Masuk社長室の前に辿り着き、彩葉は一度、手にしたスーツバッグを持ち替えた。空いた手をドアノブに伸ばし、指先が冷たい金属に触れた、その瞬間だった。
彩葉の動きが、撥ねられたように止まる。
密閉されているはずの扉の向こうから、女性の甘く高い声が漏れ聞こえてきたのだ。それは、肺から空気を無理やり押し出すような、細く切れ切れの喘ぎ声だった。
「ほらっ、ここがいいんだろ……?」
聞き紛うはずのない、隆史の声だった。けれど、普段彩葉に向けられる不機嫌な語気とはまるで異なる、厭らしく湿った低い囁き。その見知らぬ男のような声の響きに、彩葉の背筋を氷の刃でなぞられたような悪寒が駆け上がった。
「あんっ……奥さんが、来ちゃうんじゃ、ない……?」
喘ぎの合間に紡がれた女の言葉に、彩葉の心臓がぎゅっと、壊れるほどに締めつけられた。ドアノブに添えたままの指先が、目に見えて震え始める。
「まだあいつは妻じゃねえし、そんなすぐに来やしねえよ。……トロいからな」
トロいから。
隆史が笑い混じりに吐き捨てたその一言は、扉越しにはっきりと、残酷な明瞭さで彩葉の鼓膜を貫いた。胸の奥を鋭利なナイフで抉られたような痛みが走り、肺が酸素を拒絶するように呼吸が浅くなる。ドアノブに触れていた指先から力が失せ、だらりと体側に落ちた。
足が、動かなかった。
今すぐにでもここから逃げ出したいのに、身体は石化したように重く、廊下のリノリウムに縫いつけられたように一歩も踏み出せない。
扉の向こう側では、男女の吐息がさらに獣じみた荒さを増していく。乾いた肌と肌が激しく打ち合う律動的な音が室内に響き、ソファのスプリングが軋む嫌な音が重なった。やがて女の嬌声が、ひときわ甲高く、悦びに弾ける。
視界が、ふっと暗転した。
目の前が真っ暗になったような錯覚に襲われ、彩葉は縋り付くようにスーツバッグを胸に抱きしめた。指が厚い布地に食い込み、爪が白く変色するほどに力を込める。
今の今まで、隆史の不貞を疑ったことは一度もなかった。
何ヶ月も肌の触れ合いが途絶えていたのなら、どこかの時点で不信の芽が育っていたかもしれない。けれど、昨晩も隆史に求められてその身体を預けたし、今朝出勤する前にも、儀式のような短い行為があった。扉の向こうから響いてくるような、魂を削り合うような激しさとは程遠かったが、それでも「愛されている」と自分を納得させるだけの繋がりは、確かに存在していたはずだった。
一体、いつから裏切られていたのだろう。
出張だと言って家を空けた夜も、残業で遅くなると無機質な連絡があった日も。彼は本当は、別の女の肌の温もりに耽っていたのだろうか。
聞きたくない。けれど、やはり足は動かない。
情事に昂る二人の邪魔をするように、激しくノックをしてこの部屋に踏み込むべきなのだろうか。自分は彼の婚約者なのだ。堂々と浮気相手を睨みつけ、怒鳴り散らす権利くらいはあるはずだった。
彩葉は、鉛のように重い腕をゆっくりと持ち上げた。拳を固く握り、ノックをする体勢を作る。扉の表面まで、あと数センチ。
けれど、見えない空気の壁を突き破る勇気が、彼女にはなかった。振り上げた拳は空中で虚しく静止し、ただ震えることしかできない。
絶望に打ち拉がれ、腕を落とそうとしたその瞬間、背後から突然手首を掴まれた。
「――え?」
驚愕して振り返ると、そこには見上げるほどの長身を誇る、見知らぬ男性が立っていた。切れ長の鋭い瞳と、彫刻のように深い顔立ち。上質なスーツの上からでも容易に想像がつくほど、鍛え上げられたその体躯が、薄暗い廊下に巨大な影を落としている。
「こっちだ」
短く、地の底から響くような低い声で告げると、男性は彩葉の腕を引いた。抗う間もなく隣の会議室の扉が開かれ、問答無用の力強さで、彩葉はその中に連れ込まれた。
◇◇◇
無人の会議室。
長テーブルとパイプ椅子が整然と並ぶ殺風景な空間に、窓から差し込む午後の陽光が、白い四角形の図形を床に描いている。男性は長テーブルの縁に軽く腰を預けると、ポケットに手を入れたまま、彩葉を静かに見下ろした。
「耳を塞いでいろ。……終わったら、知らせてやる」
感情の起伏を一切排除した、平坦な声だった。彩葉は呆然と立ち尽くし、男性の顔を見上げたまま、適切な言葉を探して唇を戦慄かせる。
「あの……」
「聞きたくないんだろう。耳を塞いでおけ」
男性はスーツの内ポケットから銀のケースを取り出し、一本の煙草を唇に咥えた。ライターを回すカチッという小さな金属音が、静まり返った室内で妙に大きく響く。
「あの、ここは、禁煙で……」
彩葉が消え入りそうな声で指摘すると、男性は火をつけたばかりの煙草を咥えたまま、ふっと短く、自嘲気味な笑みを零した。
「気に気にするな」
紫煙がゆっくりと立ちのぼり、蛍光灯の白い光の中で薄い銀色の渦を描いていく。煙草の特有の匂いが鼻腔をくすぐった瞬間、彩葉の胸の奥で、何かが微かに揺れた。
どこか、懐かしい匂いだった。
いつ、どこで嗅いだのか、記憶の糸を辿っても思い出せない。それなのに、身体の深い部分がその香りを覚えているような、不思議な安堵感が広がっていく。初めて会ったはずのこの男性の傍で、張り詰めていた緊張がわずかに緩むのを感じながら、彩葉は導かれるように椅子を引いて腰を下ろした。
両手で、固く耳を塞ぐ。
手のひらの中で、自分の鼓動だけがドクドクと、早鐘のように打ち鳴らされている。強く目を閉じると、暗闇の中で隆史の声が鮮明に蘇った。
――トロいからな。
笑い混じりに吐き出されたその一言が、胸の奥底に沈殿した棘のように刺さって、抜けない。
彼のために、すべてを捧げてきたつもりだった。生きるための手段だったキャバ嬢の仕事を辞め、隆史の側にいる道を選んだ。会社の雑務に奔走し、彼が好む完璧な家事をこなすために、毎日身を粉にして動いてきた。
けれど、彼にとっては、その献身のすべてが「トロい」の一言で片付けられる程度の、取るに足らないものだったのだ。
三年間、ずっと馬鹿にされていたのだろうか。手をあげられるたびに「自分が悪いのだ」と思い込み、怒鳴られるたびに作り笑いで頭を下げ続けてきたあの日々が、色褪せた古い写真のように遠ざかっていく。塞いだ耳の中で響き続ける自分自身の鼓動が、ただひたすらに、耐え難く苦しかった。
どれほどの時間が過ぎたのだろう。
耳を押さえていた右の手首を、大きな手が包み込んだ。指先から伝わる体温は驚くほど高く、けれどその力加減は、決して乱暴なものではなかった。
「……終わったぞ」
低い声が、静かに告げた。
彩葉はゆっくりと瞼を開き、両手を耳から下ろした。男性は窓際に立ち、煙草の残骸をコーヒーの空き缶に押し付けていた。灰皿代わりにされたその缶が、テーブルの端で寂しげに転がっている。
「ありがとうございます……」
掠れた声しか出なかった。涙は一滴も流していないのに、喉の奥が万力で締めつけられるように痛い。彩葉は立ち上がり、深く頭を下げた。
「お名前を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
男性は背を向けたまま、会議室の扉に手をかけた。
「……すぐわかる」
振り返ることもなく短くそう告げると、彼は風のように廊下へと出て行った。煙草の香りと、微かに混じった上質な香水の残り香だけが、静止した会議室の空気の中に、甘く、鋭く漂っていた。
◇◇◇
社長室の扉の前に、再び立った。
先ほどまで廊下を満たしていた淫らな喘ぎ声はもう途絶え、扉の向こう側は不気味なほど静まり返っている。彩葉はスーツバッグを握る指に、ありったけの力を込め、三回ノックをしてからドアを開けた。
甘ったるい、厭な匂いが鼻を突いた。
花のように華やかな女の香水と、換気の行き届いていない空間に澱む男女の熱情の残滓。それらが混ざり合い、社長室の空気を重く、粘り気のあるものに変えている。窓際の観葉植物が、エアコンの風に吹かれてかすかに揺れていた。
デスクの前に、隆史が立っていた。ネクタイは緩み、整髪料で固められていた茶髪は乱れ、ワイシャツの襟元が酷く崩れている。頬は不自然に紅潮し、額には薄っすらと、情事の名残である汗が光っていた。
隆史の斜め後ろ、応接用のソファには、胸元を大きく開いたタイトなワンピース姿の女性が座っている。派手な巻き髪の女は、細い脚を組み、余裕を湛えた笑みを浮かべて彩葉を見つめていた。乱れた行為の直後とは思えないほど涼しい顔をして、むしろ上気した肌がその艶めかしさを際立たせている。
不貞は、確定だった。
彩葉がスーツを届けにくることを承知していながら、彼は別の女と肌を重ねていたのだ。もう露見しても構わないと思っているのか、それとも、自分には決してバレないという傲慢な自信があるのか。
――いや、そのどちらでもなかった。
たとえ裏切りのすべてを彩葉が知ったとしても、彼女が怒りの声をあげることなど万に一つもないと、隆史は確信しているのだ。声を荒げることも、裏切りを問い詰めることもなく、いつものように黙って従うだけの無力な女。そう侮られているからこそ、彼は婚約者の到着を承知の上で、平然と情事に耽ることができたのだ。
「……遅いんだよ」
隆史の鋭い声が飛んできた。先ほど扉越しに聞いた甘く崩れた声色は跡形もなく消え、いつもの威圧的な口調に戻っている。
「ごめんなさっ……」
反射的に頭を下げかけた彩葉の言葉を遮るように、背後で扉が勢いよく開け放たれた。
「失礼するぞ」
会議室で「耳を塞げ」と告げたあの男性が、悠然たる歩取りで社長室に足を踏み入れた。後ろには、黒縁のメガネをかけた知的な佇まいの側近らしき男性が控えている。二人とも、身に纏うスーツの着こなしからして洗練されており、この中小企業の社長室には場違いなほどの重厚な存在感を放っていた。
「た、鷹峰社長……!」
隆史の声が、見苦しく裏返った。背筋を慌てて正し、乱れた髪を掌で撫でつけながら、ネクタイを締め直す指先が小刻みに震えている。
鷹峰、社長。
隆史が電話で告げていた「大企業の社長」の正体が、ようやく彩葉の中で繋がった。会議室で紫煙を燻らせながら、無言で自分を守ってくれたあの男性こそが、隆史が平伏する相手だったのだ。
隆史の視線が、毒針のように彩葉を射抜いた。蒼白になった顔の中で、目だけが異様にぎらついている。
「お前が遅いから……っ」
歯の隙間から絞り出すように毒を吐きながら、彼は彩葉の手からスーツバッグを荒々しく奪い取った。指の関節に鋭い痛みが走る。隆史はバッグを抱えると、逃げるようにデスクの裏に回り込んだ。
鷹峰が社長室の空気をひとつ吸い込み、眉間に深い皺を刻んだ。
「臭いな。……すぐに換気しろ」
低く、切るような一言だった。情事の後に漂う生々しい匂いを、彼は即座に嗅ぎ分けたのだろう。隆史の顔から、残っていたわずかな血色が完全に引いた。
「す、すみません。……こいつの匂い、ですかね?」
隆史がへらへらと卑屈な笑みを浮かべ、彩葉を指差した。自分の不始末を隠すため、あろうことか婚約者にすべての原因を擦りつけ、場を取り繕おうとしている。その浅ましさが、彩葉の胸を冷たく冷やした。
鷹峰の視線が、ゆっくりと動いた。
隆史を素通りし、ソファに座ったままの秘書の女性を、人差し指で真っ直ぐに指し示す。
「臭いのは、お前の精液と、この女の安っぽい香水だ」
社長室の空気が、瞬時に凍りついた。
秘書が組んでいた脚をほどき、屈辱に唇を噛む。隆史は口を半開きにしたまま硬直し、その顔面から血の気が完全に失せていく。
「到着が遅いと彼女に怒鳴っていたが――」
鷹峰の視線が、彩葉を一瞬だけ掠めた。冷ややかで、けれど深淵のような目。感情の色は読めないはずなのに、「彼女」という言葉に込められた微かな力が、彩葉の耳にだけは熱を持って届いた。
「お前のくだらん下半身の暴走が落ち着くのを、外で待っていてくれたからだろう?」
隆史が何か言い返そうと口を開いたが、喉の奥で言葉が潰れ、声にならずに閉じた。側近の男性が無表情のまま室内を見回し、秘書の女性はソファからそそくさと立ち上がると、隆史の背後へと逃げるように身を隠した。
隆史が、彩葉を振り返った。
怒りと焦り、そして屈辱が渦巻く瞳で、蛇のように彩葉を睨みつけている。自分の醜態を暴かれた怒りの矛先を、最も御しやすい相手に向けようとしているのが、手に取るように分かった。
「……出ていけ」
低く、押し殺した怒声。その命令に、彩葉の肩がびくりと跳ねる。
「失礼します」
声を震わせないことだけに全神経を集中させ、彩葉は一礼して社長室を後にした。扉を閉める寸前、鷹峰が隆史のデスクに向かって悠然と歩みを進める姿が、視界の端を掠めていった。
廊下に出ると、深い静寂が耳を包んだ。
スーツバッグを手放してしまった両手が所在なく宙に浮き、彩葉はその指をゆっくりと握りしめた。指先が氷のように冷え切っていて、感覚がほとんどなかった。
社長室の扉の向こう側では、鷹峰の低い声と、隆史の上ずった返答が、くぐもった音となって廊下に漏れている。会議が始まったのだ。ついさっきまで淫らな情事の場だったその空間で、隆史は今、最も恐れる相手と向かい合わなければならない。
彩葉は壁に背を預け、蛍光灯の無機質な白い光が照らす天井を仰いだ。光が目に刺さり、視界がじわりと滲んでいく。
(……トロいから、か)
扉の向こうで隆史がそう嘲笑ったとき、あの女はどんな顔をして喘いでいたのだろう。自分を信じて待っている婚約者を馬鹿にする男の言葉を、悦びに浸りながら、甘い声をあげて笑い飛ばしていたのだろうか。
涙は、出なかった。
泣けるほどの感情が湧いてこないことに、自分自身が一番驚いていた。悲しみや怒りよりも先に、胸の中を支配していったのは、ひんやりとした諦念に近い、冷たい風だった。
会議室で煙草の煙越しに見た鷹峰の横顔。そして、「耳を塞いでおけ」というあの短い言葉だけが、凍てついた胸の片隅に、かすかな、けれど確かな熱を残していた。
結婚すれば、毎日を共に睦まじく過ごせるものだと信じていた。 実家の敷地内に新築された二人の家は、彗が彩葉の好みを細やかに汲み取って設計した、平屋造りの瀟洒な建物だった。白木の廊下がどこまでも続き、縁側からは見慣れた母屋の庭が美しく見渡せる。広大な旅館の敷地の一角に、誰にも邪魔されない二人だけの聖域が生まれたはずだった。 けれど、その家に二人が揃う夜は、片手で数えられるほどしかなかった。 彗は都内の本社で巨大な組織の経営を取り仕切り、組長として各所の複雑な調整に奔走している。月の半分以上を都心のマンションで過ごし、旅館に顔を出せるのは週に一度あるかないかという多忙を極める日々だった。彩葉の方も、女将見習いから本格的な女将業へと踏み出した今、朝から晩まで旅館の仕事に追われていた。宿泊客の対応に、仲居たちの厳格な指導、仕入れ業者との熾烈な折衝。心身ともに疲弊し、布団に倒れ込む頃には、日付が変わっていることも珍しくない。 新居の灯りは、いつも彩葉が一人きりで消す夜が続いていた。 その夜も、ようやく仕事を終えて新居に戻った彩葉は、明かりのない静まり返った居間に腰を下ろし、スマートフォンを手に取った。テレビ電話の着信音が、静寂の中に妙に大きく響く。画面に映し出された彗の顔は、執務室にいるのか、背後には整然と並ぶ本棚と薄暗い間接照明が見えた。「彩葉、今日はどうだった?」 彗の声はどこまでも穏やかで、激務の疲れを感じさせない。彩葉はぼんやりと光る画面を見つめ、「普通だよ」と短く答えた。自分の口から出てきた言葉のあまりの頼りなさに、自分自身で驚いてしまう。「普通、という顔ではないな」 じっと射抜くような、全てを見透かす瞳を向けられて、彩葉の胸が微かにざわついた。新居に帰っても出迎えてくれる人はおらず、縁側に出ても隣に彗の温かな気配はない。旅館の離れから風に乗って聞こえてくる客たちの笑い声が、今の彩葉にはやけに遠く、異世界の出来事のように感じられた。そういう寂寥感が積もり積もって、今夜は少しだけ胸が重かった。「……寂しい」 口に出すつもりなどなかった切実な言葉が、静かな居間にぽとりと落ちた。 画面の向こうで、彗がすっと立ち上がる気配がした。「すぐそっちに行く」「待って」 反射的に制止の声が出た。スマートフォンを両手で持ち直し、彩葉は必死に首を横に振る。
嵐のような情事の余韻を肌に残したまま、彩葉は正装へと着替え、鏡の前で最後の一呼吸を置いた。 彩葉が着たのは落ち着いたネイビーのシルクワンピースだった。派手さはないが、一目で上質とわかる仕立ての良さが、逆に「組長の妻」としての品格を問われているようで、背筋が自然と伸びる。 彗に抱きかかえられ、磨き上げられた廊下を進む。重厚な家屋の沈黙が、これから始まる「お披露目」の重圧をじわじわと突きつけてきた。 大広間の手前、金箔の施された巨大な襖が見えてきたところで、彩葉は彗の腕の中で小さく身じろぎをした。「……彗さん、降ろしてください。ここで、自分で立ちます」 彗は足を止め、腕の中の彩葉を覗き込んだ。その瞳には、慈しみと案じるような色が混ざり合っている。「大丈夫か? まだ足元が覚束ないだろう」 低く響く声に、さっきまで畳の上で翻弄されていた記憶が蘇り、彩葉の頬が熱くなる。「大丈夫です。……いつまでも彗さんに甘えてばかりいたら、いけませんから」 彩葉は震えそうになる唇を引き結び、精一杯の笑顔を向けた。「彩葉は覚悟を決めたら強いよな」 彗が感嘆したように息を吐き、彼女をゆっくりと畳の上に降ろした。
高い塀に囲まれた、重厚な日本家屋の前に車が静かに止まった。磨き上げられた木の門が重々しく開くと、そこには現実離れした威圧的な光景が広がっていた。 玄関の前には、黒いスーツを隙なく着こなした屈強な男たちが二列に整列している。車から降り立った彗に対し、彼らは一斉に深く腰を折った。続いて、彗に促されるようにして車を降りた彩葉に対し、地鳴りのような太い声が響き渡る。「姐さん、お待ちしておりました!」 何十人もの男たちが一斉に頭を下げる圧倒的な光景に、彩葉は目眩を覚えた。あまりの気圧(けお)され方に膝の力がふっと抜け、その場に崩れ落ちそうになった瞬間、横から逞しい腕が伸びてきて、彩葉の腰をしっかりと支えた。「……大丈夫か?」 耳元で囁かれた彗の低い声に、彩葉はようやく息を吹き返した。「驚いてしまって……ごめんなさい。腰が……」 旅館に押しかけてきた幹部たちとはまた違う、本宅を守る若衆たちの放つ鋭い覇気にやられてしまった。テレビドラマの中でしか見たことのない、暴力と規律が同居する光景が今、目の前にある。彩葉の頭の中は真っ白になり、指先が小さく震えていた。「――そのようだな」 彗が彩葉の足元を見て、悪戯っぽく微笑んだかと思うと、軽々と彼女を横抱きに抱き上げた。「おお…&he
パーティという狂騒から一ヶ月。久しぶりに東京へと降り立った彩葉を待っていたのは、駅の喧騒を切り裂くように佇む一台の黒塗り高級車だった。後部座席のドアが開くと、そこには半月前と変わらぬ、いや、以前よりもどこか鋭さを増した美貌を持つ夫――彗が座っていた。「彩葉、こっちへ」 低く、耳朶を震わせるような声で、彩葉が吸い寄せられるように車内へ入り込むと、瞬間に重厚なドアが閉まり、都会の雑踏は遮断された。車内には、サンダルウッドの香りが微かに漂い、彩葉の緊張を優しく解いていく。彗は隣に座った彩葉の肩を抱き寄せ、その細い指先で彼女の髪をひと房掬い上げた。久方ぶりの再会を慈しむようなその手つきに、彩葉の心臓はトクンと跳ねる。「顔色が少し優れないな。旅館の方が忙しかったのか」「いえ、そんなことは……。ただ、彗さんに会えると思ったら、昨夜はあまり眠れなくて」 正直に打ち明けると、彗の口元がわずかに綻んだ。 車は静かに滑り出し、滑らかな加速で大通りへと出る。窓の外、冬の陽光がビル群に反射してキラキラと眩しい。彩葉は流れる景色をぼんやりと眺めていたが、やがてある違和感に気づき、姿勢を正した。車が進む先は、彗が普段拠点としているあの豪奢なタワーマンションの方角ではない。洗練された都心の風景は次第に、高い石垣や鬱蒼とした街路樹が続く、重厚な静謐に包まれた邸宅街へと変わっていく。「あの……彗さんのお家に行くんじゃないんですか?」「ああ。俺の家に連れていく」
オフィスビルの重厚なエントランスを抜けると、都会の冷ややかな空気が彗の頬を撫でた。 ポケットの中で振動したスマートフォンを取り出すと、『もうすぐ着くよ』という彩葉からの短く、柔らかなメッセージが届いている。彗の唇が、無意識のうちにわずかに綻んだ。 ふと視線を向かいのコンビニへと向ける。ガラス越しに、レジに立って無表情に手を動かしている男の姿が見えた。 ――相沢だ。 昨日も、彼はそこにいた。かつては若手実業家として名を馳せ、彩葉を隣に置いていた男が、今は彗の会社の目と鼻の先で、名前も知らない客を相手に頭を下げている。 彩葉も昨日、自分でお茶を買いに立ち寄った際、その姿に気づいていたはずだ。だが、彼女は彗に対してそのことを一言も漏らさなかった。それは決して隠し事ではなく、一度は深く愛した男の凋落に対する、彼女なりの最後の手向けであり、慈悲だったのだろう。他人のふりをして、ただの一人の客として対峙する。それが今の彼女にできる、最大限の誠実さだったのだ。 彗は、まるで吸い寄せられるようにそのコンビニへと足を踏み入れた。 自動ドアが開くと、冷暖房の混じった独特の空気と、揚げ物の匂いが鼻をつく。陳列棚を迷いなく進み、昨日、彩葉が選んだものと全く同じ銘柄のペットボトルを手に取った。 相沢の立つレジの前に、静かにお茶を置く。「久しぶりだな」 低く、地を這うような彗の声に、相沢の手が止まった。弾かれたように顔を上げたその男の瞳が、驚愕に見開かれる。「――あ、……鷹峰、さん」 掠れた声が、喉の奥で震えている。見上げてきた顔は驚くほど青白く、頬はこけ、かつての傲慢な輝きは塵一つ残っていない。そこにあるのは、ただの疲れ果てた男の抜け殻だった。「随分と燻った生活をしているようだな。人の会社の、それも目の前にあるこんな店で」 彗の言葉には、侮蔑よりも冷徹な観察が含まれていた。相沢は言い返す言葉も見つからないのか、すぐに視線を足元へと落とし、唇を噛み締める。その指先が、レジの縁を白くなるまで握りしめていた。「俺はお前を、けっこう気に入っていたんだ」 意外な言葉だったのか、相沢は再び彗を見上げた。光を失った、死んだ魚のような瞳。「成り上がって少々金回りがよくなり、図に乗って羽目を外したが――。お前の経営センスそのものは、なかなか良かったと思っている。お前が俺に
冬の東京は、肌を刺すような冷気さえも贅沢に感じるほど、空気が澄み渡っていた。 午後の陽射しがビルの谷間を縫うようにしてアスファルトへ降り注ぎ、街路樹の銀杏並木が、まるで金色の雪を降らせるように葉を散らしている。彩葉は上質なカシミヤコートの襟を立て、石畳にハイヒールの軽やかな音を響かせながら、都心の洗練されたオフィス街を歩いていた。 今日は彗が経営するグループ企業が主催する、大規模なレセプションパーティの日だった。 夕方の開演まではまだ十分な時間があったが、彩葉は高鳴る胸を抑えきれず、少し早めに会場近くへと足を運んでいた。 ふと、ガラス張りのビルの壁面に、歩を進める自分の姿が映り込んだ。 一年前、底の擦り減ったぺたんこの革靴を履き、色褪せた紺色のカットソーで隆史の会社へと向かっていた、あの影の薄い女の面影はどこにもない。鏡の中の女性は、背筋を凛と伸ばし、自らの人生をその足でしっかりと踏みしめている。まるで別人のような変貌に、彩葉は密かに唇を綻ばせた。 彗の自社ビルが目と鼻の先に迫った角に、一軒のコンビニエンスストアがあった。 パーティまでの僅かな時間潰しにと、彩葉は何気なく自動ドアをくぐった。暖房の効いた店内に一歩足を踏み入れると、レジの方向から、店員たちの投げやりな雑談が微かに耳に届く。 飲料コーナーへと向かおうとした彩葉の足が、雑誌コーナーの前で止まった。 そこに、見覚えのある後姿があった。 艶やかな黒髪をきっちりと後ろで一つに結び、知的な紺色のタイトスーツに身を包んでいる。以前の、場違いなほど派手な巻き髪や、あからさまに胸元を強調した扇情的な装いは影を潜めていた。鷲尾による徹底した「再教育」が隅々まで行き届いた、清潔感と機能性を兼ね備えた秘書の佇まい。肩には控えめなブランドバッグをかけ、胸元には彗の会社の社員証が、誇らしげにストラップで揺れている。 ゆかりだった。 あの日、社長室の床に額を擦り付け、惨めに泣き叫んでいた女が、今はすっかり有能な秘書としての品格を身につけている。彼女は本棚から一冊の経済誌を手に取り、その表紙を見つめて、勝ち誇ったような、けれどどこか温かい微笑みを浮かべていた。 彩葉の視線が、ゆかりの持つ雑誌へと吸い寄せられる。 それは、先月に旅館の庭園で撮影されたものだった。 燃えるような紅葉を背景に、彗と彩葉が寄り







