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神なき祠と、声の在処

作者: 吟色
last update 最終更新日: 2025-10-13 09:28:28

朝の空気は薄く冷たく、黒の城の回廊には昨夜の気配がまだ残っていた。

医務棟の窓辺に座り、包帯をほどく。白い布の下、掌の火傷は赤く縮み、指を軽く曲げるたびに痛みが波のように寄せてくる。

アシュルが扉の影から現れた。砂を噛んだ低い声は、いつも通り落ち着いている。

「手当は足りているか」

「ええ。動くぶんには」

彼は私の手元を一瞥し、視線を上げた。

「ひとつ、問う。神が沈黙しているなら、我々は何に祈ればいいのか」

「“痛み”そのものに、だと思います」

思わず口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。

アシュルは眉をわずかに寄せる。

「痛みは、秩序ではない」

「でも、確かに“ここ”にある。目の前にあって、放っておけないものです」

沈黙が落ちた。彼は短く息を吐き、「理解が追いつかない」とでも言うように首筋へ手をやる。

「陛下の命で修復は始まった。……君は無理をするな」

踵を返し、回廊へ溶けていく背を見送る。

扉が閉じる直前、遠い柱影に黒いマントが揺れた。ノクスがこちらを見ていた。視線は冷ややかで、しかし見放す距離ではない。

昼前、研究塔の螺旋階段を上る足音が重なった。ノクスに伴われ、私は魔導局の最上階へ向かう。

部屋の主は痩せた長身の魔導師だった。角は磨り減り、指先は墨で黒い。ラグネスと名乗る。

「古記録の目録を洗い直しました」

棚から引き抜かれた羊皮紙には、細い文字列が密に踊る。ラグネスは一枚を机に置き、人差し指である箇所を示した。

「“祈りを封じた祠”の記述がある。黒の大地に“声”が沈められた、と」

ノクスの目が細くなる。「……神がこの地を見捨てたのではなく、封じられた」

私はページの縁に触れた。微かな乾きが指に移る。

「なら、祈りが届かないのも、その封印のせい?」

ラグネスは頷く。「位置も書かれている。城から東に半日の古い神殿跡だ。ただし、危険だ。呪いの密度が高い」

「確かめる価値はある」ノクスが即答する。

扉の外に気配。アシュルが入ってきた。胸甲の留め金が微かに鳴る。

「陛下、その地の封印は呪いの源。触れるのは得策ではありません」

「危険を放置する方が愚かだ」

短いやり取りで結論は決まる。アシュルは視線だけで歯を食いしばり、私に向けて小さく言った。

「君は陛下の側から離れるな」

午後の光が傾く頃、黒の城を出る。東へ。荒れた土と低い草。風は灰の匂いを運ぶ。

日が山影へ落ち始めたころ、崩れた神殿跡に行き当たった。柱は根元で折れ、床石はうねりながら沈んでいる。天井は開き、薄い光が塵の線を描く。だというのに、ここだけ空気が重い。音が吸われる聖域の、逆さのような静けさ。

壁面の文様が逆向きに刻まれていた。祈りの言葉を鏡に映し、ひっくり返して釘打ちしたような、嫌な手触り。

奥まった円形の広間に、鎖が円環状に並ぶのが見えた。黒い金属は冷たく、ところどころに白い結晶が噛んでいる。

胸のペンダントが熱を帯びる。鎖へ近づくたび、拍動が速くなった。

同時に、ノクスの左腕の包帯の下で石が微かに鳴る。彼が視線を落とした。

「……この反応。神の声は、呪いと同じ場所にある」

「じゃあ、“神”と“呪い”は……」

言葉の最後が空へほどける前に、声が落ちてきた。

祈る者よ。

声を持つことを、神は恐れた。

誰の声でもない。誰の声にでも聞こえる。

胸骨の内側で響き、脳の奥へ冷たい指を伸ばす。足元がふらつく。視界の輪郭が滲んだ。

鎖の輪の内側、壁の亀裂がひとつ、ゆっくりと開いていく。黒い膜の向こうから、眼がこちらを覗いた。瞳孔も光もない、ただ“見ている”だけの黒。

「下がれ」ノクスが私の腰を引く。だが足が思うように動かない。ペンダントの脈動が強く、胸を内側から叩く。

黒い眼は瞬きもせず、鎖の円を一つひとつ舐めるように見回す。

金属が軋み、空気が低く震えた。

目の前が白く跳ねた。音が消え、光だけが残る。私はその光の中にいた。

誰かの記憶が流れ込む。

大地はまだ黒くなく、風は歌を運び、祈りはただの挨拶のように軽かった。

祈りは秩序を壊す。

だから声を封じた。

声は形を変えて戻る。

人は神へ、神は人へ――。

言葉が途切れ、光が閉じる。

瞼を上げると、天井から黒い霧がすだれのように落ちていた。鎖が震え、輪の一角が高く悲鳴を上げる。

ノクスが肩を抱き寄せ、「立て、リシア」と低く言う。足に力が入らない。けれど、彼の声は地面そのもののように確かだ。

「押すな。縫え」

彼の言葉が胸で弾ける。私は頷き、指先に細い光を集める。

黒い霧の縁を、ノクスの“破壊”が支える。崩れる力だけを噛み砕き、私の光がその輪郭を縫い留める。

出口までの細い道が一筋、床の上に描かれた。

駆ける。背中に熱い視線。黒い眼がこちらを見ていた。

外気が頬に触れた瞬間、広間の奥で甲高い音が鳴る。振り向くと、鎖の一本が弾け、床に落ちていた。

神の沈黙が、崩れはじめている。

日が沈み、城へ戻る道はほとんど闇だった。馬の呼吸と、風に擦れるマントの音だけが耳に残る。ノクスは無言で先を行き、私はその背中に合わせて歩幅を刻んだ。アシュルは後方の警戒を崩さない。誰も、あの祠の声について口に出さなかった。言葉にした途端、何かが形を持ってしまうからだ。

夜、塔の上に出る。風は高い場所の匂いをしていた。

下で足音が止まり、ノクスが石の欄干にもたれる。赤い瞳に月の欠けた光が点る。

「……神を封じたのは、誰だ」

「たぶん、“人間”です」

自分の声が驚くほど落ち着いて聞こえた。祠の残響がまだ胸にいる。

ノクスは目を細める。遠く、街の修復の灯が点々と連なっている。

「なぜだ」

「祈りは秩序を壊すから。声は、形を選ばないから。……それを怖れた誰かがいた」

背後で気配。アシュルが階段の影から姿を現した。夜気の中でもその声は乾いている。

「陛下、祈りが呪いと共鳴している。あの祠で起きた現象が証明です。このままでは、彼女が神の代わりになる」

ノクスは私を見ないで答えた。

「それでも、彼女を止めることはできん」

「理由を」

「この国は、もう一度“声”を必要としている」

アシュルはしばらく口を閉ざし、やがて短く頭を垂れて去った。忠誠と不安が同じ靴音で階段を降りていく。

空を見上げる。月は欠けて、白い刃のように薄い。風が髪を撫で、包帯の下で痛みが小さく脈を打った。

私は息を整え、ゆっくりと言った。

「沈黙が終わるなら、私は何度でも声を上げます」

ノクスは答えない。けれど、その沈黙は昨日のものではなかった。

塔の影が長く伸び、城の石に落ちる。遠くで夜警の合図が小さく鳴る。

神を恐れたのは、人間か。人間を沈めたのは、神か。

答えのない問いが、夜を裂いた。

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