INICIAR SESIÓN綾香は急いで屋敷へ戻った。
「お父様!」
書斎の扉を開けると、父はちょうど上着を羽織っているところだった。
「綾香? どうしたんだ」
「今日、出かけるの?」
「ああ。少し遅れたが、代わりの車が来たら会社へ行くつもりだよ」
「今日はやめて」
父が驚いた顔をする。
「どうしたんだ、急に」
「車のことを聞いたわ」
「ああ、タイヤだろう? 運転手が出発前に気づいてくれて助かったよ」
「原因はまだ分かってないんでしょう?」
「そうらしいが、別の車なら問題ないだろう」
「でも……」
綾香は言葉に詰まった。
タイヤの不具合だけなら、父の言う通りだ。
整備上の問題かもしれないし、何かを踏んだだけかもしれない。
黒い車との関係も分からない。
けれど、前の人生で父を失った記憶が、簡単には「大丈夫」と思わせてく
綾香はスマートフォンに残した名字を、しばらく眺めていた。「どこで見たのかしら……」 確かに見覚えがある。 けれど、どこだったのかが思い出せない。 母の残した資料だっただろうか。 それとも父の会社に関するものか。 もっと昔、まったく関係のない場所で目にしただけかもしれない。 綾香は母の資料をしまってある引き出しを開けかけ――やめた。「……また始めたら、全部調べることになるわね」 少しだけ苦笑する。 黒い車。 父の車のタイヤに刺さっていた釘。 そして、見覚えがあるような気がする名字。 最近の自分は、何かあるたびに意味を探そうとしている。 もちろん、見過ごしてはいけないこともある。 けれど、世の中で起きるすべての出来事が、自分たちに向けられた悪意であるはずもない。 綾香は名字の横に、今日の日付だけを書き加えた。『父の新しい取引先。どこかで見た気がする。思い出せず』 それだけでいい。 必要になった時に、また見ればいいのだから。◇◆◇ 夕食後、父が例の箱を開けた。「綾香も食べるだろう?」「ええ」 中に入っていた菓子は、百貨店でも見かける有名な店のものだった。 きちんと包装され、箱にも不自然なところはない。「これ、お母様も好きだった?」 何となく聞くと、父は箱を覗き込んだ。「いや。あの人はもっと庶民的なものが好きだったな」「この前言っていた、お饅頭?」「そうそう。高い菓子をもらっても喜ぶくせに、結局自分で買うのは駅前の饅頭だった」 父が懐かしそうに笑う。「意外だわ」「そうか?」「お母様って、もっと何でも上品なものを選ぶ人だと思ってたから」「綾香の前では母親らしくして
翌朝、綾香は昨夜作ったメモをもう一度開いた。 黒い車を最初に意識したのは、屋敷の庭にいた時。 次は、誰にも行き先を告げずに出かけた知らない街。 そして昨日、再び屋敷の前。 確実に同じ車だと言えるのは、これからだ。 昨日ようやくナンバーを記録できたからだ。 綾香はメモの一番上に、その数字を書き足した。 次に見かけた時、同じなら分かる。 違うのなら、それも一つの答えになる。「何もなければ、それでいいのよ」 自分に言い聞かせるように呟いた。 昨日の父の車も同じだった。 タイヤに釘が刺さっていた。 それだけなら、どこにでもある事故だ。 けれど父の薬の件も、最初は日常の中に紛れ込んでいた。 だから今度は、小さな違和感を忘れない。 疑うのではなく、記録しておく。 それくらいならできる。◇◆◇ 午後、父の仕事関係の荷物が届いた。 綾香が廊下を通りかかると、父が箱を開けているところだった。「何が届いたの?」「取引先からだよ。北海道から戻った祝いだそうだ」「まあ」 中に入っていたのは、いくつかの瓶詰めと菓子だった。「ずいぶんたくさんね」「ありがたいことだよ」 父が一つを取り出そうとした時、綾香は思わず箱の送り状を見た。 会社名。 送り主。 どちらも知らない名前だった。「お父様、この会社とは長いお付き合いなの?」「いや。最近取引が始まったところだったかな」 父は何気なく答えた。 その言葉だけで、綾香の胸がざわつく。「これ、すぐ食べる?」「どうしたんだ?」「せっかくだから、お夕食のあとに一緒に食べたいの」「そうか」 父は特に疑問を持たず、箱を閉じた。 綾香は小さく息を吐く。 まただ。 何でも疑ってしまう。 贈り物が届いただけ。 父の取引先なのだから、何もおかしくない。 それでも今は、父の口に入るものを無条件に安全だと思えなかった。「……嫌になるわね」 部屋へ戻りながら、小さく呟いた。 前の人生を知らなければ、もっと気楽に過ごせたのだろうか。 けれど、知らなかったから失ったものもある。 母も。 父も。 自分自身も。 ならば今は、少しくらい慎重すぎてもいい。 夕方になり、父が仕事の電話で席を外した。 綾香はもう一度、届いた箱を見る。 送り状に書かれた会社名をスマートフォンで検索
綾香は急いで屋敷へ戻った。「お父様!」 書斎の扉を開けると、父はちょうど上着を羽織っているところだった。「綾香? どうしたんだ」「今日、出かけるの?」「ああ。少し遅れたが、代わりの車が来たら会社へ行くつもりだよ」「今日はやめて」 父が驚いた顔をする。「どうしたんだ、急に」「車のことを聞いたわ」「ああ、タイヤだろう? 運転手が出発前に気づいてくれて助かったよ」「原因はまだ分かってないんでしょう?」「そうらしいが、別の車なら問題ないだろう」「でも……」 綾香は言葉に詰まった。 タイヤの不具合だけなら、父の言う通りだ。 整備上の問題かもしれないし、何かを踏んだだけかもしれない。 黒い車との関係も分からない。 けれど、前の人生で父を失った記憶が、簡単には「大丈夫」と思わせてくれなかった。「お願い。今日だけでいいから」 綾香がそう言うと、父は少し困ったように笑った。「そんな顔をされたら、行きづらくなるな」「じゃあ行かないで」「分かったよ」「本当に?」「ああ。今日は家でできる仕事だけにする」 綾香はようやく息を吐いた。「ありがとう、お父様」「しかし、ずいぶん心配性になったな」「お父様が北海道から帰ってきたばかりだからよ」 綾香はそう答えた。 本当の理由を説明することはできない。 前の人生で父を失ったことも。 今度こそ守りたいと思っていることも。◇◆◇ 夕方になって、父の車について連絡が入った。 綾香も父と一緒に話を聞いた。「釘?」『はい。タイヤに刺さっていたそうです』 電話の向こうで、運転手が答える。『ただ、いつ刺
翌日、綾香は父と遅い朝食を取っていた。「最近、よく出かけているね」 父に言われ、綾香は紅茶のカップを置く。「そうかしら」「北海道へ行く前よりはね」「家に閉じこもっているよりいいでしょう?」「もちろんだよ」 父は笑った。「顔色もいい。九条君のおかげかな」「もう、お父様」「違うのか?」「……違うとは言ってないわ」 そう答えると、父が楽しそうに笑う。 綾香もつられて笑った。 こんな何でもない朝が続けばいい。 母を失ったあと、前の人生では父まで失った。 だから今は、父が目の前で笑っているだけで嬉しかった。◇◆◇ 午後、綾香は庭へ出た。 母が好きだったという白い花が咲いている。 しゃがみ込んで眺めていると、門の外から車の音が聞こえた。 何気なく顔を上げる。 黒い車。 心臓が跳ねた。 車は門の前をゆっくりと通り過ぎていく。 今度こそ。 綾香は立ち上がり、スマートフォンを取り出した。 追いかけるつもりはない。 ただ、離れた場所からカメラを向ける。 車が遠ざかる直前、何とか一枚だけ撮影した。「……撮れた?」 画像を開き、拡大する。 車体は小さい。 それでもナンバープレートの数字は、かろうじて読み取れた。 綾香はすぐにメモへ残した。 これで次に同じ車を見た時、本当に同じ車なのか確認できる。 誰の車なのかは分からない。 けれど少なくとも、「似た車を見ただけ」ではなくなる。 綾香は写真を消さず、そのまま保存した。 その時だった。 スマートフォンに着信が入る。 表示されたのは、父の会
美月と別れたあと、綾香は一人で駅へ向かった。 はっきり言いすぎただろうか。 そんな考えが一瞬だけ浮かんだものの、すぐに打ち消す。 前の人生では、美月を信じすぎた。 今度まで同じ距離にいる必要はない。 駅前の信号を渡り、綾香は何気なく後ろを振り返った。 人混みの向こうに、黒い車が見えた。「……また?」 道路脇に停まっている。 先日見たものと同じ車種だった。 今度こそナンバーを見ようと目を凝らす。 けれど、前を走る車に遮られた次の瞬間、黒い車はゆっくりと動き出した。 綾香は追いかけなかった。 以前なら確かめようとしたかもしれない。 けれど、知らない街まで一人で出かけた日のことを思い出す。 怖くなって、遥臣を呼んだ。 同じことを繰り返すつもりはなかった。 綾香はそのまま駅へ向かった。◇◆◇ 電車に乗ってから、スマートフォンを取り出す。 遥臣とのメッセージ画面を開き、少し迷ってから文字を打った。『また黒い車を見たわ』 返事は思ったより早かった。『今どこだ』『電車の中。もう帰ってるところよ』『一人か』『ええ。でも大丈夫。人もたくさんいるわ』 少し間が空いた。『何時に着く』 綾香は到着予定の時間を送った。 すると、『駅で待ってる』 と返ってきた。『仕事は?』『終わった』『家までそんなに遠くないわよ』『知ってる』 思わず笑ってしまう。『じゃあ、お願いするわ』 今度はすぐに、『ああ』 と返ってきた。◇◆◇ 駅に着くと、本当に遥臣が待っていた。「遥臣」「車は?」「途中から見てないわ」「そうか」 遥臣は周囲へ一度視線を向け、それから歩き出した。「帰るぞ」「ええ」 並んで歩き始める。 御影家までは、それほど遠くない。 けれど今日は、その短い道のりさえ一人ではないことが嬉しかった。「今日はどこに行ってた」「買い物よ」「一人で?」「途中まではね」「途中?」 綾香は一瞬、美月の顔を思い浮かべた。「知り合いと少し話していたの」「そうか」 遥臣はそれ以上聞かなかった。 その距離感が、今の綾香にはありがたかった。 何でも話さなくていい。 話したくなった時には聞いてくれる。 そして、怖いと言えば来てくれる。「遥臣」「何だ」「この前、怖くなったら呼べって言ったでし
理央が帰ったあと、綾香は自室へ戻った。 昨日のことを思い返してみても、やはり黒い車と理央を結びつけるものはない。 理央が自分の予定を妙に気にしていることは確かだ。 けれど、それと尾行されているかもしれないことは、今のところ別の話として考えた方がいい。 綾香はそう結論づけ、机の上に置いていた母の写真へ目を向けた。 その時、スマートフォンが震えた。 美月からだった。『今日、理央と会った?』 綾香は眉を寄せる。 また理央のことだ。『会ったわよ』 今度は隠す理由もない。 すぐに返事が来た。『やっぱり御影家にいたんだ』『どうして?』 しばらく既読だけがついていた。『今日、会えないか聞いたら用事があるって言われたから』 綾香は画面を見つめた。 理央が誰と会おうと、綾香には関係がない。 美月とどんな関係になっているのかも、知りたいとは思わなかった。 けれど、美月がこうして何度も理央の居場所を確認してくることには違和感がある。『それなら本人に聞いたら?』 送ると、今度は返事が来るまで少し時間がかかった。『そうだね。ごめん』 そこで終わるかと思った。 けれど、続けてもう一通届く。『綾香は最近、理央とよく会ってるの?』 綾香は小さく息を吐いた。『家に来ることがあるだけよ』『そっか』 短い返事。 綾香はそれ以上返さなかった。◇◆◇ 数日後。 綾香が買い物を終えて店を出ると、入口近くに美月が立っていた。「綾香」 偶然会ったというには、美月は驚いていなかった。「私を待っていたの?」「うん。ごめんね、急に」「どうしたの?」「少し話したくて」







