えている。そこにあったのは、むき出しの何かだった。不安定で、危うい何か。安い酒の匂いがした。それだけで、すべてを悟るべきだったのかもしれない。でも、本当に恐ろしかったのは、彼がひどい姿をしていることじゃない。酒の匂いが、まるでもう一枚の皮膚のように彼にまとわりついていることでもない。ただ一つ。彼が、ここにいるという事実だった。私の部屋に。私の住所を知って。「どう……」唇が動いた。けれど、言葉は出てこなかった。どうして……私がどこに住んでいるのを知っているの?心臓が激しく鼓動し、目眩がするほどだった。私はその場に凍りついたまま、身体に巻きつけたタオルをさらに強く握りしめ、彼を見つめていた。瞬きをすれば、彼が消えてしまうんじゃないかと思った。けれど、彼は消えなかった。そして、私が招き入れるのを待つこともしなかった。私が動かないと分かると、エドリックは肩でドアを押し開け、そのまま無理やり部屋の中へ入ってきた。「エドリック、何してるの?」叫びながら、私は後ずさった。背後でドアが大きな音を立てて閉まる。彼は答える代わりに呻き、顔を手で乱暴に撫で下ろした。何を言っているのか分からない言葉を呟きながら、ふらつく足取りで部屋の奥へ進んでいく。まるで、ここが自分の家であるかのように。胸の奥に、じわじわと恐怖が這い上がってきた。「エドリック」もう一度、今度はもっと大きな声で呼んだ。「出ていって」その瞬間だった。彼が笑った。冷たく、苦々しい笑い声。背筋を悪寒が走った。「出ていけ?」エドリックは嘲るように繰り返し、突然こちらを振り向いた。「お前に俺が何をするか指図する権利なんてない」言葉を重ねるたび、声が大きくなっていく。抑えきれない怒りが、次々と溢れ出していた。「お前が俺の人生をめちゃくちゃにした!」彼が怒鳴った。「分かってるのか? 自
アリーナの視点長い道のりだった。それでも、私はどうにか辿り着いた。大使館から、私の小さなアパートまで。自分の世界が完全に崩れ落ちてしまった人間には、空があまりにも広く感じられる夜だった。建物に着いた頃には、もう夜の九時を過ぎていた。脚は強張り、足は痛い。頭もズキズキしていた。今日聞かされたこと。そして、どうすることもできなかったこと。その全部が頭の中を駆け巡っていた。このアパートだって――明日には、もう私のものじゃない。階段を上りながら、その事実が胸を痛いほど締めつけた。鍵を取り出し、ドアを開ける。部屋は静まり返っていて、かすかに埃の匂いがした。私は後ろ手にドアを閉め、そのまましばらく背を預けた。ゆっくり息を吸う。そして、吐く。そうすれば、この重圧に押し潰されずに済む気がした。「一晩だけ……」自分に言い聞かせるように、私は小さく呟いた。「今夜だけ、乗り越えればいい」バッグを床に落とし、浴室へ向かって重い身体を引きずった。自分の身体じゃないみたいに、何もかもが重かった。今、私が欲しいもの。いや――必要なものは一つだけだった。熱いシャワー。筋肉に染みついた痛みを少しでも和らげるもの。頭の中の考えを全部、洗い流してくれるもの。私は服を一枚ずつ脱ぎ、タイルの床へ落としていった。そして蛇口をひねる。すぐに小さな浴室が湯気で満たされていく。私は浴槽に身体を沈めた。熱が全身を包み込む。その瞬間、今日初めて、肩の力が抜けた。私はゆっくりと身体を滑らせ、背中を冷たいタイルに預けた。膝を胸元まで引き寄せる。目が熱くなった。でも、もう泣くつもりはなかった。泣くことには、もう疲れた。弱い自分にも疲れた。自分の存在そのものが間違いだったように感じることにも、疲れた。どれくらい、そこにいたのか分からない。もう時間なんて、どうでもよかった。そのとき――コン。目が一気に開いた。心臓が激しく跳ね上がり、肋骨に叩きつけられる。私は息を止めた。こんな時間に、誰が来るの?最初に浮かんだのはベッカだった。考えただけで胃がねじれる。会いたくない。謝罪もいらない。言い訳も聞きたくない。ただ、一人にしてほしかった。再びノックが響いた。今度は、もっと大きく。もっと強く。私はびくりと肩を震わせた。
エドリックの視点来るべきじゃなかった。バーの中には、汗と古びたビール、それから絶望の匂いが充満していた。祝うためじゃない。忘れるために酒を飲むような人間が集まる場所。……俺には、ちょうどいいのかもしれない。この店を選んだのは、貧しい地区の奥深くにあって、誰にも俺だと気づかれないと思ったからだ。制服もない。期待もない。「家名を危険に晒した」なんて、父親に説教されることもない。神よ。今日、父が俺に向けてきた言葉が、頭から離れない。無謀。無責任。家を危険に晒した。本当に、父は俺をそんな人間だと思っているのか?ここまで俺が何をしてきたかも知らずに?何を犠牲にしてここまで来たのかも?レオナルドを拘束するために、自分の命まで懸けたことさえ?「よくやったな、エドリック」の一言すらなかった。何もない。ただ、責められただけだ。俺はグラスをもう一度煽った。酒が喉を焼き、思わず顔をしかめる。俺はもともと酒を飲むような人間じゃなかった。でも最近は……酒のほうが、誰よりも俺を理解している気がした。琥珀色の液体を見つめ、その中に意識ごと沈み込んでいた、そのとき。テーブルに影が落ちた。女だった。艶やかな茶色の髪。緑色の瞳。その色は、アリアの瞳と……アリーナの瞳と、ほとんど同じだった。頭が理解するより先に、胸が締めつけられた。自信に満ちた仕草。どこかふざけたような、それでいて人をからかうような動き。アリーナによく似ていた。一瞬、本気で幻覚を見ているのかと思った。けれど、その女が笑った。あまりにも積極的で。あまりにも欲に飢えていて。あまりにも手慣れた笑みだった。……アリーナじゃない。間違いなく。「つらい夜なの?」女はそう言いながら、近すぎるほど身体を寄せてきた。香水の匂いが鼻を突く。俺は即座に拒絶した。「興味ない」女は俺の言葉など聞こえなかったかのように、くすりと笑った。指先でテーブルの上をなぞる。「ねえ、素敵な人。私なら忘れさせてあげられるわよ……」俺は椅子を勢いよく後ろへ引いた。「断った」苛立ちが背骨を這い上がってくる。アリーナじゃない。こいつは絶対にアリーナじゃない。そもそも、二人に共通しているものがあるとすれば、男を正気じゃいられなくする力くらいだ。ただし、その理由はまったく違
第67章アリーナの視点大使館を出た瞬間、熱気が借金でも取り立てに来たかのように、容赦なく私の顔を叩きつけてきた。太陽が馬鹿みたいに強い。鋭く、眩しく、肌を焼くような日差し。私は小さく舌打ちしたけれど、タクシーは呼ばなかった。呼ぶわけにはいかなかった。もう、そんな余裕はない。ビザの手続きが終わるまで、この惨めな国に丸々六か月も足止めされるのなら、一枚一枚のお金が大切になる。タクシー代だってそう。必要のない出費だって、全部。私は小さなバッグを握り直し、歩き続けた。六か月。六か月、隠れて暮らす。六か月、父に見つけ出されないよう願い続ける。出国できていないのは私のせいじゃないのに、見つかれば恥をかかされ、罰を受けるかもしれない。六か月、みんなが嬉々として壊していった人生を、もう一度作り直そうとする。その「みんな」の中には、私自身も含まれている。……最高。大使館の門が、背後で小さな金属音を立てて閉じた。私は静かな道をさらに歩いていく。足元の小石を蹴りながら、頭の中ではいつもの不安が渦を巻いていた。どこに泊まればいい?このお金はあとどれくらい持つ?ビザが下りる前にお金が尽きたら?もし……。もし、もし、もし――。身体の中全部が重かった。希望なんて、どこにもない。まるで世界全体が、私がどれだけ早く壊れるのかを待ち構えているみたいだった。考え事に夢中になりすぎて、車が目の前に来るまで気づかなかった。キキィッ!車が急停止する。私は反射的に後ろへ飛び退き、心臓が喉元まで跳ね上がった。滑らかな銀色のジープ。高級で、ピカピカで、この何もない通りにはあまりにも不釣り合いな車が、私の行く手を完全に塞いでいた。私は困惑して眉をひそめる。何なのよ……?運転席のドアが開いた。そして――今、一番会いたくない人間が降りてきた。リラ。艶やかなブロンドの髪は高い位置でポニーテールにまとめられ、頭にはサングラス。服装からして、全身が「高級品です」と叫んでいる。私は心の中で呻いた。当然だ。さっきの会話だけでも十分うんざりだったのに。もちろん、今日がこれ以上最悪になることだってある。私はすぐに腕を組んだ。胸の奥に苛立ちが熱く広がる。「今度は何の用?」リラが近づいてくる。その表情からは、何を考えているのか読み取れ







