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第106話

Author: 浮島
耳元に足音が近づき、蒼空は反射的にそちらを見た。

そして目が合ったのは、瑛司の低く深みのある漆黒の瞳と、きゅっと引き結ばれた薄い唇だった。

蒼空の表情が一瞬固まる。

異変に気づいたのは、隣の女性だった。

彼女は瑛司を見るや否や眉をひそめ、すぐさま蒼空の腕を支えてその場を離れる。

残したのは背中だけ。

背後から、低く響く男の声が追ってくる。

「お前のスマホ、まだ家にいる」

蒼空のまつげが小さく震える。

瑛司が言ったのは「家に」だ。

スマホを昨夜、松木家の邸宅に忘れたことは分かっていた。

つまり彼は、蒼空の前でその邸宅を「家」と呼んだのだ。

内心では皮肉と諦めが入り混じる。

自分を追い出したくせに、それでも松木家を家だと思わせようとする。

それは残酷すぎやしないか、独りよがりすぎやしないか。

松木家は決して自分の家ではない。

あの虎口のような場所を家と思える日は、永遠に来ない。

蒼空は淡々と答える。

「後で取りに行く。ご迷惑をおかけしました」

それは礼儀正しく、しかし距離のある声色。

多くの人に対して使える無難な口調だ。

だが瑛司は、かつて天真爛漫で我がまま放題だった蒼空が、自分にまでそんな口調で話すとは思ってもみなかった。

まるで初対面の赤の他人のように。

少なくとも、松木家で5年近く一緒に過ごした関係には見えない。

瑛司の目がわずかに暗くなり、低い声が響く。

「今日中に取りに来い。過ぎたら、スマホは捨てる」

彼は知っている。

蒼空のスマホには、自分と彼女の写真が大量に保存されていることを。

だからこそ、絶対に手放すはずがないと踏んでいた。

蒼空は驚かなかった。

彼は昔から、彼女を人として扱ったことがない。

彼女は平然と受け止めたが、隣の女性は明らかに不満そうだった。

「何よあの元カレ!ちょっと預かってただけでしょう?何様のつもりで捨てるなんて言うのですか?!

見た目はあんなにカッコいいのに、人間味ゼロじゃないですか!」

蒼空は女性の手の甲を軽く叩いて宥める。

「大丈夫です。落ち着いてください」

足を止め、振り返ることなく言い放つ。

「じゃあ、処分してください。捨てても構いません。大事なものではないので」

大事なものではない――

それはスマホのことか、それとも中の写真のことか?

瑛司の眉が
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