LOGIN「お願いです。九条先生に、どうしてもお話ししたいことがあるんです!」
美月の声に、遥臣は足を止めた。
「何でしょうか」
「少しだけ、お時間をいただけませんか?」
美月は綾香をちらりと見た。
「できれば、二人きりで……」
「綾香に聞かせられない話ですか?」
「そういうわけではありませんけれど……」
美月は困ったように眉を下げた。
「綾香には、あまり心配をかけたくないんです」
遥臣は表情を変えなかった。
「それなら、なおさら本人の前で話してください」
「……分かりました」
美月は小さく息を吐いた。
「実は、理央のことなんです」
綾香は思わず美月を見た。
「理央?」
「ええ。さっき、少し言い争いになってしまって……」
「理央が、私にだけ相談したいこと?」 綾香は便箋をもう一度読み返した。「橘、何か聞いている?」「いいえ。詳しいことは何も。ただ、お嬢様のご都合を伺ってほしいと」「そう……」 綾香は手紙を封筒に戻した。 前世の理央は、何かを頼むとき、いつもこうだった。 最初は小さな相談から始まる。 そして、綾香が力になろうとすると、少しずつ要求が大きくなっていった。 父の会社の資料を見せてほしい。 取引先を紹介してほしい。 自分を信用してほしい。 あの頃の綾香は、理央の頼みを断ることなど考えもしなかった。「お嬢様?」 橘の声で我に返る。「ありがとう。返事は私からするわ」「かしこまりました」 橘が下がると、綾香はスマートフォンを手に取った。『お手紙をありがとう。相談というのは、どんなことかしら?』 しばらくして、理央から返事が届いた。『新しく始めた仕事についてなんだ。できれば直接話したい』『仕事のことなら、お父様に相談した方がいいのではなくて?』『もちろん、御影社長にもお話しするつもりだよ。でも、その前に綾香の意見を聞きたいんだ』 綾香は画面を見つめた。 なぜ、自分の意見が必要なのだろう。◇◆◇ 午後、綾香は父の書斎を訪ねた。「お父様、少しお時間をいただける?」「もちろんだよ」 父は書類から顔を上げた。「理央から相談したいと言われたのだけれど、お仕事のことで何か聞いていらっしゃる?」「仕事の相談?」「ええ。私の意見を聞きたいそうなの」 父は少し考えた。「先日、理央君から新しい事業の提案があったよ。まだ正式に依頼するかどうかは決めていないがね」「どんな事業なの?」「企業向けの経営支援だよ。取引先の開拓や事業の見直しを手伝うそうだ」「そうなのね」「理央君は昔から仕事ができるからね。独立しても頑張っているようだよ」 父は穏やかに微笑んだ。「ただ、綾香に相談するような内容ではないと思うが……」「私もそう思うの」「気になるなら、会って話を聞いてみてもいい。ただし、仕事の判断は私に任せてくれればいいよ」「ええ。もちろんよ」 綾香は頷いた。◇◆◇ 数日後、綾香はホテルのラウンジで理央と向かい合っていた。 人目のある場所を選んだのは、綾香の希望だった。「時間を作ってくれてありがとう」「それで、相談という
「お願いです。九条先生に、どうしてもお話ししたいことがあるんです!」 美月の声に、遥臣は足を止めた。「何でしょうか」「少しだけ、お時間をいただけませんか?」 美月は綾香をちらりと見た。「できれば、二人きりで……」「綾香に聞かせられない話ですか?」「そういうわけではありませんけれど……」 美月は困ったように眉を下げた。「綾香には、あまり心配をかけたくないんです」 遥臣は表情を変えなかった。「それなら、なおさら本人の前で話してください」「……分かりました」 美月は小さく息を吐いた。「実は、理央のことなんです」 綾香は思わず美月を見た。「理央?」「ええ。さっき、少し言い争いになってしまって……」 美月は目を伏せた。「私が余計なことを言ってしまったのは分かっています。でも、理央は昔から、あまり人に弱みを見せない人でしょう?」「それで?」 遥臣が尋ねた。「九条先生から、少しお話ししていただけないかと思って」「僕が、ですか?」「ええ。先生は綾香の婚約者ですし、理央ともお知り合いでしょう?」 遥臣は首を傾げた。「理央さんとあなたの問題に、僕が口を出す理由はありません」「でも……」「それに、僕が何か言ったところで、彼の気持ちが変わるとは思えません」 美月は唇を噛んだ。「……そうですよね」 綾香は静かに口を開いた。「美月。理央と話したいなら、本人にお願いするしかないと思うわ」「分かっているわ。でも、理央は私の話を聞いてくれないの」「それは、私たちにはどうにもできないことよ」
「では、理央さんにお会いしたら、美月さんからお話を伺ったとお伝えしてもよろしいかしら?」 夫人の問いかけに、美月は一瞬だけ目を見開いた。「え、ええ……もちろんですわ」「よかった。実は主人が、理央さんの新しい会社に興味を持っておりますの」「まあ、そうでしたの」「美月さんがご協力なさっているなら、きっと詳しいお話もご存じでしょう?」 美月は曖昧に微笑んだ。「いえ、私はまだ、それほど詳しくは……」「あら、そうなの?」「理央も独立したばかりですし、私が口を出すことではありませんもの」 夫人は納得したように頷いた。「それもそうですわね。では、直接お尋ねしてみます」 美月は笑顔を保っていたが、その手は膝の上で固く握られていた。◇◆◇ 晩餐が終わり、招待客たちが歓談を楽しみ始めた頃だった。 綾香は遥臣とともに、会場の一角で父の知人に挨拶をしていた。 そこへ、先ほど美月と話していた夫人がやってきた。「御影さん、少しよろしいかしら」「ええ、もちろんです」「実は、理央さんの会社についてお尋ねしたいことがありまして」 夫人は父に向かって微笑んだ。「美月さんから、理央さんのお仕事をお手伝いなさっていると伺ったものですから」 父は不思議そうな顔をした。「美月さんが?」「ええ。お二人は昔から親しいそうですわね」「そうでしたか」 父はそれ以上踏み込まず、穏やかに答えた。「ただ、理央君は独立したばかりですから、事業については本人にお尋ねいただくのがよろしいでしょう」「そうですわね。ありがとうございます」 夫人が立ち去ると、父は綾香に小さく尋ねた。「美月さんは、理央君の仕事を手伝っているのかい?」「私は聞いていないわ」「そうか。橘も何も
「……美月。君には、もう会わないと伝えたはずだけど」 理央の言葉に、美月の笑顔が凍りついた。「そんな……。だって、今日は晩餐会でしょう? 招待されているんだから、会うことくらいあるわ」「そうだね。だから、挨拶だけにしておこう」 理央は穏やかに答えた。 声を荒らげることも、責めることもない。 けれど、その態度には明らかな距離があった。「理央、私……」「綾香、九条先生。改めて、ご婚約おめでとうございます」 美月の言葉を遮るように、理央は二人に向き直った。「ありがとう」 綾香が答えると、理央は微笑んだ。「御影社長にも、近いうちにご挨拶に伺う予定なんだ。新しい事業の件で、少し相談があってね」「そうなのね」「お父様には、いつもお世話になっているよ」 理央の口調は、以前と変わらず柔らかい。 綾香はその笑顔を見つめた。 前世でも、理央はこうして人当たりのよい顔で父に近づいていた。 そして、気づいたときには会社の重要な仕事を任されるようになっていたのだ。「仕事のことは、お父様と直接お話ししてちょうだい」「もちろん。そのつもりだよ」 理央はあっさり頷いた。 そのとき、開宴を告げるベルが鳴った。「それじゃあ、また」 理央は一礼し、人々の輪へと歩いていった。「……理央!」 美月が呼び止めたが、彼は振り返らなかった。◇◆◇「ひどいわ……」 美月が小さく呟いた。 綾香は返す言葉を探したが、美月はすぐに顔を上げた。「ごめんなさい、綾香。せっかくのお祝いの日なのに、変なところを見せちゃったわね」「いいえ」「理央、最近ずっと忙しいみたい
慈善晩餐会を翌週に控えた午後、綾香はドレスを選んでいた。「こちらはいかがでしょう、お嬢様」 使用人が広げたのは、淡い青色のイブニングドレスだった。「綺麗ね。でも、少し大人しすぎるかしら」「では、こちらは?」 次に差し出されたのは、深いワインレッドのドレスだった。 肩から胸元にかけて繊細な刺繍が施され、裾には上品な光沢がある。「まあ、素敵!」 綾香は鏡の前に立ち、ドレスを体に当てた。「これにするわ」 胸元には、遥臣から贈られたダイヤモンドの指輪に合わせて、母の形見のネックレスを飾ることにした。◇◆◇ 晩餐会当日、遥臣は約束の時間ぴったりに御影家を訪れた。 玄関ホールに現れた綾香を見て、彼は足を止めた。「……綾香」「どうかしら?」 綾香は少し照れながら微笑んだ。「今日は婚約者として初めて一緒に出席するんですもの。少し頑張ってみたの」「少し、どころじゃないな」 遥臣は綾香の手を取った。「綺麗だ」「ふふ。ありがとう」 そこへ父が姿を見せた。「おや、二人ともよく似合っているね」「お父様!」「遥臣君、今日は娘をよろしく頼むよ」「はい。お任せください」 遥臣が答えると、父は満足そうに頷いた。◇◆◇ 会場となったホテルの大広間には、華やかな装いの招待客が集まっていた。 綾香が遥臣の腕に手を添えて入場すると、顔見知りの夫人が声をかけてきた。「まあ、綾香さん! 今夜もお綺麗ね」「ありがとうございます」「そちらは九条先生かしら?」「ええ。私の婚約者です」 綾香が紹介すると、夫人は目を輝かせた。「まあ! ご婚約なさったの?」「はい。先日、正式にお申し込みをいただきました」
「お嬢様のご同伴者について、すでに別の方からお申し出があったとのことでございます」 橘の言葉に、綾香は首を傾げた。「別の方?」「はい。理央がお嬢様に同伴する予定だと、主催者様にご連絡があったそうです」「理央を?」 父も驚いた顔をした。「おかしいな。私はそんな話をしていないが」「私もよ。遥臣と出席できたらと思っていたところだもの」 橘は頷いた。「先方も、正式なお申し出ではないため、念のため確認したいとのことでございました」「誰がそんな連絡をしたんだい?」「美月様だそうです」 綾香は思わず父と顔を見合わせた。「……また美月なのね」◇◆◇ 父はすぐに主催者へ電話をかけた。「御影です。このたびはお招きいただき、ありがとうございます」 しばらく和やかに挨拶を交わしたあと、同伴者の話になった。「ええ、娘の同伴者についてですが……」 父は綾香を見て微笑んだ。「実は先日、九条遥臣君から正式に結婚の申し込みを受けましてね。娘も喜んで承諾したところです」 電話の向こうから、祝福の声が聞こえてきた。「ありがとうございます。ええ、当日は九条君を同伴させたいと思っております」 父は少し間を置いた。「それから、理央君についてのお話は、こちらからお願いしたものではありません」 通話を終えると、父は困ったように笑った。「先方も驚いていたよ。美月さんは、今年も綾香と理央君が一緒に出席するものと思っていたそうだ」「でも、美月は事情を知っているはずなのに」「そうなのかい?」「ええ。本人にも話しているわ」 父は眉をひそめた。「それなら、なおさら不思議だね」◇◆◇ その日の夕方、美月から綾香に電話がかかってきた。